実践編・腹圧2「大音声2」 鼠は自分が鼠であることに気付かないのである。 猫も自分が猫であることに気付かないのである。 犬も自分が犬であることに気付かないのである。 人間に一番近いとされる猿でさえも自分が猿であることに気付かないのである。 人間だけが自分が何者であるか気付くことができるのである。 しかし、これが人間のすべての苦しみ、不幸の基(もとい)であるのである。 何者であるか気付いたものはそのことに愕然とするのである。 自分が何者でどこから来てどこに存在してどこに行くのか気付いたものは、その身動きの取れない自分に絶望するのである。 自分が何者であるか気付かないものは幸せである。 逆にいうと自分が何者であるか気付いてはいけないのである。 鼠は自分が鼠であることに気付かないから苦しみはないのである。 猫は自分が猫であることに気付かないから苦しみはないのである。 犬は自分が犬であることに気付かないから苦しみはないのである。 猿は自分が猿であることに気付かないから苦しみはないのである。 釈迦もキリストも自分が何者であるか気付いたのである。 だから苦しんだのである。 人間総ての苦しみを背負ったのではないのである。 煩悩に悩んだのではないのである。 自分が何者であるか気付いたのである。 あなたも自分が何者であるか気付くことができるのである。 それはあなたが鼠でもなく猫でもなく犬でもなく猿でもなく、人間だからである。 しかし、あなたがそのことに気付いた瞬間から絶望的な苦しみが始まるのである。 それは死の瞬間まで絶え間なく続くのである。 釈迦もキリストも自分が何者であるか気付いた瞬間から死の瞬間まで絶え間なく絶望的に苦しんだのである。 気付かないものは幸いであるのである。 なんのことかわからんが象の大神様のお告げお授けのお筆先は豪華絢爛満開である。 まあ、象気功を「ぞうきこう」と皆さん思い込んで読んでおられると思いますが、実はこれ「象形流気功法(しょうけいりゅうきこうほう)」の略で本来は「しょうきこう」である。 だから、まあ、だいぶ前に読者に付けられたニックネームで「象師匠」なんて自分でも名乗っているが、これも「ぞうししょう」ではなく「しょうししょう」と読むのが正しいわけである。 まるで「しんしゅんしゃんそんしょう」のように言いにくいのであるが「しょうししょう」である。 おもしろおかしく象の大神様(ぞうのおほかみさま)のお授けだなんて連呼しているわけであるが、このことから、正しくは「しょうのおほかみさま」ということになるのである。 つーことで、気功上の「象形」とは動物の形態、動きを取り入れるということである。 象気功ではなぜ「形」を略して「象」だけが残ったのかというと、「動物の形態・動き」は取り入れないからである。 「動物」そのものを取り入れるのである 動物のようになる、動物のように生きる、ということである。 本章冒頭のお告げにもあるように、人間以外の鼠も猫も犬も猿もそのほかの細菌、微生物、小動物、大動物、魚類、鳥類、総ての生命体は自分が何者であるか気付くことはないのである。 分かりやすく言うと、生きることに「目的を持たない」のである。 鼠は鼠で一生を終え、猫は猫で一生を終え、犬は犬で一生を終え、猿は猿で一生を終えるのである。 そのことになんら疑問も差し挟まず、悩むことも苦しむこともないのである。 与えられた身体で、与えられた脳で、与えられた運命で一生を終えるのである。 しかし、人間は大脳新皮質、前頭葉の発達で「自分がなにものであるか」を気付くことができるようになってしまったのである。 そのことから、体重の2%足らずの脳に、身体の15%から20%以上の膨大な血液が集まり、全体の25%もの酸素を常に消費して、それが、悩み、苦しみなどの脳に氣が上がった状態ではそれ以上の血液が集まり、身体の氣の大半が体重の2%足らずの脳に集まってしまうという状況になるのである。 だから、ショック状態のときは脳にほとんどの氣が集まり、氣は血を運び身体の氣道が空になり血流も低下して、顔さえ血が引き真っ青になり、立っていられないというようなことも起きるのである。 平常時でも氣はとんでもない量が脳に集まっているのである。 このことから、酷い悩み、苦しみなどが継続すると身体の氣が空になり、身体の血流が低下して、酸素が行き渡らなくなり、体力減退、不調、疾病、しいては運気の低下を引き起こすのである。 「悩み、苦しむ」ことを止めて「動物のように」生きるのである。 