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作家秘話リスト
回数
作家名
10
開高健
9
池田満寿夫
8
小林秀雄
7
山口瞳
6
渋沢秀雄
5
色川武大
4
3
2
1
松本清張

何かの拍子に

ところで雅洋さん
うちで何か軽い連載しましょうよ。
たとえば・・・うーん・・・
「作家の道楽談義」はいかが?
開高健は相当の釣りキチ。アウトドア本格派の○○。元絵描きのナンタラは結構おもしろい焼き物も、料理が得意な××氏とか、ご存知女装趣味のだれだれとかとか・・・。
わー、楽しそ!!
「雅洋さんの作家の道楽談義」、はじまり、はじまりー!!

とか言って、無理矢理始まっちゃったコーナーなんである。
そしたら雅洋さんが版に書き込んでくだすった。

>おばちゃん
そんな無理難題を三文文士におしつけるとは、あんまりな(笑)。
とりあえず、おばちゃんの好きそうな推理作家からなんてのはどうですか。
私が文藝春秋の社員で編集者だった頃、本誌で松本清張を担当しました。
そんなところから。
清張はものすごい犬好き。徳川綱吉も真っ青の犬好き作家でした。原稿取りに自宅へ行くと、室内犬のチャウチャウやらチワワやらが跳んできてワンワンキャンキャンうるさいったらありゃしない。時々踏んづけてウップンを晴らしていました。このバカ犬めらが、と。もうひとつ、清張さんは銀座のホステスを二、三人愛人にしていましたよ。女好きでも編集者仲間では有名でした。犬の愛撫と女の愛撫はどっちがうまかったかは聞き洩らしましたが(笑)。


以上が本コーナー誕生秘話?であります。

voice&voice
皆様からのご意見ご感想のコーナーもご覧ください。
こちらから


ご意見ご感想を
お寄せください。


投稿日:
■■■  「なんやかんや」 ■■■
平成 14/12/25 (水) 12:00 作家秘話10

今回は開高健さん。

『裸の王様』で第38回芥川賞を受賞した開高さんは有名作家ですね。
次々と問題作を発表してきた開高さんですが、その業績が評価され、菊池寛賞が贈られることになりました。

私が入社5年目で、会社の主催する各賞の担当をしていた時です。
文春の賞というと「芥川賞・直木賞」が最も有名ですが、他にも「大宅壮一ノンフィクション賞」「文春漫画賞」もあります。そして会社の威信がかかった賞が「菊池寛賞」なのです。

私は事務局の唯一の男手ということで各賞の担当を一人で切りまわしていましたから年がら年中忙しく働いていました。
菊池寛賞を開高さんに贈られるという決定を受けて私は授賞式でのパンフレットを作成しなければなりません。略歴や家族構成、授賞理由などを取材して書き、パンフに載せる訳です。

開高さんの奥さんが詩人の牧羊子さんだということは知っていましたが、お嬢さんの名前を失念していました。それで電話取材です。
開高家に電話を入れたら先生自身が出てくれました。

「どうも菊池寛賞受賞おめでとうございます」
「はいはい、青天の霹靂でした」
「ちょっとお尋ねしたいことがございまして」
「なんですか」
「奥様は詩人の牧羊子さんでございますね」
「はいはい、古女房ですな」
「お嬢様がおられましたね」
「はいはい、太ったのがいますな」
「お名前を失念致しまして。お名前はなんでしたか」
「はいはい。みっちゃん、みちみちうんこ垂れて紙がないから手でふいて、もったいないからなめちゃったのみちこです」
「ハハハ、なめましたか」
「はいはい、綺麗になめてます」
「美智子妃殿下の美智子さまでよろしいんでしょうか」
「滅相もない。道草を食うの道子です」
「ああそうでしたか。どうもお忙しいところを有難うございました」
「ちっとも忙しくありませんよ。おたくの会社にはお世話になっていますからな。賞を有難うございました」
「とんでもありません。では失礼します」
ガチャリ。

