象気功
気功の穴
象気功


站樁功
タントウコウ



手4・氣の玉を抱く


まあ、なんだ、象気功のお題目は「こだわらない」ということである。

「水のごとくその場の状況に合わせて生きる」ことである。

これはお釈迦さんのご臨終の際の、お弟子さんたちに向けたお言葉でもあるのである。

つまり、お釈迦さんのご遺言である。

もちろん釈迦の生まれ変わりの大霊能チャネラーのあたしとしては、今のところ全世界80億の迷える衆生民衆大衆にこれを広めなければならないお役目があるわけである。

誰が釈迦の生まれ変わりだ。

おつむのびょーきかお前は。

おつむのびょーきの場合はおつむのびょーいんに行っておつむのびょーきのセンセーに「すいません、おつむのちょーしがことごとくアレですので、あそこに痛ったーいおちゅーしゃしてねウフン」とお願いしないといけないのであるが、あたしは意識不明になるまでびょーいんには行かないのである。

誰がびょーきで意識不明だ。

てな、てきとーいいかげんな口から出まかせ意味不明のボケと一人ツッコミも快調に、今日もやってきました、出たとこ勝負でおなじみのエルカンタービレ象師匠である。


某方面から無用な反感を買うネタは早々に切り上げて軽やかに本題に入るご所存である。

さて、前回までに、無知蒙昧愚鈍低能阿呆能無し頭部脆弱症のあなたの明日を担うべく、站椿の基本である正しい立ち方と、その際の手の役割をこよなく解説してきたわけである。

こよなくの用法が適切かどうかはひとまずあっちの方に置いといて、象気功における站椿功の目的は、氣道を拡張し、健康を増進し、しいては運気を上昇させることがテーマである。

まあ、そうかといって、站椿功をやって、いきなり体力気力充実で運気急上昇、大開運、大金運でいきなり大金持ちになったとかてなことは望むべくもないのは言うまでもないことである。

当たり前である。

気功は魔法ではないのである。

毎度解説している通り、毛細血管を開くことにより、酸素栄養を全身の隅々まで送り、細胞のメンテナンス、再生をこよなく行い、健康を増進し、健康になれば運気はおのずと開けるということが気功効果の基本である。


運命変革といっても、あくまで、あなたのしょーもない親から受け継いだしょーもないDNAの範囲内で「やらないよりマシ」が重要なタームである。

しかし、ごくまれに、思わぬスイッチがポンと入って、人生大変革てな人もないではないわけである。

しかし、それはその人の先祖係累に誰か優秀な人がいて、その遺伝子が目覚めたということの結果と考えるのが妥当であって、先祖代々バカ丸出しのしょーもない親から生まれたあなたの場合は、だいたいがしょーもない親の遺伝子のとおりにしょーもないスイッチの入り具合で、それはガチンガチンに固まっているので、これが、何をやろうが、なーかなか動かないのはご理解いただけることと思うのである。

それでも、やらなければあなたのしょーもない親から受け継いだしょーもないDNAのスイッチの入り具合のまんま、一生しょーもない人生を送るわけである。

しかし、やれば、そのしょーもない人生が、すこーしショーもなくない人生に変わる可能性があるのである。

まあ、たとえば象気功の読者はご存知通り、あたしの場合は極端な修行修祓の効果の神のお告げで幼児期からの重度の喘息が完治して、あたしの身体から消え去ってしまったわけである。


これは治ると治らないとはえらい違いで、あちこちの有名病院大学病院専門医に通ってもさっぱり効果はなく、走れない歩けない動けないが通常の生活で、うっかりしてると夜中に発作が起きて氣道狭窄さらには閉塞してチアノーゼ暴発・頻脈5連発で死にそうになって救急車で運ばれるというにっちもさっちも行かない状態から、現在は何をしても喘息のぜの字も無くなってしまって、どんなに激しいスポーツでもできて、走り放題、暴れ放題でなんでもできるようになったわけである。

重度の喘息患者からすると、喘息が無い生活は、「この世にこんな楽な生活があったのか」てなお気楽極楽の生活である。

あたしにとってのカルマである人生の苦しみ悩みの大半が消滅して無くなってしまったので、あとは飲み倒れ食い倒れ、さらには、はっきりとは言えないナニ倒れという天国極楽人生になったわけである。

とにかく人間は呼吸をしていないと生きていけないわけであるので、息をすることが何よりも重要であるわけである。

生きることイコール息をすることである。

息をしなければ何事も始まらないのである。

喘息患者は、人間にとって最重要な、その息ができなくなってしまうのである。


手当が遅れると、重度の場合は気管支が閉塞して、息が止まって5分を過ぎると意識不明になって、そのまま手遅れになってお亡くなりになったり、助かっても脳に重大な問題が残ってしまう場合もあるのである。

人間にとっての根本的な苦しみは生老病死の四苦である。

まあ、順番に、生まれて老いて免疫力が衰えて病を得て、しまいには死ぬということであるわけである。

生と老はともかく、あたしの場合は病と最終章の死を両方とも便利に合わせ持っていたわけである。

その最終章の死んでしまうということ以上の苦しみ悩みはないわけであるが、幼児期から恒常的な重度の呼吸困難、さらには死と隣り合わせの生活を送ってきたあたしにとって、それ以外のことは全てが取るに足りない些末なことである。

