広葉樹(白) 患者中心の医療   
   医療シンポジウムでの基調講演 

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伊能言天 (いのう げんてん)

プロフィール
1948年生 医師

金沢大学医学部卒業・東京慈恵会医科大学大学院中退
市立病院外科医長・私立病院副院長・病院長など歴任


目  次
その1  私のプロフィール 
その2  ある患者さんとの出会い 
その3  医療の三つの柱 人間医療 
その4  自然医療 
その5  社会医療 
その6  患者中心の医療を目指す病院 
その7  病院臭くない病院 
その8  ホスピスのあり方(治療と看護を並列に) 
その9  個人の信仰は認めるが布教は禁止 


その1 【私のプロフィール】

 皆様こんにちは。今日はこのようにたくさんの皆様の前でお話し出来ます事を、心から光栄に思います。
 ただいま、ご紹介いただきましたけれども、私は元来、宗教に非常に関心があります。学生時代は医学の勉強よりも、宗教の勉強とか、いろんな体験をしまして、牧師になろうかと思った事もありました。
 こんな言い方が適当かどうかわかりませんが、私は宗教愛好家といいますか、宗教が趣味といいますか、ただ、どこかの特定の宗教には現在は所属しておりません。自分で勝手に神様の神と書いて“神教"といって、主に聖書を中心とした、そういう考え方ですが、“神教(かみきょう)"を信じております。
 私は「私の人生の最後には組織のない宗教を創りたい」と思っております。“組織のない宗教"即ち神様と私の一対一の世界で成り立つ宗教がほしい。これが私の人生の夢なんです。

 私のプロフィールといいますか、どんな事をやって来たかという事を、最初にお話ししたいと思います。
 学生時代は、いろんな宗教に顔を出して、キリスト教が主でしたけれども、いろんな体験をしたんです。夜、山の頂上に登って、聖書にはイエス様は、山の上でお祈りしたとか、そういうところがありますから「よし、自分もやってやろう」と、山へ行って徹夜の祈祷をするんですね。一生懸命、お祈りして、いつか神と通ずるんじゃないかと思いましたけど全然通じずに、ただ蚊にさされて「痒い、痒い」と思いながら一夜を過ごした、そんな事もありました。
 そんな事を何度もやりましたけれども、やはり凡人が神に通ずるというのは大変難しいという事は分かりました。
 それと、一週間断食といいまして、これまた悟りを開こうという、私の発作的な思いで「よし、一週間断食してやろう」と、一週間水も食べ物も一切食べないで悟りを開いてやろうとをやってみたのです。今は医者をやってますからそんなことやったら、肝硬変になったり、腎不全になったりするなと考えるとちょっとやれないんですけど、その頃医学なんてあんまり勉強してませんし、何でもやってやろうという気持ちがありましたから、一週間断食を数度やったんです。皆さん経験がおありかどうか分かりませんけど、大変苦しいですね、一週間食べないで、それで寝ているだけならいいんですけど、やっぱり普通に生活するんです。
 一週間食べないで飲まないでいると、だんだん頭がフラフラ、フラフラしてきましてね。こんな事で本当に悟りが開けるかなという事を悟ったんですけれども(笑)。だいたい目をつぶって、瞑想にふけるとですね、カレーライスが浮かんできたり(笑)、私はお寿司が好きですから、お寿司が浮かんだり、雑念だらけです。こんな事で本当に昔の人は、悟りを開いたのかなと疑問に思ったりしました。逆に、腹が減ったら戦はできぬという事を悟っちゃって、まあ言ってみたら宗教家からすれば全然駄目な人間だなという事を悟らされてしまった訳です。
 夏休みになると、大体学生は海へ行ったり山へ行ったりと遊びますね。しかし、私はそういう事あんまりしないで、どっかの見知らぬ土地ヘパーッと行くんです。お金も少ししか持たないで。これも一種の挑戦なんですけれども、そうしてお金がなくて泊まる家はもちろんありませんから、一週間ぐらい野宿するんです。それでそこから、何か少し寄付してもらったりですね、こうしてやっと見つけて家に住むんです。一軒一軒、お坊さんが教えを説いて回られるようにですね、一軒一軒訪ねていくんです。
 ちょっとキリスト教的なお話しをして、「寄付して下さいませんか」と、一軒一軒訪ねて、歩いていきます。ある時は、おばあさんなんかが出てきますと、気の毒がって、「お前みたいにそんなに若いのが何でこんな事やってんの」と。「今日はごはん食べたのか」と言われるので「いや、まだ朝から何も食べておりません」と言うと、「そうか、まあしょうがない、上がっていけ」と上へ上げてくれまして、「ちょっと残り物で悪いけれども、食べなさいよ」と言って、出して下さる人もいました。

