象気功

コトタマ
言霊の人体における反応部位



コトタマの反応部位「で・デ」


あなたの運命のすべてを決めている細胞の方向性を、あなたの望む方向に向けるためのコトタマの反応部位は、「で・デ」の解説である。

作家としての矜持はどこへやら、曳航するタグボートも綾ふやな航路に操舵の向きをぐいぐいと切り始めた瞬間を迎え、思考の変化が錯綜する深い闇に嚥下される一筋の唾液と共に疲弊の限りを尽くした足という名の魂の躯を引きずりながら暗い夜道を当てもなく彷徨い歩くのである。


でたらめにキーボードを打つんじゃないっ、こんなの読まされる方の身にもなってみろっ。

そんなに怒らんでもよろしかろうに。

基本的に暇つぶしなんだから好きにさせてーな。

えーと、なんだっけ。

まあ、聡明な象気功信者の皆様方に於かれましてはお気付きの通り、自分の人生と周囲の人生をつらつらと眺めていると、何をやってもうまく行く者はうまく行くし、何をやってもうまく行かない者は行かないということに気が付くのである。


象気功のテーマのひとつのこのネタをこれでもかと頻繁にループするわけであるが、とにもかくにも、うまく行かない者はうまく行かない者同士で寄り集まって、さらにうまく行かない人生の波動を増幅させ、うまく行く者はうまく行く者同士で寄り集まって、さらにうまく行く人生の波動を増幅させるのである。


いわゆる気の合う者同士ということであるが、細胞を構成する素粒子の振動による波動の周波数の合う者同士ということでもあるのである。

なんとなく嫌いであったり、なんとなく好きであるというのが波動の違いである。


また、これ、臭いの違いでもあるのである。

これは口臭であるとか腋臭であるとかではないのである。

精神的なものが臭いとなって身体から発するのである。

単純に言えば、怒りの臭い、喜びの臭い、不信感の臭い、信頼の臭い、てな精神状態が臭いに出るのである。


穏やかな者は穏やかな臭いを発し、怒っている者は怒りの臭いを発しているのである。

社会生活においては、同じ臭いの者同士が寄り集まるのである。

たとえば路上生活者はその臭いを発する者同士で集まると気持ちよく、富豪はその臭いを発している者同士で集まると気持ちが良いのである。


路上生活者の中に富豪が入れば、路上生活者にとっては不快であるし、富豪の中に路上生活者が入れば富豪にとっては不快である。

動物はさらに敏感で、犬は犬好きと犬嫌いを即座に嗅ぎ分けるのである。


たとえばあたしに遭遇した犬の皆さんは、例外なく恐怖に怯えて気がふれたように吠えまくるのである。

あたしが他人の飼い犬を全く信用していないからである。

あたしが、その全く信用していない犬に対するときは、いつ噛まれてもよけて反撃できるように、常に戦闘態勢であるからである。


あたしの全身からは、その戦闘態勢の臭いを猛烈に発しているからである。

つまり精神状態が臭いに出るということである。

さらに精神状態は氣としての波動にも現れるのである。


いわゆるオーラてな言い方もあるが、それが色合いの違いとなって見えるパ~の人もたまさかにおられるのであるが、基本的にパ~の人であるので、その色合いもまちまちで信憑性は誠に持って低いとしても、あながちパ~の世迷い言というわけでもないわけである。


まあ、臭いも波動といえば波動であるが、そうなるとややこし過ぎて、さすがの魅惑の分体を標榜する天才作家の象師匠といえども解説に難渋するのであらうふんである。

ううむ、いかん、指が勝手に好き勝手な方向にキーボードを踊り回るのでどんどんいらんことばかりになる。


まあ、とにもかくにも、そんなこんなで、なんとなく嫌いであったり、なんとなく好きであるということになり、同じ波動で同じ臭いを発する者同士が寄り集まるわけである。

だから、自分の周囲を見回して、ろくでもない奴ばかりであれば、自分もろくてもない奴であるということである。


しかし、これが、そのことがわかっても、自分だけは違うと思っているのがこの世の面白さのひとつである。

たしかに自分の友達にはろくなやつはおらんし、こいつらがくだらん人生を歩くのは目に見えているが、絶対に自分だけは違うから、大成功して社会的地位のある立派な人物に成るなんて思ってもそうは問屋が卸さないのである。