まったく開高さんはひょうきんな人柄の作家です。
私は「みっちゃん、みちみち・・・・・・」の台詞を聞かされて大笑いしてしまいました。

さて、授賞式当日です。ホテル・オークラで。私はパンフレットも作成し大勢の招待客に配って開高さんの受賞スピーチを聞いていました。

大要「自分は最近小説が書けなくて困っているが、この賞を貰って勇気づけられた。これからは益々いい作品を書いていきたい」
というような話をしていました。
『オーパ』などの釣り紀行などに活路を見出したのも、そんな開高さんの意欲の表明であり、作家としての新境地を開いたものだと思われます。

しかし、開高さんが書けなくなっていたのは事実で、釣り紀行以後、あまりパッとしたものがありません。
聞いたところによると、開高さんは晩年はアルコール漬けだったとのことです。井伏鱒二に「先生、書けなくて困っているんですがどうしたらいいでしょうかな」などと質問したのも受賞以後のことだと仄聞しています。よほど辛かったのでしょうね。

開高さんは1989年に惜しまれつつ世を去りました。
お嬢さんの道子さんも亡くなり、そして2000年にはとうとう未亡人の牧羊子さんも寂しい最期を遂げました。
茅ヶ崎にある開高家は誰もいなくなってしまったのです。

思えば、菊池寛賞を受賞した頃が開高さんの最後の晴れ姿だったのですね。私は、「みっちゃん、みちみち・・・・・・」と電話口で語ってくれたあのひょうきんな開高さんの声が忘れられなくて、時々辛い気持になります。そして、開高文学を読んで一人偲んでいるのです。

「開高・大江時代」から幾星霜、未だに根強い読者を持っている開高さんの文学は長く読み継がれていくと確信しています。

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投稿日:
■■■  「なんやかんや」 ■■■
2002/09/14 (土) 6:58 作家秘話9。

版画家にして芥川賞作家でもあった池田満寿夫さん。


池田さんといえば国際的な版画家として著名でしたが、『エーゲ海に捧ぐ』という作品で芥川賞も受賞していくすね。

さて、私が入社7年目で本誌『文藝春秋』に配属になったときのことです。

グラビアの企画に「私の朝、昼。晩メシ」というのがありました。毎月著名人に登場してもらって食卓をのぞかしてもらおうという企画です。

第4回目でしたか、池田さんに登場してもらおうということになりました。実は池田さんは、こう言っては失礼ですが、マスコミに出たがりで有名だったのです。アポを取ったら二つ返事でOKでしたよ。それで、カメラマンと一緒に一泊二日の取材をさせてもらいました。

奥さんはバイオリニストとして著名な佐藤陽子さんですね。
お宅は四谷の交差点からちょっとひっこんだ所にありました。

まず晩メシの撮影です。
カメラマンと二人で取材に行ったら、友人の小田島雄志夫妻もみえていて、池田夫妻と小田島夫妻と義母の五人でわいわいいいながら夕食が始まるところでした。メニューはなんだったかちょっと覚えていません。
ただ、高級ワインをみんなで飲んでいたことだけはよく覚えています。雑談で盛り上がり、楽しい夕食でした。撮影が終わると私も便乗してワインを頂いたりして上機嫌で帰社しました。

翌日は朝メシと昼メシの撮影です。
朝10時半頃来てくれというので、やっぱり指定通りの時間に行きました。

するともうビールが始まっているのですね。
(朝からビールとはいいご身分だなあ)と思いつつ、撮影を済ませました。

昼メシは四谷にある高級中華料理店で。
店長に頼んで撮影を許可してもらいましたよ。
ただし、店名を必ず記事の中に入れるという約束でしたけれどね。みんな、自分のことをマスコミに取り上げてもらうのは嬉しいものなのです。

この中華料理店でもやはり酒を飲みながら高級料理をパクパク。
奥さんの陽子さんが健啖家でしたねえ。

池田さんが
「どう、君もやらない」と勧めてくれるので、紹興酒を頂いたりして。
まあ、役得ですね。

さて、これで撮影はすべて終了。そこで、ハタと気がつきました。
池田夫妻は三食アルコール付なんですよ。食事ごとにアルコールが入っていたのですが、記事では泥酔している池田夫妻の場面はカットして載せました。
読者に悪印象を与えてはまずいですからね。

