神の恩寵 まあ、ものが見えるというのは、これ、眼で見ているようであるが、眼はレンズ部分であって、電磁波である光が入ってきて、それを認識するのは脳であるわけである。 その脳でもDNAのスイッチの入り具合いで働き具合いが人それぞれであるので、同じものを見ても見え方が違っていて、中には同じものを見てもまったく違うものに見えている人もいるのである。 ものすごく端的な例が、たとえば色覚障害などの場合は通常は赤に見えるものが赤に見えないという人もおられるのである。 つまり、その人にとっては誰にでも存在する赤という「もの」が存在しないということであり、見えないわけである。 その人にとっては多くの人が見える赤は見えなくて、その人だけの違う赤が見えているわけである。 スイッチの入り具合いでたいていの人に同じように見えるものがそのように見えない人もいるということは、逆に言うとそのスイッチの入り具合いで、本来は見えないものが見える場合もあるわけである。 つまり脳は眼というレンズを通して入ってきた電磁波である光を認識してそれを判断するわけであるから、その電磁波のたぐいである気や霊などの波動を光として認識するようにスイッチが入っちまう人もいるということであるのである。 だから人によっては、人の想念による波動の塊(かたまり)が霊に見えたり、人の発する気がいわゆるキルリアン写真のように見えたりする場合もあるわけである。 それを神の恩寵であるとか、人の体調がわかるとか思い込んでしまうおつむのちょーしが悪い人もおられるわけであるが、これにまたさらにおつむのちょーしが悪い人が取り巻きになるとそれが信者となりそこに宗教が生まれるわけである。 あたしも気や霊などの波動がよーくわかって、わけのわからないものもいーろいろあれこれなんでもかんでも見えるわけであるが、これは逆にいうといらぬスイッチが入っておつむのちょーしが変になっているということでもあるわけである。 これがさらに進んで電磁波過敏症なんてことになると、もう、これ、健康法の範疇ではなくなって、心療内科や精神科、脳神経科のセンセイのお世話になるということになるのであるが、これ、まちがっても、気の治療や祈祷、霊気、神気、波動などをご商売道具にするセンセイ方のお世話になってはいけないのである。 さらに悪化するのである。 どれどれ。 |