 普通の学生のように勉強を一生懸命やって、即卒業していくというパターンでなくて、そんな事をやってきますと、人の情といいますか、生き様っていいますか、そんなものを学んだっていうか、少しはつかめたのでした。それで悟るというほどではありませんが、何か人間の心の機微っていいますか、本当に苦労した人を見ると、なんとなく、その人の気持ちが分るんですね。街を歩いて、商売しているような人を見ますと、自分もあんな事をして歩いたなあと思いますと、そういう気持ちが分かるような気がして、いい勉強を学生時代にしたなあと、今思っています。
 それ以降、一生懸命勉強しまして、いちおう卒業して医者にはなれたので、うちの病院に来られても、全然あれは勉強しておらんとは思わないで、来ていただければまあまあまともな医療はするつもりでいます。それ以後は一生懸命勉強したというふうに、それだけは最後に覚えておいてほしいと思います。

 これは、今イントロで、私はこういう人生を今まで歩んできましたというプロフィールをちょっと話ししたんですが、今日は宗教のお話しをするために来た訳ではございませんので、医療のお話に、本論に入らせて頂きたいと思います。


その2 ある患者さんとの出会い

 ある時、耳下腺の腫瘍、癌だと思いますけど、その方がですね、突然私達の病院に来られたんです。その方は、大変熱心な信仰者でした。
 私達医者というのは、そういう患者さんをみますと、大体もう治すんだという、気持ちがものすごい盛んですね。「俺、治すつもりない」というような医者は、大体駄目な医者でですね、みたら「よし」と、手ぐすね引いてですね、「治してやるぞ」っていうような、こういう医者が大体普通いるんですね。もっとすごいのになるとメスを持って待ってるんですね。こう持って「さあ来い」というような感じで待っている(笑)。それがやっぱり治療するという意味からしたら、私はまあ当然じゃないかなと思うんです。
 ですから私達も、その患者さんが来られた時に「ああ、こんな癌か、よし、じゃあなんとかこれを治してみよう」というように意気込んで病室へいく訳ですね。ところが、患者さんのところにいきましたら「治療はいりません」とあっさり言われまして、私達はなんか肩透かしをくったような気がしました。
 病院に入院する患者さんが、治療がいらないというのは、私達は聞いた事がないんですね。今まで、二十年近く医療をやってて、治療がいらないっていう患者さんをみた事がありません。大体薬はいらないとか、こういう薬は嫌ですとか、こんな痛い事はやめて下さいとか、手術は嫌ですとか、そういう注文をつける人はいるんですけど、「治療がいらない」という人を私達は初めて経験しましたので、もうそれ以降、ナースの人達とどうしようかと「治療はいらないっていう事は、私達何したらいいんでしょうね」という事で、非常に騒然としました。
 しかし、私が思ったのは、治療はいらないのなら、介護といいますか、ケアといいますか、あるいは看取るといいますか、その人が自然に亡くなっていくのを看取ってあげるというのも一つの医療だろうと、その時、自分なりに心の中にイメージを描きましてね。「治療がいらないんなら治療なしでいきましょう」というふうに決めました。
 ですから、入って来られてから一切何もしませんでした。患部を触ることぐらいはさせてくれてもいいんじゃないかと思うけれども「いや、それも駄目です」と言われる。診ても駄目とは言われないから(笑)、診て駄目って言われたら、ちょっともう私達の行く意味がなくなっちゃうんですけれども、やれたのはそれぐらいでしたね。ですから、ちょっと部屋へいって、あと看護婦さんがいろんな、身の回りの世話をしてあげるという程度でした。
