広葉樹(白)「尊厳死」を考える  
  

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猪野健治(いの けんじ) ジャーナリスト

1933年生
主な著書
 「電通公害論」「雑誌編集者」(実務教育出版)

 「東京闇市興亡史」「猪野健治アウトロー論集」(現代書館)
 
ほか、多数

目 次
その1 オランダ安楽死を合法化
その2 リスボン宣言  
その3 自殺について   
その4 自殺について(2)   


【その1】 オランダ安楽死を合法化

 川崎協同病院の女性医師が、川崎公害病の認定男性患者を「安楽死」させた事件は、日本だけでなく海外の医学界にも大きな衝撃を与えた。
  現代医療の根幹は、患者がどのように困難な状況に陥っていても、生命維持へ向けて最善の治療を行うこととされている。これはいわば医師の義務だが、今その一角が崩されつつある。昨年11月、オランダの下院が「安楽死」合法化法案を可決したのだ。その後、上院の審議を経て同法は今年四月からすでに発効している。もちろん国家として「安楽死」を認めたのは世界で始めてである。これに対して「安楽死」の合法化は「人間の尊厳を侵害するもの」で「オランダにとって悲しむべきことだ」と真っ先に批判したのはローマ法王庁であった。
 「安楽死」とは、一般的には現代の医療技術では治療不可能とされる病気にかかり、耐えがたい苦痛を伴う状況で、医師らが本人の希望に従い、苦痛の少ない方法で人為的に死に導くことだ。オランダでは「安楽死」をめぐる議論は約三十年にわたって行われてきた。その過程では、六千件以上の「安楽死」が確認されており、このうち医師が刑事責任を問われたのはたったの八件だけ。事実上「安楽死」は黙認されてきたわけで、合法化法案は法的な不備を明確に補完したものと言える。
 当然「安楽死」には条件がついている。まず「患者が自発的に十分考慮したうえで安楽死を継続的に求めている」こと。次に「病状が最悪で回復が望めず、患者が耐えがたい苦痛に直面している」こと。さらに「安楽死を施す医師が複数の医師とそれが妥当かどうか相談する」など。
 「安楽死」は、米国の一部の州でも認められている。医師の補助による「安楽死」を認めているのはオレゴン州だ。合法化に至るまでには、宗教団体や市民団体、文化人らの根強い反対があったが、法廷闘争と再度の住民投票で九七年に合法化法案が発効した。
 たしかに、本人は意識不明の植物状態なのに、人為的に心臓を動かして生かしておくだけの治療や、余命一ヶ月という末期がん患者が、激痛に耐えかねて「死なせて欲しい」と叫んでいるのに、無理に治療し続けるといったケースには疑問を禁じ得ない。今は健康な人でも、いつ同じような不治の疾病に倒れるかわからない。それが人間の宿命でもある。そこで健康なうちから万一のことを考え、自分にとって最高の死を迎えたいと願う人たちが出てきたとしても何の不思議もない。そうした人たちの集まりが、日本尊厳死協会である。
 同協会の「尊厳死の宣言書」の第一項には「私の傷病が、現在の医学では不治の状態であり、すでに死期が迫っていると診断された場合には、徒に死期を引き延ばす延命処置はいっさいおことわりいたします」と明記されている。会員はこの共通の宣言書に署名し、一通は協会へ、もう一通は手元において、入院時に医師に手渡すことになっている。実は私も日本尊厳死協会の会員の一人である。


