広葉樹(白) 心を開く話し方 
     「受容と傾聴の理論と実際

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青木 福代(あおき ふくよ)

著者役職

・ トータル・カウンセリング・スクール チーフディレクター
・ カウンセラー
・ 看護師(元 病院ホスピス病棟主任)

トータル・カウンセリング・スクールでのカウンセリング講義をそのまま掲載します)



【1】カウンセリングとは

 人と人との係わりの中で、緊張感やある種の葛藤があったりして、人間関係って大変だなあと思いながら、思うだけでなく宿題が出てくる。例えば子供さんとの関係に非常な緊張感を持つとか、ご夫婦間でも、職場でもそういう関係での人間関係でストレスがたまる。
 ストレスというのは自分を破壊していく。そういう自分に対してどんなふうな係わりをするかということが、カウンセリングということなんですが、カウンセリングとは「治そうとするな、解ろうとせよ」ということが原則です。解ろうとしないで、教えてしまったり、治したくなったり、もちろん教えなければならないこと、こうなんだよとサポートすることもあるんですが、カウンセリングというのはどこまでも受容という姿勢の中で相手を受け止めていく。そのことによって緊張感とかいろんな宿題を抱えている人たちへのサポートとして、その行動の変容を図るために係わるということなんです。

 では、何に係わるんですかって言われますが、存在にかかわるんだよっていうことです。前回でbeing、doingの話をしましたが、点数100点取ったから、「あなたすてきねー」とか、ちゃんとお母さんのことをよく聞いて早く寝られたから、「あなたはいい子なのよ」、それももちろん問題だというのではないのですが、その行為を誉めるだけではなくて、その存在を誉めることが受容という姿勢だとお話ししたんです。
 うんうんと受容の姿勢として、相手の話を共感的思いをもって聴く。聴きながら自分の心の中にいろんな思いがあると、それは違うんじゃないか、そうではなくてこうではないかと言いたくなる聴く側の姿勢もあるけれども、まず、相手の話していることをそのまま受け取っていく。そういう受容体験が自分の抱えている緊張感を持ったり、係わりの中でどうしても自分の生きづらさを感じているということを見ることができる、ということです。

 今日の話は、一歩進みます。コミュニケーションは言葉のやりとりですから、カウンセリングを学ばれている方々はご存じだと思いますが、「ヤッホー」と言ったら「ヤッホー」と返ってきますよね。「ヤッホー」って言ったら「今日は」とは返ってこない。そのまま言葉を返す。言葉には方向性があるんです。
 例えばご主人が、「ただ今」って言われたら「お帰りなさい」って言いますよね。その「お帰りなさい」というその言葉に、腹の中にいろいろあると、「お帰りなさい、何で早く帰ってきたの」というメッセージまで入るのと、「お帰りなさい、待っていたわ」という思いで「お帰りなさい」という方が、より受容的でしょう。
 言葉には方向性があるということを考えながら、学んでほしいのですが、エコーとは相手の語る言葉と気持ちをそのまま相手に返す心配り、言った言葉をそのまま返してあげる心配りをエコーといいます。それには解釈をしたり、批判をしたり、意見を言ったり、否定も肯定もしないのです。

 こういう方がいました。
 お嬢さんが学校から帰ってきて、「ああ疲れた」と言った。学んでいるもんだから、「ああ疲れたのねえ、早く少し休んだら」ってお母さんが言ったら、「それは私が考えることよ」って、お嬢さんに怒られたって。それは受容ではないのでしょうか、とおっしゃったんです。
 もちろんお母さんの心遣いとして当然なんですけど、高校生くらいになると、自分で考えて自分で行動したいという気持ちがあるもんですから、「ああ疲れたの」で返すだけで、あとは本人が判断する。思春期っていうのは思いをキャッチできるというのか、そのあたりをキャッチしますから、すぐ分かるんですね。「ただ今、ああ疲れた」って言ったら、「ああ疲れたの」って返すだけでいい。あとは本人が判断する。「ああ疲れたのね」でとどめておく強さって私たちにあるだろうかって心に宿題を抱えればいいと思うのです。