 その方はそれから、二ヵ月ぐらいで亡くなっていかれました。全く治療をされないで、苦しかったでしょうし、大変辛かっただろうと思います。
 皆さんホスピスという言葉ご存じかもしれませんけど、私たちの病院にホスピスというところがあります。そのホスピスというのは、後でお話ししますけれども、治療を優先としないで患者中心の医療をしようという、あるいは治療を優先するよりも患者さんの生きる質ですね、生活の質を重視しようという病棟です。
 例えば注射をどんどん射って、痛い痛いと言いながら二ヵ月生きるのと、本当に痛みなく、あるいは楽しく一ヵ月生きるのとどちらが意味があるだろうかというふうに考えた場合は、やはり一ヵ月楽しく安らかに過ごして、やがて死んでいく。その間に家族のみんなとお話し出来たり、あるいは時には家に帰ったりして生きる方が、私は生きている価値があるんじゃないかと思うんです。そういうところがホスピスという場所なんです。
 そこで、私達は亡くなった方がおられますと、お別れ会という事をやるんです。みんなでお花を捧げて、患者さんを家族の方が取り囲んで、そして職員が出られる人は全員出て、お花を捧げて、みんなで黙祷をする訳です。その時に大体主治医が挨拶するんですけど、私はその時、こんな事を挨拶で言ったんです。
 今でもそれを思い出しますと、非常に目頭が熱くなるのですが、「それだけの苦しみを甘受して、本当に御本人も辛かったろうと思います。その苦しみに信仰で耐えていかれたならば、私はその信仰を、神様が是非とってほしい」と、そういう挨拶をしたのでした。

 その後で反省会がもたれました。「たとえホスピスでも、何にも治療しないって事は果たして、あっていいのだろうか」とか、「ホスピスで何も治療しないってのはホスピスの適用になるのだろうか」という事が、その中の反省会で出てきたんですね。私達医療者というのは、医療者なりの一つの考え方といいますか、医療観を持っているんです。その時に事務方のAさんから「患者中心の医療とか、患者が医療の中心なんだと言っているけれども、それは飽くまで私達の考えに都合のいい患者中心なんだ。私達の都合に合った事ならば、患者が中心になってよろしい、都合に合わない事は駄目だという、そういう考え方じゃないか」という事を指摘されたんです。
 Aさんは、医療技術者ではないですから、第三者で好きな事何でも言えるんですね。当事者ですと、やっぱりなかなかそれは言えない。現実に患者さんと対峙している訳ですから、考え方がある程度拘束されるんですが、Aさんは自由人ですから、こうじゃないか、ああじゃないかと、好き勝手に言われましてね。
 しかし、それはよく考えてみると確かに的を射ているです。自分達の考えに合った、あるいは都合に合った事だけは患者中心にしてですね、合わない時は「もうそんなもの駄目よ」というのは、はたして患者中心、あるいは患者中心だろうかという事を考えた場合、やはり患者中心という限りは患者さんが治療はいらないと言ったら治療はしない。あるいは、よくあります輪血はしてほしくないと言ったらしないでやるというのもあっていいじゃないかと思いました。


その3 医療の三つの柱

 私は、患者中心の医療とは、三つの柱から成ると思っています。その三つの柱とは、人間医療、自然医療、社会医療です。これは勝手に私がネーミングしたものですから、辞典を調べても出てこないかもしれません。

