象気功
気功の穴
象気功


站樁功
タントウコウ



手8・手の向きと偏差


しかし、まあ、とにもかくにも站椿功が気功法の基本であり本質であり本筋であり本物であり本日も晴天なりであるので、さらに突っ込んであそこもここもぐりぐりしてみるわけである。

站椿功を正しく理解すれば、氣を高めるということにおいては、これだけであなたのあそこもタントウコウつーぐらいのおいしい気功法である。

誰にでもできて、しかも気功効果抜群のあのねのねである。

何はなくとも站椿功である。

困った時に站椿功である。

食前食後に站椿功、一家に一台站椿功である。

朝に昼に站椿功、今夜もあなたと站椿功である。

まあ、こんなとこかな。


すこーしおつむのちょーしがよろしい方はすでにお気づきのことと思うが、すべてが尺埋めのための笑神様のお告げであるから、お告げを奉じれば奉じるほど、どんどん信頼性が遠のいて雲霞の彼方へと消え去って、読者も呆れて離岸流のように引いて離れて行くわけであるが、神のお告げである象気功の内容はその辺のくだらんご本なんか問題にならんぐらいの金色輝く金科玉条である。

象形流気功法宗家である不肖天才大霊能気功大師象師匠は、氣が視え、身体内外の氣を実感として体感し、体内体外を含めて宇宙の氣・プラーナの存在成り立ち組成が分かるのである。

あなたの体外体内の組成は同じものからできているのである。

その同じものである氣あるいはプラーナとしての素粒子レベルの物質のぶつかり合いによる反応としての振動を起こすことが、氣を高めあるいは増幅するということである。

氣を高めることは、いわばプラーナとプラーナのぶつかり合いによる核融合反応を起こすことである。

ううむ、いいねえ、さすがは神のお告げである。

口から出まかせにも関わらず、さらりと真理道理原理本質プリンシプルを紛うこと無くお授けになっておられるのである。

巷間に流布される、樹木や地の氣を吸い込むだの、天の氣を吸い込むだのてなことは、なんの役にも立たんし、健康状態や運気を下げることはあっても、それで何か好転するなんてことはまったくないのである。


さらに、人の気を吸い取るなんてのは勘違いの最たるもので、それをされた相手の事を考えない人でなしの考えた非人道的な行為であるし、それで自分が回春して若返るとか、体力が回復増強するとかということは全くないのである。

ホラ吹きのセンセーのご本を読んだり、お布施集めカネ集めが目的の教祖に惑わされて、非人道的な行いに血道を上げても、運気が下がることはあってもあなたの人生が好転することは絶対にないのである。

非人道的なあなたには非人道的な神罰が待ち構えているのである。

当たり前である。

まあ、しかし、人でなしには人でなしという縁起の御役目があるし、ゴミムシはゴミ溜めに集まるというのは致し方のないことであるので、あいかわらずの御役目としてのゴミムシの一生を心ゆくまでお楽しみいただきたいが、あたしの神のお告げで目が覚めた人でなしの人は、今後は「自分以外の人のために何ができるか」ということを真剣に考え直して、今後の人生をまともな正しい方向に向けることをご推奨申し上げるのである。

まあ、象気功がゴミ溜めであると言われれば、もちろん否やを唱える心持ちはさらさらないのであるが、ゴミの中に金銀財宝が埋まっているのが象気功である。


象気功のゴミの山スモーキーマウンテンをほじくり返して漁れば、光り輝くエメラルドカットのダイヤモンドが出てくるのである。

しかし、おつむのちょーしが極めて悪いと、ガラスのかけらをダイヤと勘違いして後生大事に神棚に飾って三拝九拝して馬鹿丸出しになるので、そこはそれ、なんといっても神様の御心次第であるのは論をまたないところであるのはゆーまでもないところである。

周りくどい描写言い回しのわりには内容は極めてくだらんのである。

そこもまた象気功である。

もう、いいだろ、このへんで勘弁していただきたい。

つーことで、さらに言うに事欠いて、病人や老人に氣を吸われて具合が悪くなるだの、邪気を受けて病気になるだのに至っては、これもう、笑止千万大爆笑で、霊能・霊視・超能力となんら変わらんバカげたお笑いネタである。

いつも言うことであるが、そんなことが事実なら、世界中の病院の医師や看護士やスタッフは全滅してしまうわけであるが、皆さんは人一倍パワフルに元気にお仕事に励んでいらっしゃるのはご存知の通りである。


