象気功

象気功

気功天意
念力


念力によるチャクラの開発覚醒

パドマ・プラーナーヤーマと氣の玉



あの玉この玉あそこの玉と、玉にもいろいろあるが、氣の玉である。

さてさて、氣の玉とはいったいなんでありましょうや。

ありましょうやって、しかし、

ううむ、ありましょうやに食いついてると先に進まないので、お名残惜しい気持ちをさらりと流してスルーしてどんどん行くのである。


氣道の氣の量あるいは圧力を一定に保つために、常に氣道からは、氣が溢れ、吹き出しているのである。

氣は生命活動を営んでいれば、どんどん発生するので、氣道が密封状態では入りきらなくなって破裂してしまうのである。

まあ、これは、氣道を氣の道というよりは、氣道を含めた人体を氣の玉と考えると分かりやすいのである。

もちろん、氣の玉であって氣ん玉ではないのである。

さらにはきゃんたまではないし、きゃんたまぶくろとは無関係である。


やめろやめろやめろおおおおおおおっ

話が袋小路には入ってるぞ。

てなことで袋小路を抜けて、たとえば、太陽が内部の核融合のエネルギーとしての波動である熱と光を常に発しているように、氣の玉からはエネルギーとしての波動である氣を吹き出し発しているのである。

それがいわゆる氣であり、プラーナであり、エナジーであり、パワーであり、オーラであり、その人間の「存在感」となるわけである。

人間の脳にはそれを感じる機能があり、その「存在感」で相手を値踏みし、対応を決めているのである。

それはとりもなおさず丹田の大きさということでもあるのである。


丹田には膨大な毛細血管を擁する小腸を始めとして、エネルギーの根源である生殖器やそれに関連した神経叢などに連動した組成である氣道が集中しているからである。

まあ、もちろん丹田も氣の玉の一部であるので、全身の毛細血管としての氣道の拡張が重要であるのはいうまでもないことである。

人体はいわば毛細血管の塊であるが、同時にそれは氣道の塊であるとも言えるのである。

それで、話を戻して、全身の氣道全体を氣の玉と考えると、氣道が太くなるということは氣の玉が大きくなるということである。


だから、パドマ・プラーナーヤーマで氣道を拡張するということは、氣の玉としての風船に空気を入れて膨らませるということである。

ざっくりといえば、その氣の玉としての風船が、直径1cmのものと、直径1mのものでは、発する氣の量がものすごく違うということが、そうとうおつむのちょーしが悪い向きにも軽やかにご理解いただけることと思うのである。

気功法などのメソッドはその風船としての氣の玉に、空気としての氣を吹き込んで、それを大きくする作業であるわけである。


しかし、この風船のゴムの厚さが尋常でない厚さである。

たとえば、大型トラックの巨大なタイヤに、人間が口で空気を入れる作業である。

もうこれ、硬くて膨らんだもんじゃないのである。

だから、太極拳や気功の達人大家老師大師いわく、「氣の修練は、薄紙を一枚一枚重ねていくようなものである」つーことをおっしゃるわけである。


まあ、氣の玉が小さい場合は、すぐ限界が来るのであるが、その限界を超えてむりやり膨らまそうとすると、氣の玉が壊れてわやくちゃになるのである。

つまり、無理やりなことをしても、今日明日にどーにかなるてなもんではないのである。

これがいわゆる、やり過ぎによる偏差であるとか、修行ができていないうちにクンダリニーが覚醒してえらいことになった、てな現象であるわけである。


乱暴に言えば、たとえば直径が1㎝で1ミリリットルの容量の氣の玉の持ち主が、いきなりクンダリニーが覚醒して1000倍の1リットルの氣を発生させたら、氣の玉は持ちこたえられなくて、壊れたり、どこかに穴が空いたりしてしまうということである。

しかし、これが、10リットルの大容量の氣の玉の持ち主であれば、1リットルの氣が増えても、その圧力はなんとか吸収できる範囲内であるわけである。

まあ、クンダリニー覚醒の氣の圧力を吸収できるぐらいの大容量であれば、クンダリニー・ヨーガ自体が不要であるから、ナンセンスであるっちゃあるのである。


余談はともかく、大小にかかわらず、その氣の玉の圧力を一定に保つために、氣の玉である人体は常に全身から氣を吹き出し発しているわけである。

しかし、その吹き出し発する氣の量は、氣の玉の大きさに比例して多くなるのである。

光源が同じであれば、電球が大きいほど、発する光の量が大きくなるのと同様である。

氣の玉が大きければ大きいほど、氣の量は多くなり、その人の発する氣の量は多くなるのである。


まあ、そうはいっても、それが即、その人の能力、知力などに反映されるかというと、それはまた別問題である。

能力、知力などは、その人の持つ、特性であるので、たとえば脳のどの領野を使うかということで能力が変わるのである。

膨大な氣を発していても、ある分野ではさっぱり能力が発揮されない場合もあるわけである。


簡単にいうと、興味のないものには脳は機能しないのである。

興味は好き嫌いであるので、動物脳である辺縁系の働きによって左右されるのである。

しかし、脳のどの領野を使おうが、氣の総体の量は、その人間の存在感であるので、社会生活において重要な要素となるのである。

これが、たとえば芸能関係の場合は顕著で、いくら稽古しても浮かび上がれず、一生下積みで終わる芸人はいくらでもいるのに、一度TV番組に出ただけで、いきなりブレイクして、いつの間にかメインのMCで大人気という場合もあるのである。

これが、氣道の太さ、つまり氣の玉の大きさによる氣である波動の量、存在感である。


また、氣の玉が大きくなると、今まで視えなかったものが視えてくるのである。

これが実に不思議である。

なんというのか、蟻の視線と象の視線の違いというのか、ごく至近の事象しか視えなかったものが、ものごとを上から見下ろすように視えてくるのである。

つまり、氣の玉の大きなものから、氣の玉の極小のものを見ると、アリンコさんに視えるわけである。


だから、自分の周囲を見回して、ろくなもんがいなければ、あなたの氣の玉のサイズが極小なために、あなた同様のろくでもないものがお互いに寄り集まってきたということである。

何をやっても結果に現れず、人生の底の方をゴミのようにうごめいている人は、一念発起して、パドマ・プラーナーヤーマによる氣の玉の拡大拡張を地道に修練することをお勧めして、本日のご挨拶といたしたい所存である。

続く。


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