ううむ、まあ、象気功はありがたーい象の大神様のお授け啓示によるお筆先の出たとこ勝負言いたい放題であるのであるが、これ、ちょーしに乗って大神様の御機嫌を損ねると何があるかわかったもんじゃないのである。 まあしかし、そこはそれ、それがお楽しみでもあるわけである。 なんでもかんでも楽しくて嬉しいわけである。 それが「悦楽の法」てなことであるわけであるが、さらに「安心の法」で運気をぐぐいのぐいと上昇させるわけである。 とゆーことで本題に入るわけであるが、まあ、とにかく「安心の法」の実践法は、何はともあれ「安心だなあ、幸せだなあ」と思えばいいのである。 安心の法であるから安心して幸せを感じればいいわけである。 ひねりも工夫もないそのまんまである。 まあ、とにもかくにも朝起きたら「安心だなあ、幸せだなあ」である。 夜に寝る前にも「安心だなあ、幸せだなあ」である。 まあ、これは前回も解説したようにコトタマではなくコトダマであるので、その言葉の意味が脳の前頭前野言語野に影響を与えて、脳波の周波数をよろしい方向に下げて細胞素粒子の波動の周波数もよろしい方向に下げようてな方法であるから、そのような「気持ち」にならなければならないのである。 真言のようなコトタマの場合は、意味がわからなくても、その気持ちにならなくても、音声の波動が直接的にその該当する部位チャクラの細胞素粒子に影響を与えるのでたーだがなりたててればいいわけであるが、コトダマの場合はその意味を理解してその気持ちにならなければそれこそ無意味なわけである。 まあ、だから、心から「安心だなあ、幸せだなあ」と思えばさらに効果はあるのである。。 まあしかし、そんなことを言っても、たとえば明日、命にかかわる大手術を受けなければならないなんてえときに「安心」も「幸せ」もないもんである。 まあ、いわば不幸のどん底であるわけであるから、これで安心だの幸せだのと思えるわけはないのである。 しかし、これで、さらに強い不安恐怖を懷けば、さらに運気下降に拍車がかかり、その限りなくよろしくない波動は施術する医師にも影響を与え、上手く行く手術も上手く行かないてなことになるわけである。 これはマイナス思考を消して、プラス思考にしろなんてえ間抜けなことを言ってるのではないのである。 命に関わる大手術を前にしてマイナス思考はいかんなんて、トンチキなことを言っても、できるわけはないのである。 できるわけはないのであるから、そのどうにもならないマイナス思考は放っとくのである。 その不安恐怖を消すことは不可能であるから放っといて、それとは別に勝手に「安心だなあ、幸せだなあ」と思うのである。 まあ、たとえ、その施術する医師が信頼できてもできなくても「安心だなあ、幸せだなあ」と思うのである。 あるいは小声でもいいからつぶやくのである。 そーすると、波動は調整されるのである。 絶対零度から1度でも2度でも上昇するのである。 余裕ゼロの運命から余裕が生まれるのである。 泥沼泥池の底に硬く張り付いたあなたの運気がフワリと浮き上がるのである。 運命の絶望の縁から希望の光が差し込むのである。 ねー。 なにがねーだかわからんが、まあ、とにかく「安心の法」である。 朝起きたら「幸せだなあ、安心だなあ」である。 今日は人生をかけた伸るか反るかの大事な試験の日でも「安心だなあ、幸せだなあ」である。 株価大暴落で生きた心地がしなくても「安心だなあ、幸せだなあ」である。 リストラされて年齢的に仕事も見つからず無職でこれからどうしていいかわからなくても「安心だなあ、幸せだなあ」である。 能無しで酒好きあれこれ好きがたたって奥さんに逃げられて子供を抱えて途方にくれていても「安心だなあ、幸せだなあ」である。 旦那が友人の会社の保証人になって、その会社が倒産して、連帯保証で家を売る羽目になっても「安心だなあ、幸せだなあ」である。 何がなんでも「安心だなあ、幸せだなあ」である。 思えば思うほど、口に出せば出すほど、あなたの運気は泥底を離れてフワリフワリと水面に向かって上昇し始めるのである。 まあ、そうは言っても、元来が底なし沼のような深い泥沼の泥底に硬く硬くへばりついていたあなたの運気であるから、水面までは気が遠くなるような距離である。 それでも、深い泥沼の泥底に硬く張り付いていた絶望的な状況からは脱しているのである。 そのフワリと底から離れてからの運気がどうなるかは、さらなるあなたの心がけ次第あるが、だから人生は楽しくて嬉しくて面白いのである。 続く。 |
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