あるいは老人ホームの介護師やスタッフも全滅して、世界中で老人ホームにお暮らしのご老人は衣食住に困るのであるが、ご存知の通り、介護師もスタッフも元気元気で働いているのである。

もし、あなたがそう感じるなら、無知蒙昧からくる恐怖心による単なる思い込みか、そうでなければ、おつむのおびょーきである。

おびょーきが疑われる場合は、ご家族とご相談の上、しかるべき病院に行って、センセーに「ぼくは病人や老人に氣を吸われるんです、なんとかしてください」といえば、センセーが「よしよし、それじゃあ、このおクスリを飲んでおねんねしましょうね」と治してくれるのである。

氣が視えない分からないホラ吹きが中国の大師老師仙人に師事したと言い張って聞きかじり読みかじりで書いたキワモノの大げさな効果を宣伝するご本や、そのへんのお教室や道場のマヌケでとんちきなセンセーに指示していては、現在のあなたの運気は、情けない親から受け継いだ情けないDNAそのままの情けない状態で推移して、困窮貧窮お病気事故災だらけの人生で、気が付くと病院で点滴のチューブだらけになってご臨終という情けない仕儀に相成るのである。


やーい、ざまあみろ。

ますます、象気功は嫌われるのである。

天才ジーニアスは嫌われてなんぼである。

さて、つかみの悪口雑言ネタはこれぐらいにして、手から放出された氣を受ければ、その部位が開くわけである。

気功に熟練熟達してくると、手から放射照射される氣の強さが尋常でなく強くなるので、チャクラが簡単に活性化し開くのである。

いわゆるチャクラ覚醒である。

チャクラ覚醒はクンダリニー・ヨーガにおける尾骶骨の赤い蛇さん上昇に限らないのである。

全身に暴発する可能性のあるチャクラが散在しているのである。

特に任脈上・督脈上には大きな暴発をもたらすチャクラが多々あるわけである。

站樁功に熟練して、手のひらから強い氣が出るようになると、胸に当てれば膻中あるいはアナハータが開き、臍の下周辺に向ければ氣海あるいはマニピューラが開くのである。

そうなるとどーなるかとゆーと、部位によっては偏差が起きるのである。


まあ、クンダリニー覚醒ほどの重症の偏差には至らないまでも、頭痛、頭部圧迫感、発熱感、焦燥感、不安感、興奮状態、めまいなどの状態に陥る場合があるのである。

初心者でも、正しい立ち方で氣の玉を抱く、あるいは大木を抱くという形で、毎日数時間という時間を掛けた場合は、同様に経絡上のチャクラが活性化し開く場合があるのである。

站樁功の偏差の代表は頭痛である。

これはやり過ぎという場合もあるが、主に「手のひらの向き」による場合が多いのである。

このことは、氣が視えない、分からない、脳が不調、という三重苦のそのへんのへっぽこなセンセーには分からないし理解できないのである。

自分で分からないから、そのセンセーがお習いになったセンセーや、くだらんご本からの聞きかじり読みかじりで、いいかげんなことをホラ吹いて、さらにもっと分からない生徒や弟子はそれを信じ込んでとんちんかんな気功法に人生の大事な時間を浪費しているのである。

ううむ、いかん、また世間の気功関係のパ~を真っ向から敵に回してるのである。

とにもかくにも、氣の玉を抱き、その際に、手のひらを臍周辺に向けていると、その周囲のチャクラが開き、その氣は氣道を頭部の方向に遡って、額の上の神庭などを圧迫して頭痛を引き起こすのである。

いわば氣が氣道・経絡を逆流するわけである。


それが額の上の神庭辺りの氣道の弁により堰き止められて、その周囲の氣道を圧迫して頭痛を引き起こしたり、頭痛には至らないまでも興奮状態が続いて、それは夜も継続してとても眠れない状態を引き起こしたりする場合があるわけである。

まあ、そうなっても死ぬわけじゃないので、大騒ぎしたり慌てたりする必要はないのである。

そのような偏差が起きたら、即刻、站椿功を中止して収まるまでやらなければ、そのうち治るのである。

そうはいっても、やるたびに身体の変調不調を起こしていては、健康法としての站樁功がなんのこっちゃであるわけである。

それではいったい、手のひらをどの方向に向ければ、氣の逆流を防げるのかというと、恥骨上部の「関元」の周囲である。

チャクラで言うとスヴァシスターナ・チャクラの周囲である。

まあ、これは、象形流ではざっくりと、アナハータが膻中で、マニピューラが氣海で、スヴァシスターナが関元の位置に当たるとするということが基本であるので、異論がある人は他のとんちきなセンセーのご指導やご本の通りにおやりいただいても、当方といたしましてはまったく異存はございませんのである。

