象気功

丹田の造り方



実践編・腹圧


先日メールで「水垢離で死にそうになるためには、水を被る回数はどのくらいか?水に浸かる時間は何時間ぐらいがいいか?」というご質問があったのであるが、これ、勘違いであるのである。

何回も言うが、水垢離は身体を冷やして「死にそうになるまで我慢すること」が目的ではないのである。

まして、本当に死にそうになるほど、「身体を冷やす」ことが目的ではないのである。


精神と感覚に激烈な刺激を瞬間的に与えて、「死んでしまう」あるいは「身体」が「必死になる」という状況を作り出すということの表現である。

ううむ、これでも解り難いかね。

まあ、とにかく、それも、本当に身体に冷えによるダメージを与えたり、あるいは、皮膚や神経組織に損傷を与えるような冷たさ寒さの状況や時間的継続を作り出すのではなく、実際には身体にはなんのダメージもなく、身体に臨死の疑似体験させるということがその要素なのである。


長時間、冷水に浸かって身体を冷やし過ぎたり、凍傷を負ったり、どこかに不具合、不都合、あるいは体調不良が出るようなやり方は、間違いであるのは当たり前である。

水垢離のあと、しばらくすると身体が温まり、むしろ爽快感が残るのが正解である。


根性で我慢して何杯も長時間にわたり冷水をかぶったり、我慢大会のように冷水に長時間浸かっていても、身体を壊すだけである。

根性で我慢することではないのである。

これも、以前に解説したことであるが、身体は本来、暖めなくてはならないのである。


水垢離は瞬間的に身体を冷やして身体中の氣道を収縮させて、その氣を丹田の氣道に集中させて丹田を開く方法であるのであるが、これは、丹田以外の氣道を「一瞬」収縮させるのであって、その丹田以外の身体中の氣道を長時間に渡って閉じることが目的ではないのである。

あくまで丹田を開く、造ることが目的であり、その方法、時間は一瞬なのである。


それを日々継続することによって丹田を開く方法であるのである。

身体が冷えるまでそれを続行しては、意味がないのである。

丹田を開くことの目的は、丹田を開けば、氣道のバランスが変わり、身体上部あるいは頭部に上がっていた氣が丹田を中心に身体下部に下り、また、氣が発生し、その氣が全身の氣道を開き、氣が全身に充満し、その人の氣の重さが増加するということにあるわけである。


何度も言いますが寒さ冷たさを死に瀕する限界まで我慢して根性をつけることとは「違う」のである。

だいたいそんなことをしても根性なんかつかないのである。

ほんとに死にそうになったら、PTSD(心的外傷後ストレス障害)が残ったりして、逆にますます人生が困難になって、まさに本末転倒になるのである。


身体が冷えるまでやると、身体中の氣道、毛細血管は閉じて、血行、血流は低下して、氣を生み出さないということになり、これも本末転倒になるのである。

わかりやすくいうと外側を一瞬冷やして氣を中側、つまり丹田に凝縮するというイメージである。

それを日々継続することにより、丹田を開く、造るという方法である。


しかし、以前にも解説したように、それが真夏の海水浴で、炎天下で身体を日に焼き、その後26℃の海水に入って、「うひゃー、気持ちいい!」では意味がないのである。

疑似体験として精神にも激烈に「死んでしまう」というぐらいの刺激があるぐらいの冷たさ、寒さを実感として与えないと、つまり、身体が「必死で」丹田以外の氣道を収縮させるぐらいの状況を作り出さないと、「氣の丹田への凝縮」は起きないのである。


しかし、それは、身体を冷やすことで障害が起きる寸前まで根性で我慢して行うことが目的ではなく、身体にその激烈な寒さ、冷感により「うううう、死んでしまう」と「思わせる」ような、擬似臨死体験をさせるような状況を作り出すことが目的であるのである。

これは「死んでしまうほど」の寒さ、冷たさではなく、「死んでしまう」と身体に「思わせる」ような、刺激を与えることであるのである。


ううむ、この「死んでしまう」が読者が5000人いれば5000の解釈があるから、この表現に語弊があるとは思うのである。

繰り返すが、身体にはなんのダメージも残らず、むしろ行をしたあとに爽快感が残るのが正しい水垢離の方法である。

ううむ、これだけ言っても理解できない人はできないと思うが、まあ、とにかく、無理はいけませんつーことである


ああ、そうだ、たとえば、「身体を温めることがいい」と言っても、熱湯風呂に長時間入ったり、火傷をするほど熱い火にあたってホントに火傷をするのはナンセンスであるのはどなたもご理解いただけると思うのであるが、その逆もナンセンスであるのをご理解いただきたい。

どんな理由があっても身体を痛めてよろしいことは何もないのである。

水垢離も行後に爽快感が残る範囲内である。


前回の「継続」の章で解説したように、それを「継続する」ことに意味があるのである。

つーことでわかった方もわからなかった方もとにかく「腹圧」である。

腹圧とゆーのは、つまり、腹の圧である。

腹に圧力をかけるわけである。


腹といっても、当然、上腹部ではなく、下腹部の丹田の周囲である。

これは、単純にはだいぶ前に歯医者のネタでご紹介した、痛みを我慢するときは下腹に力を入れるといくらか楽になる、あるいは、痛みをこらえるときは自然に下腹に力が入る、てなことで、腹に力を入れる、あるいは、自然に力が入る状況を利用して丹田を造る法である。


