コトタマの反応部位「ひょ・ヒョ」 あらうふんてな喜び楽しみを醸し出すコトタマの反応部位は、「ひょ・ヒョ」の解説である。 わかる人にはわかる象気功の神のお告げは、わからない人にはなんのこっちゃのあほらしさである。 この場合の「わかる人」というのは「氣がわかる人」ということである。 まあ、それで氣がわかるためには氣に対して敏感鈍感の程度の差はあれ、それなりに氣のメソッドあるいはカリキュラムをあれこれしなければならないわけである。 この、氣のメソッド・カリキュラムてなものは少なすぎれば効果がないし、またやりすぎればそれはそれで問題が出てくるのである。 結論から言うと、氣に関するメソッドあるいはカリキュラムは、「やりすぎてよろしいことはなにひとつ無い」のである。 極限を超えて、チャクラ覚醒てな言ったもん勝ちの暴発暴走現象が起きても、予知能力も出ないし、透視能力も出ないし、もちろん客寄せ信者集めのための常套句の空中浮揚てなとんちんかんな役にも立たないことは起きるはずもないし、とにかく、人知を超えた能力が出て神人になるてなことはまったく無いのは当たり前である。 人間は人間であるから人間であって、それ以上でもなければそれ以下でもないのである。 にんげんだもの。 だから、相田さんをボケに使うのはやめなさい。 ボケなのかよ。 逆に、おっちょこちょいが過ぎて氣の暴発暴走をまねくと、氣の圧力過多による氣道の糜爛あるいは損傷あるいは裂傷さらには穿孔てなことで、頭痛、発熱、体力低下、電磁波も含めた波動過敏を伴う極度の精神不安、内臓の変化に対する過剰反応、しまいには幻覚・幻聴から妄想まで引き起こしてわけのわからんんことを言い始めたりして、ご家族にも周囲にもたいへんめーわくな状態になるのである。 まあ、本人が一番にっちもさっちもいかなくなるのは言うまでもないことであるが、さらには氣道は血管の存在そのものでもあるので、脳の毛細血管に圧力がかかって意識不明になり、即入院したらなんとか膜の血管が損傷してたてな、ひじょーにヤバいよヤバいよ的状況に陥る場合もあるのである。 てなことで、限度を超えて暴発暴走を引き起こして数年間を家中のブレーカーを落として廃人同様の生活を余儀なくされたバカ丸出し気功家不肖象師匠の体験と、一度で懲りずに何回も限度を超えて人生の大半を無駄にした某有名なクンダリニーバカヨギーのごーぴ・くりしゅなさんてなインド方面のパ~のおっさんのご意見を踏まえて、象気功では「やらないよりはマシ」の範囲内でちゃらんぽらんてきとーにやることが氣の神髄であるとご指導申しあげているわけである。 昨今の東洋医学経絡経穴鍼灸治療ヨーガなんてものの科学的医学的研究で解明されてきたとおり、氣のメソッドあるいはカリキュラムの目的てなものは、全身に隈なく張り巡らされた毛細血管を開くことにより血流を改善して、脳も含めた全身37兆個の細胞のあれこれのちょーしをよろしくするということがすべてを包括したおおむねの目的であるということがわかってきたわけである。 この「すべては毛細血管」にありということを、象気功では十数年前の開講当初からご提言申しあげてきたのである。 つまり、科学医学が常に後追いで象気功に追随しているわけである。 気功やヨーガてなものは、いわば謎と神秘のメソッドと現象てなことで、スピリチュアルだの霊能だの精神世界だの宗教だのてな扱いで、非科学的なものの代表てなおもむきもあったわけであるが、それが象師匠の神のお告げという名の口から出まかせのご託宣が科学によりつぎつぎと成就されて、「なーんだ」ということになったわけである。 だから、どんな氣のメソッドも、いってみれば日々のラジオ体操あるいは適度のウォーキングあるいは適度のジョギングあるいは適度の筋トレで事足りるという程度の効果であるということをご理解いただきたいが、無理だろねー。 