まあ、チャクラの正確な位置がどこであるかなんてことにこだわるとさらにややこしくなるので、分かりやすく、臍から恥骨までをざっくりとおおまかに丹田として、丹田上部と丹田下部に分けた場合の真ん中から下の丹田下部であると思えばいいのである。


丹田上部の「氣海」周辺のチャクラが開いた場合は氣が頭部に逆流し、丹田下部の「関元」周辺のチャクラが開いた場合は氣が脚部に向かうのである。

丹田下部の「関元」周囲のチャクラが開いても、発生した氣は脚部に向かうので、頭痛等の日常生活に差し障りのある偏差には至らないのである。

ちなみにその下のムラダーラ・チャクラあるいは会陰あるいは尾てい骨周辺のチャクラが開いた場合は、ご存知のように背骨を駆け上がるわけである。

このように、氣道ナディ経絡の仕組みは実に面妖怪奇面白くできているのであるが、たいていのセンセーだのグルだの導師だのと言い張ってるホラ吹きは、実際には何にもわかっちゃいなくて、聞きかじり読みかじりの思い込みの言ったもん勝ちの大ボラ吹いてるだけであるので、何事も自分で試してみなければいけないわけである。

まあ、話を戻して、さらに言えば「関元」周囲のチャクラが開いた場合は、脚部や足の氣道に圧力がかかって、閉塞していた氣道が開かれて激痛が走ったりするてな偏差も出る場合があるが、まあ、そんなことを言ってると站椿功も気功もあったもんじゃないので、最悪でも死ぬだけだということを金看板スローガンとして、人生をかけて站椿に邁進していただきたいが、もちろんすべてはあなたの自己責任であるので、もし何かあってもあたしはいっさい責任をとらないのは言うまでもないことである。

象気功は提示するだけの無責任気功であるのは、これまでの経緯でご確認していただけることを心より祈念いたしまして本日のご挨拶に代えさせていただきたいと存じまするのである。


まあ、偏差を引き起こすには、それそうとうの時間と熟練度が必要であるので、10分や20分の健康法としての站樁功であれば、手のひらを胸に向けようが、臍周辺に向けようが関係ないのである。

しかし、発勁空勁に到る怒涛の氣を発する氣道拡張を目的として、馬鹿丸出しで毎日数時間てな修行修祓暇つぶしを敢行する場合には、手のひらは丹田下部の関元周囲に向けることが望ましく、さらに上級者で、あたし並みに怒涛の氣が出る場合は脚部に向けることが安全策である。

站椿功の大きな目的は、丹田を育てることではなく、いわば「手」を育てることである。

手を育てることが、氣道を育て拡張することである。

もちろん、正しく立つことがその大前提であるが、極論を言えば、立つことも無用になるのである。

手と手を向い合せるだけでも、氣は核融合を起こし、氣は増幅され、全身が氣で充足し、氣道は拡張されるのである。

あたしの場合は手と手を向かい合わせるだけでも、ものの数分で体内の気が充足して満杯になってしまうのである。

手が育つとはそういうことである。

もちろんこれは氣の充足に関しての話であるので、人間の生活においては、基礎体力養成ということも含めて、立つこと歩くことがそれ以上に重要であるので、正しく立つ訓練としての站椿功が必須であるのは言うまでもないことである。

まあ、いずれにしても、自分の許容量を越えて無理をすると、氣道が炎症を起こして氣道壁が崩壊したり、ひどい偏差を引き起こしたりするので、自分の身体と相談しながら、偏差を引き起こさない範囲内で一生にわたって継続するということが、気を高める最善最良の方法であるのは言うまでもないことである。

とにかく、継続的に何年何十年ということであるから、正しく立ち、根気よく手を育て、氣の玉・氣道を育てることが站樁功の正しい方向性であり、氣を限りなく高める方法であるわけである。

ものごとはすべからく「中庸」と「継続」が肝要である。

ううむ、いつもながら、ネタの間に本題があれこれであるので、まともに理解する人がいるとも思えんが、まあ、なにしろありがたーい象の大神様からの須弥山黄泉の国霊界通信御筆先であるので、そこんところはひとつアレしていただきたい。

アレかよ。

続く。

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