まあ、つまり、臍から下の下腹に、ぐぐっと力を入れるのである。

しかし、実際にはぐぐっと意識して力が入るのは主に表層筋、つまり速筋なのである。

丹田はその奥の小腸や神経そう、大腰筋を含めた腸腰筋などの遅筋である深層筋などである氣道であるわけである。


これらの小腸や神経そうや深層筋である氣道を意識で働かせるのは非常に困難である。

つまり丹田は「意識で力を入れることができない部位」であるわけである。

それではこの「力を入れることができない丹田」に、語弊はあるが、「力を入れる」にはどーすりゃいいのかさーってことをどんどんこれでもかと解説するわけである。


まあ、これ、武道なんかでもいうように、単純に下腹に力を入れることでもそれなりに効果はあるのである。

つまり、下腹に力を入れると、丹田には力が入らんが、丹田の周囲の随意筋である速筋を含む表層筋に力が入り、気道そのものの存在である毛細血管が圧迫され、その氣が丹田に凝縮するということが起きるからである。


単純に下腹にぐぐいと力を入れるとそれなりに丹田に氣が凝縮してそこを開くということになるのである。

しかし、丹田である、小腸や腹部の各神経そうや腸腰筋などは意識では感覚として捕らえることさえできないから、そこに氣が凝縮しているかどーかは、わからないわけである。


ですから、「下っ腹に力を入れろ!」なんて気合を入れるセンセイ方も、なんで「下っ腹に力を入れる」のかはぜんぜんわからんし、説明もできないわけである。

これが、「氣がわかる」と、一気にその謎が解けるのである。

何をするとどこの氣道が開くか閉じるかわかるからである。

象気功はそのためのメソッドであるわけである。


真言、マントラでどこの氣道が開くかわかるし、クンダリニー・ヨーガや呼吸法で何がどーなるのかわかりますし、小周天、大周天でどこがどーなりどーゆー効果があるのかわかるし、タントウコウ、スワイショウ、八段錦、太極拳で身体に何がおきるのかもわかるのである。

その辺のトンチキな教祖、グル、導師、センセイがご商売上とはいえ大仰にのたまい喧伝するような神懸りなことはどーやってもこーやっても起きないということもわかるのである。


つまり、わからないものがわかるようになるのである。

たとえば霊がなんであるかわからないのでそれが見えたり感じたりすると祟られるだの獲りつかれるだの呪い殺されるだのと驚愕したり恐怖でショックを受けたりするのであるが、氣がわかるとそれがなんであるかわかるので、べつに「ああ、そうか」てな反応になるわけである。


しかし、氣がわからないと何がなんだか氣の世界は妄想あるいは恐怖心だらけになって、氣の関係詐欺師の独壇場になるのである。

それはともかく、まあ、とにかく下腹に力をいれれば氣が下がり、それを日々継続すれば、それなりに丹田ができてくるのである。


これは大変、お気楽、てきとーな方法であるから、こんなことで丹田ができるのかと疑問も出てくるのは当然であるが、いつも言うように象気功は何はなくとも、まずは実践であるから、試してみればすぐわかるわけである。

誰でも下腹にぐぐっと力を入れれば、それなりに精神状態が変わるのである。

水垢離、四股と同様に、それを継続すればぜんぜん丹田の無いしょぼい人も、小さいながら丹田ができて、氣道のバランスが変わり、おどおどびくびくびびりおろおろが、びくびくぴくぴくぐらいになるのである。


しかし、これでいきなり大丹田おおいばり人生になるわけじゃないから、その現在の状態でしか認識できない精神状態の変化は本人には期待したような実感はできない場合もあるが、この「下腹に力を入れる」を日々実践してみて、よーく自分を観察してそれまでの自分と比較してみると、それなりに変化していることがわかるのである。

気が小さく上がり症で他人数を前に挨拶、話すなんてことはとてもできなかった人が、上がりながらもそれなりに話すことができるようになるのである。


それを継続すれば、1年後3年後6年後にはかなりの変化となって実感できるのである。

それでも勘違いしちゃあいけません、まあ、わかりやすく言うと、たとえばRPGゲームで言えばレベル1のへろへろの極弱の人が大修行を敢行したからといって、大丹田のレベル1000になるわけじゃあないのである。


人生はゲームや漫画のようにはいかないのである。

DNAには適わないのである。

しかし、レベル1のおどおどびくびくへろへろの丹田ががちがちに閉じて人生がにっちもさっちも行かない人もレベル2になり3になり4になり5になり、継続しだいでは10になることはあるのである。


レベル1の人がレベル10になったら10倍の威力であるので、精神状態は吹けば飛ぶような状態から比べるとたいへんしっかりした状態になるわけである。

しかし、それはレベル1の人が10になったのであって、期待しているようなレベル1000の大丹田大いばり人生になるかどうかはなんとも申し上げられないのは、ご理解いただけることと思うのであるが、ううむ、まあ、いいか。

続く。


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