立ち方2・足幅と足先の角度 下の動画で軽やかに氣を発しているのは某ドンドラップ・ドルジェさんてな某チベット方面の中国武術の達人のラマさんである。 怒涛の氣を発して、いわゆる「発勁」でお弟子さんを吹き飛ばしているわけである。 シロートさんには大げさなやらせに見えるわけであるが、まあ、これ、そんなに特殊なことではなくて、ご存知の方はご存知のとおり、どこの気功関係の道場でもセンセーのレベルによってはふつーに見られる光景である。 あるいは生徒同士でも、あるレベルに達すると、氣のわかる者同士であれば、そうなるのである。 あたしでも、氣のわかる気功仲間に対しては同様の光景になるのである。 だから、氣で人を飛ばすことには、たいした意味はないのであるが、氣のレベルを判断する上では分かりやすい現象である。 氣の強い方が氣の弱い方を飛ばす、あるいはコントロールするということである。 あなたも、気功法や太極拳や站椿功を正しく根気よくやると、仲間同士では、このご両人のようになる可能性があるということを言いたいために貼り付けたのであるが、あくまでも可能性であって、その方法が正しくもなく根気良くもなければ、そのレベルまで氣が高まらず、そうはならない場合もあるということも言いたいのである。 氣で人を飛ばすことにたいした意味はないが、逆に言えば、人を飛ばせないようなレベルの氣であれば、気功法としてはいかがなものかということである。 この動画の先生のファッションや見かけはともかくとして、氣に関しては本物であるということをご記憶いただいて、現在あなたが師事しているセンセーが本物かどうかを判断すればいいわけである。 現在、展開している「站樁功」の章では、このように怒涛の氣を発するにはどこをどのようにどーするかということを解説しているわけである。 その根本はたとえばこの動画のセンセーの姿勢あるいは立ち姿である。 気の充実あるいは拡充は姿勢に根本がある。 さらにその根本は尾てい骨の入り方による腰の角度である。 それは背骨の湾曲の塩梅と言ってもいいのである。 もちろん猫背とは違うが、そっくり返った姿勢の反対である。 あるいはへっぴり腰の反対である。 いわば自然体であるが、この自然体になるために站椿功があるといってもいいのである。 その角度が氣の真髄といってもいいのである。 さてさて、その角度とはどんなんかなーということで話を進めるわけである。 早く言え? やだよーだ。 しかし、まあ、それであなたが氣をつかんで怒涛の氣を出せるようになっても、これが氣に関するシロートさんに対してもいきなりこの動画のようになるかとゆーと、まったくそーではなくて、なんの反応もないのがふつーである。 あくまでも「氣がわかる者同士」あるいは「姿勢のできたもの同士」で「氣道に氣が充満してる」状態での反応である。 まあ、テレビ番組などで、氣のシロートのタレントさんを飛ばしたりしてるセンセイもおられるが、あれは事前に氣を送り込んで、ある程度氣道を氣で満杯にして、氣に反応するように準備するのである。 まあ、楽屋ネタはともかく、それではこのようになるための正しい站椿功の解説である。 立ち方の概念の解説は前回に滞りなく済ませたので、いよいよ技術的な方法論についての解説である。 まずは、足をだいたい肩幅に開いて立つのである。 まあ、若干広めにした方が安定感がある。 広めと言っても、大股開きあるいは四股立ちのように大きく広げると、「杭のように立ち続ける」ことはできないので、よろしくないのである。 站椿功の核心部分は「時間をかけたもん勝ち」であるということにある。 なんのために時間をかけるかというと、氣の充実による氣道の拡充と、その姿勢を身体におぼえこませて、日常坐臥を氣の身体にするためである。 もちろんそれは「正しい立ち方」という条件のもとでの時間ということである。 正しい立ち方は、站椿の字義の通り、「杭のように立ち続ける」ことができる立ち方である。 何時間でも杭のように立ち続けるためには、楽な立ち方でなければならないわけである。 たとえばこの動画のセンセーの立ち方はどこにも力が入っていない楽な立ち方である。 まあ、この動画をセンセーの立ち姿を繰り返し見て、この楽な立ち方を学べばいいわけであるが、どこをどうやったらこうなるのかさっぱりわからんわけである。 つまり、逆に言うと、苦しい立ち方では氣は発生しないということである。 気功あるいは練功の基本はリラックスであり、肩の力を抜くことであり、周囲と一体化することである。 まあ、動画のセンセーも限りなく力が抜けてリラックスしているということがわかると思うが、力が入れば入るほど氣に関しては逆効果になるということであるということをご理解いただきたいわけである。 これはインナーマッスルとアウターマッスルの筋肉の組成の違いと氣の関わりということであるが、これについては今までにも何度も解説しているので、めんどくさいので省略するのである。 まあ、とにかく、リラックスして、肩の力を抜いて、周囲と一体化して、安定して立ち続けるためには肩幅よりもほんの少し広い程度の広さがよろしいということが、そうとうおつむのちょーしのよろしくない皆さんにもご理解いただけるところであると思うが、「そんなことはない、足幅をググッと広げて、腰をググッと下げて、足がプルプル震えるのを我慢して足腰を鍛えなければ本当の氣は出ない」なんてご意見の向きは、そのようになさっていただいてまったく異存はございませんので、心行くまで無意味な艱難辛苦をお楽しみいただきたい。 それで、話を戻して、次のステップに進むのである。 肩幅よりほんの少し開いて立つわけであるが、その際、足先の向きはできるだけ平行がよろしいのである。 もちろん「できるだけ」であって、あくまでも楽な範囲内で、無理やりする必要はないのはいうまでもないことである。 足先をだいたい平行にし、両膝の間に大きな風船を挟む感覚で立つのである。 いずれにしても足をおっぴろげて立っていては、杭のように立ち続けるには不都合である。 当然人よって体形や関節の常態が違うので、いわばその人によって普通に立ちやすいということが大前提である。 とにかく厳密に平行である必要はなく、がに股や大開きにならずに、だいたい平行になっていればいいのである。 あまり極端にこだわって平行にしたり、さらに内向きにしたりすると、膝関節や股関節に障害が出る可能性もあるので、とにかく自分にあった開き方で、楽な範囲で、「だいたい平行」になればよろしいのである。 とにかく、らくーな足幅で、らくーな範囲内で足先を平行にして立つわけである。 なにごとも極端にこだわるとろくなことはないのである。 本来は健康法であるはずの気功法で足首や膝の関節や筋が痛くなったなんてのはナンセンスである。 象気功の核心は中庸である。 中庸とは「こだわらない」あるいは「いいかげん」あるいは「てきとー」ということである。 なにごともやり過ぎれば弊害が出てくるのである。 まあ、わかりやすくいうと、0脚の人もいればX脚の人もいるわけであるから、一概に、この角度にしなければいけないと厳密に角度を決めると、関節に無理な負担が掛かってろくなことにならないのである。 無理なことを、毎日長時間に渡って行えば、当然、あちこちに支障が出てくるのは当然であるのであるから、できるだけ楽で無理のない安定感のある足幅で立ち、無理のない範囲内で足先を平行にするということである。 さてさて、足幅を肩幅より少し広く開いて、足先を関節に負担のない範囲内で並行にして、膝の間に風船を挟む意識で立ったわけであるが、このへんで本日もお時間となりましたので、皆様ごきげんよう。 こんなんでホントに氣が出るのかね、しかし。 しらんがな。 ホラ吹きを信じたらあきまへんでだんなはん。 やかましわ。 続く。 |