太田 金山城

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場所・・・太田市の北、金山

この城は古来、世人によく注目されていて、創立についても種々の説があり、論議が交わされてきた。殊に徳川家康の自らを新田氏の末葉としようとする政略的配慮も関連して、決議もまとまることなく、今日におよんでいる。その論点は、金山城は小野篁の館址とするもの。新田義重、義貞の居城とするもの。それを否定して岩松氏築城とするもの。また更に横瀬(由良)氏と主張するものとである。小野篁館説は「新田正伝」に「金山城は嵯峨天皇の時、小野篁が東州鎮守府陸奥守に任ぜられ関東に下向のとき上州金山に始めて城を築いて居城した」とあるものなどで論ずるに足らぬが、新田義重、居城説についても、金山城の形式は鎌倉期のものではなく、治承四年兵をあつめたという寺尾城も片岡の寺尾に相違無いのである。新田義貞居城説については、前記新田正伝に「その後、義貞が要害を構え義貞闘死後破壊した」とあり、「木曾名所図会」にも「太田は、新田義貞の古城なり。即ち新田庄なり。金山という。義重より義貞まで居城」とあるのに対し、「上野国誌」「関八州古戦録」等には「文明中岩松明純、松蔭西堂に縄張りさせてこれを築く・・・・義貞の時、篭城のため構えたというのは誤りなり。」とこれを否定している。ともあれ、何人が先ず手がけたとしても、現存の城址は南北朝時代のものではなく、岩松、由良氏時代のものであることを如実に示している。岩松、由良氏築城についても二説があり、由良氏の伝える所は「新田義宗の子義氏は、金山東北腹の横瀬氏の館にひそんで横瀬氏を称し、応永二十四年、上杉禅秀の乱に持氏方となって新田郡中を率いて立ち、禅秀の与党岩松満純が誅されてから新田を領して移った。」とし、「松陰私語」「関八州古戦録」「上野国誌」等では「岩松直国四世の孫明純は、長楽寺の松陰西堂に縄張りさせて築城した」としている。この僧が何故にこれ程の築城家であったかは不明であるが、由良氏に伝えるところは、横瀬(由良)氏が名分を立てるための作為が感ぜられるので、岩松氏説の方に信が置けよう。明純の孫昌純は、老臣横瀬泰繁、成繁父子の潜上専横を憤り、これを誅そうとしてかえつて城を襲われて自害した。泰繁は、昌純の異母弟氏純を立てて大将介と称し、自ら陣代となつて姓を由良と改め、由良の館から三の丸に移って実権を握り、成繁の時には四鄰を征して武威を振るった。しかし、成繁の死後、北条氏の謀計にかかつて城をうばわれた。天正十八年、小田原落城後、新田守純は桐生に退き、菱村の竜泉庵に入り、金山は廃城となった。築城後間もなく太田道灌がこの城を訪れているので、道灌の指導による大改修も推定され、今も遺構の大方は保存されている。] 「群馬県古城塁址の研究」 山崎一著 より

詳しい事は下記の太田市のホ-ムペ-ジ「金山城の歴史」をご覧ください。

http://www.city.ota.gunma.jp/nez080603/2rekisi.htm


 


月の池

平成13年3月20日現在、石垣の実測調査

(石の大きさを実測して記録として残す)
しています。

 


 

 

 

本城大手口

大手道を登りつめ、本城に達した谷間に地形を利用した枡形が作られている。

北・西・東を高い石垣で囲まれ、内に番所を構え大手道は鍵ノ手に曲がってい

場内に入る。 枡形に侵入した敵は三方より攻撃される。

 

 

 


 

 

大手虎口

金山城には数多くの虎口があるが、なかでもこの虎口は一大防御地点として、

また、「城の格」を示す象徴的な場所として最も重要な虎口といえる。
発掘前は竹薮と草ぼうぼうだったそうです。

 


 


御台所曲輪

御台所とは城主平常の居住所を指すもので、

この一郭は南北120m、東西70mに及ぶ。
城の各地区への通路はすべてここを起点としている。

 



 

本丸北側の武者走り跡

本丸の裏側にあり、天主曲輪裏馬場とつながっている。
坂中砦へ通じる道でもある。

 


 

 

天主曲輪裏馬場

馬場というが、実際は馬屋のある郭である。馬は山城でも伝令用として使われたので、
馬屋の必要があるが、音に敏感な動物の為、敵の攻撃にさらされないよう城郭でも、
静かな裏側に設けられた。ここには馬薬用としての「さいかち」が植えられてある。


 

 

本丸跡にある新田神社

新田義貞を祭る本丸跡にある新田神社である。


 

訪問記

訪城は良い天気に恵まれて、遠方も良く展望できた。新田神社の神官の四台目の青木氏に話を聞くことができた。今のモ-タ-プ-ルの下にも遺構があるため駐車場を移し、発掘する予定である。岩松氏が攻められた時の火災の際に、一緒に焼けた米と瓦が出土したので、将来、資料館を作って展示するとのことである。子供の頃から高校までここから学校へ通ったが、なにより困ったのは、飲み水で、下から担ぎ上げたそうである。比丘尼坂の近くにあるさかきの井戸と、城域への大手虎口の所にあるさくらの井戸の水は大変おいしかったそうで、さくらの井戸は今もわずかに水が涌き出ている。以前は、城址では、飲み水を売っていたそうだが、ある時、小学生が遠足に来て水を飲もうとしたら水を売っていたので困り、役所に投書した為、水道を引くようになったとのことである。ML仲間は、もう六回も攻城した程、遺構も良く残り、城域も広く、大変魅力のある城である。 平成13年3月20日