象気功

象気功

気功天意
念力


念力によるチャクラの開発覚醒

氣の身体

ダニの命と蛆虫の命は同じ重さである。

ダニの命とネズミの命も同じ重さである。

ダニの命と猫の命も同じ重さである。

ダニの命と犬の命も同じ重さである。

ダニの命とあなたの命も同じ重さである。

ダニの命とあなたの親の命も同じ重さである。

ダニの命とあなたの子供の命も同じ重さである。

ダニの命と地球の存在も同じ重さである。

ダニ一匹の命と宇宙全部の存在も同じ重さである。


ダニも蛆虫も鼠も猫も犬もあなたも親も子も地球も宇宙も一体であるからである。

あなたは、この世の全てであり、宇宙のすべてである。

この世のすべて宇宙のすべては、あなたである。

あなたが宇宙であり、宇宙があなたである。

すべては一体同一である。

これが釈迦の悟った「縁起」である


ううむ、なんだな、書く気がぜんぜんしないから、やめようか。

いやん、やめないで、お願い頑張ってね。

つーことで、お願いされたので頑張るかとゆーと、そうはいかのきゃんたまぶくろはかぜにふかれてぶーらぶらであるのである。

下ネタ下世話ネタの離岸流にのって女性読者がどんどん引いて離れていくのが見えるのである。


まあ、頑張るとゆーのは、能無し衆生ができもしないことを無理やり努力と根性で成就させようてなことであるが、できないことを無理にやろうとするとだいたいがろくなことにならないわけである。

だから、我が家の家訓は「頑張らない、努力しない、諦める」つーことで、先祖代々、みごとに人生の落伍者をめざす標語を掲げて王道楽土を闊歩するわけである。


あたしに至っては、もう、路上生活者にならないのが不思議なくらいの無能・自堕落・体たらくぶりであるが、そこはそれ、神に選ばれしものの特権をいかんなく甘受し、神示啓示をこよなく受けるこの身のありがたさで、完膚なきまでに好き勝手気まま放題な日々をご堪能あそばしておられるわけである。


語彙のご使用法もいいかげんだし、ほんとに書く気がないのね。

さてさて、書く気がないまま、前回を読んでみると、氣の身体になるためのスイッチメソッドを軽やかに解説しておられるわけである。

その代表的なものが、手と手を向い合せて、その間に氣のボールを作り、その波動を感じようとすることである。


この氣の身体になるためのメソッドは実に重要で、氣のボールを作る以外にもその方法は多岐にわたり、たとえば太極拳や気功の起勢(チーシー)はそのためのものであり、ヨーガや禅はもちろんのこと、多くの宗教でも礼拝に入るときに手を合わせるのもそのためである。


氣がわからなければ氣を操ることはてきないわけであるので、何も始まらないわけである。

そのためにとにもかくにも氣の身体にならなければならないわけである。

そのためのスイッチオンの方法メソッドを、大昔のパ~の皆さんがいーろいろ考案なされてきたわけである。


氣がわかれば、氣のメソッドにおける動作の意味がわかり、呼吸の意味がわかり、さらに、その延長線上には、念による氣の動きがわかるようになり、念による氣の操作ができるようになるということがある。

念で自在に氣を操れるようになると、これはもう念力開眼と言うことである。


まあ、たとえば氣のボールを作ったとすると、たいていの人は主に右脳の空間認識能力によって行われるので、右脳が活性化したと言うことであるわけである。

その空間における自分と外世界との識別は、たいていの人の場合、言語野のある左脳によって行われているのである。


だから、右脳を活性化させるということは、自分と外界とを識別しているリミッターを緩めて、一体化させようとするということである。

それで、静功、禅、瞑想、メディテーションてなカリキュラムでは、右脳を活性化させるには左脳をお休みさせるてな方法がとられてきたわけである。

その方法の代表が「雑念を捨てる」てな教えである。


まあ、禅の場合は考案以外の雑念を捨てるという考え方である場合もあるが、本来は道元さんいわく「只管打坐」のゆえんである。

道元さんは「ただ座れ」と言ってるわけであるが、これ、考えるのをやめて阿呆になれと言ってるわけではなく、左脳をお休みさせて、リミッターを緩めてその境地になる、てなことをご教示なされておられるわけである。