人間医療
 その内容を少しお話ししますと、人間医療とは、どういう事か。これは大体お分かりになるかと思いますが、患者さんの人間性とか個性を尊重しようというのが“人間医療”という意味であります。どうしても病院というところは「三時間待ちの三分診療」なんて言われまして、流れ作業になるんですね。これはもうマスプロというか大量生産方式です。サーッとやらないと終わらないという制約があるから、そうなってしまう事は止むを得ないかもしれませんけれども、患者さんを一人の人間と見ないで、物と見てしまうという習性が知らず知らずのうちに医療者にはついてしまうんです。
 私の知り合いが、以前勤めていた病院に入院した時に、「お前んとこの病院は、なんという病院だ」と、私にびっくりして言いにきました。何がそんなに悪いかといいますと、入院したと思ったらね、看護婦さんがパパッと来てね、パンツをサッと下げてね、局部をポッと持って、導尿っていうんですが、管をチョッチョッて入れて、チューブとパッと繋いでシュッとやった。びっくりしたという訳ですね。普通の社会でそんな事が許される事はあり得ないと思いますね。パッパッと来て人のパンツを下げて、こんな事やられたら、皆さん警察に訴えるでしょう。ところが、それが当たり前のようにどこの病院でもやられているんです。それは、いけないという意味より、相手は物じゃないんだ、同じ人間として恥ずかしさもあれば、恐怖心もあるから、一言「こういう意味で、こんなことをやりますよ」という説明があれば、納得するんです。ところが、大体そういう時間がないと、パーッと来て、パッパッパッ、ハイ、という感じになってしまうんです。そんな事を知人が言っておりましたのを聞いて、確かにそれは医療者として、人間医療という事は大切だなというふうに思ったんです。
 あるいは外来なんかでですね、やっぱり先程言いましたように流れ作業でしょう。次から次へこなさなきゃいけないんです。そうすると、風邪ひいた、肺炎かなと、胸を聴診する。そういう時なんて「ハイ、胸開けて!」と、こういきますね。すると、大体中年の人とか、人間のベテランの人はですね、こうバーッと胸を開けて、やって下さいますけれども、若い人はちょっと恥ずかしそうな顔をして、ためらってますね。そういうのを見た時、私は「ああ、いいですよ、脱がなくても。ブラジャーはとらなくて、ちょっと下着だけ上げて下さい」と言ってやっているんです。これは医学教科書では、そんな事はやるなと書いてあります。しっかり診ないといけないというような教えなんです。しかし、私達が、やりにくいけど、ちょっと努力すればね、こう下からもぐらしてね、聴診するとかやれば分かる事だと思います。別に、ブラジャーがあったら絶対駄目だよという事じゃないんです。ただ、そんなのがあると面倒臭いんですね。何もなきゃパッパッで終わるのが、こっちから入れたり、こっちから入れたり。時には、それがきつく締めてあると聴診器が抜けなくなってしまうこともあったりします。
 まあ、面倒臭いという思いはあります。あるから、もうパッパッとやっちゃうんですけれども、相手が人間だと思ったら、相手の顔を見てね、ちょっと恥ずかしいなという顔をしたら「ああ、いいですよ、それならこれで結構ですよ」と、そういうふうにやってあげる。それも一つの、人間性を尊重するというような意味になるんじゃないかと思います。
 それと、外来で私達は患者さんも背もたれのある椅子を使ってるんです。普通皆さん行かれたところで、患者さんは丸椅子、ドクターは背もたれが付いて、威張ったような椅子がありますけど、私達は、病院ではそういうのはやめようと、同じなんだから背もたれの椅子を使って、そして同じように対座するようにしています。非常勤で外から来る先生はその意味がちょっと分からないので「こんな背もたれがあると、背中を診る時に見にくい」と言って怒るんですけれども、そんな事もないんです。ちょっと手を延ばせばいい訳ですから、決してそれはやりにくくはないし、不正確でもない事なんです。
 そういうちょっとした、患者さんを人間と見るという精神が、私達は大切な事だと思って、そういうような事をしております。それが私の、今言いました“人間医療"という事であります。