 エコーは、たかがエコーなんですけど、相手に受容感を与える技法なんです。肯定も否定もしないでやるんですが、これは、ご年配の方とか子供さんとか、病気でエネルギーがない方とか、エコーだけで交流が成り立つんですよ。コミュニケーションが成り立つ、エコーされることだけで相手が聞いてもらえた、次は何をしようと思えるエネルギーを自分の内側に培われるんですよ。皆様にはエコーのすごさを体験していただきたいのです。

 私はトータルカウンセリングスクールに出会い、カウンセリングを学んで、その前は看護婦として働いておりましたが、最初の学びの時に、エコーでしたが、高いお金を出して学んでいるわけですから使わない手はないなと思いまして、1番やりたくない人、主人にやってみました。別に険悪の関係ではないと思っていましたが、相手を解ってあげようとか、相手を理解してあげようなどとはほど遠いし、私自身も働いていましたし、私もこんなに忙しい思いをして働いていたわけですから、そんな主人とどこか解り合いたいと思ったっていうか、味わいたいと思ったんだと思いますよ。頑張って、3日間、エコーしたんです。
 言うことにひとつひとつ。そして3日目に主人が言ったんですよ。なんて言ったと思います。

 男性諸君いかがですか?

 お父さんが「お風呂」―「ああお風呂」、「タオル用意して」―「ああタオルね」って。そうしたら3日目に「お前、死ぬんじゃないか」って。私ね、その時つくづく思いましたけど、いかに会話をしてなかったのかなって。言葉を交わしてなかったんだな。死んでしまうんじゃないかと思うほどに雰囲気が変わっていたんでしょうね。
 「たかがエコー」なんですけど、そんなエコーのすごさをお話しさせていただきます。例えば、ここに白いコップがあります。この白いコップをお子さんが黒いって言った。見るからに白いコップです。「お母さん、このコップ黒い」って言った。「あら、黒くないわよ、白いわよ」というのは。確かに白いんですが、どうして黒いっていうんだろうという背後の思いがある。
 例えばいろんな緊張感があったり、思いがあったり、黒いって言いたい気持ちかもしれない。今までの生活の中で、そのことで心傷んでいたならば、黒いと言わざるを得ない状況があるかもしれない。その時に受容というのは、白いコップだったけれども、「黒い」ってエコーすることによって開かれて行く世界なんです。
   
 クライアントが「黒い」って言ったときに、「白い」って言ってしまうって。しかし、クライアントの言ったことをそのまま繰り返して上げるということは、こちらの価値観をいうのではないし、そうだ、こうだと教えることでもなくて、そう言わざるを得ない相手の気持ちを、「黒い」と言ったら「黒い」っていうことを返して下さいということです。
 白いものは白いんですが、クライアントが白いものが白いと認識できるまで、黒いと言ったら黒いんだっていう、その姿勢でいきますと受容されますから、「ああそうか、これは白かった」という確かな気付きにたどり着いていくわけなんですよ。
 そして、白いものを黒いといった自分の問題点を自分で見いだしていくということなんです。
 受容体験を言葉にして向き合う時に、相手の言ったことを言葉にして返すことによって、さらに受容体験を進めていくということです。

 ではなぜエコーを用いるんでしょう。なぜ、エコーだと思いますか。なぜ繰り返すんだろう、繰り返すことが必要なのか。エコーでなくとも他の方法でもいいんじゃないのということもあるんです。ありのままそっくり受け入れられたという受容体験もさることながら、自分がエコーで返されることによって、自分が話をした話の主役になっていかれるの、その話の当事者であり続けることができるということです。

 ターミナルケアをなさっていらっしゃる柏木先生という方が、日本で初めてホスピスの第一人者として治療をなさっていらっしゃいます。治療の余地がなく死を迎えていく患者さんたちのサポートとしてのホスピスというところがあるんですが、そのホスピスを創立して何年かたったとき、当時の厚生省が柏木先生に、ホスピスで医療者がどうかかわっているかというアンケートを取ってほしいという依頼が来たんです。患者さんがだんだん心弱くなっていった時に、「私はもうだめなんではないでしょうか」と言ったときに、かけられた医療者がどういう言葉をもって向き合ったかというアンケートを取ったんですね。

 その結果がこんなふうに出たんです。
 「私はもうだめなんではないでしょうか」と相手から弱音を吐かれた時の対応

@ 調査的-なぜそんなふうに思うのと返してしまう
A 評価的-そんな弱音を吐いては駄目ですよ
B 解釈的-食欲がこのところなかったものね
C 逃避的-そんなことは先生に聞いてくださいと逃げてしまう
D 支持的-長い闘病生活ではそう考えるのは無理ないわね