池田さんは、今だから言えますが、アル中だったんですね。
厳しい芸術の世界に生きる人にはアル中が少なくありませんが、池田さんも例外ではなかったんですね。
終始ニコニコしていた池田夫妻ですが、あれはしょっちゅう酔っ払っていてご機嫌だったからだったんだなあと気がついたのは随分後のことです。

撮影から二年後でしたか、池田さんは突然亡くなりました。
死因は忘れましたが、私はアルコールによる肝硬変だったんじゃないかと思っています。実に気さくな人柄の方でしたが、あれだけ飲んでいれば体もおかしくなるというものです。

版画に執筆に活躍した池田さんでしたが、酒が命を縮めたのかと思うと残念でなりません。芸術家として生きていくのも大変ですね。

奥さんの陽子さんは最近噂を聞きませんが、きっと音楽活動をなさっているのだろうと思います。

文字通り「酒とバラの日々」に生きた池田満寿夫さんの芸術は不朽だと思います。

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投稿日:
■■■  「なんやかんや」 ■■■
2002/01/04 (金) 午前 9:52
作家秘話8。

今回は小林秀雄さんです。

泣く子も黙る日本近代文学史上最大の文芸評論家にして思想家でもあった小林秀雄さんの晩年の大著『本居宣長』の出版記念講演会には私も取材に行きました。

確かホテル・オークラで行われたと思いますが、とにかく出席者が日本を代表する作家、評論家、学者、ジャーナリストばかりでしたので圧倒されました。

小林さんの歩みは、そのまま近代日本文学の歩みといってもいいくらいですので、80歳で亡くなったとき、大新聞が「近代文学切った光彩」と最大級の讃辞を送ったのもうなずけます。

記念講演会の片隅で私は小林さんの話を必死にメモしました。
甲高い声で、しかも江戸っ子らしく、べらんめえ調で話しますので話は大変に面白かったです。誰かが小林秀雄の話術はまるで古今亭志ん生のようだといっていますが、これは非常に上手い譬えだと思います。

さて、講演会も終りに近づいた頃、小林さんはこんなことを述べました。

「僕は宣長さんと一生懸命対話しただけなんだ。遠くにいる宣長さんを近くに招いてみただけなんだ。なんの作為もないんです。それだけです。ところで皆さんなにか質問はありませんか。何にでも答えますよ。質問して下さいよ」

こう呼びかけたのですが、満場寂として声なし。日本を代表するインテリゲンチュアも小林さんにかかってはかたなしというところでしたね。
私は演壇の側に寄って写真を撮り、

帰社して原稿を書いて記事にしました。写真を撮るとき、かなりビビってシャッターを押す指が少し震えていたことを思い出します。

さて、それから三年後くらいでしたか、私は編集総務部という部署に異動になっていました。会社が主催する各賞の事務局ですね。あるとき、隣接する宣伝事業部長のT氏から「文壇ゴルフの手伝いを頼むよ」との要請がありました。
もちろん手伝いに行きました。当日、保土ヶ谷カントリークラブで朝から作家諸氏のサポートをするのです。
私は、各先生方がアウト、インを終了したときにスコアーカードを戴くのが主な役回りです。

そのときに小林秀雄も最高齢文士として参加していたのです。
やがて、かの老巨匠はプレイを終ってクラブハウスにゆっくりとひきあげてきました。

巨匠と直かに口をきける絶好のチャンスです。私はこの小柄な巨匠に走りより、

「先生、なかなかご立派なスコアーですね。お疲れだったでしょう」

と声をかけました。すると小林さんは

「なあに、医者が玉っころでも転がして運動しろっていうからやっているだけですよ」

と例の甲高い声で応えてくれました。
小林秀雄と直接に話したのは後にも先にもこれっきりです。

しかし私は学生時代から憧れていたこの大思想家と直接言葉を交わして感無量でした。
やがて夕方になり、慰労会が開かれました。
小林秀雄は80歳の最高齢参加者だということで私ども主催者から高価な
パターを贈らせてもらいました。ニコニコ顔でパターを受け取る巨匠は童子のようでした。私も直接言葉を交わして大満足でした。