その4  自然医療

 そして次はですね、“自然医療"というようなのがございます。人間が、神からもらった、神からもらったと私は思っていますけれども、自然からもらったでもいいですけれども、その自然の生理に適った生き方をする。即ち、体には体の一つの原理というか、生理があるんですね。その生理に適ったように生きていく事が本当の意味の健康であるし、それをやっていけば病気にならない。ですから、医学が今、治療治療というように治療医学に走っていますけれども、本当はもっとその、生理学っていいますか、自然医学っていいますか、人間が生まれ持った命を、本当に健やかに営ませていくためにどうしたらいいだろうかという研究が必要で、今、成されつつあります。
 おなかの中にいる時にはどういう事をしたら、健やかな出産及び健康な子供を産む事が出来るかとか、あるいは子供の時にどういう生活をしどういう食事をしたら、大人になってからすぐ病気になったりしないか、また大人になってからもどういう生活をすれば健やかな老後を過ごせるかという、そういう、自然の生理に適った医学というのが、私は大切であるというふうに思います。それを自然医療といっているのです。
 そして誰しも人間は死んでいくのですから、死の臨床という、健やかに死んでいくための医学という死の臨床という事も医学の非常に重要なテーマじゃないかと思うんです。今までの医学というのは、死とは医学の敗北だというような考え方をしていたんですね。即ち、患者さんが死んだ時には医者が負けたと、病気と医者の戦い、患者さんが死んだら医者は負けた、医学は負けたというような、死は医学の敗北であるというような考え方をしておりましたけれども、はたしてそうだろうか。もちろん、患者さんが若い人であればそうでしょうけれども、歳老いてですね、死んでいく場合は、あるいは癌患者さんでも末期の時においては、そういう死の臨床という事も、研究されてなければならない。
 それが今のホスピスというものなのです。ホスピスというのは、先程も申しましたように、患者さんの生活の質を考えるところです。ただ単なる延命とか、ただ単に点滴をしたり、酸素をやったり、おしっこの管を入れたりして、スパゲッティーのようにいっぱい管がからんでいる。そういうのをスパゲティー症候群というんですが、本当にこの人が治るという時はもうスパゲティーであろうが、はるさめであろうが、うどんであろうが(笑)なんでもいいんです。どんどんやっていく。しかし、もうこの人は先が見えている、もうこの人は治りませんという時になっても、そんな事をやっているのは、いかにも非人間的だと思います。だからそういう時は、死も一つの自然の摂理であるというふうにして、いかに健やかに、安らかに死んでいっていただく、安らかな死を迎えていくための医学を私達は研究しなきゃいけない。それが医療者の努めだと思います。
 ホスピスでは、そういう事をやっているんです。治療して治してほしいという人ももちろんいます。それもやりますけれども、それをやっても限度がある。もう本当に苦痛だとか、あるいは悲しみの時には、病院の個室にいて、白い壁で囲まれたところに一人でいて、本当に楽しいかどうか。やっぱり家族が来たり、時には家へ帰ったりした方が、余程短い最後の時には有意義になるんですね。だから、そういう風に過ごさせてあげたいというのがホスピスの精神です。それが私の言います自然医療という事であります。


