象気功

丹田の造り方
実践編・水垢離3


まあ、しかし、そうね、だいぶ前であるが、フィリピンの大学教授の奥さんをやってる友達のお宅にしばらく居候したことがあって、そのときは3人の小学生の子供とフィリピン人の2人の女中さんとその大学の主席の学生のいわゆる書生の居候がいて、ダンナはもちろん大学の先生なので毎日いないし、奥さんをやってる友人は日本人相手の観光案内なんかやってて、二人とも毎日留守で、それで、たしかそのとき夏休みだかなんかで子供は毎日家にいて、あたしゃやることもないから、毎日子守り状態で、その子供と女中さんと大学生と、毎日、英語とタガログ語ちゃんぽんで、ときどき遊びに来た先生の数人の生徒と庭のテーブルで皆でお茶を飲んだりと、別に言葉つまり英語で不自由を感じることも無く暮らしていたのであるが、数年後、その友達と子供が里帰りで日本に来たときに成田空港まで車で迎えに行ったら、会うなり子供が当たり前にあたしに、ご滞在中の当時と同様に英語で話しかけてきたのであるが、これがほとんど失語症状態で受け答えがまるっきりできなくて、あたしが英語を普通に話せると思っていた子供はびっくりであるが、それよりも何よりも、あたしゃ自分で自分の脳味噌にびっくりしたのである。


その後、日本語のぜんぜんできないニュージーランド人の英語教師のおねーさんとお友達になって、朝から晩までいっしょにいて、そのときもなんの不自由もなく英語で話していたのに、現在は「久しぶりですね」もいきなりでは出てこないてーたらくて、あたしの頭はいったいどーなってるんだろうかと心配になるきょうこのごろであるのである。

まあ、言葉とゆーものは用が無くてまるっきり使わないとすぐ忘れるものらしい。


つまり、大方の日本人が英語をしゃべれないのは「必要」がないからであるのである。

必要があればあたしみたいなぐーたらで、特別に英会話を勉強する気もない能なしの大バカでも何の不自由もなくしゃべるのである。

文章もそうである。


先日、外国に私用で印鑑を小包で送るので、郵便局のEMSとかゆー、まあ、内容証明付き郵便を頼みに行ったら、なんだか、送り状の他にもインボイスてなわけのわからない書類を書かされて、なにしろ最近はほとんどのことを事務のおねーちゃんまかせなので、自分では名前を書くことさえあまりない上に、まして日常生活では英語で文章を書くことなんか皆無であるので、アルファベットの書き方も忘れていることを発見して、こんな簡単なこともできないことに愕然として、最初は印鑑を英語でなんて書くのか、それよりも宛名さえも英語でどー書くのか皆目わからない始末で、大汗かいて四苦八苦で、まあ、とにかくでたらめな宛先と品名を書いて、それでもどーゆーわけか先方にはちゃんと届いて、世界の郵便事情はなーかなかやるな、と感心したのであるが、その数日後、他の用事で再度、EMSを頼みに行ったときは、不思議なことに今度は内容がよーくわかって、宛名の書き方もよーくわかって、アルファベットもどんどん綴れて、送る品物の品名も携帯の辞書を使って今度は正確なことを書いてなんの不自由も困難もなく出すことができたのである。


あったりまえだが、このように人間は必要があるとその部位が活性化して能力を発揮し、必要がないとその部分が活性度を失って、能無しになるわけである。

だから、何か能力を得たいと思ったら、その部位を使えばいいわけである。

どんどん使えばいいのである。


まあ、しかし、それにも、元々の才能てなもんもあるので、それで、どんどんその部位を使ったからといって、天才的な能力を発揮するかどうかは、DNAとゆー神様の思し召しがあるので、人生が思うように行かなくておもしろいのである。

ううむ、ものすごくどーでもいい話だ。

この暮の忙しいときに、こんなもん書いてていいんだろーか。


まあ、なんだね、香港だかどこだかの大金持ちが意味もないインターネットのサイトを延々更新してるのは、「脳力開発のためだ」とおっしゃってたので、このお笑いサイトを延々更新するのは、その意味ではあたしの能力開発と思うと、あたしにとっては、まるっきり無駄ってわけでもないわけであるが、まあ、これに付き合わされる読者の皆さんには、いい迷惑なのか、お楽しみなのか、まあ、その人の脳の状況によって、あーでもないこーでもないといーろいろ楽しめる象気功であるわけである。