つまらんホラ吹きのありもしない効果あるいは虚言あるいは妄言を信じ込んでバカなマネをして短い人生の大事な時間を何年も無駄にするよりも、たとえば日々のラジオ体操を継続した方が確実に内臓も含めた全身の毛細血管が開いて、細胞に栄養と酸素をくまなく送り込むことにより再生・メンテナンスを良好にして、さらには筋肉への刺激を含めて動くことによるよろしいホルモンの放出と、大脳辺縁系の適度な休息がもたらすポジティブな精神状態を得て、確実に人生をよろしい方向に導くのは当たり前である。 象気功においては、ラジオ体操は世界に冠たる気功法であると前々から言い張っているわけであるが、べつにあたしはラジオ体操協会のまわしものではないので、テレビ体操でもいいし、ピタゴラのアルゴリズム体操でもいいし、ケロポンズのさかなごはん体操でもいいし、アンパンマン体操でもいいのである。 人間は元気でなんぼである。 にんげんだもの。 だから、それやめんか。 じゃあ、なんであれこれの「氣のメソッド」なんだということである。 これが、氣のメソッド・カリキュラムの場合、あるレベルに達すると、ラジオ体操やテレビ体操やアルゴリズム体操やさかなごはん体操やアンパンマン体操では得られない、言い知れぬ楽しみをもたらすからである。 まあ、まず、「氣がわかるようになる」のである。 氣がわかるというのは、氣は物質の振動あるいは波動であるので、遠赤外線である熱感はべつにして、皮膚感覚あるいは体内感覚としての圧迫感、あるいはムズムズ感、あるいはビリビリ感、あるいはピリピリ感、あるいは体内にもろに入って来る感覚などの感覚としてとらえることができるようになるのである。 いわば、通常の感覚的には「ないもの」があることがわかるようになるのである。 さらには「氣が見えるようになる」のである。 いわば、「見えないもの」が見えるようになるのである。 見えるというのは語弊があるが、これが人によって、現象が違っていて、波動が渦や波になって視覚を乱すように見える場合もあるし、光や色になって見える場合もあるし、たとえば他人の想念が霊や神仏などの姿かたちあるいはものの形になって見える場合もあるのである。 また、氣のメソッド・カリキュラムを行っている者どうしでは、氣を通わせると、動いたり揺れたり飛んだり跳ねたりするのである。 さらには、「得も言われぬ心地よさ」を醸し出す場合もあるのである。 また、これが距離も場所も関係ないので、たとえば地球の裏側にいても氣を送りあえば存在を確認し合え、それを利用したのが氣の遠隔治療てなことになるわけである。 また、人によっては、喜怒哀楽などの相手の感情が手に取るようにわかるようになるのである。 もちろん、喜怒哀楽であって、相手あるいは周囲の考えていることつまり「思考」がわかるわけではないのは言うまでもないことである。 氣は、つまりは感覚の問題であるので、気功・ヨーガ・神道・密教などの氣のメソッド・カリキュラムをこなすと、主に大脳皮質中心後回(ちゅうしんこうかい)の感覚野を活性化させ、皮膚感覚を中心とした深部感覚、内臓感覚といった体性感覚を鋭敏にし、さらにはそれが眼球の皮膚感覚・深部感覚・内臓感覚にもダイレクトに作用して眼球周囲の体性感覚をも鋭敏にして、その振動波動を捉え、氣を視覚としてもあれこれの形で脳が認識するわけである。 この大脳皮質中心後回は大脳皮質運動中枢(運動野)と隣り合っているため、そこの信号が運動野を刺激して、場合によっては氣を受けたものが動いたり飛んだり跳ねたりということにもなるわけである。 それがあちこちを経由して、はっきりとは言えない方面にまで作用して、はっきりとは言えなない「得も言われぬ心地よさ」を醸し出したりさえするのである。 大脳皮質中心後回は大脳皮質のおおむね頭頂部にあり、これがいわゆるおおむね百会あるいはサハスラーラ・チャクラの部位であるわけである。 