【その2】 リスボン宣言

 ひところ話題になった雑誌「酒」の元編集長・佐々木久子さんは、日本尊厳死協会の会員の一人である。
 佐々木さんが協会の機関紙「リビング・ウイル』(106号)に寄せた一文によると、会員になった動機は、井原西鶴の研究で知られる暉峻康隆先生のすすめだったという。「お前さんは亭主も子もいないのだから、入会しておきなさい」と言われたんだそうである。咋年四月はじめ、珍しく東京に雪が舞ったこの日、その先生が亡くなった。「先生の家の桜は満開、夜空には上弦の月。さようなら雪月花よ晩節よ。の句を遺した。いよいよの時の延命処置をご自分ではっきり断り、会員らしく清い死を迎えられた」と佐々木さんは淡々と綴っている。暉峻先生は酒が好きで元気なころは晩酌を欠かさなかったのだろう。すばらしい辞世の句であり、みごとな人生の締めくくりである。
 尊厳死協会の前身は、一九七六年に太田典礼医師が創立した日本安楽死協会である。創立から数年間は、注目されるというより、医学界から異端視され、「生きることの尊さを否定するのか」とか「生命の尊厳を冒涜するもの」「弱者切り捨ての思想」などと批判された。またそうした批判の声があがったのも、あながち見当はずれとは言えない要素があった。会の理念が今ひとつはっきりしていなかったのと、末期症状と正面から闘わずに、単に苦しいから早く死にたいといった安易な動機で会員になっている人もいたからである。もちろん任意の大衆団体だから、そういう人が会員であっても何らとがめられることはないが、医療の最先端で日夜患者を生かすために戦う医師や看護婦には、納得できない側面かあったことは事実である。それは安楽死協会が、疾病に苦しんで生きるよりも、楽に死ねる道を模索する方向に比重をおくかのように誤解されたからだろう。現実に安楽死を望む人の大部分は、どうせ死ぬのであれば、七転八倒して苦しむくらいなら、薬物投与でも注射でもいいから楽に死にたいと安易に考えていたのである。
 進むべき方向を模索していた安楽死協会に一筋の光明を与えたのは、一九八一年に開かれた世界医師会のリスボン大会であった。この大会でリスボン宣言が採択され、初めて「患者は尊厳のうちに死ぬ権利を持っている」と「尊厳死」(Living Will)の理念が明らかにされたのである。このときから尊厳死と安楽死は区別して考えられるようになる。オランダが世界最初に安楽死を公認した法律の正式名称が「要請に基づく生命の終焉ならびに自殺幇助の法律」であることからもわかるように、安楽死には自殺幇助の要素が含まれているわけで、自ら選ぶ死の尊厳性という面でニュアンスがかなり異なるのである。


【その3】 自殺について

 自殺は、自らの人生を自分の手で強制終了させる手段である。その限りでは自殺は、人間に残された最期の自由とも言える。芥川龍之介は、自殺に薬剤を使用する理由を、鉄道自殺や首吊り自殺はその死に様を想像するだけで美的嫌悪を感じるからだと書き遺しているが、そこまで考えるなら生きていたほうが良かったのにと思えてくる。自殺は、人生の中退だが、大学を中退する場合と違って、未だ先に生命の余裕がある人生を強制終了するわけで、二度と娑婆に戻ることは出来ない。パソコンの強制終了と同じで、その時点ですべてがジ・エンドとなる。
 私も実は自殺未遂を二度やっている。最初は高三の春、二度目は21歳の秋だ。いまさら理由を書いても意味がないので省略するが、まったく展望が持てないまま、どんどん自分を追い詰めてしまった記憶がある。未遂に終わったことで、娑婆にもどることができたわけだが、そのときの表現しがたい恥ずかしさ、きまり悪さは、今でもはっきり覚えている。そしてもう一つ、「生きていて良かった」という強烈な実感は忘れることは出来ない。 
 自殺にもさまざまな形がある。
 まずナチス・ドイツ占領下のフランスでの悲劇がある。レジスタンスのメンバーの一人がドイツ兵に捕まり、拷問にかけられて仲間の所在を自白することを恐れて自殺した事件がそれだ。マルローの作品にも同じようなテーマが扱われているが、私を含めて当時、多くの人々はその死を「誇りある死」あるいは「人民英雄の死」「レジスタンス戦士の誇るべき死」などと呼んで賞賛した。ナチス占領下のフランスでは、ルイ・アラゴン「神を信じる者も信じない者もともに闘い--」と『フランスの起床ラッパ』(詩集)に書いたようにポール・エリュアール、アンドレ・ジード、ジャン・コクトー、ジャン・ポール・サルトルなど著名な詩人、作家はことごとくレジスタンス活動に参加していた。エリュアールは『情況の詩論』を発表し、「一瞬でも銃を取って闘うレジスタンス戦士に勇気を与える作品なら、たとえただの叫び声でも立派な詩だ」と説いた。私はその論旨に深い共感を覚え、改めてフランスの知識人の立場を超えた抵抗運動に感動した。彼らの合言葉は「詩人は詩を書き、印刷工がこれを印刷し、配本と販売は地下書店がやる」だった。こうしてナチス占領下で出されたのが『地下叢書』だった。敢然として起ちあがるフランス人民の叫びを歌い上げた『フランスの起床ラッパ』もその中の一点である。
 自殺のテーマからちょっと外れてしまったが、自殺にもさまざまな形があり、情況が自殺の評価を左右するということである。自殺を肯定することは基本的にできないが、だからと言って全否定するには若干無理があるということである。