うまくその一体化した境地になると、自分と、この世・外界を分けているものを取り払って、自分が宇宙であり宇宙が自分であるということを体感実感するわけである。

これがいわゆる悟りであり解脱である。


この境地になると、なにしろ宇宙と一体化してしまうのであるから、すべてを理解したような気になり、これがまた言ってみれば一種のくるくるパ~の状態であるので、脳を含めた身体細胞を締め付けていた悩みも苦しみも煩悩もなくなり、限りなく精神が解放されて実に気持ちいいことこの上ないので、これを、悟り・解脱・ニルヴァーナ・円寂・悟道・菩提・成仏・涅槃・彼岸・大悟・開悟・覚悟 てな、いーろいろと大仰で大げさなタームを付けてお楽しみであるわけである。


お釈迦さんは、菩提樹の下かどーかは定かでないが、とにもかくにもあれこれ苦心惨憺の末にスッポンとリミッターを外した「一体化」の経験から、「縁起」という概念を表して、それを世に広めようとしたわけであるが、その後のパ~の皆さんが「縁起とは、現象的事物すなわち有為はすべて 因(直接原因)と縁(間接原因)との2種の原因が働いて生ずることである」とか、「煩悩があれば苦があり、煩悩がなければ苦がない、煩悩が生ずれば苦が生じ、煩悩が滅すれば苦が滅す」なんてとんちんかんな解釈に終始して、なーんにもその意図が伝わらずに現在に至るわけである。


しかし、ここに、釈迦の転生生まれ変わりである象形流気功法宗家ご不幸の疑科学総裁エレファントカンタービレ象師匠の御筆先から、正しい教えがパーリ語ならぬ茨木弁的江戸弁の日本語ちくらっぽにより成就されることとなったわけである。


ううむ、早めに削除しないと、どこぞのホラ吹きから訴えられるのである。

しかし、いつもながら、けっこう重要なことを言ってるのに、語り口が便所の落書き並みのでたらめなので、信憑性のかけらもないのがなんである。

しかし、なんと言っても神のお告げであるので、たとえ便所の落書きでも、手を合わせて氣の身体になってご拝読していただきたいのは言うまでもないことである。


まあ、悟りだの解脱だのはともかくとして、只管打坐が左脳をお休みさせてエネルギーのバランスを変えて右脳を活性化させようてな、いわば消極的な右脳活性化の方法であるとすれば、観想、内観てな方法は、右脳の空間認識能力を働かせて、積極的に右脳を活性化させようてな方法であるわけである。


それでは、一般的に、おしゃべりが得意で左脳優位といわれる女性は氣の身体になるのは絶望的ではないかというと、それが違うのである。

女性は左脳優位ではないのである。

右脳と左脳をつなぐ脳梁が男性に比較して太いので、左脳と右脳がバランスよく機能して、記憶と直感が当意即妙に連動して働くために、おしゃべりが得意であるということである。


これはけっして言語野が発達してて、空間認識能力が劣るために右脳が機能していないということではないのである。

逆に、女性の場合、脳梁が太いために、左脳の刺激で右脳が活性化しやすいので、氣の身体になるためには有利な脳の構造である。


そのため、常時、氣の身体になりっぱなしの女性もけっこういて、それを勘違いして「わたしは霊感が強いの」なんていい出すパ~の女性も多々おられるわけである。

これが新興宗教の教祖や霊能者と言い張るパ~に女性が多い理由でもあるわけである。

てなことで、本日の高座はこのへんでおしまい。

意外とあっさりね。

続く。

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