それの体性感覚が前頭葉を経由して偏桃体と関連して、その感覚から喜怒哀楽を読み取るという、ある意味、異常な状態を作り出すわけである。 さらにはそれが距離も場所も無関係に個体と個体を結び付けるのである。 たとえ、地球の裏側にいようと、月の裏側にいようと、火星の裏側にいようと、アルファケンタウリの裏側にいようと、現在の次元の宇宙にいる限りにおいては、個体と個体がつながるのである。 目のまえに身体がなくても、そこに霊体を呼び出しあるいは作り出し、お互いに、交流、交信、影響、てな事象現象を起こすことができるのである。 たとえば、ここにいない人の霊体を呼び出して、その霊体にあたしが氣を送ると、その本体である離れた場所にいる人の氣道・身体に影響を与え、さらには場合によっては動いたりということが起きるのである。 このことは、遠隔治療の経験がある人は、施術者、被施術者ともに当たり前に理解できることである。 ところが、これがなにしろ、「肉体」に対しての「霊体」ということであって、その霊体なんて間抜けなネーミングの事象についてまじめに研究している科学者医学者がおられるとは思えないので、この先も「霊体」としかいいようもないので、あたしとしては実に不本意であるが、この先もパ~御用達の馬鹿丸出しタームの「霊体」というしかないのである。 この霊体を扱うには氣のレベルを極限ぎりぎりまで持っていくことが必要であるので、クルクルパーの領域ということもいえるので、もう、今後とも科学でまともに解明できる日が来るとは思えないのである。 ところが、いくら激烈な氣の修行修祓を敢行しても、さっぱり大脳皮質中心後回の感覚野が活性化せず体性感覚が鋭敏化しない人もいるので、気功あるいは氣を「信じるか信じないか」てなややこしいことになり、あたしらからすると氣がわからない者どうしの間抜けな論議も出てくるわけである。 人間の能力や感覚あるいは才能は、人によってさまざまであるので、何もしなくても生まれつき氣がわかる人もいれば、いわば氣に関してまったく才能のない人もおられるわけである。 しかし、これまでに何度も解説しているが、氣がわからないことは劣っていることではないのである。 本来、人間は氣がわからないようにできているのである。 わからないのが本来である。 なにしろ分子原子素粒子電子光子の振動波動が体性感覚として分かるようになるわけであるから、それがわかりすぎると非常にめんどくさいことになって、たとえば「電磁波過敏症」なんて病名までつけられて日常生活に支障をきたすことになる場合もあるのである。 さらには、生来から氣に敏感なものが限度を超えて行き過ぎると、ある意味、とーごーしっちょうしょーとなんら変わらない精神の混乱状態にも陥ったりするのである。 まあ、アホなセンセーやマニアがいうように頭蓋骨が割れて赤い蛇がこんにちはなんてことはないが、前述のとおり、部位が暴発して大量の氣が発生して氣道が氣の圧力で持ちこたえられなくなると、脳の血管に損傷を与える場合もあるのは事実である。 それで氣が暴発暴走した場合、あるいは敏感になりすぎた場合の対処法てなメソッドなんてのはないのである。 氣の暴発暴走を氣のメソッドで対処すると、波動が波動を増幅して、さらにひどいことになるのである。 実はあたしが気功やヨーガを始めた初期に、そのいわゆる暴発暴走を起こして、知人の某有名気功治療師と、あたしの師匠筋の某有名気功道場の大センセーに「たすけてー、しんでしまう」とご助言を仰いだのであるが、そろって、「じっとして寝てる以外どーしーよーもねーだろ」というありがたいお言葉をいただいたのである。 それで、結果的にあたしの場合は4年という歳月を仕事も放棄して、「じっとして」無為徒食無駄にしたのである。 