気功の穴
象気功
象気功奥義
気をつかむ
神気の通り道6・神の呼吸
当たり前であるが、この世に「奇跡」はないのである。 奇跡といわれているものは総て単なる偶然である。 神が「奇跡」を賜うことはいかなるものにも断じてないのであるが、神はいかなるものにも断じて「罰」のみをお与えになるのである。 「救い」は神の思し召しではないのである。 「救い」は人のなすことそのものであるのである。 つまり、「救い」は業の救済であり、それをすることにより、その本人の業が刈り取られるということでもあるのである。 しかし、これは神の御力(みちから)ではないのである。 人のなすことであるのである。 だから、神に願うことは無意味である。 神は厳然と存在するのであるが、「奇跡」も「救い」も賜うことはなく、「罰」だけを賜うのである。 罰が業であり、そのことをなすことが人がこの世に現され存在することの意味だからである。 つーことで、罰だけを賜うわがままな神であるが、そのエネルギーは膨大である。 その膨大なエネルギーを利用するしないは、人の自由である。 それを無理に解放すると、ときには人間の身体はそれに耐えられなくて、脳や神経、血管などに障害を与える場合もあるのである。 まあ、これも神の罰といえば罰であるが、そこのところをうまーくコントロールしておいしいところだけを調理しようというのが象気功であるわけである。 それで、前回までに何度も解説しているように、神を想うことは言い方を変えるとあなた自身が神となることである。 神が体内に宿ればあなたの気は神の気、つまり神気となるのである。 神を想えばあなたの細胞は神の細胞となるわけである。 あなたが呼吸をするとき細胞も呼吸をするわけであるが、そのことによって発するエネルギーは神のエネルギーである。 だから、あなたが呼吸をすれば、細胞からは神の氣が溢れ出すのである。 その神氣は自らを潤し、さらに周囲のものをも潤すのである。 このことが、身体で実感として捉えることができると、呼吸をするだけで、身体は神の氣で充満し、その氣は体外にも溢れ出すのである。 古来より、ヨーガでも神道でも気功法でも禅でも、呼吸に拘(こだわ)るのはこのことからである。 しかし、それがどうやっても成就されないのは、神を想うことが無いからである。 神が体内に宿らなければ、呼吸は呼吸である。 神が体内に宿れば、即「神の呼吸」となり、細胞は神氣で溢れかえるのである。 神氣に潤されたミトコンドリアが最大の活性となり、最良の方向へと生命の軸を転回するのである。 神を想い、その神が呼吸をすれば、あなたの身体は成就されるのである。 身体が成就されれば、あなたの方向性は変わるのである。 しかし、それは業の成就ということではないのである。 神の呼吸を実感していただきたい。 続く。 |
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