しかし、その翌年春1983年に巨匠は卒然と世を去りました。
青山斎場で行われた葬儀にはものすごい数の人々が群れをなしてこの一世を画した思想家とお別れに参集しました。
私も葬儀の手伝いに駆りだされて手伝いました。つくづく大勢の読者から尊敬された文士だったんだなあと思ったものです。

小林秀雄の墓は生前かれが好んで足を運んだという鎌倉の東慶寺にあります。

2001/12/31 (月)
午後 3:41

作家秘話7。

今回は山口瞳さん。

山口瞳さんは長らく「週刊新潮」のコラム『男性自身』を連載された作家ですから、読書人でこの人を知らない方はないでしょう。

『江分利満氏の優雅な生活』で第48回直木賞を受賞し、長篇私小説『血続』で第27回菊池寛賞を昭和54年に受賞しています。

また、長らく直木賞の選考委員も務めておられました。有名作家ですね。また文壇屈指の将棋好きとしても知られており、プロ棋士との対局自戦記『血涙十番勝負』『続血涙十番勝負』などという楽しい作品も残しています。
さて、私は入社二年目にして「週刊文春」の囲碁将棋欄の担当になりました。当時、もう二十年以上前になりますが、「名将戦」という4頁の将棋欄があってプロ棋士の対局を毎週一局づつ掲載していたのです。

私は囲碁はさっぱりダメですが、将棋は学生時代に熱中し、町道場に出入りしアマ五段の腕前でした。
そんな私の特技を見込まれて「名将戦」の担当を三年間やらされました。随分大勢の作家に観戦記を書いてもらったものです。

入社3年目の秋でしたか、「週刊文春」が創刊1000号を迎え、記念に「名将戦」でも花形作家に観戦記を書いてもらえと編集長から指示があり、そのときにお願いしたのが山口瞳さんでした。

記憶は曖昧ですが、米長邦雄棋聖と某棋士の対局を観戦してもらいました。対局は双方持ち時間2時間で午前11時から始まり、夕刻には決着がつくという慌ただしいものです。

私は瞳さんにお願いして10時半頃千駄ヶ谷の将棋会館にお越し戴き、簡単な打ち合わせをして11時の対局開始になると対局風景の写真を撮り、あとは両棋士の熱戦を傍らで瞳さんと観戦しているだけです。

やがて12時になり、一時間の昼食休憩となりました。将棋会館の地下にあるレストラン「歩」で、瞳さんと米長さんと私の三人で昼食を摂りました。確かチャーシューメンを食べたかと思います。

すると待っている間に瞳さんは鞄からなにやら取り出し、テーブルの上に置きました。
なにかなと思っている間もなく、今度は驚いたことにやにわに口に手を突っ込むとパカッと入れ歯を外しました。

そう、瞳さんは総入れ歯だったのですよ。
鞄から取り出したものは入れ歯洗浄剤だったのです。

これには米長さんも私も唖然としましたね。
瞳さんはまったく無頓着でフガフガと

「いはあ、齢とふとこんなものがひふようになふんだよ」

とかなんとか言って総入れ歯を入れ歯洗浄剤に浸し、しばらく洗うと今度は入念に磨き始めました。
フガフガは相変わらずですが本人はいたって大真面目でその作業を続けました。
やがてチャーシューメンが運ばれてきましたが、そのときは米長さんも私も食欲減退。半分も食べられなかったですね。

そのときの対局は強豪米長さんの勝利に終わりましたが、米長さんは局後私に「いやあ、瞳先生の入れ歯磨きで感覚が鈍っちゃったよ」と苦笑していました。私も笑うしかなかったです。

なんでも瞳さんの話では親しい人の前では平気で入れ歯磨きをするのだそうです。
すると米長さんも私も親しい人間の仲間に入っていたのでしょうか。それならそれで名誉なことです。

観戦記原稿は国立市のご自宅にお邪魔し、戴いてきて創刊1000号の記念号に無事載せることができました。
さすがに、文壇きっての将棋好き作家だけに、冴えた原稿で読み応えが
ありました。

