舞踏家アントニオ・ガデス、死去

マドリード――スペインの伝統的舞踏フラメンコを世界レベルの芸術表現として確立したスペイン出身の舞踏家・振付師、アントニオ・ガデスさんが2004年7月20日、がんのためマドリードで死去した。67歳だった。

スペイン南東部アリカンテ出身のガデスさんは、闘牛士やボクサーなど様々な職業を転々とした後、15歳で名舞踊家ピラール・ロペスの舞踊団に入門した。1964年に独立し、自分の舞踊団を作って本格的な創作活動を開始。

74年にガルシア・ロルカの戯曲をベースにした「血の婚礼」を発表し、名声を確立。78年には新たに創立されたスペイン国立バレエ団の初代芸術監督になる。以来、「カルメン」「炎」などで評判を呼び、映画監督カルロス・サウラと組んだ映画「血の婚礼」「カルメン」「恋は魔術師」でも国際的に高い評価を得た。
 無駄をそぎ落とした長身を駆使して、暗い情念をたたえた歯切れのよい踊りを披露した。スペインの土俗的な舞踊と思われていたフラメンコを現代的なセンスで読み直し、洗練された舞台芸術に昇華させた。

映画の脚本なども手掛けた。91年に引退を発表したが、古典劇にスペイン市民戦争への思いを託した「アンダルシアの嵐」を94年に発表し復帰した。

 熱烈な共和主義者で、75年、フランコ政権に抗した5人の活動家が死刑宣告を受けた際、抗議の意味を込めて4年間踊りをやめた。

 日本にも59年以降、度々来日。91年の日本公演を最後に引退を表明したが、94年に復活宣言し、日本でも公演を行った。

ガデス氏遺灰、キューバに 故人の遺志で
アントニオ・ガデス氏の遺灰が22日夜、故人の遺志によりハバナに到着、
キューバ革命戦士の墓のそばに埋葬されることになった。

 大のキューバびいきだったガデス氏は亡くなる直前、カストロ国家評議会議長の弟ラウル氏にあてた今月14日付の手紙の中で「妻と娘たちが遺灰を届けるので、適切な方法で処理してください」と依頼していた。

 ガデス氏は1975年以降、たびたびキューバを訪問。今年6月にはカストロ議長から勲章を授与されていた。

ホアン一色より。
バルセロナ物語噴水の側で踊ったファルーカが忘れられません、
格好良かったです、最近フラメンコの踊り手さんには無い格好良さで憧れていましたよ、
私の足があと10センチ長ければ踊り手に成っていたかも、なんせ絵に描いた様な容姿短足なもんで。

実は、フラメンコを水沢明雄さんや小松原庸子さんと同じ時期に同じ先生(八木マリさん)に習っていた時が有るんですよ、ちゃんと靴も作って。

皮肉にも日本に現代的なフラメンコの演出手法を持ち込んだのもアントニオ・ガデスです、
それまでのフラメンコの公演と言えば舞台にアルハンブラ宮殿作ったりして、大道具小道具に大変金を掛けた物です。

アントニオ・ガデス日本での初公演は黒のバックに男性ばかりの踊りに、証明は舞台両サイドからの横の照明と当時では本当に斬新な演出でしたよ、豪華な舞台装置を想像してた私にとっては大変なショックでした。

ガデスだから出来たわけです、悪く言えば全く金を掛けない公演でした。
以後日本人の公演も殆ど大道具小道具に金を掛けない方向へ向かったのです。
アントニオ・ガデスに憧れてフラメンコの道に入り込んだ人が沢山居ると思います。

CASAには等身大ガデ「カルメン」のポスターが入り口に貼ってあります。


ファン・マジャ・マローテ 2003年 死去

2004年6月マローテの甥がCASAでギター弾いていました、その甥の話です。

バイレ伴奏では一番影響を与えたギターリストです。
よくCASAに遊びに来て帰り際に「あばじょ」と言って帰って行ったのを覚えています


チャケトン逝く。 ホアン

カンタオールのチャケトン(本名ホセ・アントニオ・ディアス・フェルナンデス)
2003年12月29日、がんのためマドリードの病院で死去、享年58歳。
スペイン南部アルヘシラスのフラメンコ歌手の家系に生まれた。
幼い時から父親の経営する酒場で歌い、後にマドリードの有名クラブなどで故カマロン・デ・ラ・イスラなどと共演、活躍した。
あだ名は「チャケトン」(大きなジャケット)で、あらゆる種類のフラメンコを歌いこなした。