ううむ、ますます、何を言いたいのかわからん。

まあ、とにかく、水垢離の身体に与える影響の解説である。

まあ、水垢離をどなたも勘違いしてらっしゃるのは、「冷水を浴びて、身体を冷やして、我慢して、根性をつける」てな誤謬があることである。

これ、水垢離は「身体を冷やす」ことが目的ではないのである。


有名な、なんとか式健康法のとんちきなおじさんが、「わしゃ雪山に裸で登るぞ、どうだ、すごいだろう」なーんて自慢して、身体を冷やしすぎて具合が悪くなって寝込んだりしてるが、そんなアホなことをしてはいけないのである。

我慢して身体を冷やしてもなーんにもいいことはないのである。

基本的に身体は冷やしてはいけないのである。

熱中症やおびょーきやケガなどの特別な状況の場合を除いて、身体はすべからく暖めなくてはいけないのである。


身体を冷やすと、当然、血行が悪くなるから、細胞の再生もメンテナンスも不完全になり、免疫力も低下するし、まあ、それよりも何よりも体温が必要以上に下がれば、もちろん、まず手足の凍傷、壊死から始まって、しまいには凍死するから、誰が考えてもアホ丸出しであるが、これ、勘違いした修験者や健康法のセンセイがこれ見よがしにおやりになって、それを勘違いした信者、生徒がそれをおやりになって具合が悪くなって倒れこんだりして、「信心が足りない」「根性がない」なーんて罵倒されてるわけであるが、なんども言うが、「身体を冷やすこと」にはなんのメリットもないのである。


身体は冷やしてはいけないのである。

身体は温めなくてはいけないのである。


それでは、身体を冷やしてはいけないのに、なんで「水垢離」なのか?とゆーことになるわけである。

これは、冷水を浴びることにより、身体に一瞬の冷感による苛烈な刺激を与えて、あるいはそれに備える精神状態による、身体の防御本能を促すことが目的であるのである。

また、医学的には自律神経を正常に保つ、あるいは正常に復帰させるという効果もあるわけである。


冷水による刺激があると、当然、皮膚の汗腺は閉じて、また、身体の皮膚や抹消の毛細血管も閉じるわけである。

つまり、身体の頭部も含めた、手足、表面の氣道が閉じるわけである。

そうなると、その氣道に存在した氣はどうなるかとゆーことが、その問題を解く鍵になるわけである。


この、手足、および身体の表面、抹消に存在した氣は、その氣道が締まることにより、身体の中心部へと絞り込まれることになるわけである。

ううむ、わかるかねこれ。

メールや掲示板の書き込みを見ると、なーかなか、文章で心意は伝わらないのがわかるわけであるが、まあとにかくそーゆーことである。


それで、絞り込まれる中心部というと、それは言うまでもなく、生命の原点の小腸の周囲の氣道、つまり丹田である。

つまり、生命力の源である、氣を発生させる場所の氣道に他の部位の氣道の氣を絞り込んで、そこに集め、生命の危機に対応しようとするわけである。

もちろん、筋肉は収縮して、緊張し、発熱しようとするわけであるが、氣道に関しても、腹圧を高め、丹田に氣を集め、氣を発生させ、体温を保とうとする働き、機能を導き出そうとするわけである。


「身体を冷やして、それを限界まで我慢して、根性をつける」ということではないのである。

身体を冷やしても、いいことは何もないし、冷やしすぎると、体調を崩したり、うっかりすると死んじゃうのである。

このことを理解した上で、水垢離をすることが「身体を変え」「丹田を造る」ことにつながるわけである。


つまり、水垢離にしても、禊(みそぎ)、滝行にしても、事前に充分、準備運動などをして身体を温め、心臓などの部位にあらかじめ水をかけたりして、精神的な準備を整え、それから、一気に冷水を被る、冷水に浸かる、滝に入るという順序を踏み、それらを行するわけであるが、しかし、それらの行を身体が冷えるまで続行してはいけないのである。

何度も言いますが、必要以上に身体を冷やしても、害はあれ、いいことは何もないのである。

「水垢離」は氣道を絞込み、腹圧を高め、「丹田を造る」ことが目的あるのである。

続く。

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