瞳さんは1995年8月30日に亡くなりましたが、亡くなる直前まで「週刊新潮」のコラムを書きつづけておられたのは立派でした。

しかし、私は瞳さんの死亡記事を新聞で見たときに、どうしてもあの総入れ歯事件を思い出してしまい、不謹慎ながら微苦笑を禁じ得なかったのです。

2001/09/09 (日)
午後 6:10
作家秘話6です。

今回は随筆家の渋沢秀雄さん。

渋沢秀雄さんといってもご存知ない方もいるかも知れませんが、明治経済の父、渋沢栄一子爵の四男といえば、「ああ」と納得されるかと思います。

渋沢栄一は日本にも都市型高級住宅地が必要だとの考えから、田園調布という日本一の高級住宅地を造りました。石原都知事や巨人軍の長島茂雄監督もこの地の住人ですね。
でも、田園調布の主は渋沢栄一であり、子、孫とこの住宅街のいわば管理人を受け継いでいるのです。

さて、私が「週刊文春」の編集記者一年生の時、「ぴーぷる」という欄を担当していました。
毎号、話題の人物を採り上げ、取材し、原稿を書いて載せるわけです。
毎週、様々な分野の人を三人取材するのですからかなりの重労働でしたよ。

渋沢秀雄さんが勲何等かの文化功労者に叙せられたという記事が新聞に載りましたので私が取材に行きました。
田園調布の主ですから広い家でしたが、家庭菜園を営んでいる渋沢さんは菜園に面した縁側で取材に応じてくれました。

年は軽く八十歳を越えていましたが矍鑠たるもの。こちらの質問に笑顔で応じてくれました。
私も充分取材できて今週も穴が開かずに済みそうでよかったと思っていました。取材も終わって帰ろうかというときに、渋沢老人は「ちょっと待ってくれ」と言って、奥の間に入りなにやらキラキラ光る透明の塊を持ってきました。

「これはわしが昔スイスに旅行したとき、スイス政府の高官から戴いた水晶なんだよ。高価なものなんだ。
だが、わしももう長くはない。わしがこんな高価なものを持っていても仕方ないから返却しようと思っているんだが機会がなくてね。
そこでだ、あんたは週刊誌の人だから人脈も広いだろう。
すまないが、日本駐留のスイス大使にこれをわしに代わって返却してくれないか」

という願い事を私に頼みました。私は西も東も分からぬ新米記者ですから
いやとは言えません。
「先生、分かりました。きっとスイス大使に先生のお言葉を伝えこの水晶を返却致します」と応えました。

渋沢さんは青く美しい水晶を風呂敷に包んで渡してくれました。
私も日本とスイスの友好のためだ、是非きちんと返そうと思い、編集部に持ち帰りました。
早速スイス大使館に連絡して、渋沢家の家宝を返したいと言ったところ、大使館はいつでも受け入れるとの返答でした。翌日、私は風呂敷に包んだ水晶を持ってスイス大使館へと向かいました。
大使館についたら一等書記官が出てきまして
「どうもご苦労さまです」と丁寧な挨拶。流暢な日本語を操るスイス人
でした。

私が事情を述べて、水晶を渡しますと、暫くそれを見ていた書記官が笑い出しました。
なんだこいつ無礼な奴だなと思っていたら意外なことを言いました。

「あなた、これは水晶じゃありせんよ。ただのガラスです」
「ええっ?」
「あなたは渋沢さんに騙されたんですよ。こんなの三文の値打ちもありません」
「本当ですか」
「本当です。私は宝石鑑定のプロでもありますから」

そうか、くそっ。あの爺い人を騙しやがったな、とようやく気づいた私です。私が若僧であるのをいいことに渋沢老人はからかったのでした。

スイス大使館まで出向いた私は完全にバカを見たわけでした。
渋沢老の高笑いが聞こえてくるようで歯ぎしりしましたが、後の祭りです。

私はバカバカしくなって腹も立ちませんでした。
むしろあの老人の茶目っ気には微笑ましささえ感じたものです。
これもまた、新米記者の未熟を思い知らされた一件でした。

くだんのガラスは会社のゴミ箱に捨てました。

渋沢老は人をからかって楽しむ名人だと聞かされたのは随分後のことです。

楽しい老随筆家でした(笑)。

2001/08/25 (土)
午後 2:47
作家秘話5です。

今回は大衆娯楽作家の色川武大さん。

色川さんは阿佐田哲也という筆名で『麻雀放浪記』『続麻雀放浪記』を書き、有名作家になりましたね。
筆名を使い分ける作家には、古くは「林不忘」「谷譲次」「牧逸馬」なんていう人もいました。現代では「中島梓」「栗本薫」がいますね。

