象気功

象気功奥義
氣をつかむ

序章3


日本人は古来より「必死で生きる」のが好きである。

自分の限界を超えることができるという幻想を精神の根底に抱いて生きているのである。


だから、やる必要もない無意味な「修行」と称する無駄をあーれこれ楽しんで、「人間が成長した」なんて独りよがりで大満足しているぱーの人が大勢おられるわけである。


そんな、修行、精神修養なんて無駄をこれでもかと積んで、悟りを開いたなんて御仁が、一朝、お医者さんに「あなたの命はあと半年です」なんて無碍なご託宣をされると、昨日までの大いばりはどこへやらで、もう世を儚(はかな)んで、うだうだうじうじ言い出して、うっとうしいことこの上ないのである。


人間は体力に頼ってあーだこーだ言っておられるだけであるので、その頼っていた体力が断たれると、とたんに意気消沈で、昨日とは別人でぐちをこれでもかこぼしだすのがどんなえらそーな御仁でも例外なく通例で、まあ、とにかく元気が一番であるわけである。


イノキさんは正しいのである。

それが結論かい!というツッコミもおありとは思うが、あれがこれしてなんとやらでそんなことも実はなんだかかんだか、ううむ、つかみがいまひとつノリが悪いのである。


それで、まあ、なんだな、象気功のメソッドも極まってきたわけである。

何が極まったかというと、なにしろ奥義であるから、これが究極であるということであるわけである。


その奥義の「氣をつかむ」には手が重要なファクターとなるのである。

文字通り「つかむ」わけである。

いえい。


これ、われわれは氣の海の中にいるわけであるので、その中を動くだけでもその影響を受けて、気道が開き自らの氣は高まるわけであるが、しかし、そのためには、自分の体内に神が宿らなければならないのである。


自分の中にある神を呼び出し、それを体内に宿らせれて、それから、象気功メソッドの開始である。

さて、神が宿り、手が敏感になったところで、その手に氣の海の水を感じなければならないわけである。


手に氣の海の水を感じることができたら、その手を動かしてみるわけである。

すると、その氣の海の水が手の中を通り過ぎるのが分かるのである。


それが気功であるのである。

しかし、これ、その氣の海の水をつかむには、その動かす速度が重要になるのである。


ものすごくゆーっくりと動かさないと、その氣の水の圧力あるいは水が手を通過して行くことは感じ取れないのである。

その動きの速度が、気功の動きの速度であり、大極拳の動作の速度であるのである。


この速度を体現できないと、氣をつかむことはできないのである。

だから、気功や太極拳を学ぶときは、よく師を吟味して、その速度を弟子、生徒に伝えることができる導師でなければならないわけである。


氣をつかむことができると、その氣をつかんだ手と丹田が繋がるのである。

つまり、氣の海の水の中であるから、その手を動かすだけで丹田が活性化すると言うことになるのである。


だから、気功も太極拳も手が重要な役割となるのである。

いやー、なかなかいいね、理路整然である。

神のお告げお授けお筆先はこーでなくちゃあいけませんやね。


この「氣をつかむ速度」なんてえことに言及するのは、古今東西過去現在、象気功だけである。

さすがに象の大神様のいうことは粋(いき)で鯔背(いなせ)で垢抜けているのである。


「真言」「丹田」に続いて怒涛の秘法秘伝神髄奥義真理を大公開であるのである。

さて、次回はその氣をつかむための「速度」について、怒涛波乱万丈天下混乱万民刻苦あなたとあたしのあそこはほーらこんなにマチュピチュよなんてーことで、果たしてその速度は時速何キロなのか、原付バイクぐらいのスピードか、自転車よりも遅いのか、じじいの散歩よりも遅いのか、ナマケモノが動く速度よりも遅いのか、ナメクジよりも遅いのか、でんでんむしむしかたつむりなのか、謎が謎を呼んで果たして象気功の信憑性はいったいいかなるものなのか、お笑いなのか神の社(やしろ)の口から出まかせ霊界物語なのか怒られますよあーたということでますます絶好調に展開するわけである。

続く。

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