気の力は天地自然の力であり公明正大。自分の利益のために気を使うのは本来の道から外れており自ら限界を設けている。』という文献について |
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名前:気功って・・ |
はじめまして。
「気の力は天地自然の力であり公明正大。
自分の利益のために気を使うのは本来の道から外れており自ら限界を設けている。」このように書いてある文献がありました。
しかし自分の利益を重視して自慢と自信の塊で凄い方がいます。このような方はどう理解すればいいのですか?
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お答え |
名前:象師匠 |
まあ、これ、象気功の各章で何度か触れておりますが、まあ、だいたいあたしも含めて気なんかに興味もってあーでもないこーでもないと言ってる人はぱーの人が多いわけです。
その中でも特に気がわかって気が出るようになるのは、もうほとんどが恥ずかしいぐらいのぱーの人なわけであります。
「この気がわかって気が出るようになる」ためには丹田と足などの身体の下部が開いているのが理想的なんであります。
このぱーの人たちはもともとそのあたりが開いていて最初からぱーな人たちなんであります。
その最初からぱーの人たちが気功や呼吸法やヨーガなんかのカリキュラムをこなすとますます丹田と足などが開いてぱーがどんどん進行してクルクルパーになるわけであります。
そーなると人間性や仏性を造る肝心な心臓のあたりのアナハータ・チャクラや頭部はほったらかしということになるので、バカ丸出しで「自分の利益を重視して自慢と自信の塊で凄い方」だらけになるのであります。
それで逆に気遣いをして常識があり控えめな人は、気が出る、気がわかるということに関しては進歩が遅い方が多いので、気功や気の関係の道場や教室では非人道的で非常識な人が幅をきかせて挙句の果てには指導者になったりするのでますます気の世界はわけのわからない方向に行っているわけであります。 |
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Re: 内功のレベル |
名前:気功って・・ |
ということは、気の力は必ずしも天地自然の力ではなく、公明正大でないということなのでしょうか? |
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お答え |
象師匠 |
まあ、なんですねえ、象気功の「気とは何か?」あたりから、全部読んでいただきたい。
その辺から理解していただかないと、あたしの言ってることはなかなかわかりづらいと思いますね。
気に関しては気功やヨーガや神道やそのほかの各宗教などで立場によっていろいろ解釈がまちまちなのであります。
つまり、気は霊や神などとともに科学からもっとも離れた存在でありますので、言ったもん勝ちの世界なのであります。
だから「気の力は天地自然の力であり公明正大。自分の利益のために気を使うのは本来の道から外れており自ら限界を設けている。」と書いている文献がどこのえらいぱーの人が書いたのか知りませんが、そのぱーの人はぱーの人なりに立場があるでしょうから、この文献についてあたしがまちがっているとも正しいともなんとも言えないわけであります。
それで象気功の立場の「気とは何か?」を読んで「これはぜんぜん私のセンセイの言ってることや他の文献に書いてあることとちがうからまちがっている」と思うのであればそれはそれでいいわけであります。
まあ、そう言ってしまうとみもふたもないので、象気功は親切第一がモットーでありますのでもう少し解説すると、まあ、気の力も空気の力も水の力も風の力も毎日いただく食物の力も「天地自然の力」であり「公明正大」なわけであります。
しかし、それに影響される人間の方はDNAによって身体や脳の反応が人によってちがいますので、同じではないわけであります。
同じ環境で育って同じ生活をして同じ食べ物を食べても、病気になる人はなるし、ならない人はならないわけであります。
同様に同じ気に影響されても、それで、同じ場所が同じように反応するわけでないのであります。
人によってはすぐ丹田が開いて暴れだす人もおりますし、いくら気に関することに励んでもぜんぜん感じない人もいるわけであります。
これは、まあ、なんども言いますが人によってDNAがちがうために少しずつ身体や脳の作りが違うためであります。
もっと言うと人間にとってこの世で公平なのは死だけなのであります。
死だけはとにかくそれこそ「公明正大」に平等に誰にでも必ずいやでも「こんにちは」と訪れるわけであります。
その他のことは全て人それぞれに違っているのであります。
時間でさえ、その長さや感じ方が人によって違うそうであります。
そーゆーわけで、まあ、とにかく象気功を最初から読んでいただいて、それでも、このことについて、なお疑問があれば再度質問していただきたい。
懇切丁寧に解説いたします。 |
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HPは楽しく読ませて頂きました!私の理解した内容を記載させて頂きます。
気は公明正大等どんな立派な解釈つけてもそんなたいしたもんじゃない。身体がリラックスし気が丹田におちて血液の流れが良くなればでてくるものであり、それ以上の何ものでもない。やっているうちに時間がかかるかどうかはわからないがグンダリーニが覚醒する。その結果としても別に人格が素晴らしいという類のもではない。ただそれで生きている人たちはあーだこーだともっともらしい事を並べ立てて信者を増やそうとする。だから性質の悪い方、いわゆる膨大な金銭を要求したりする先生の場合人生が狂っていく・・・。
だからこそ象師匠はシニカルに色々な表現をされているのだと思います。また”霊性が高い”ことと”気がでる”事は同じでなく”霊性が高い”=”やわらかい、神々しい気”であり気が出る事自体たいしたことではない。それよりも生きている中で与えらた業に対してすべてを受け入れて生きていく。それが霊性を高める事。それは気の質がかわっていく。その質を高めることは業を受け入れていくという事。気は霊や神ともリンクしているが、誰でももっているものであり単純に気を多く出す云々はただ単なる趣味の一環でしかないがそれ相応の危険性(肉体的、精神的に)があるのであまりお勧めしない。
以上から推察すると、気についてどう語るか?それはその人の人格により決まることでありそれ以上のものでない。結局はその人の考え方が気に入らないかどうかだけの事。どんなに気がすごくても人格は別。鼻持ちならないパーの方もいるし人格の良い人で気がわかる人も世の中にはいる。しかしそのようにその人をとらえている自分はそのようにとらえている中で生きているだけのこと。
いい人、悪い人。まぁ世の中いろんな人がいるわなという類の話なのかもしれませんね。気を扱える事は人格者、霊性が高い!と思ってしまうとその単純な事実がわけわからないようになる。
象師匠、何かお気づきの事ありましたら教えて頂きたくお願いいたします。
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お答え |
象師匠 |
まあ、いずれにしても、なかなか文章や言葉で心意は伝わりませんので、読んでいただければ、後は読んだ人によって解釈はそれぞれでいいのであります。
縁あって象気功を読まれた方はその解釈はそれぞれでも、読むことに出会えない方と比べればまあ、人生の楽しみが少しは増えるでしょうから、それでいいわけであります。
それでなんの楽しみも増えない方はそれはそれでいいのであります。
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