その5 社会医療

 三番目の社会医療というのはですね、人間というのは、もちろん患者さんもそうですが、一人ではない。家族もいれば、友人もいます。会社の同僚もいるし、あるいは地域社会の中に生きている、そういう存在でありますから、患者さん一人を相手にしてもいけない。家族も相手にするし、その人が家庭に帰って、あるいは職場に帰って、社会的に生きられて、初めて病気が治ったと、そういうふうに私は思うんです。ですから、社会的なアプローチっていいましょうか、そういう事が必要になる訳です。
 医療者はどうしても病院内だけを医療と、病院内だけが自分達の働く場だという意識を持ってしまいますけれども、そうではなくて、やっぱり必要なら外へも出ていく。地域全体が自分達の現場であると私は思います。先日、野垂れ死にしそうな人が一人、入って来られました。その人は、五年か六年の間に、離婚し、会社が倒産して、そしてもう自分一人になってしまって、日雇い労働者みたいに働いて、それも駄目で、駅で倒れていたというんです。救急車も放っておけませんから、そういう人を救急車が運んできましてね。栄養失調なのかわかりませんけれども、足が硬直しちゃって動かないんです。見ると、いかにも衣服は汚れた様子で、体が動かないとなると、なんとなく医療者側から見ると「う一ん」と思っちゃうんですけれども、運よくその人はよくなってきたんです。リハビリもいろんな事しました。その間は生活保護をもらっていたんですけど、その人が「俺はもう働きたい。こういう生活保護なんていうのはもちろん恩恵を受けているけど、自分の生活は自分でやりたいんだ。今ちょうど仕事来てるから退院させてくれ」と、こう言ってきたんです。ですから「ああ、そりゃよかった」。その人が万が一、もう体がいいからって、退院して、またどこも行くところがなくて、結局浮浪者みたいになってしまったら、むなしい限りです。しかし、そこまでは私達も面倒みる事は出来ません。しかし、私達の意識としては、やっぱり退院して、その人がちゃんと社会の中で生きていくっていうのが本当の、治すという事なんです。その人は、是非来てくれというところがありましてね、そこへ就職して、この間5月31日に退院していったんです。
 社会医療というのは、一人の人間というのは社会の中で生きてるんだから、社会の中で生きれるようにしてあげるところまで全部面倒みる。これは大変なことです。病院が大変な赤字で倒産してしまいますけれども、そういうふうにしなければいけないというふうに、私は思っております。

 患者中心の医療というのは、この人間医療、自然医療、社会医療という、その三つじゃないかと、私は思っています。


その6 患者中心の医療を目指す病院

 このA病院は、その患者中心の病院を目指して作ったつもりでおります。ここに病院憲章というのがございます。ここに二十条にわたって病院の目指す内容が書いてあるんです。憲章ですから病院の憲法なんです。即ち、こういうふうに病院はやりますよと。それで、病院には、評議会というのがございます。即ち、裁判所があるんですね。評議員には外部の人にも加わっていただいています。憲章にのっとったことをキチッとやってないと、評議会で「お前、おかしいぞ」「憲章と違う事やっているじゃないか」と言う事が出来るようなシステムを考えたんですね。もちろん患者さんからも言えるんですよ、外の人も。評議会に訴えることができる。
 医療者の思い込みの医療ってあるでしょう。医療者が思い込んでね、これはいい事だ、こうやる事がいいんだというように先入観で思い込んでる事があるんです。しかし、患者さんが見ると、そんなのはとんでもないという事はあるんですよね。そういうのを気付かせるにはやっぱり、第三者の目というのは非常に大切です。ですから、評議会というのを病院の中に作って、何かそういう問題があれば、そこへ訴えてくださいというようなシステムを作ってるんです。この病院憲章というのは、そういう内容をうたってるんです。しかし、これをあんまりしっかり覚えてですね、あそこが悪い、ここが悪いと言われるとまた困るので、理想としている、こういうふうな病院を目指してますという事で、少し御容赦願いたいんです。
 病院憲章の中から、ちょっとだけ拾い読みしてみますと、『当院は、現代日本に於ける様々な問題、取り分け地域医療の問題解決を目指し、あるいは少なくとも解決の方向を実例を以て示さんとする意欲と情熱のもとに設立されるものである』と、いうような事が最初の書き出しであるんですね。そして、『当院が提供する医療内容は、消化器、成人病センターとして、有効と見なされるあらゆる選択肢を包合した集学的治療を心掛け、ハイレベル・アンド・アットホームの医療を目指す。人間が人間たる尊厳をもって死を迎えるべく、その生命の質、生活の質を重視したターミナルケアを心掛ける。地域住民の特性を踏まえ在宅医療を合む、予防、治療、リハビリを見通した医療を行う』
 本当にこんな事みんなに公表しちゃっていいのかしらと、ちょっと心配をするんですけれども、受付に行くと、もう自由に出してありますから、こういうふうにみんなに公言してしまっている訳ですね。ですから、それを目指してやってかなきゃならない。現実はいろいろありますから、皆さんの協カも頂いていかなきゃいけないだろうとは思いますけど、こういう病院を目指して、私達はやっていこうとしております。


