象気功

会陰メソッド


会陰メソッドの根本原理

氣の栓


ううむ、8月2日9時28分だ。

気温計は31度で湿度66%になってる。

あたしも霊能者の端くれであるので、クーラーはしにそーになるまで使わんので、しにそーに暑いのである。

なんで霊能者はクーラーを使わんのかとゆーとアンテナが鈍るからである。

霊界通信の電波がクーラーの電磁波で乱されるのである。


それじゃ、PCやモニターその他の電磁波はどーなんだというツッコミもあるとは思うが、それはむにゃむにゃであるのである。

まあ、それで、氣の穴と氣道の穴の解説を滞り無く終えて、理解できたおつむのちょーしの麗しい人も、おつむが壊れていてボクわかんなーいの人も、放ったらかしにして、おいてけ堀に腐らせて、日本の未来を開く会陰メソッドとはなんであるかという極め付きの極秘情報に迫るわけである。

まあ、いつも口を酸っぱくして言うことであるが、氣のメソッドあるいはカリキュラムに過大な期待をしてもなーんにもないのである。


それでいきなり人並み外れた能力が出るてなこともないし、いきなり運気が天まで昇ってお金が怒涛の勢いで入ってきて、酒池肉林の人生になることもないのである。

たとえば受験を控えた皆さんは、ご利益霊験あらたかと評判の神社仏閣に何時間もかけて詣でて、大枚はたいて祈祷お祓いを願い出たりして、真剣にあれこれ神頼みするよりも、その時間に地道にお勉強した方がいいのは当たり前である。

お金が欲しければ、金運上昇のおまじないを朝から晩まで唱えるより、地道に働いた方が早いのである。


また、強くなりたいなら、氣をどうのこうのするよりも、地道に格闘技を習ったほうが確実に早く強くなれるのである。

人を飛ばしたいなら、氣がわからない相手にはさっぱり通用しない発勁空勁を求めて朝から晩まで気功なんかやるよりも、地道に相撲の突っ張りを稽古したほうが、どんな相手も確実に飛ばせるのである。

さらには、お病気になったら、ヒーラーだのレーキだのまじないだのわけのわからない治療師に頼ったり、墓の方角だの先祖供養だの風水だのに頼らずに、近所のお医者さんに行った方がよろしいのは当たりまえである。


つまり、氣のメソッド・カリキュラムてなものは実生活ではなんの役にも立たないということである。

それじゃ、それを全面に押したてて神のお告げという名のもとに口から出まかせ言いたい放題の象気功の目的はいったい那辺にありやということになるわけである。

もちろんあたしの仕事の合間のひまつぶしというのが本来の目的であるが、もうひとつのコンセプトは「効果があればもうけもん」つーよーなことである。


その決定的な教義が「やらないよりまし」である。

これは細胞の活性度においての話である。

まあ、前回も解説したのであるが、気功の大前提は「緩める」ということである。

「緩む」ことにより、氣をつかみ、氣をコントロールすることができるのである。


その「緩む感覚」をつかむための一助として「力を抜く」という表現を使うわけであるが、もちろん、骨格筋・深層筋に関わらず、完全に力を抜いたら立つこともできないわけである。

立つだけでも、筋肉は骨格筋・深層筋に関わらず、緊張し、「力が入っている」わけである。

当たり前である。

その「力の入った」状態で「緩める」わけである。

だから、前回も解説したように、厳密には、「力を抜く」ことと「緩む」ことは違うわけである。


しかし、しろーとさんが「緩む」という感覚をつかむためには意識でコントロールできる「骨格筋の力を抜く」ということから始めると、その「緩む感覚」をつかむ一助となるわけである。

