象気功
象気功

本日の御神託


気を作りすぎるとどうなるか?


ううむ、なんか面白いネタはないかね。

まあ、この御神託は象気功のつかみであるわけであるので、気功に関するネタがよろしいわけである。

気功といえば気である。

当たり前である。

それで、なんつーか、気を作るには気功をすれば一番手っ取り早いのである。

当たり前である。

気功つーぐらいであるから、気を功するわけである。


「功(コウ・ク)」とはききめ、ご利益あるいは工夫、手段、技術てな意味であるのである。

これ、各種気功法でもいいし、太極拳でもいいし、たとえば太極拳の起姿(ちーしー)を繰り返しているだけでも、気はどんどんできるのである。

起姿(ちーしー)は、まあ、いってみれば太極拳に入るときの最初の姿勢つーことであるが、足を肩幅に開いて、手を肩の高さから腰のあたりまで下ろす動作であるのである。

まあ、文章でいくら説明してもわかるわけもないので、詳しくは、太極拳のご本やら、ビデオやら、太極拳のカルチャーやらで型を見てご確認いただきたい。


それでまあ、そんなこんなの気を作る方法いろいろやって、気がどんどんできて体中にいっぱいになって、気道経絡がパンパンになって、元気になって、さて、その先はどうなるかというと、気ができすぎると「気持ち悪くなる」のである。

逆に気が足りないとどーなるかとゆーと「元気がなくなる」のである。

しかし、そうかといって、必要以上に気を作ると「気持ち悪くなる」のである。

ここがね、なんともかんとも、この世のすべての道理(ことわり)で、それを設計した創造主の奥ゆかしいところであるのである。


その「気持ち悪くなる」を通り越してさらに気を作るとどうなるかとゆーと、血圧が上下動したりして、ぐるぐる目眩(めまい)なんかを引き起こしたりもして、非常に具合が悪くなったりもするのである。

気をこれでもかと作っても、超人にもなれないし、神人にもなれないし、超能力も出ないのである。

どうなるかというと、「気持ち悪くなって」さらに作ると「めまいがして具合が悪くなる」のである。

まあ、人間の身体は動けば気ができるように設計されているわけであるが、その動くを最小限にして気を作るにはどうするかというメソッドが気功法であるわけである。

気だけをどんどん作る方法であるのであるから、やればいくらでも気はできるわけである。


ぱーの皆さんのようにわざわざ山に行って木の気なんかをもらいにいかなくても、気功や太極拳などをやれば自分自身でいくらでも気ができるわけである。

それで、気ができるとどうなるかというと、人間の各種臓器や血管などに隈なく張り巡らされた気道経絡を広げるのである。

気道経絡が広がるとどうなるかとゆーと、血行血流がよろしくなるのである。

血行血流がよろしくなるとどーなるかとゆーと、酸素や栄養が身体の隅々まで運ばれて、メンテナンスが行き届いてお元気で健康になるわけである。


これは「適度な運動」をすることによる効果と同様であるわけである。

まあ、それで、ぱーの皆さんが「気」を神がかりなものと勘違いする理由として、「気功」が「運動と違う」ところは、その副産物として、気功に習熟した者どうしが気を出し合うと、その反発力でどちらかが飛んだり、あるいは気が入って走りだしたり飛び跳ねたりすることがあるわけである。

しかし、それが超能力であるということでもないし、超常現象ということでもないし、神がかりということでもなくて、気道は臓器血管はもとより神経系にも張り巡らされているわけであるので、そこに気を通せば当然、神経から脳に伝わり、各種神経伝達物質が放出されて、いろいろな感覚や現象が起きるということであるのである。

それで、何か「特別な能力が出る」ということでもないし、何か「奇跡が起きる」ということでもないのである。


よろしい効果としては、「血行血流がよくなり元気になる」ということであるのである。

外気功による治療も同様であるのである。

まあ、たとえば温泉治療の効果はどなたも認めるところであると思うが、この温泉治療の基本も身体を適度に温めて、血行血流を良くして身体の隅々まで酸素、栄養を送り込んでメンテナンスを促進するということであるわけである。

つまり、人間の基本は血行血流が良好であるということであるのである。

血行血流が良好であれば、酸素・栄養状態が良好であるのであるから、健康でさらにおつむのちょーしも良好で、その人間の持っている能力を最大限に発揮できる状態であるわけである。

まあ、各種気功の場合はこの他に、身体をあちこち捻ったり動かしたりするので、リンパの流れなども調節するので、さらに、それによるメンテナンス効果もあるわけであるが、もちろんそれで、超能力者になれるわけもないし、奇跡も起きないし、霊能力も出ないし、神に近づくなんてことではさらさらないのである。


つまり、目的が身体を良好に保つということであるのであるから、行きすぎれば「気持ち悪くなる」し、さらには「めまいがして具合が悪くなる」てなことになるわけである。

まあ、たとえばスポーツをするにはトレーニングが重要であるわけであるが、それが行き過ぎるとオーバートレーニングになって体調を崩すのと同様であるのである。

しかし、トレーニングも少なすぎると効果はないということになるので、オーバートレーニングにならない範囲内の適切な量が効果があるわけであるが、気功で気を作るのも同様にオーバーにならないで元気になる範囲内ということであるわけである。

何事も中庸が肝心である。

つーことで、神のお告げの口からでまかせにしてはなかなかよろしいじゃありませんか。


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