25年ほどもっと前かもしれません、エル・フラメンコの仕事の後毎夜CASAに遊びに来ていた事があります、
狭いトイレに入るのが一苦労なんせ凄い太鼓腹でお腹を、めい一杯凹ませ、やっと入れたのを覚えています、
思わず微笑んでしまいました。
好くフラメンコを朝まで歌ってくれたものです、
又数少ない本格的なカンタオールが逝ってしまいました。
クラシックギター歴史の証人。

高橋功先生
ある日CASAの昔からのお客様で大学教授の町田章一さんにCASAのお客様の最高年齢は96歳でとても元気でした、
などと話した所、もっと凄い方が居ますよ。
 この会話の始まりから、偶然にも1972年の私のリサイタル時に招待状さし上げた高橋功先生が今も元気で居られる事を知りました。

72年当時新宿のスペイン居酒屋グラナダでフラメンコギターを弾いている時に知り合った男性が高橋先生の甥ごさんでした、
その甥ごさんをとうしてご招待したのですが、残念ながら仕事の関係で無理と言う事でした。

そんな訳でお会いはしたことは有りませんが、高橋先生の事はよく知っておりました、
当時はクラシックギターやフラメンコギター教則本の推薦文や評論文をよく拝見したものです。

早速町田先生の紹介で高橋先生の自宅に御うかがいして来る事にしました。

昔の事でしたら何でも聞いてくださいと言われて、
アンドレス・セゴビアやホアキン・ロドリーゴなど先生が実際にお会いに成った歴史上の偉人たちの話を聞かせていただきました、

あのギターリストは日本では有名でだけど世界的にはたいした事無いよとか、ずばり明快な言葉で話し始めました。
私は私のリサイタルを聴きに来てなくて良かったと内心思ってしまいましたが。

先生は最高のギターリストはアンドレス・セゴビアだと言い切っていました、
アンドレス・セゴビアに変わる次の世代のギターリストがなかなか居ないなどとも、
影をしたいての作曲家の故古賀政男さんのお話や色々と聞かせていただきました、昔はマンドリンクラブの指導もしてたようです。

先生は現在ギターは10年ほど弾いたことが無いそうです、残念ですがギターは聴くことが出来ませんでした。

私はプロのギターリストではないからと謙遜しておりましたが若い時は結構ブイブイ言わせたのでは。

戦前戦後をとうして日本のギター界だけでなく世界のギター界を1世紀近くも見守ってきた高橋先生何時までもお元気で。


高橋功先生のプロフィール。
明治40年生れ。
博士は赤痢菌の発見者として知られる志賀潔博士の甥にあたり、眼科医であり出身地の、仙台市で眼科医院を開業していた。
東北帝国大学法文学部ドイツ文学科卒 京城帝国大学医学部卒 東北帝大附属病院眼科勤務 応召(軍医として会津若松陸軍病院勤務、第二師団・第二野戦病院庶務主任として南方作戦に従軍)。
1956年シュヴァイツァー病院に寄付金を送ったことから博士との文通が始まり、
1958年12月、渡欧の帰路、同病院に立ち寄った。そこで、博士から「半年間、手伝ってくれないか」と依頼を受け、要請に応じ"共同治療"が始まった。そして2年程遅れて夫人もアフリカに渡り、ともに現地で奉仕活動を行なった。
夫妻は博士の死後もシュヴァイツァー病院に残り、1966年帰国している。
 また、博士はドイツ文学に通じ、芸術に造詣が深く、音楽を愛し、博士自身ギターの名手として知られていたようである。
(「シュヴァイツァー博士とともに」より)

NGO紹介<アフリカ・ガボン支援の会>の照会文には以下のように紹介されております。

 ガボンの首都リーブルビルから車で3時間ほどのランバレネには、シュバイツアー博士によって建てられたシュバイツアー病院があります。
日本人医師、高橋功先生はここで、8年間医療活動をされ、その功績は、いまも高く評価されています。
高橋先生によって灯されたガボンと日本の親善の火を消さないためにも、同病院への支援をすることにしました。
らい病棟の担当医師として働いた功績は、今も高く評価されている。WFWPとも交流のある高橋さんによってともされた。

