象気功

会陰メソッド


会陰メソッドの根本原理

一切衆生救済


ううむ、救済だ。

あちらこちらで怪しいサイトとディスられる象気功がさらに怪しくなるのである。

一切衆生救済とは総ての人をお救い申し上げるということである。

いわば大きなお世話である。


てなことで、象気功をよーく読んで、よーく理解している聡明な読者も、生まれつきおつむのちょーしが極めて不調でまったく理解できないパ~の人も、いっしょくたにまとめて含めて放ったらかしにして、象気功はどんどん先に行くのである。

象気功はありがたーい象の大神様からのお告げを出たとこ勝負の口から出まかせで提示するだけであるので、理解はその人の勝手であるのである。


正しく理解すれば正しい方向に行くであろうし、間違えて理解すれば、間違えた方向に行くであろうし、理解できなければ今までどおりの間抜けな方向に行くであろうことは自然の摂理である。

おつむのちょーしが極めて不調で間違えて理解して間違えた方向に行くものは、そのようにせよとの神の思し召しであるので、その思し召しに従えばよろしいのである。


何ごとも、その思し召しで、成功者と失敗者ができて、世の中は面白おかしくなるわけである。

象気功を正しく理解したものは幸いである。

しかし、がっかりしてはいけません、象気功を正しく理解できないものも、ご臨終の瞬間には、「ああ、象師匠の言ってることはこのことだったのか!」と成就し感涙にむせぶことは必定である。

まあ、できれば、元気な今のうちに感涙にむせんでいただきたいところであるが、そうもいかないところがこの世浮世の習いで、パ~はパ~であるので百万言を費やしても何も理解しないものもぎょーさんおられるのである。


言葉というものは、その真意よりも、それを聞いたもののおつむのちょーし、知性、知識、理解力、判断力、読解力などによって、その意味がまったく違うものになってしまうので、どんなパ~にも読めるように簡単平易を心がける象気功の猿でも読めるような文章でも全く理解できないぐらい末期的なパ~も多々満載であるので、まあ、そこは諦めてどんどん先に行くわけである。

どんな疑問も、読み返せば答えは総て象気功の中にあるのである。


つーことで、まあ、それで、えーと、なんだっけ?

前振りが長すぎて、なにがなんだかわからんのである。

とにもかくにも、氣の穴と氣道の穴である。

人体には、体の表面に空いてる、汗腺・皮脂腺さらには目、口、鼻、耳、肛門、尿道、膣などの氣の穴があるわけである。

これらの氣の穴はそれなりに制御されて、老廃物としての氣を開放する睡眠時でも、それなりに制御されていて、氣道内の氣の圧力をその人なりに保っているわけである。


しかし、その制御の状態で、その人間個々の氣道内の氣圧が左右され、体力・気力・免疫力しいては運気・運命が左右され、この世浮世が面白おかしく構成されるわけである。

さらに、お病気などになると、その周囲の氣道が炎症を起こし、さらには損壊され、「氣道の穴」が空くのである。

その氣道の穴は制御できないので、氣がだだ漏れ状態となり、いわゆるお病気の人となるわけである。


だから、お病気になると、体力はもとより、気力もなくなり、声も蚊が鳴くような小さな声になるのである。

元気を出せと無理なことを言っても、元気の素がないわけであるから、出るわけもないのである。

氣道の穴が空いて、お病気の人になると、もうこれ、運気どころではないわけである。


具合が悪くて気力もへったくれもないし、そのまま立ち直れず「余命3ヶ月です」なんて宣告を受けたりして、あの世黄泉の国への旅支度をこよなくなされる事態になる人も多々おられるわけである。

氣の穴の制御が不調で不運なものは元より、お病気で氣道に穴が空いて氣がだだ漏れして人生末期断崖絶壁絶望の淵に立たされたものも含めて一切衆生を救おうという奇跡の法が、神の思し召しの「会陰メソッド」である。