色川さんは直木賞受賞作『離婚』からこの筆名を使い出し、以後それで通しました。
私が「週刊文春」の編集者だった頃、色川さんに連載小説を書いてもらおうということになり、プラン会議で連載開始のお知らせをまず載せることになりました。

私がそのお知らせの原稿を取ってくる役をデスクから仰せつかり、赤坂のマンションに色川さんを訪ねました。
デスクは「30行ばかりの短文をもらってきてよ」と私に命じましたので、色川さんにもあらかじめその旨伝えておいたのです。

確か『新麻雀放浪記』というタイトルの小説だったと思います。
色川さんは麻雀の腕はプロでしたからあんなに面白い小説が書けたのだと思います。
デスクも麻雀好き。色川さんとも何度も卓を囲んだ仲です。ツーカーの関係ですね。

さて、惹句に等しい30行の短文をもらいに赤坂のマンションに出向いたところ、色川さんいましたね。
頭は禿げあがり、下腹はカエルのようにでっぱり、丁度夏の暑い盛りとあって、トランクス一丁で迎えてくれました。
「ああ、週刊誌の人か、よく来たね」と

ニコニコ顔。直木賞を取って原稿料もあがったので喜んでいたのでしょう。色川さんは「とりあえず一杯いこうや」と私に言って、冷蔵庫からビールを取り出して私に勧めました。
作家とのつきあいはアルコールから始まると叩きこまれていた私は遠慮なく戴きました。
実は色川さんのマンションを探し当てるのに苦労して、こっちは汗だくでのどカラカラだったので正直嬉しかったです。

色川さんはビールを飲んでいる内に妙な話を始めました。
それは、「俺は気が狂って死ぬからこの作品は死に花だよ」という不気味な話なのです。
「俺は気違いなんだよ」と何度も何度も繰り返しますのでこちらもゾッとした気分になったものです。

そこで「先生、原稿の方はいかがでしょうか」と話題を転じたところ、「ああ、できてるよ」とのことでした。
「今、持って来るから」と言って別室に取りに行きました。

よかった、こんな不気味な家から早く出たいものだと思っていたところ、色川さんはなかなか戻ってこないんですね。
おかしいな、と思って別室に私も行ってみたところ、大あぐらをかいた色川さんが、こちらに背を向け、原稿を読んでいる、ように見えました。

「先生、どうされました」と訊いても返答がありません。
前へ回ってよく見たら、色川さんあぐらをかいたまま眠っていました。
そう、色川さんの持病「ナルコレプシー」が出たのでした。

「ナルコレプシー」とは精神医学用語で「軽眠症」とも「嗜眠症」とも呼ばれていますが、何の脈絡もなく突然グッスリ眠ってしまうという珍しい病気です。
私は最初、死んだかと思ってビビりましたが、ナルコレプシーのことはデスクから聞いて知っていましたので、例の奴かと思って目覚めを待つことにしました。
布袋さまのような作家と薄暗いマンションで一緒にいるのはかなり不気味なものがありました。
1時間ほどで色川さんは目覚め、封筒に原稿を入れて渡してくれました。

編集部にタクシーで帰って原稿を開けてみたら、なんと30枚あるんですね。色川さんは「30行」とデスクが言ったのを「30枚」と勘違いしたらしい模様でした。
早速、短文に書き直してもらって、また私が原稿取りに行きました。