主な著作として以下の著書がある。

著者/シュヴァイツァー 訳編/高橋功

セゴビア・テクニック(ウラジミル・ボブリ 著,高橋功 訳)全音楽譜出版社

ギター音楽への招待 高橋功 音楽之友社

私とギター−喜寿を迎えて 著者名  高橋 功

日本ギタリスト協会の名誉会長でもある。

パリー国際ギターコンクールの審査員を6年務める。

(2003年3月25日 フラメンコ・ギターリスト、ホアン一色)

残念ながら2003年10月26日永眠されました。
天国で好きなギターを気の向くまま弾いていることと思います。


懐かしの田村ギター
ホアンさん、どうしても、ど〜〜〜しても教えてください。

ず〜と、ず〜と前にオリーブオイルの説明を聞いた者です。その節はありがとうございました。もう一度質問していいですか?
  田村ギターって知ったはりますか? 検索しても出てこないんです。
実は主人は高知出身なんですが、田村ギターの工場の裏に住んでいて、ご両親が顔見知りだったらしく、
少々傷物のギターを買ってもらったそうなんです。

主人は「田村ギターは世界で超有名。このギターはハンドメイドで自筆のサインが中に書いてある。
42〜3年前に4万円で買ってもらったから、今やったら30万ぐらいはする」って豪語するんですが、
そんなに田村ギターって有名だったんですか?????私は聞いた事ないです。

キムタクが【ヤイリギター】からギターをもらって感動していましたが、ヤイリギターも有名なんですね。
土曜の夜、ホアンさんのHPの「アルハンブラ宮殿の思い出」を聞いてたら、主人がギターを出してきて同じ曲を弾いてくれました。
「禁じられた遊び」「夜霧のしのび逢い」など、クロードチアリの物真似しながら何曲か弾いてくれて、
クロードチアリの物真似はいらんかったんですが、秋の夜長を美しいギターの音色で過ごせました。

フェンダーとか、ヤマハとかモーリスとかがワタシタチの若い頃は流行ってました。
みんな欲しがってお小遣い貯めたり…。ワタシは5年生の時、名も無いフォークギターを
誕生日のプレゼントで両親から貰ったんだ。その後はご多分に漏れずエレキの世界に行ったのは言うまでもありません。

ホアン一色、紫の上さん。
タムラギターは高知のギター製作家です、
兄の田村宏と弟の田村満さんともに独立した工房を持って活躍していました、
70年ごろまではフラメンコギターと言えば「タムラギター」が有名でした、 私は宏、満の両方持っていましたが、満の方は弟子に譲ってしまいました、
宏の方は傷だらけで痛々しい状態ですが現在もお店で使っています。
タムラ兄弟は大分前に他界しており工房も閉鎖しています。 当時で3万円〜30万円ぐらいで売られていましたよ。

紫の上さん。
>ギターの師匠は「関勉さん」 ご主人の先生ですか、
関さんの事は、関、池谷彗星発見のニュースが流れた頃ギターを弾いている方と知りました。
付き合いは有りませんが知っております。

ホアンさん 
早々のお返事ありがとうございました<m(__)m>
そんなにタムラギターって有名だったんですか。
ホアンさんも持っていらっしゃったのですね。

すごく嬉しい。なんか他人とは思えません。(他人や、っちゅうねん。)って?(^^♪ >タムラ兄弟は大分前に他界しており工房も閉鎖しています。
そうだったんですか。きっと後継者がいらっしゃらなかったんですね。
ギターの師匠は「関勉さん」だったそうです。ご存知ですか?「コメットハンター関勉」でHPがあります。 主人は大学入学時、ギター部に入ろうとしてたけど、女の子がたくさんいるからって俳句部に入ったスケベな人なんです。
でもギターが好きで、ギター部の演奏はよく聴きに行ったそうです。 大学に通っている息子は今、ギター部に入っています。
今週、大切にしているこのタムラギターを息子に譲る為、主人は娘同伴で埼玉に持って行きます。
私はホアンさんの話聞いて、なんか息子に譲るのがもったいないように思うんやけどね。

もし私がホアンさんのお店に行く夢が実現出来たら、その時は素晴らしい生ギターの音色を聴かせてくださいね。

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