吹くね、しかし。

じゃかましわ。

まあ、それで、たとえ、病気でなくても、氣の穴の制御の具合で、氣の漏れる量が多いものは、站樁功、太極拳、開合功、昇降練氣、導引、八段錦、五禽戯などの気功の技術を駆使して氣を作っても、必要以上に漏れしまうので、目立った効果が得られない人もおられるのである。

他の人と同じように、気功・ヨーガ・仙術・神道・修験道・導引などの氣のカリキュラムを学んでも、どんどん氣が出るようになる人と、いくらカリキュラムを正しく根気よくこなしても、さっぱり氣が出ない人がおられるわけである。


同じ量あるいは同じ時間の氣の修練訓練を正しくこなしても、効果の著しい人とぜんぜん効果の上がらない人ができるのである。

これは、氣の穴の制御の具合により、氣が必要以上に漏れてしまい、氣道内の氣圧が上がらないことに原因があるわけである。

神は人間を平等には作られておられないのである。

総ては神の思し召しである。


もちろん、この場合、神であって紙ではないのである。

紙では薄っぺらでペラペラであるので、そんなものに思し召しされてもありがたみがないのである。

さらには蟹ではもっとありがたみがないわけである。

蟹のはさみでちょきちょきされても、ううう、あたしの頭はおかしいんでしょうか?


飽きてしまってボケ倒してダダ滑りしたところで話を戻して、氣の穴の制御が緩く、氣が必要以上に漏れて氣圧が低く体力も気力もない人に、積極思考だのポジティブシンギングだのとアホなことを言っても無理難題であるのである。

人間は体力あっての気力であるのである。

その体力・気力は氣道内の氣圧の状態によって左右されるのである。


まあ、体力・気力があっても、おつむのちょーしが著しく悪いと、それはそれで問題は山積するのであるが、おつむのちょーしが悪くて体力・気力もなければ、これはもうトドのつまりで絶望的であるので、とにもかくにも人間の根源でもある体力・気力をなんとかしたいわけである。

おつむのちょーしは体力・気力というインフラが整備されてからの話であるのである。

また、さらに、お病気になって、氣道の穴が空いて氣がだだ漏れして氣圧が限りなく低くなり、動くのもしんどい人に站樁功だの太極拳だのをやれと言っても、立つことすら困難であるわけである。


動功の場合は、骨格筋・深層筋の別にかかわらず「筋肉を鍛える」というとんちきな発想は論外として、血流を促すために、とにもかくにも動かなければならないわけである。

動くには最小限の体力を必要とするわけであるが、重篤な患者は起き上がることもままならないわけである。

重篤なお病気になると、気功もヨーガも密教も仙術もへったくれもぼったくりもあったもんじゃないのである。


死にそうな病人に「気合が足りない」なんてことで真冬に滝行だの水垢離だのてなことをさせたら、それこそ、その場でしんじまうのである。

密教にしても神道にしても、氣の修行なんてもんは、いってみれば元気な人間のたわごとであるとも言えるのである。

また、さらに絶望的なことに、たとえ動かない気功である放鬆功もメディテーションも静功も智能気功も、氣道に穴が空いていれば、氣がだだ漏れであるので、さっぱり効果がないのである。

もちろん、象気功のもっとーの常套句で「病気の場合は医者に行け」ばいいわけであるが、これが、医者に行っても治療が追いつかないぐらい氣がだだ漏れであるので、お病気の進行が早くて、どんな治療もさっぱり効果がない人もおられるわけである。


さてさて、そのような、氣の穴が緩いために必要以上に氣が漏れて氣圧が低くて体力・気力がなくて免疫力も低くて体が弱く運気の弱い人も、病気で氣道に穴が空いて氣がだだ漏れで医者にも見放されて動くこともままならず運気どころじゃない人も、十把一絡げで一切衆生をまとめて救う、全世界70億人が待ち望んだ神のお告げの「会陰メソッド」とはいかなるものか、果たしてこの世の地獄をのたうち回る悩める衆生を救えるのか突き放すのか突き落とすのか、いよいよ会陰メソッドの秘密に迫る次回だ。

ううむ、すごいことになったな。

なんてことでね。

いったい、これ、どーする気なんだ象師匠は。

続く。


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