科学と神 12月5のニュースで、大阪大大学院医学系研究科の不二門尚教授への取材で、失明した患者の眼球に、網膜を刺激する電極を装着しパソコンの画面を移動する光の動きを指先で追えるまでに視覚を回復させるのを、国内で初めて成功したそうである。 同チームは4~7月に、10年以上前に失明した網膜色素変性症の女性2人に、眼球の網膜の裏側に49の電極が付いた白金製のチップ(約7ミリ四方)を装着して、眼球内にも約1ミリの電極を一つ装着し、女性の額に取りつけた電荷結合素子(CCD)カメラでとらえた視覚情報を、体外装置で変換して装着したチップに送り、網膜を刺激し、脳に情報を伝えて視覚として認識する仕組みで、2人ともその情報で、パソコン画面上を移動する光を指で追うことができたそうである。 CCDカメラの映像情報を脳に送って、視覚として認識させるわけである。 同チームの不二門教授は「2年後には大きな文字を読めるようにしたい。数年以内につえがなくても歩けるようになるかもしれない」と話しているそうである。 全盲の方が数年以内につえ無しで歩けるようになる可能性があるのである。 すごいねどうも、医療はどんどん先にいくのである。 ついに、失明患者が、視覚を取り戻すことができるようになるわけである。 しかし、聴覚障害の患者も相当数いるわけであるが、その治療もどんどん研究していただきたい。 目と耳はやはり、人間の一番大きな情報源であるので、それを閉ざされた方の生活を思うと、神の采配とはいえ、人間の能力で、それを変えて行く事に躊躇はいらないのである。 視覚障害の方も、聴覚障害の方も、いずれはその治療法が見つかり、須(すべか)らくすべての人のその障害が解決されて運命が変わるのが普通になるのである。 科学はいわば、人間に与えられた運命への挑戦であるのである。 与えられた運命も業(ごう)であり、それを変えることの挑戦も業であるのである。 業は因果応報などという、こざかしいこじつけではないのである。 神の御意思で人間を造られたわけであるから、人間が人間を救うことに全力を尽くして、その運命を変えてよろしいのである。 業は救う人も救われる人もなすことをなせば刈り取られるのである。 人の運命を変えることが業である人もいれば、人によって運命を変えられることが業である人もいるのである。 変えられるひとは変える人の業を刈り取るわけである。 神は人間のあらゆる行いを総てにおいて、認知されておられるのである。 人類を存続せしめるのも、自ら総てを破壊してそれを断つのも神は認知しているのである。 それは人間をこの世に現したのは、ほかならぬ神だからである。 |