気という名の錯覚 ううむ、くだらん。 まあ、何がくだらんかというと、象気功全体がくだらんわけである。 それで、象気功がくだらんつーことはあたしがくだらんつーことであるのである。 まあ、いわば象気功はくだらんやつがくだらんことをこれでもかと追求してるくだらんサイトつーことであるわけである。 いいね、そこね、そこが象気功の面目躍如ね。 役に立たない気功法である象気功の満面目であるのである。 てなことで、さて、本日もさっぱり役に立たない気功法の原論推論体現論を開陳開示するのである。 ううむ、キーボードだとどうしても漢字が多くなるのである。 まあ、それで、まあ、「気」てなものは人間の場合は主に毛細血管の中を血液が通るときに生み出される波動であるわけであるので、人間が生命活動を行う限りにおいてたとえおびょーきで死にそうでへろへろしててもいやでもおうでも生み出されているわけであるが、さらに「気」は右脳の活性により、さらに生み出されるのである。 ううむ、いきなり本論に突入するのである。 まあ、つまり何もない空間に何かがあるとイメージすることにより、それを感覚として感じようとすると脳神経細胞ニューロンシナプスの間に脳内伝達物質が放出され、神経網が開き、毛細血管が開き、気道が開き、その結果としてさらに気が生み出されるのである。 これ、太極拳てなものは気功の代表的なメソッドであるわけであるが、太極拳は何をイメージするのかというと、「仮想の相手」であるのである。 仮想の相手の繰りだす攻撃を受け、仮想の敵に突きや蹴りや投げを繰り出すという、仮想の攻防が太極拳の型であるわけである。 そこにはつねに「仮想の相手」が存在し、仮想の腕や脚が存在し、その存在を明確に意識認識して型を行うのである。 そのことにより、演武者の右脳は活性化され、神経、毛細血管、気道が開き、気が生み出されるわけである。 気功も手の間に玉をイメージして、それを操作するというメソッドがあるのである。 あるいは遠くの山に玉を投げるイメージを繰り返すという方法もあるのである。 また、手が周囲の「気」を掴んで、それを感じるということが前提で動作を行うことが気功の重要な方法でもあるのである。 小周天で任脈と督脈に気を巡らしていくという方法も、これ、丹田に気があるとイメージし、その気を実感することから始まって、それが気道経絡をたどっていくという仮想を実感するという方法であるのである。 つまり、「気」があると想像・イメージすることにより、そこに「気」は存在するわけである。 「気」は右脳が生み出している「錯覚」という言い方もできるわけである。 だから、ごく一部の脳のお壊れになったぱーの人を除いて、通常は「気」を感じようとしなければ「気」は感じるようにならないわけである。 その気を感じることにより、さらに右脳は活性化され、さらに気が生み出されるのである。 しかし、それを「気を感じよう」と思考することは左脳のお役目であるのである。 つまり、右脳活性は左脳による言語を媒体とした操作でもあるわけである。 しかし、この個々の「錯覚」は無意識下の想念により、あらゆる生命体に共通の感覚として存在するのである。 そのあらゆる生命体もあなたの脳が造り出している錯覚だからであるのである。 しかし、その錯覚は取りも直さずあなたの現実であるのである。 ううむ、いいね、象の大神様のお告げ神示啓示口からでまかせは絶好調であるのである。 つーことで、どうかね。 どれどれ。 |