 結果はこのように別れたそうです。
 みなさん、この5つの対応の仕方を想像してみてください。自分の家族がこんなふうに言った場合に、自分はどんなふうに言うんだろうか。この5つの対応の仕方に共通点があるんですが、ちょっと話し合いしてみましょう。何が共通点なのか。

(参加者で話し合いが行われた)

 「相手の意見ではなくて自分の考えを言っている。」
 その通りです。
 5つの対応は、当事者ではなくて周りの人がその人を動かそうとしています。そうしますと、ホスピスというところは患者さんが病気を認識して入っておいでになっている方々だから、ここのところを共感して欲しいわけです。
 「自分はだめだ」って言った時に、そのことを認めた上で、相談者として話を聞き、その時を持ってほしいという願いなんです。だから、優しく柔らかく言っても、「なぜそう思うの」ということは本人の願いに沿っていない。
 Aは1番言いやすい。なぜでしょう。弱音を吐かれると不安なんですよ。そう言われたらどうしようって。だから励ましてしまうんです。
 この5つの対応の中で1番嫌な対応は、患者さん側からのアンケートでは、Aが1番嫌ですということだったそうです。

 柏木先生は、ご自身の患者さんで40代後半くらいの方に、尋ねられたそうです。その方は自分のラストステージをきちんと向き合い生きていらっしゃる方だったので、「末期の患者さん方により良いサポートをしていくために、自分はいま勉強させてもらっているので、今までの係わりの中でどんなことが1番嫌だったか聴かせてほしい」って。患者さんにしたら、先生にこうしてほしい、ああしてほしいなんて言いにくいではありませんか。
 私も、柏木先生ってさすがだなって思ったんですが、そんなふうに患者さんにお聴きした。そうしたら患者さんはこんなに良くしていただいて何も言うことはありません。
 柏木先生は、「でも本当にそう思っているの。嫌だったことを言ってくれる人だから聴いているんだけど。私にこれからの宿題として言ってくれる」とさらに聴いたのです。
 すると、「先生、いいんですか。先生に弱音をはかないで一緒に頑張ろうって言われたことが嫌でした」と、その患者さんは言ったのでした。

 私たちは、ホスピスの患者さんだけでなくて、心弱って、ぐちを言いたい、解っているけどそのまま言いたいという思いというのはあるでしょう。その時に、なんとなく、こういう対応をされたり、教えられたり、さとされたり、という対応されると、聴いてもらったというより、さらに自分はだめな人間だって重くなっていく。結局、他人にものを言わない方がいいなって、なっていくんじゃないでしょうか。

 それではこの5つの聴き方のほかにどのような聴き方があるのかというと、6つ目に共感的、理解的な聴き方があります。共感的理解的聴き方ってなんだと思いますか。そうなんです。今日学んでいるエコーなんです。
 「もうだめなんではないでしょうか」と言われたら、「もう駄目なのでしょうって」返されることによって「これこれ、こうで」ときちんと自分の宿題点を出していくんですよ。何が自分を不安にさせているか。
 ある時、柏木先生が60代の胃がんの男性の方に向き合われた時に、患者さんがこう言われたそうです。どんどん状態が悪くなっていかれた時に「おれ、もうだめなんじゃないか」って言われたら、どうしようと先生も思ったそうです。その気持ちって解りますよね。でもね、「先生、おれ、6カ月になるけど、これってダメなんじゃないか」って。先生は、そら来たって思ったそうです。だけど患者さんの言うことを全部、エコーしたそうです。
 「6カ月たっているのによくならない」―「6カ月たっているのによくならない」って、「食べられない」―「食べられない」って、エコーをし続けて30分くらいしたら、彼が「先生、今度外泊をした時に焼き鳥食べに来てくれ」って。どうしてそう言ったんでしょうね。
 それはね、たくさん聴いてもらえたでしょう、自分の中で完結したんですよ。自分の状態が悪いっていうことを知っている。でも聴いてもらった。受容体験って、人から愛される体験をしますと、死の受容ができて自分の状況を受容していくことができるということなんです。
 それで死ということと向き合うことになっても、葛藤しながらそのことと向き合う力をもつことができるということなんです。