確実にあなたもお友達と同じようなくだらん人生をトボトボと歩くのは間違いないのである。

それはともかく、基本的に、氣としての波動も、精神状態が現れる臭いも、その原因は細胞の方向性であり、DNA遺伝子の方向性である。


怒りっぽかったり、鷹揚であったり、小心で判断力がなかったり、肚が据わってどっしりとした判断力があったり、さっぱり金に縁がなくて極貧だったり、何をやっても金が入ってきて大金持ちだったりするのは細胞の方向性の問題である。


つまりはあなたの意志とは無関係に物事は勝手に進行するので、極論すれば努力ぐらい無駄なことはないわけである。

努力してもしなくても人生の結果は同じである。

流されて自堕落に生きていても成るものは成り、どんなに努力しようが成らないものは成らないのである。


そこに古来より、神頼み、占い、呪術てな気休めがあたかも救いの神のように頼られてきたわけであるが、この「気休め」のあれこれに頼っても何も変わらんし、方向性は依然としてどちらを向いてもどん詰まりで行き場を失って迷走の一途をたどるわけである。


要はあなたの細胞を変えない限りあなたのへっぽこな人生はへっぽこなままである。

その細胞の方向性を変えるためのひとつの方法がコトタマによる氣道の操作である。


氣道の操作をするためには、コトタマの反応部位を知り、それを組み合わせることにより、意図した方向に波動を変え臭いを変え、寄り集まる者を変え、さらには人に限らず、寄り集まる「物」も変え、運命・人生の方向を変えるのである。


なかなかいいね。

どうせ吹くならホラはこのぐらいの勢いで吹かなきゃいけませんやね。

わははははははは。

いや、笑わなくでもいいのである。

てなことで、大ボラを吹きまくって十分に驕慢の限りを尽くしたところで、「で・デ」の反応部位は尾骨(尾骶骨)である。


驕慢ってしかし、他になんかないのかね。

まあ、いいや。

「だ・ダ」行の「ぢ・ヂ」「づ・ヅ」は「ざ・ザ」行の「じ・ジ」「ず・ズ」とかぶるので割愛である。

それで、本題の「で・デ」のコトタマは尾骨(尾骶骨)に直撃である。


同じ胴体下部のチャクラでも、会陰より前側にある場合は前頭葉に影響を及ぼして、理知、理性、推理力、判断力てな能力に影響を与えるのであるが、尾骨や仙骨から発する後ろ側である場合は辺縁系を中心としたいわゆる動物脳に影響を与えて、本能的な行動に影響を与えるのである。


つまり、原初的な性格あるいは性状てなものに影響を与えて、運命を決定づける根本的な要素となるのである。

温和であったり、攻撃的であったり、臆病であったり、勇敢であったり、気弱であったり、獰猛であったり、というような思考あるいは意志以前の原初的な性格を醸成するわけである。


いずれにしても気功的には、氣が上がることにより精神の不安定さが醸成されるのであるから、胴体最下部の尾骨が開いて氣が下がることにより精神は安定の方向に向かうということはどなたにもご理解いただけることとご推察申し上げるのである。


後背部のチャクラは動物脳に影響を与えるので、部位によっては辺縁系が過剰に反応して原因不明の不安感に苛まれたり、逆に、人によっては何をしても安心感に包まれているということになるのである。

もちろん、安心感が生命維持に必ずしも有効というわけではなくて、たとえば、古代おいて、いつ猛獣に襲われるかわからないジャングルで安心感をこよなく満喫して歩いていたらバカ丸出しである。


しかし、それほど生命維持にかかわることがない現代においては、意味のない過剰な不安感は生活に支障をきたすのである。

冷静な判断力を失い、やらんでもいいことをやって、ドツボにハマる場合も多々あるのである。


その「やらんでもいいこと」をやらないためには、辺縁系の過剰な興奮を抑制して、安定した精神状態を醸成することが重要である。

そのためには後背部の「氣を下げる」ことが必要になるのである。


「で・デ」のコトタマは背骨の氣道の最下部の尾骨を開くのであるから、こよなく氣が下がり、辺縁系の興奮を抑制して、精神状態は安定する方向に向かうのである。

さて、臓器的には直腸を中心として、消化器系を活性化するのである。


敏感な人は「で・デ」のことたまを唱えると、小腸・大腸が動き出すのを感じる人もおられるぐらい、なかなか強力な効果である。

もちろん、後背部の氣道を開くので、腎臓にも影響があり、腎機能の活性を醸し出すのである。

てなことで、ひとつ。

だから、なんかオチを付けなさいよ。

やだよ~ん。

困ったね、しかし。

続く。

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