象気功

コトタマ

言霊の人体における反応部位





コトタマの反応部位「にゅ・ニュ」


未来と過去をつなぐコトタマの反応部位は、「にゅ・ニュ」の解説である。

ううむ、なんだ、仕事にかまけてる間に、7月7日である。

今夜はいわゆる七夕であるが、どーでもいいのは言うまでもないことである。


象師匠はお亡くなりになったのかという話も出て来かねないていたらくの今日この頃であるが、あたしはまだ当分お亡くなりにならないのである。

あたしは従前から言い張ってるとおり、医者にも行かんし、健康診断も受けないし、人間ドックにかからんが、当分お亡くなりにならないのである。


もちろん、昨今流行のエビデンスもエビフライもエビシューマイもないのである。

だじゃれかよ。

恥ずかしい、やめりゃよかった。

ううむ、まことにもって、いいかげんな滑り出しであるが、相変わらずといえば相変わらずである。


いつになったらこの章が完結するやら、先の見えない茫洋とした大海原を行く心境である。

何を言ってるんでしょうか。

えーと、なんだ、とにもかくにも、かくなる上は、仕事を投げ出しても、なんとかかんとかどうにかこうにかなんとかする所存である。


ううう、つまらん、ものすごくつまらん、笑いのわの字もない。

てなことで、まあ、人間は時間の経過を脳で感じているわけであるから、その感覚により、見ているあるいは感覚としてとらえている現在の時間は、人それぞれに微妙に違うわけである。


あたしの知人にものごとがすべてスローモーションに見えるという人がいるのであるが、それに比較するとあたしはすべてが早送りに見えるわけである。

だから、あたしが見ているあるいは感じている現在は、その知人にとっては微妙に過去の場面であるわけである。


まあ、誰でも生命の危機に直面したような場合には、脳がフル回転して、周囲がスローモーションに見えるという話はあるが、その知人は行住坐臥において常にスローモーションに見えるわけである。

知人が血気盛んな高校生のころに他校の生徒ともめて数人と乱闘になったときに、相手のあまりの動作の遅さに「冗談でふざけているのかと思った」というぐらいの動体視力である。


それではボクサーなどの格闘家になれば大成したと思うが、基本的に血を見るのが嫌いであるのでやめたそうである。

車の運転もあたしから見ると神業のようであるが、かといって、とくにレーサーになることもなく、知人はごくふつうの菓子メーカーの営業マンで会社の商用車を運転して現在に至るのである。


まったくの才能の無駄遣いであるが、本人の好き嫌いもあるわけであるので、才能がそのまま職業に反映されない人も多々おられるわけである。

「ボールの縫い目が見える」というプロ野球のあの天才もおられるのはこの手の「ものごとがスローモーションに見える」という脳の能力の違いによるものであるわけである。


つまり、すべての人が微妙に違う時間を生きているわけである。

神だかプログラマーだか誰だかしらんが、生命維持あるいは生命活動にはだいたいこのへんがよかろうという範囲で共通に感じる時間の感覚を設定したわけである。


つまりは、すべてが早送りに見えるあたしの人生は、すべてがスローモーションに見える知人から見ると微妙な範囲で、すでに決まっているのである。

その延長線上を俯瞰すると、人生のすべてがすでに決定されているということであるわけである。


大変わかりにくい話であるが、たとえば、これを宇宙単位で考えると、とんでもない高速で宇宙を航行した場合には、地球上でお暮しになるあたしらの時間はものすごく遅れて、すでに起きたことであり、この世の行く末も、あたしらの人生も、航行者からしてみれば、すでに決まっていることであるわけである。


過去も現在も未来も同時にいっしょくたに存在して、すでに決定されてる時間をあたしらはひーこらしながら辿って、いずれはどなたもいやでもおうでも死んじまうわけである。

まあ、無駄っちゃ無駄であるが、誰かがこの世をそんな風に作っちまった、あるいはプログラミングしちまったんだから、あたしらは観念して無駄をお楽しみになって、てきとーに流されて生きるのが正しい処世である。


あいかわらずのよもやま話はこれぐらいにして、「にゅ・ニュ」のコトタマの反応部位はへその5~6㎝上の周囲である。

経絡でいうと、前正中線を走る任脈の下脘(げかん)のあたりの周囲である。

まあ、部位が部位だけに、胃の下部に影響があり、また、この部位が開くと氣道を経由して、十二指腸、膵臓、腎臓、肝臓、胆のうなどにも影響を与えるのである。


消化器系の要の胃の毛細血管を開き、血流を促すので、体力の元を作る部位である。

人間は何はなくとも体力である。

氣がどーのこーのといっても、食わんことには何ごとも始まらんのである。


印度方面には雲霞を食って生きると言い張るホラ吹きも多々おられるが、人間は食ってなんぼである。

まあ、昨今は食い過ぎることに問題が多々生じてはいるが、食わなきゃおっちぬのである。

生命活動の基本は食うことである。


食うことの要が胃である。

胃が丈夫なものはエネルギーが満ち溢れているのが普通である。

逆に胃が弱いものは、なんとなくへろへろの感があれこれするのである。


ある意味、胃は人生の要とも言えるわけである。

その胃の周囲の氣道を開き、血流を促し、細胞にくまなく栄養や酸素を送り届け、筋肉も脂肪も神経も、修復再生をこよなくええ感じにするわけである。


とは言っても、もちろん、「にゅーにゅにゅにゅーっ」と一日中わめいていても、ギャル曽根ちゃんのように、爆食い能力が出るということでないのは言うまでもないことである。

その人のDNAに書き込まれた本来の胃の状態に近くなるように調整するということである。

精神的には、前向きで活力のある方向に向かうのである。

てなことである。

続く。

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