つまり、おっちょこちょいが過ぎて氣の暴発暴走を引き起こしてしまったときは、氣でいじるとさらに悪化するので、あらゆる氣のメソッド・カリキュラムを停止して、すべての波動を避けて、じっとして収まるのを待つしか方法はないのである。 その収まるまでの期間が数日か数か月か数年かは、その人の持ち合わせた氣の体性感覚の問題であるので、誰にも判断はできないのである。 つまりは、「やりすぎないこと」が暴発暴走を防ぐ唯一の方法であるわけである。 いわゆる、象気功の中心思想の「中庸」である。 さらにいえば、氣に関しては、「やりすぎていいことはなにひとつ無い」わけであるから、象気功の金言の「やらないよりはマシ」程度に、ごくてきとーにちゃらんぽらんにやることが最良の方法であり神髄であるわけである。 ちゃんちゃん。 と、得意のちゃんちゃんも出て、下げもみごとにきまったところで、「ひょ・ヒョ」のコトタマの反応部位はへそとみぞおちの中間あたりの周囲である。 経絡経穴でいうと、臍の上6㎝前後にある任脈の下脘穴(げかんけつ)の周囲である。 まあ、この部位は胃の下の方に位置するわけであるので、そのまんま胃のちょーし、つまり消化器系のかなめに影響があるわけである。 まあ、人間てなものの本体は消化器系である。 もともとは、食って出すだけの器官の存在であったわけである。 脳を含めたその他の臓器はあとになって、よりよく種の存続あるいは進化をなしとげるためにできたものである。 胃が弱いあるいはちょーしが悪いと、肉体的にも精神的にも弱くなるのである。 胃は精神状態と非常に強く結びつき、胃が元気ならポジティブな思考を醸成し、胃が不調であるとネガティブな思考となるのは、あたしが今ここでことさら言い立てるまでもなく、たいていの方はご経験のとおりである。 つまり胃のちょーしが悪いと人生のちょーしが悪くなるのである。 人間は食べてなんぼてなこともいえるのである。 身体はもちろん「食べた物」で、できているのである。 「私の体は食べた物でなんかで、できておらん」と言い張る人は、おつむのびょーいんに行って「センセー、私はもしかするとバカなんでしょうか」と聞かなければならないのである。 胃が丈夫であれば氣が溢れてパワフルな人生となるのである。 逆に胃のちょーしが悪いと、そこから氣道でつらなる消化器系のちょーしも悪くなって、気力も体力もいまひとつで、弱弱しい人生となるのである。 まずは胃の周囲の毛細血管を開き、血流を改善して、胃の細胞の再生・メンテナンスを良好にすることがよりよい人生の礎を築くといっても過言ではないわけである。 しかし、ポジティブでパワフルで明るい人生を切り開くために「ひょーひょーひょーのひょっひょこひょーっ」と大絶叫して裸で近所を走り回ると、通報で駆け付けたおまーりさん達に囲まれて、「おいっ、動くなっ、動くとうっちゃうぞっ」と言われてしまうのである。 とにもかくにも、くだらん至高体験だの精神浄化だの超常現象だのより先に、胃の状態を良好にすることが、氣を高めるためにも人生をより良い方向に導くためにも最優先であるわけである。 丹田である小腸や腸内フローラがどんなに頑張っても、、そもそもの入口の胃のちょーしが悪いと食べ物が満足に入ってこないので、分解も吸収もへったくれもなくて、必然的に全身の細胞は栄養失調で、当然、血管はもとより神経だって細胞でてきているのであるから、ろくなことにはならないわけである。 もちろん胃のちょーしが良すぎる者が考えもなしに食いすぎれば、当然、肥満、糖尿病、脂肪肝、動脈硬化等を引き起こし、それもまたろくなことにならないのは言うまでもないことである。 ううう、さすがに飽きた、なげーし、ループしてるし。 終り。 ええええええええええ? 続く。 |
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