「私の左足の親指の付け根あたりにはウオノメが」あるのは、ご祖父の集められた神仏の像とはなにも関係ありませんし、「胸腺のあたりの氣道」が開いているかどうかは別にして、そのお悩みも、その神仏像とはなんの関係もありません。
単なるあなたの体質であり、あるいは単なる思い込みであります。
まあ、象気功をよーくお読みになるとお解りになると思いますが、あなたが生きている現世、この世は、あなたの脳の無意識下の想念による幻想であるわけです。
神仏も元来、その幻想を楽しむために、人間がおもしろおかしくでっちあげたものであるわけです。
どの神仏もあなたが存在すると思えば存在しますし、あたしみたいな神も仏もない者には、なにも存在しないわけです。
つまり、そのへんの石ころでも、それに神が宿っていると思えば、ありがたいご神体になるわけですが、たとえばあたしみたいな不心得者にとっては、どんなご利益のある神社の神の宿るご神体の石も、そのへんの道端の石ころと同じ扱になるわけです。
象気功で何度も解説しておりますが、神、宇宙はあなたであり、神の組成はあなたの組成と同じであるのであります。
あなたが神であり、宇宙そのものであるのであります。
仏像にも神像にも神は宿っておりませんが、あなた自身は神の乗り物であり、神、宇宙と一体であるのであります。
神はあなたであり、あなたは神であるのであります。
ですから、まあ、仏像も神像も石像でも木像でも銅像でも、それらは石であり、木であり、銅ありますから、そんなものに神は宿らないのであります。
つまり、そんな物はどーでもいいわけであります。
でも、ご祖父がいっしょうけんめい集められたものでありますから、こけしの収集や陶磁器の収集と同様と思えば、むやみに「おん出してやろう」なんて思わずに、そのまま、大事にして、ご祖父の思い出としたらよろしいと思いますね。
その他者を「大事にする」「思いやる」という心持ちが「返り念障」を緩和する法でもあるのであります。
ありもしない仏神像などの障りを怖れて、自分を「大事」にして、他者であるご祖父の集められたものを忌む(きらい、さける)のは、その逆の法であります。