象気功
象気功

本日の御神託


カンナとキリの人生


ううむ、なんだな、そろそろ8月も終りだ。

夏が終わるつー事だね。

あたしゃ夏が好きなのであっという間に終わる感じね。

夏はいいね、服をほとんど着ないで過ごせる。

お出かけもハーフパンツとアロハでOKだから、着替えがあっという間である。


さらにサンダルで裸足であるので、身につけてるものはブリーフとハーフパンツとアロハの3点セットだけである。

洗濯物も少ないのである。

最近はとくに省エネエコのクールビズが浸透したので、たいていの場所にこれで行っても眉をしかめられることはないのである。

以前は真夏で35度でもスーツにワイシャツにネクタイに革靴がふつーであったのであるから、半ズボンにアロハにサンダルてな海水浴に行くようなかっこうで仕事先に行ったりしたらいっぺんで信用を失ってその仕事はぱーになりかねなかったのである。

なんていい時代になったんでしょうか。

しかし、冬は大変である。


朝起きたときの着替えだけでもひと仕事である。

めんどくさいことおびただしいのである。

それで、ときどき南の国に引っ越そうかとも思うのであるが、そうはいっても今更ハワイに住むとかもめんどくさいし、沖縄でもめんどくさいのである。

だから、結局お亡くなりになるまで東京にお住いになって夏は極楽で冬はナニだろうね。

どうも、あたしの人生選択の基準はこの「めんどくさい」であるのである。

人間は生まれたときから常にこの選択を迫られて選択の連続で生きるわけである。

まあ、この選択てなものの某研究者によると、人生は選択肢の少ない方がよりよい選択につながる場合が多いそうである。


多いのであって、総てがそうではない場合もあるのはもちろんであるが、最初からこれしかないという人の方が、それしかやらないのでエキスパートになれる可能性が高いわけである。

まあ、人間は限られた時間の中で生きるわけであるから、あれもこれもといっても、そのことにかける時間が限られているので、たいていはどれも中途半端なレベルまでしか到達できないわけである。

これがあたしら凡人であるわけである。

達人てな人になるとひとつのことに何がなんでも集中するのである。

まあ、いってみれば木材にキリで揉み込めば短時間でもそうとうな深さに到達するわけであるが、これがカンナで広く削った場合には同じ深さに到達するのに何倍も時間がかかるわけである。


カンナで幅広く削る人生では、あれこれやってるうちに人生が終わってしまうわけである。

達人てなものはキリであり、凡人はカンナであるわけである。

あれもこれもそれもということで、全体的に浅学非才てなことになるわけである。

ううむ、浅学非才はちがうか、まあいい。

まあ、たとえば視覚障害を持ちながら世界的な評価のピアニストがおられるわけである。

視覚障害を持つということで選択肢が極端に少なくなり、その人はその少ない中からその人にとって最良のピアニストを選択したわけである。

我が家にもあたしが子供の頃から無駄に大きなグランドピアノがあるのであるが、あれもこれもで幅広くカンナで削るあたしがピアニストになれる様子は以前も今後も影も形もないのである。


ふつーになんでも見えてなんでもできるので、その分、選択肢がやたらと多くて、子供のころも現在もピアノを弾くよりも楽しいことが多すぎて、あれこれやりすぎて全部中途半端で、なーんにもものにならないわけである。

もちろん今後もあれこれそれこれなんでもかんでも手を出して、思いっきり幅広くカンナで削って浅学非才凡人街道猫まっしぐらであることは間違いないのである。

つまり選択肢が多すぎてわけがわからなくなってるわけである。

だから、選択肢が極端に少なく、選べないというのは天才達人を造る神の采配のひとつでもあるわけである。

逆に選択肢が多く、選べるというのはあたしら凡人を造る神の采配でもあるわけである。

ううう、自虐ネタになってしまった。

ああ、ありがたいありがたい。

まあ、なんでもお礼を言っとけ言っとけであるのである。

さらには笑ろとけ笑ろとけであるのである。

ううむ、なんかオチはないかね。

ああ、めんどくさい。


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