だから、その四苦のうちの人間にとって最大の苦しみ悩みともいえる病と死の二苦が消えた現在は、苦しみも悩みも無いといっても過言ではないのである。

「なーんにも悩みが無いのよあたし」と言ってもいいぐらいのヘブン・パラダイス・エデンの園である。

こんなお気楽な人生でいいんだろうかと思うぐらいの毎日である。


まあ、あたしのような極端な変化でなくても、たとえば、スポーツなんかとてもできない虚弱体質の人が毎日10分の站椿功を正しい方法で1年間行うことにより、10%の体力増強ということがあれば、これはその人の人生にとっては激変である。

あるいは気弱で人と会うのが苦痛で外出もできなかった人が、正しい方法により、氣道が拡張して、肚が多少なりとも据わって、なんのこともなく外出できるようになったら、これは人生が大変革したということである。

この程度の効果は站椿功を実践したことがある方にはご経験のとおりであるので、今さら言い張ることでもないわけであるが、気功の効果というのは奇跡や魔法や幸運を引き寄せるてなホラ話ではなく、健康増進あるいは丹田養成により人生をよろしい方向に導くということである。

このように、象気功メソッドを継続して行えば、しょーもない人生から、ほんの少しはしょーもなくない人生に変わる可能性があるわけである。

まあ、可能性であって、おつむのちょーしが悪くて正しい方法が理解できずにその方法が間違っていれば、その可能性さえあるのかどーなのかあやしいところである。

しかし、そのおつむのちょーしが悪くて正しい方法が理解できない皆さんをも救うのが象気功である。

右から左から後ろから前から斜めからあちこちそちこちあそこもここも気持ちいいところを多方面から攻めてつついて叩いてかぶってじゃんけんポンで、その堅固に築かれたしょーもない親から受け継いだしょーもないDNA遺伝子のスイッチの城壁を瓦解させ、天国極楽への階段を登らさせてしまおうという口から出まかせのいいかげんなカリキュラムが象気功メソッドである。


さてさて、無駄話はこれぐらいにして、おいおい、無駄話が長過ぎねーか?、てなことで前回に立ち方における手の役割を解説したわけであるが、今回からは本格的に、站椿功の中核である、「手の使い方」を解説するわけである。

氣は手によりつくられるといっても過言ではないくらい気功法において手は重要である。

だから、たとえば気功法に熟練してくると、立たなくても手の使い方だけで氣道を氣で満杯にして圧力を掛けることができるようになるのである。

もちろん、氣だけを作っても、立てない歩けない動けないでは実生活が成り立たないので、足腰はもちろん、表層筋も含めた全身の筋力トレーニングは必要であるのは論じること自体がマヌケである。

まあ、そんなマヌケな話はともかく、氣を作るには手だけでも十分可能である。

その手から、ヒラメ筋、脊柱起立筋、大腰筋などの深層筋にテンションをかけることにより発生し充満した氣が放出されるのである。

テンションを掛けるといっても、不随意筋である深層筋は、意識が繁栄されない筋肉であるので、正しい立ち方が必要であるわけである。

さらに、深層筋をうまく働かせるには表層筋を緩めリラックスさせる必要があるのである。


意識による放鬆弛緩リラックスは表層筋を緩めるための方法である。

だから、「緩める」ことと「力を抜く」ことは根本的に違うのである。

まあ、いくら説明してもおつむのちょーしが悪くて読解力が皆無なぱーの皆さんには無駄であると思うが、まあ、とにかく、表層筋を限りなく緩めて、首の付け根を足の親指の付け根の前足部から中足部に乗せて立つと、全身の深層筋がつながり、ヒラメ筋、脊柱起立筋、大腰筋などの深層筋に無意識にテンションが掛かり、毛細血管の血流が増加して氣が発生するわけである。

つまり、表層筋を緩めて正しく立てば、自然に氣が発生して、身体中に充満するわけである。

しかし、これだけでは氣道に氣が満杯にはなるが、氣道拡張には至らないのである。

そこから、効率よく氣道を拡張するために、さらに氣道に圧力を掛けるには、「手の使い方」が必要になるのである。

気功法における一般的な站椿功のやり方の三円式の場合、手はだいたい胸の高さに構え、大木を抱く、あるいは玉を抱えるてな形・型になるわけである。

まあ、気功法としてはどちらも正解であるのであるが、象気功式站椿功では「玉を抱える」という型を切にご推奨申し上げるのである。

その玉も「大きな玉」である。

たとえばバランスボールを抱えるてなぐらい大きな玉を抱えるのである。

こんな解説をすると、おつむのちょーしの悪い諸氏はバランスボールを買いに行ったりするので、一言申し上げるが、バランスボールの大きさの架空の玉を持つ形をするということであって、実際にバランスボールを持つことではないのである。

まあ、この玉が氣でできていると思えば、より気功効果はよろしい方向に成就されるのである。

つまり、手のひらを斜め下方に向け、大きな氣の玉を胸と下腹部の間に抱えるということである。

続く。

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