象気功

象気功奥義
氣をつかむ

神氣の通り道4・神の制御


神を思えば神はそこに在るのである。

大きな神を思えば大きな神がそこに在り、小さな神を思えばそこに小さな神が在るのである。


良い心で神を思えばそこに良い神が在り、悪い心で思えばそこに悪い神が在るのである。

そこに良い神が在ればあなたに良いことが起き、そこに悪い神があればそこに悪いことが起きるのでである。


しかし、その良し悪しはあなたの良し悪しではなく、神の法則による良し悪しである。

あなたが良いと思っていることは神の法則では必ずしも良いことではないのである。


何をもってして良いことであるのか、何をもってして悪いことであるのか、それを決定する神の法則が「なすこと」である。

「なすこと」とはあなたがこの世に現された「基(もとい)」である。


あなたがなんのためにこの世に生を受け、なんのために生かされるかという、あなたの存在の根源である。

その「なすこと」がなければあなたはこの世に存在することもないのである。


つまり、「なすこと」がなければあなたは「無」である。

本来「無」であるはずのあなたが「なすこと」のために存在し、神を思うのである。


無のあなたが思う神であるから、あなたの神は無であるのである。

無であるあなたの神に、無であるあなたが何を願っても、そこには何も無いのである。


あなたの存在自体が「なすこと」のために生み出された神の想念であるからである。

そのあなたという想念を生み出す神を生み出しているのはあなたの脳である。


脳が無であるあなたを生み出し、その脳を無であるあなたが「なすこと」のために無から紡ぎ出しているのである。

「なすこと」は脳が生み出した想念であるが、その脳は「なすこと」のために生み出された想念である。


生み出したものは生み出されたものである。

また、生み出されたものは生み出したものでもある。

その神の想念であるあなたが「なすこと」とは、「与える」ことである。


与えるというのは、あなた以外の相手に与えることである。

あなたが相手に与えるのがあなたの「なすこと」である。

それは相手を助けることでもなく、救うことでもなく、慈悲を与えることでもないのである。

神の法則に従い、「なすこと」をすることである。


あなたの「なすこと」は相手に与えることであるが、与えられることでもあるのである。

与えられることは、与えたことでもあるのである。

さらに、「なすこと」が終わることは「なすこと」が始まるということである。


始まりが終わりで終わりが始まりである。

あなたが生まれた瞬間にすべてが終わり、あなたが死ぬ瞬間にすべてが始まるのである。

あなたの輪廻の始まりは輪廻の終わりであり、輪廻の終わりは輪廻の始まりである。


つーことで、今日もありがたーい象の大神様のお授けお告げは絶好調で、金糸銀糸で縫い上げられた神威の緞帳はその重さに耐えかね、軋む滑車を滅裂させながら目出度くご開帳の運びと相成りましたのである。


まあ、つまり、神はあなたの脳が造りだした想念による波動であるから、あなたが思えばその思うところに神は存在するわけである。

その神の波動はその思うものにより違う波動であるので、100人の人間がいれば100の神が在り、1000人の人間がいれば1000の神が在るのである。


唯一神でも八百万(やほよろず)の神でも、100人いれば100の唯一神が在り、100の八百万の神が在るのである。

それぞれの宇宙でそれぞれの世界でそれぞれの神が在るのである。


この世に他人の見ているものと同じものは存在しないのである。

あなたが神をあなたの体内に想うときにその神はあなたの神であって、あなたにとっての唯一神であり、あなたにとっての八百万の神である。


だから、その神の大きさ、力、威力はあなたの思うがままである。

しかし、その力に制御しているのが、とりもなおさずあなたの神でもある脳である。


その大きさ、力、威力を無制限に解放すれば、身体は持ちこたえることができずに、ときによっては崩壊するからである。

その神の氣の通り道にあなたの氣道があるわけである。


だから、あなたが神を想い、体内に神が宿れば、氣道は神の氣の通り道と成り、それが極まれば神の力、威力、を解放することになるのである。


古来より経験でそのことに気づいた先達が、その神の制御を取り外そうとして、種々の方法が考案されてきたわけである。

この神の制御はときに想うだけも外れ、暴発する場合もあるし、どんな方法を駆使してもそうならない場合もあるのである。


それで、暴発したからといって、それで、何か特別な能力が出るかと言うと、べつにそんなことはなくて、暴発するだけである。

しかし、そのことにより、氣道が開き、生命の水である「氣」が全身の細胞をくまなく潤すということではあるわけである。


乾いた細胞に「氣」という聖水が吸い込まれて、人体60兆の細胞すべてがみずみずしい活性を取り戻すということである。

しかし、暴発、解放、であるから、コントロールが利かず、神経、血管などに障害が出て、生活に支障をきたすこともあるので、そんなことは求めない方がよろしいのである。

人間はできないことをやろうとするとろくなことはないのである。

続く。

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