その7 病院臭くない病院

 そこでですね。もうちょっと、どういう病院かというのをお話ししますと、病院臭くない病院というのを私達目指しました。即ち、病院へ行くと、すぐ病院臭いというのがありますでしょ。薬がプーンと臭ってくる。壁が真っ白。あと、患者さんがこんな暗い顔をしている。患者さんが暗い顔しているのはしようがないでしょうが。雰囲気が如何にも病院だ、そういうのはやめようと努力したんです。
 病院というのは、一つの生活の場に過ぎない。デパート行こう、食べるものないからス一パーマーケットに行きましょう、今日調子悪いから病院行きましょうと、そういう生活の一つの場なんです。ですから、そんな病院臭いというのはやめようという事で、一生懸命工夫をしました。
 まず第一にですね、レストランを病院の正面にもってきたんです。普通病院の正面にレストランがあるなんていうのは、みんなびっくりしますね。デパートかと思っちゃう。そのレストランには病院に入らなくても入れるようにしたんです。即ち、病院の患者さんが利用せよというんじゃなくて、地域の人どうぞ、そこへ食事に来てください、病院の人もいいんですよというように、レストランに直接入れるようになってるんです。あるいはロビーを、なるべくホテルのロビーに近いような雰囲気にしようとか、看護婦さんの制服をピンクと白の二種類の色にしました。もっと多くしたらおもしろいんですけれども、あんまり多くも出来ませんけれども、看護婦さんの気分で替えなさいと、これは実におもしろいですね。医者も白、看護婦も真っ白という冷たい感じじゃなくて、看護婦さんの気分で、ピンクを着たり、白を着たりするんです。それはなんとなく味があって、おもしろいと私は思っています(笑)。
 うちの女房がね、私が回診するのも、こんな白衣着て「皆さん、どうですかあ」なんて回るのはね、なんかこう味がないなあ、なんかもっと面白い方法がないかなあって言ったら、スーパーマンの恰好したらどうっていうんですね(笑)。マント着てね、Sのマークで、「どーですかあ」と言ったら、患者さんびっくりするって(笑)。まさか本当に実行はしていませんが、今までの、医者、看護婦、病院というイメージを、違うものにしたいなあというのが、私達の願いであります。
 廊下の色はですね、各階変えたんです。五階べ一ジュ、四階赤、次は緑、次はブルーと、全部変えたんです。幼稚園みたいですね、面白いですね(笑)。子供が上がっていって喜んでる。「ああ赤だ」そういう味をつけたいと思ったんです。各病棟には談話室ですね、わりと大きな、病室より大きいくらいの談話コーナーを設けて、図書棚を置いて、図書を自由に読んでください。ボランティアの人達が来て、本を整理したりしてくれてるんです。デイルームといってますけれど、そこで家族が話し合ったり、患者さん同志がテレビ見たり、わりと大きいデイルームがあるんです。
 そういういろんな工夫をして、人間らしい、病院に入っても人間としての生活、入院している時期が単なる人生の一つの時期に過ぎない、だから同じような人間としての生活が、なるべく出来る雰囲気にしたいというのが、私達の願いであります。


その8 ホスピスのあり方(治療と看護を並列に)

