象気功
気功の穴
象気功


站樁功
タントウコウ



手7・手の向きと丹田


とにもかくにも象形流站樁功の正しい立ち方で立ち、手のひらと胴体前面の間に大きな玉を抱くように立つと、指を含めた手は自然に丹田の方向にも向くのである。

正しい立ち方とは、放鬆弛緩し全身を限りなく緩め、膝を緩め(軽く曲げ)尾てい骨が微妙に前に入り、首の付根を足の親指の付け根の周囲を中心として前足部から中足部に乗せて立つということである。

首の付根が親指の付け根の周囲を中心とした前足部から中足部に乗るとヘッドバランスも正しい位置に乗らざるを得ないのである。

顔の向きも目線も正しい位置に向くのである。

正しく首の付根が前足部から中足部に乗った状態の、上目線でも下目線でもない自然な状態の目線が、正しい目線の方向である。

正しい位置というのは尾てい骨が微妙に前に入り、脊柱が自然なS字カーブを描いた状態である。


しかし、そうはいっても、通常のだらけた姿勢では、腹が出て脊柱が湾曲して、つまりへっぴり腰で猫背で、その生活で長い間生活している上に、立ち方を習ったこともない立ち方のシロートである皆さんにはどれが正しい姿勢なのかまったくわからないわけである。

それを矯正するために、頭頂部を上に引っ張れだの、首を伸ばせだの、尾骶骨を押し込めだの、顎を引けだのというわけであるが、首の付根が足の親指の付け根を中心とした前足部に乗れば、脊柱が正しいS字を描き、総てが完結するのである。

首の付け根が軸足の前足部から外れて、姿勢が歪んでバランスが崩れると、氣が切れて充満充足感も切れるのである。

だから、氣の分かる者は、氣の充満充足感を基準に姿勢を正せばいいわけである。

それには氣がわからないとどーにもならんので、これがめんどくさいことになるわけであるが、氣がわからないでくのぼうの皆さんにおかれましても、象形流の立ち方はこれを見事に簡潔に簡単にウソみたいに解決してしまうわけである。

つまり、これ、全身の深層筋をつなげて効率よく氣を生み出すとともに、神経細胞の集合体である脊柱を整える、つまり氣道の大動脈であるスシュムナーを整えて、氣道を開き、氣を通りやすくするということでもあるわけである。

大動脈であるスシュムナーからナディが枝分かれして全身に氣を充満充足し、全身の毛細血管を開き、血行血流を促進するわけである。


だから、座法にしてもスシュムナーを整えるためにあれこれテクニックがあるわけであるが、立ち方に関しては首の付け根が前足部に乗ればすべてが完結するのである。

さて、正しい立ち方で、胸と腹と下腹部の間に大きな玉を抱くように立つわけであるが、まあ、見方を変えると、いわば、丹田と手の間に氣の玉を抱くわけである。

手のひらが丹田方向を向けば、当然、指を含めた手のひらからの氣は丹田に向かって放出照射されるのである。

このことから、站椿功の目的は丹田に氣を送ることであると勘違いする人も多々おられるわけであるが、それがよろしいのかよろしくないのか正解か不正解かあれもこれもそれもこれも含めて解説するわけである。

もちろん丹田は小腸であるので、膨大な毛細血管の存在として、ナディ・氣道も膨大な量を有し、気功法の中心となることは否めないのである。

しかし、站樁功あるいは気功法の目的は全身の氣道を開き拡張することであるので、意識としては「全身の氣道としての氣の玉を育てる」ということが肝要である。

つまりは、站椿功においては、丹田にこだわってはいけないわけである。

そうはいっても、手のひらから放出される氣は丹田にも向かうわけであるので、物理的には当然、電磁波の類いである波動としての氣が丹田に影響を与えるわけである。


もちろん、象形流で丹田という場合は小腸の位置である臍下丹田である。

站椿功における意識の面からいえば、当初は丹田の意識よりも手の意識の方が重要である。

腕を含めた手全体で氣の玉を実感として捉えることが必要である。

氣の玉を全身の氣道と捉え、全身の氣を手に受けるという意識が重要である。

それが氣の玉の実感体感につながり、氣道拡張につながるのである。

さらには空間の氣、いわゆるプラーナも手で受けるという意識が必要である。

たとえば、站樁功同様にすぐれた気功法である太極拳の場合は、手を丹田の方向に向けているわけではなく、型・動きとしての手を使うことにより、站椿功同様に氣は著しく養成され、氣道は拡張されるのである。

つまり、太極拳の場合は空間の氣であるプラーナを手で受け、その反応により氣を養成するわけである。


まあ、太極拳の場合はどうしても決まりごとに捕われて、氣を養成するということからすると無意味な手の動きの柔らかさを指導される場合もあるのであるが、それにしても、本質的には手が重要な働きをするのは站椿功と同様である。

太極拳においても、親指の付け根を中止とした前足部から中足部への重心のかけ方と、手で氣を捉えるということが重要な要素となるのである。

言い方を変えると、丹田も含めた全身の氣を受けて「手が育つ」ことが、「氣の玉が育つ」ことである。

ううむ、よけいややこしいのである。

つまり、丹田は放っといても、手からの氣が照射されるので、養生され活性化するのであるから、全身の氣道としての氣の玉を意識し、腕・指を含めた手により、実感として氣の玉を捉えることが全身の氣道を拡張するためには必要であるということである。

続く。

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