つまり、「力を抜く」ことは「緩む感覚」をつかむための一助であるから、骨格筋の力を抜くことにこだわっても意味は無いのである。

深層筋・骨格筋に関わらず、完全に力を抜いたら立つこともできないのである。


そうではなく、目的は「緩める」ことである。

まあ、たとえば、ウサイン・ボルトの走りが「緩んでいる」と表現されるわけであるが、全身の筋肉は収縮し緊張しあるいは弛緩し、ダイナミックに躍動しているわけである。

全身の筋肉の力が抜けたら走ることはおろか立つこともできないわけであるから、語弊はあるが、いわば、筋肉に力は「入っている」わけである。

しかし、ウサイン・ボルトは、走るときに、筋肉を含めて全身が「緩んでいる」のである。


緩んでいるから、必要な筋肉だけが使われ、最良最善のエネルギーの使い方になるわけである。

逆に、ボルトといえど、緩まずに全身に力を入れて力みまくって走ったら、10秒台も怪しくなるのである。

もちろん、ボルトの走りにおける緩みと、氣を操作するための気功における緩みは厳密には違うのであるが、気功においては、この「緩み」を「身体感覚」として意識でつかむわけである。


この「緩む感覚」を表してしばしば言われるのが、身体の「空洞感覚」ということであるが、あたし的には「充満感覚」あるいは「液状感覚」あるいは「氣の身体」という感覚である。

さらには、その「氣が充満した身体」と周囲の空間あるいは宇宙との一体化ということである。

この「緩む感覚」は通常生活にない感覚であるので、言葉では適切に言いあらわし難いし、身体の氣の充溢状態によっても違うので、個々で試して、その感覚をつかむしかないのである。


その感覚をつかむための一助が、「力を入れる」と反対の「力を抜く」ということであるわけである。

肩の力を抜き、意識で操作できる骨格筋の力を抜き、そのことにより氣が下がり、その先には「緩む感覚」をつかむ方向性があるわけである。

最後にもう一度言うが、これは、「緩む感覚」をつかむための一助あるいは一方向性であって、「力を抜くこと」が目的ではなく、「緩む感覚」をつかむことが目的であるわけである。


まあ、これだけ懇切丁寧に事細かに解説しても、わからんものはわからんだろうから、まあ、いつものようにおつむのちょーしが快調でよーくわかった人も、ボクわかんなーいの人も、混ぜて含めて放ったらかしでどんどん先に行くのである。

まあ、それで、話を戻して、「やらないよりまし」のひとつは、たとえば、幸いにも象気功を正しく理解できた人が、意識で体を「緩めよう」とするだけでも、緊張がそれなりに解けて血流が改善されて、細胞は生き生きと蘇るのである。

それにいろいろなカリキュラムを付け加えて、さらに緩めるわけであるから、相乗効果で血流はさらに改善されて、やり方が多少でたらめでも、健康状態はよろしい方向に向かうわけである。


逆に、不幸にして象気功に出会わなかった人が、緩めるという概念すら持たず、ストレスだらけで緊張が続いたままでいれば、血流があちこち滞って、そのうちいろいろなおびょーきになるのは必然である。

何ごとにおいても緊張を強いられる現代生活において、「緩める」は健康においては非常に重要なタームの一つとなるわけである。

ところが「会陰メソッド」は、その「緩める」の真逆の「締める」というメソッドである。


おためごかし尺稼ぎネタから、いきなり本論である。

ここが象気功の油断できないところである。

なにしろ神のお告げの口からで任せであるので、どこでどーなるのかはあたしにだってわからんのである。

行きあたりばったり出たとこ勝負のライブ生放送であるのである。


会陰はいわば「氣の栓」である。

会陰は氣の穴の開け閉めを司る氣の器官である。

出ました!ついに会陰メソッドの秘密開示であるのである。

予想通りだ?

あーら、悪かったわね。


つーことで、わあわあゆーとりますが、会陰メソッドで締めるのはどこなのか、締めるといったいどこがどーなるのか、役に立つのか立たないのか、あそこも立つのか立たないのか、役に立たない気功法を全面に押し立てて、象気功はいったい何をしようとしてるのか、謎が謎を読んでナゾナゾをひとつ。

またかよ。

顔の真ん中からホースをぶら下げてるのはだーれ?

答え・象さん

ころすぞうなんて言わないでね。

しかし、程度の低いネタで終始ふざけ倒してるだけで、信憑性のかけらもないが、いったい象気功ってなんなんでしょうか。

どんなくだりやねん。

いみわからん。

続く。

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