象気功

丹田の造り方
氣の重さ3・波動編


「気とは何か?」の章では、「簡単に言えば気は物が細い管を通るときの波動である」と解説したわけである。

「簡単に言えば」と但し書きがあるとおり、「簡単ではない」事情があるわけである。

その簡単でない理由をあーでもないこーでもないそーでもないがあーであるこーであるそーであるとこれでもかと解説するわけである。


まあ、ここで問題なのは気功やヨーガ、呼吸法などの経験がなく、象気功を知識としてお読みになっているお勉強マニアの皆さんであるのである。

まあ、気功を多少かじれば、「気は波動である」とゆーことが実感できるでしょうし、まあ、気功マニアの場合、このことはあまりにも当たり前でつまらないのでほとんど話題にもならないのであるが、これが「気がわからない」「実感できない」となると、なーかなか文章では心意も本位も伝わらないのである。


まあ、これ、問題の根本は、「気」と「思念」「意思」「想念」「気持ち」などを混同していることにあるのである。

「気」と意思、思念、想念は別物であるのである。

「気」はそれらの「意識」によって、コントロールされる「もの」であるのである。


まあ、「気」を気ではなく「氣」と書くとわかりやすいかもしれないのである。

ううむ、これだな、今後は「氣」と表示することにしよう。

この章のタイトルも直しておこう。

物理学で全ての物質がクォークでできているとされているのと同じように、この世、宇宙の全ては氣、あるいはプラーナでできているとゆーご高説もあるのであるが、象気功と冠しているとおり、ここでは、もちろん気功や太極拳、仙道術、ヨーガ、呼吸法、神道などのカリキュラムをこなしていく上で実感、体感する「氣」についての解説である。


それで「氣」は「気持ち」の気とはちがい、まあ、言ってみれば語弊はあるが、物理的に生み出された振動、波動である。

まあ、細かくいうと「気持ち」も脳の振動によって生み出されたものであるが、いずれにしてもニュートリノ振動からクォークまで、全ての物質が振動しているのであるから、そこまで言及しているとキリがないので、この際それは置いといて、この「氣」が波動であるということは、気功、太極拳、ヨーガ、呼吸法などのカリキュラムをこなして、「氣」がわかるようになると、だれでも「ああ、なるほど」とわかるのである。


まあ、「波動」とゆーのは「波の動くこと、また、波のように次第に伝わっていく振動」であり「媒質の一点に生じた物理的な状態の変化が、媒質中を次々に伝わっていく現象で水の波、音波、地震波などの弾性波、光やX線などの電磁波のほか、電子や陽子などのもつ物質波があり、回折や干渉など共通な現象を呈する」てなことである。

つまり、まあ、以前にも何かで解説したのであるが、「氣」はいうなれば電波、赤外線、可視光線、紫外線、X線、ガンマ線などの、「電磁波」の「類(たぐい)」の振動、波動であるわけである。


ですから、氣に凝りすぎて、気功やヨーガや呼吸法や神道、修験道、各種宗教なんかに驀進して、氣に敏感になりすぎると、同時に電磁波過敏症にもなるわけである。

しかし、あくまでも「氣」は「電磁波」の「類(たぐい)」であって、「電磁波」ではないのである。

さてこの、「氣」という波動、振動はいかにして生み出されるのか?とゆーのがこの回の本題である。


まあ、たとえば経絡は人間の身体に厳然と存在して、鍼灸師や気功治療師はそれにそって鍼を打ったり気を送ったりするとその部位、患部がちゃんと反応するわけである。

しかし、その経絡は人間の身体を解剖しても視認、確認はできないのである。


現在の科学では存在を確認することができないわけである。

象気功では氣道(氣の道)と称して氣の通る仕組みを解説しているわけであるが、これも、人間の身体を解剖しても確認できるものではないのである。

しかし、氣がわかるようになると、氣が氣道を通って動くのがわかるのである。


ときには信じられない量の氣が爆発的な勢いで氣道を押し開いたりして、うっかりしてると血管や神経に損傷を与えたりすることもあるのである。

これはあたしも含めて脳の血管に損傷が出て、あたしの周りでも何人か入院したりしてる人がいるぐらいであるから、そうとうな現象であるわけである。


しかし、これをまともに研究するなんて科学者はいないから、いまだに氣も経絡も氣道もどーでもいいことの範疇を出ずに、霊能、占いの仲間に入れられてぱーのみなさんの趣味あるいは詐欺師の金儲けに利用されているわけである。

まあ、そんなことはいいとして、とにかく、氣道自体が科学的に確認できないものであるわけですが、これは実感、体感としてあるわけである。


その氣道は人間の血管、神経、リンパなど身体のあらゆる部位に網の目のように張り巡らされているのである。

これは、気功などで氣を巡らせることができるようになると、実感、体感できるわけであるが、氣がわからないとなーかなか理解できないわけである。


この、科学的に実証、視認、確認できない気道は、たとえば毛細血管にもくまなく張り巡らされているわけであるが、これは血管の周囲をとりまくとか、それに付随しているということではなく、いわば毛細血管そのものであるということの方が近いのである。

神経組織にも同様に氣道が神経組織そのものとして存在しているわけである。

しかし、それは細胞でもなく物質としても確認、視認できないので、氣と同様に科学的、医学的には存在しないものであるわけである。

続く。


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