【その4】 自殺について(2)

 日本ではここ数年、自殺者が異常な数値を記録している。
 警察庁の調べでは咋年一年間の自殺者は3万1042人にのぼり、前年より2.9%減ったものの四年連続で三万人の大台を超えた。日経紙(7月25日)によると、警察庁が統計を取り始めた1978年以降、年間自殺者数がもっとも多かったのは1999年の33048人。2000年は1091人、昨年は915人それぞれ前年より減ったが、人口十万人あたりの自殺者は24.4人で依然として高い数値を示している。
 男女別では、男性が全体の七割強に当たる22144人。年代別では六十歳以上10891人、五十歳代7883人、四十歳代4643人で、四十歳代一以上の中高年が全体の75・4%を占める。
 原因・動機別では「健康問題」が最も多く、全体の半数近い15131人。「経済・生活問題」は長引く不況を反映して一咋年より7人増え、2割強に達した。埼玉県では「経済苦」の自殺者は11年聞で6.2倍に膨らんでいる。次いで「家庭問題」2668人、「勤務問題」1756人の順。職業別に見ると無職が全体の46.5%の14443人と最多。以下被雇用者が23.5%の7307人。自営業者13.4%の4149人と続いている。一方では、咋年1年間に全国の警察が受理した家出人は102130人に達している。10万人突破は、1984年以来17年ぶりだという。
 それにしても、4年間も自殺者数が3万人を超えるという現実は、異常というよりもはや非常事態である。自殺は追い詰められ本人が、あらゆる選択肢を点検した上で、いずれも可能性なしと判断して最終的に選んだ結論であり、昨年は31042人が「生きるすべを失った」という最悪の結論を出したことになる。3万人という数字は地方では、一つの街の人口に相当する。欧州各国の自殺率は平均で10万人当たり約12人なのに対し日本は咋年の段階で24.4人と二倍以上で、先進国の中で突出している。これはすでに日本人の自殺が個人的な特殊な事情を超えて、国の指針や根本的な政策の問題にまで来ていることを示している。
 私が自殺未遂を引き起こした1950年代の日本では、自殺は極めて個人的で特殊な、しかも純粋に精神的なものであり、自殺者も全国で1000人に満たなかったのではないかと思う。当時と現在では事情がまるで違う。4年も30000人を超える自殺者が出ているという現実は、「個人的な特殊な事情」だけでは到底説明できない。この最悪の事態に至る間、政府や自治体が何も対策を講じることをせず、この問題を放置してきたということである。自殺の責任はもちろん本人にあるが、国民の誰もが納得の出来できるこの国の将来への展望と進むべき方向、景気回復の明確な政策と見通しの提示は政府の責任である。敗戦の傷跡が未だ残っていた1950年代には「この国を何とか再建しなければ」という強い思いが国民の間にあった。それが生きる支えになった。それが経済大国の頂点に上り詰めたあと、バブルが崩壊し、奈落に向って転がり続ける今、政府はそれを食い止めるどころか国民に自信を与える進路さえ示すことが出来ずにいる。自殺者三万人時代の背景には、明らかに政府の無策が浮かびあがっている。

<続く>