 私も経験があるのですが、肺がんの患者さんで、体を動かすたびに呼吸が苦しいから、肺がほんの少ししか機能していないため、眠っていても、起きていても、呼吸が苦しい状況でした。その患者さんが、「青木さん、朝が怖い」って。「ああ、朝が怖い」私も必死ですよね。「朝目が覚めると、ああまた苦しい一日が始まる」もちろん痛みに関して、最善の治療がなされているのですが、呼吸困難は大変な症状なんです。「ああ苦しい 1日が始まる」―「ああ苦しい1日が始まる」「苦しんだね」ってエコーしました。そうしたら彼女がね、こんなふうに受容してもらっても苦しいのが取れないっていうのは、どんなふうに考えたらいいんだろうねって。
 「死が近いから、死ぬのが怖いんじゃないの。死の瞬間にどんなに苦しんだろうかってそれが怖いんだ」って、おっしゃったんです。彼女の問題点はそこだし、宿題はそこなんだったわけです。だからそのことに対する情報を差し上げることができました。「浅い眠りの状態に持っていきますと、緊張感がとれますでしょう。その辺での処置をすることができて、眠るように最後を迎えることができるんですよ」って、こんな話をするんです。
 その時に彼女に言ったことは、「自分が朝、目が覚めて生きているって思ったら苦しいよね」って。

 受容されて、今度はこちらの価値観を持って踏み込んでいくという係わりということをお話しさせていただきます。
 私の価値観で踏み込ませていただきました。肯定的にですよ。「朝、目が覚めて自分が1人で生きていると思うとつらいよね。生かされている」って思ったらどうかなと申し上げたんです。そうしたら「私が生きていると思ったら苦しいけど、生かしてくださる方がいるんだって思ったら楽だよね」って。そのうち彼女は楽になってきたんです。ひとしきりそんな会話をしたら彼女が「青木さん、帰るとき便器とって行ってね」って言ったんです。

 十分係わって聴いてもらったことによって納得したし、自分でうろたえないでそうしようとしたときに、先程の柏木先生の患者さんが、焼き鳥を食べに来てといったことと同じです。私はその言葉が出たときに、始めはちゃんと対応できたのかなあって思ったんです。でもそうではなくて、聴いてもらって解ってもらったということに立てた彼女は、次のステップを踏めたということなんです。
 死ぬんじゃないかという最後のラストステージに、共感的、理解的に向き合うことのできる人が1人でも、2人でも、3人でもいれば、本当にラストステージを豊に迎えることができるのです。

 現在ホスピスは全国で80いくつありますが、当時は28位しかありませんでした。この広い日本で今は80いくつ、在宅ってこともありますよね。家で死を迎える。私の母は自宅で末期のがんで亡くなりましたが、お医者さんにお願いしましたが、お医者さんが来て必ず死の看取りをしなければならないということではなくて、家族の中で最後を迎えたという時代があったじゃないですか。

 私は母の死の時にはそのようにさせてもらいました。先生にも了解していただいて、夜中に呼吸が止まることだってあるし、その時は時間を見ておきまして、翌日ご連絡することでよろしいでしょうかって。そんなふうな約束事を主治医と話をして、本当に最後がよかったですよ。
 その場面場面で、その人の状況が違えば違う方法で、あらゆる選択肢があってそれができるということ、そしてその人にどんなふうに向き合うかというと、エコーで相手が言いたいこと、愚痴りたいことをそのまま返しながら向き合うことが受容です。

 これは医療の世界ですが、私たちの身近な隣人や親子関係だって同じです。エコーで向き合うっていうのは解ってもらえた、緊張感を生ない、そのまま自分が言ったことが返ってくるから鏡になるでしょう。自分の姿がそのまま見える。そうすると自己洞察って、私たちは自分を見ることができる。気付いていくことは「私はこんなことを考えていたんだ。こんな不必要なことを思っていたんだ」っていうことですよね。
 「そう思わなくていいんだ」、「私は私でいいんだ」って、感じ取ることができると、自分が楽になる。自分が楽になるということは、人間関係も、相手の価値観を認め合って話し合って生きていかれる。カウンセリングということでなくても日常のあらゆるところで非常に楽な人間関係をつむいでいけるような気がいたします。

〈続く〉