すると色川さん曰く
「だから言っただろう。俺は気違いなんだって。気が狂う前にうんと働いておかなきゃな。あんたも俺の担当になったら気が狂うかもな」

私は気味が悪くて仕方なく、原稿を持って編集部に帰りました。デスクに「いやあ、不気味な人ですね、色川さんは」と言うと、デスクは
「麻雀打ってるときも急に眠り始めるからな、やっぱりどっかおかしいん
だろうな」と応じていました。

幸い、私は色川さん担当にならずに済みましたが、担当者の同僚に聞いたら「すぐ眠るので参るよ」と言っていました。

そんな色川さんも1989年に亡くなりましてね、
作家としては他にも賞を得ていますから幸せな作家人生だと思います。
しかし、「気が狂う」と言っていたのは確かで、精神科にも罹っていたようです。

作家は虚構を作り出す商売なので「気が狂う」のも当然だったのでしょう。不気味な作家のNo1は色川さんでした。

2001/08/19 (日)
午後 2:06
作家秘話4です。

今回は近代戦争史家として著名な児島襄(のぼる)さん。

児島さんは『太平洋戦争』『天皇』『参謀』など数多くの近代戦争関する著作があります。亡くなってまだ間もないですが、物故作家なのでもうバラしてもいいでしょう。

大体において作家という人種はわがままで自己中心的な人物が多く、それ故に担当編集者は泣かされるのですが、編集者泣かせの大物といえばこの児島襄さんに止めをさすでしょう。

児島さんはものすごく人使いの荒い人として有名でした。
これは私の四年先輩の編集者が担当になったときの苦労話です。

児島さんは「こじまじょう」と呼ばれるのを非常に嫌い、誰からも「こじまのぼる」と呼ばせていました。
間違って「こじまじょう」などと呼ぼうものなら本気で担当者は殴られましたよ。

児島さんは非常に大柄な人。190センチ、120キロの巨漢でした。
ですから私たちは陰で「ジョーズ、ジョーズ」と言っていたものです。

さて四年先輩の編集者が本誌「文藝春秋」で担当になった時のこと。
取材旅行でアメリカのワシントンD.Cに同行しました。
ワシントンにある国立図書館で調べ物をしたりするのが目的でした
が、半分は物見遊山気分ですね。
アメリカ海軍の歴史を調べ、太平洋戦争当時の米軍高官にもインタビューするなど一応の仕事が終わり、児島さんも編集者もホッとして宿泊するホテルに戻ってきました。

大食漢の児島さんはフランス料理のフルコースを平らげワインをたらふく飲んでいい気分。同行した編集者も大過なく帰国できそうだと安心していたそうです。

ところが事件は翌日起こりました。急に児島さんが「俺の下着を今日中に洗濯に出してくれ、替えを持ってくるのを忘れた」と言い出したというんですね。
編集者は大先生の厳命とあって、ワシントンの街を児島さんのパンツを持ってタクシーでクリーニング屋を探し回りました。
ところが、生憎その日は休日とあってどこも閉店状態。

ホテルに帰って児島さんにその旨告げたところ児島さんは烈火の如く怒り、「お前、汚いパンツで日本に帰れというのか。それならホテルのメイドにでも洗濯させろ」と言い出しました。
困った編集者はホテル側に要求しましたが、うちではそういうサービスはやっていないと、すげなく断りました。
二進も三進もいかなくなった編集者は仕方なく洗剤を借りてバケツで児島さんのパンツを揉み洗いしたそうです。

「あまりのみじめさに涙が出たよ」と先輩は帰国後、私たちに語っていました。「あいつだけは生涯許せない」とも言っていました。

よっぽど口惜しかったのでしょうね。
これは、児島パンツ事件として語り草になっています。私も「ジョーズ」の担当にならなくて本当によかったと思っています。
これも編集者残酷物語の一席でした(笑)。
                                       雅洋
投稿日:
8月 5日(日)
17時47分49秒
作家秘話3 

今回は時代作家の五味康祐さん。

五味さんは時代娯楽小説『柳生武芸帖』で有名ですね。
亡くなってもう十数年経ちますが。この五味さんは奇行の人としても有名でした。
現在は「文藝春秋」の取締役となっている某局長が『オール読物』の新人編集者だった頃に五味さんの担当を仰せつかりました。その局長から酒の席で聞いた話です。