この「悩む、苦しむ」つまり「こだわる」ということからあなたの念障、返り念障は始まり、脳にさらに氣が集まり、身体の氣が空になり、血流の低下、酸素不足を引き起こし、体調不良、能力低下、運気低下、不運の堂々巡りにはまり込むことになるのである。 「こだわらない」「目的を持たない」ということが理解できると、脳から膨大な氣が身体に降りて来て、血流、酸素が各臓器、筋肉に行き渡り、身体は活き活きとして、身体の一部である脳も生き生きとして、身体も脳も本来の能力を取り戻し、運気は上昇するのである。 「自分が今のままで良い」と言うことを理解することである。 現在の存在のままで「良い」のである。 「総ての目的」を捨て去り、現在の状況、状態を「良」とするのである。 まあ、だから、運気の総ては相矛盾、相反しているわけである。 運気を上昇させようと悩み、苦しむと運気が下がり、運気なんか「どーでもいい」と考えると運気はその瞬間から上昇するわけである。 たとえば癌を治そうと激しく悩み苦しむと病状は進行し、「どーでもいい」と考えた瞬間から、病状は悩み苦しんでいる状態よりも快方に向かうのである。 「治そう」と思うと悪くなり、「どーでもいい」と思うと快方に向かうのである。 勘違いしてはいけません、悩み、苦しんでいる状態よりは快方に向かうのであって、それでその病気が治るかどうかということではないのである。 DNAに書き込まれた寿命の範囲内のことである。 しかし、まあ、寿命の範囲内と言っても、例えば癌体質の人間が最強の発癌物質のひとつであるタバコを大量に吸えば当然喉頭がん、肺がんのリスクは高まり、その寿命は縮むだろうし、ぜんぜん吸わない場合はその寿命は最大限に全うされるわけである。 ううう、話が逸れた。 こんなことは「どーでもいい」のである。 まあ、ともかく、悩み苦しみこだわって氣を常時に渡り大量に脳に集め、身体の血流を低下させ、酸素不足を常態化させ、免疫力を低下させていれば、運気以前に健康状態を低下させ、必然的に寿命も縮めるわけである。 まあ、これまでにも何度も解説しているが、象気功のテーマは「こだわらない」ということである。 「どーでもいい」とゆーことである。 「今のままで良い」ということである。 総てがどーでも良くて、今のままで良いわけであるから、求めるものは何もないわけである。 このことが多少でも実感として捕らえられ、想念として実践できると、膨大な氣が脳から身体に下りてきて、氣が身体から溢れてくるのがわかるのである。 そのことが身体全身の氣道を開き、毛細血管を育て、血液の循環を促し、身体のすみずみまで酸素、栄養素を送り、休眠中の細胞を起こし、使われていない脳細胞も起こし、脳も含めた身体全体を活性化させ、自分の持っている能力を最大限に発揮するということなのである。 目的を捨て、身体をすみずみまで緩めることが全身の氣道を開き人間を本来の身体に戻す方法であるわけである。 そうはいっても、これまであらゆることにこだわり、おつむに氣を集めることに大精進されて、体中の氣道を硬く硬く閉じることだけに生きがいを感じてきた極小丹田極貧赤貧びんぼー人の皆さんには、これ、いったいどーやったら、できるのか、皆目見当がつくはずもないのである。 しかし、観念、意識、思考でそれをなすことは不可能でも、身体を変えれば氣は降りてくるのである。 それが「丹田を造る」ということの効果であるわけである。 「丹田を造る」ことによって、総ての目的を捨て去り、身体をすみずみまで緩めることと同様の効果を得ることが可能であるわけである。 ううむ、まあ、とにかくものを考えないで、大音声である。 バカの大声である。 山羊のように弱々しく鳴くのではなく、ライオンのようにジャングルに響き渡るように咆哮するのである。 何も考えず、あらん限りの大音声で、絶え間なく喚き散らし絶叫し咆哮するのである。 日々、絶え間なく腹圧をかけるのである。 それが肚を造る法である。 四股を踏み腹圧をかけ、凍る冷水をかぶり腹圧をかけ、大音声を発し絶叫して腹圧をかけ、閉じた丹田をこじ開け、氣道を開き、脳に集まった氣を降ろすのである。 肚、丹田を造ることにより、「目的を捨て去る」ことと同様の効果を得る法であるのである。 あとはなるべくしてなり、ならないべくしてならないのである。 続く。 |
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