 “自然医療"として、先程申しましたホスピスというものがあります。ホスピスでは、いろいろなやり方を考えましたが、私としては、キュアアンドケアという、即ち治療と看護を並列でやりたいと考えています。即ち普通の病院、あるいは普通の医療ですと、治療と看護という、医者と看護婦という縦なんです。即ち、医者が命令して看護婦が動くという縦の関係です。普通どこでもそうですね。医者が「こうしなさい」「ハイ、わかりました」というのが、普通の病院、治療病院です。これは治療では、どうしても必要なんです。医師は治療についての専門家ですからね。
 ところがホスピスという、先程言いましたような人間の生活の質を重視する。治すというんじゃなくて、安らかに、健やかに余生を過ごしてもらいたいってところは、やっぱりこれでは駄目だ。そうではなくて治療と看護を並列にしようと考えています。
 即ち、医者は治療の専門家、看護婦さんは看護、あるいは介護、世話をする専門家として、両者がですね、話し合って、ものを決めようというふうにしているんです。というのは、看護婦さんの方が患者さんに接している時間は、絶対的に長いんです。二十四時間です。医者が接している時間は回診の数分長くて10分くらいだけなんです。一、二秒かもしれません(笑)。スーッと通っていってしまう。そういう状態で、患者のケアの指示を出していたら、良い結果が出るはずがないんです。生活の質という事を考えたら、両方で話し合って決めるべきなのです。
 例えば、一つの治療をする場合に、「これ、やりましょうか、看護婦さん」「いや、それはよくないんじゃないか、この人の人生にとって、あるいはこの人の生活にとってよくないんじゃないか」。「抗ガン剤打とうか」っていうと、「いや、それは、かえって苦痛の方が多くて、その人が抗ガン剤のために食ベられなくなったらそれで果たしていいのだろうか」と、そういう議論しながら、ものを決めていこうという事を目指しているんです。ですから、私なんか素直ですから、看護婦さんの言う事はよく聞いて、看護婦さんが「こうして下さい!」というと「ハイ、わかりました、仰せの通りにいたします」(笑)そんなふうに、そこでは非常に、看護婦さんが強いんです。それは、いいことだと思うんです。それが生活の質を重視した医療じゃないかなと思います。


その9 個人の信仰は認めるが布教は禁止

 宗教も、病院自身は宗教を持たないという事にしているんです。けれども、宗教は利用しよう。そういう末期の癌患者さんは、いくら薬だとか、痛み止めを使っても、どうしても消えない、死んだらどうなるんだろうかだとか、あるいは家族と別れる事の辛さとか、いろんな精神的なものがあるんですね。ですから、私は宗教を、その人を健やかにしてあげるために大いに活用したいと思います。
 しかし、押しつけちゃうといけない。伝道になっちゃうんですね、病院の中で「あなた、この宗教どうですか」と、押し付けるような事はやってはいけない。それではどうやって伝道ではなく、宗教を利用するようにしたらいいかなという事を、みんなで考えました。
 会堂というのがホスピスにあるんです。会堂というのは、ちょっとお祈りしたりですね、あるいは瞑想にふけったりする小さな部屋です。ステンドグラスのイメージとしてはちょっと、キリスト教のイメージなんですけどね。そこでまず、お坊さんとか、キリスト教の牧師さんなんかが、話してくださいと、イヤホンで全館聞けるようにしたんです。今日はお坊さんの何々さんが来て、説教しますから、興味のある人は聞いてくださいと、みんなに教えておく。最初はお坊さん一人で、マイクの前でしゃべっている訳ですね。誰も聴いてないかもしれませんけど、まあしょうがない。一生懸命話して、しかし、聴いて、ああこれは聴きたいなあと思ったら、直接その会堂に行って聴いてもいいし、逆に自分が動けなきゃ、お坊さんに来てもらってもいい。そういう事を考えたんです。
 これなら別に伝道じゃない。患者さん自身が、自発的に宗教に関心をもっていったんですから、これはいいじゃないかというような事を考案しまして、やっております。ですから、牧師さんとか、お坊さんとかですね、そういう宗教家が直接しないけれども、放送を通してやるというシステムを、考えてやっております。
(平成2年6月3日講演)