ある日連載の時代小説の原稿を取りに練馬区大泉学園町の五味邸を訪れました。
「先生、文春の某です。玉稿を頂戴にあがりました」とインターホンで。
ところが応答がないんですね。奥様もお手伝いも不在の様子。そこで門扉を押したら鍵がかかっていなくて開きました。しめたと思ってそのまま挨拶抜きで入っていき五味さんの仕事場へ。
ところが姿が見当たらない。某氏はあちこちの部屋を探して一室に入ったら先生は午睡中。
「なあんだ、昼寝か」と思った某氏は五味さんを揺り起こしました。
「先生、オール読物の某です、お昼ねでしたか」

するとパッチリ目を開けた五味大先生曰く「なんだ貴様は泥棒か。
この無礼者!」
一喝して床の間に置いてあった名刀「関の孫六」を手にとり、ギラリと抜き放って大上段に振りかぶり、某編集者を真っ二つ・・・。
にする筈でしたが、切っ先が天井に突き刺さって編集者は危うく難を逃れたとのことでした。

肝を潰した某編集者、五味邸から転げ落ちるように逃げ出すと、編集長に電話。
「今、五味先生に斬り殺されるところでした。もう担当はご免です。別の人間に換えて下さい」
涙ながらに頼んだところ編集長はあわてずさわがず。
「ああ、五味先生は編集者に斬りかかるのが趣味なんだよ。本気で殺しはしないから大丈夫。原稿取ってきてよ」
「殺されますよ」
「大丈夫だよ。もう機嫌は治っているから」

半信半疑で某編集者は五味邸に再度入ると、五味先生澄ましたもので「なんだ、オールの某か。原稿はあがっとるぞ」
某氏は押し頂いて編集部に生還したそうです。

酒の席で今や取締役になっている局長は笑いながら
「原稿取りも命がけだよ」と言っていました。
これは文春ばかりでなく、文芸出版社の編集者ならみんな似たりよったりの経験があるそうです。

クラッシック好きでも知られていた五味康祐の原稿取りの話は、聞くも涙の物語でした(笑)。

投稿日: 7月31日(火)19時22分51秒
>おばちゃん
作家秘話その2は「向田邦子」篇です。

「週刊文春」編集部員だった頃、向田さんは「ヒト科霊長類人物図鑑」というコラムを連載していました。
私は担当者ではありませんでしたが、担当の先輩部員とは懇意で原稿取りに一緒に行ったりしたものです。

向田さんはとにかく執筆の遅い人。夜中の3時4時にようやくあがるということはザラでした。我々は青山の彼女のマンションの近辺のパブで酒を飲みながらあがるのを待っているのです。

原稿があがると編集部にとってかえして割り付けなどの仕事です。
一度、私が先輩部員の代わりに原稿取りに行ったことがあります。
そりゃあひどい原稿でしたよ。向田さんは原稿用紙の裏、つまり白紙のところに殴り書きしてくるんですから。

鉛筆で殴り書きしたコラムは我々編集部員がまた、ちゃんとしたマス目のある原稿用紙に楷書で書き直していきます。
すると驚いたことに、ちゃんと見開き2ページ分の分量にピッタリ収まるのですね。直木賞を取った直後の連載コラムでしたが、この離れ業には我々もびっくりしましたよ。

一度、向田さんを囲んで我々若手編集者たちがボウリング大会を開いたことがあります。といっても、深夜の新宿のボウリング場で徹夜でやったのです。
当時向田さんは53、4だったと思いますが実にタフな人で、明け方までボウリングに興じていたにもかかわらず、朝一番の列車で講演会に行くんだと言ってそのまま去っていきました。
こっちはクタクタ。体力あるなあと感心したものでした。

そんな向田さんも台湾の飛行機事故で不帰の人になりましてね。みんなで追悼飲み会を開きましたよ。
後で彼女は乳ガンだと知らされ、生き急いでいたんだなあと思います。

妹の和子さんの経営する赤坂の「ままや」はよく利用しました。
特に女の子とデートするときは頻繁に利用しましたよ。安いですからね。
向田さんは思い出深い作家でした。

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