広葉樹(白)死を恐れる必要はありません
生命に、終わりはないのです。
ただ形を、変えるだけなのです。

『神との対話』を読んで

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伊能 言天
いのう げんてん
医 師
金沢大学医学部卒業・東京慈恵会医科大学大学院中退
市立病院外科医長・私立病院副院長・病院長など歴任
関連「神との対話」との対話 


目  次
T 序 言  (1)はじめに
  (2)ウォルシュ氏の生い立ち
  (3)『神との対話』が始まったいきさつ
U 神と宇宙   (1)神と神性
  (2)神の宇宙創造
V 人 生  (1)人生
 (2)生と死
 (3)前世・現世・来世
 (4)輪廻(りんね)
 (5)堕落・原罪・地獄
W 生 活   (1)人間関係
  (2)愛
  (3)価値
  (4)エゴ
  (5)宗教
  (6)セックス
  (7)金銭
  (8)善悪
  (9)後悔と罪悪感
  (10)羨望と嫉妬
  (11)自殺と安楽死
  (12)教育
  (13)自由
  (14)自己啓発
X 『神との対話』とキリスト教教理の相違点   (1)宇宙の創造目的
  (2)堕落と原罪
  (3)キリストと救済
  (4)輪廻と地獄
  (5)選民
  (6)宗教
  (7)終わりに
Y 『神との対話@』 全文    伊能言天 やく


T 序 言   
        
(1) はじめに 

 ニール・ドナルド・ウォルシュ(Neale Donald Walsh)氏の著書、『神との対話』を読んで、私は、大変感銘を受けました。

 これまで、宗教に関心を少なからず持っていた私は、若いころからキリスト教を中心とした、色々な宗教教理の本を読んできました。

 『神との対話』を読んで、その要点を、私なりの独断的な解釈を加えて、述べてみたいと思います。その独断的解釈は、私の理解力に大きく左右されていますので、足りないところはお許しください。

 何よりも、『神との対話』の原著を読まれることをお薦めします。

書籍紹介
神との対話@AB:ニール・ドナルド・ウォルシュ著/吉田利子訳  サンマーク出版/ 1997年
  価格:@A各1800円 B2000円   (普及版 各800円)

神との友情@A: ニール・ドナルド・ウォルシュ著/吉田利子訳 サンマーク出版/ 2000年

  価格:@A各1800円


(図書館にも置いてあると思います)
 



(2) ウォルシュ氏の生い立ち

 ニール・ドナルド・ウォルシュ氏は、小学生時代、神父のような聖職者になることが夢でした。

 それは父親の反対でかなうことなく、マスコミ関係の仕事を手始めに、医学、政治などいろいろなことを経験しています。その中で興味深いことは、『死の瞬間』の著者であるキュブラー・ロス女史の助手として仕事をしていることです。

 私生活では、複数回の離婚を経験し、時にはホームレスの生活をしたこともあります。まさに聖職者からホームレスというありとあらゆることを経験し、波乱万丈の人生を送っているのです。

 彼は、『神との対話』をおこなって、「自分の人生は、今のためにあったと気付いた」と述懐しています。

 『神との対話』の原著は英文(英文タイトルは、Conversations with God)で、1998年時点で24か国語に翻訳され、何カ月も続けて国際的にベストセラー・リストに登場しました。

 日本語訳は、吉田利子氏によるもので、サンマーク出版から、第1部が1997年に、第2部が1998年、第3部が1999年にそれぞれ発刊されています。

 さらに、ニール・ドナルド・ウォルシュ氏は、続編として「神との友情」(Friendship with God)2部作を 2000年に、「神とひとつになること」(Communion with God)を 2001年、「新しき啓示」(The New Revelations)を 2003年、「明日の神」(Tomorrow's God)を 2006年に執筆出版し、2007年に出版された「神へ帰る」(Home with God)で、神との対話シリーズを完結させています。


(3) 『神との対話』が始まったいきさつ

 彼は、1992年のある日、行き詰まった人生に憤怒し、テーブルに置いてあったノートに怒りや失望の思いを、神に当てて書きなぐりました。それは誰でも、日記にその思いを書いて、心の平安を得ようとする行為と同じものです。

 書き終えてしばらくすると、自分のペンを持つ手が、何者かの力に拘束され、神の言葉が、自動的にノートに書き始められたそうです。それは、「まるで口述筆記をしているようだった」と述べています。

 これは、心霊科学でいわれる、自動書記というものと考えられます。それから、『神との対話』が始まったのです。

 彼の質問に、神が答えるという形式で話が進んでいきます。




U 神と宇宙  
          
(1) 神と神性   

 @ 神

 『神との対話』では、神とは「存在のすべて」と表現されています。「存在のすべて」とは、旧約聖書(出エジプト記第3章)に「有りて有る者」と書かれてあるように、全ての存在の根源であり、かつ被造物をも包含した存在全てを意味しています。

 『神との対話』の著書では、「存在のすべて」を、次のように説明しています。

『わたしは神である。わたしは至高の存在である。存在するすべてである。はじまりであり終わりである。アルファでありオメガである。わたしは太陽であり物質である。問いであり答えである。上昇であり下降である。左であり右、現在であり、過去、未来である。』

『わたしの世界は、絶対の世界であって、そこでは、ひとつのものが、他との関係によって存在しているのではなく、何ものからも、独立して存在している。』

『わたしには、あなたがたが理解できるかたちも姿もない。わたしは、どんなかたちや姿になることもできるが、(中略)わたしは偉大なる『見えざるもの』であって、ある瞬間のかたちや姿ではない。』

 創造主なる神を、被造物である人間の言葉で説明することは、自ずから限界があります。時間・空間の中に生きる人間が、時間・空間をも創造された、すなわち時間・空間を超えた存在を、形容し表現する言葉自体を、持ち合わせていないからです。


 A 神性

 神性とは、神の属性(側面)をいいます。

 神には、非常に複雑で、無数の層、感覚、面があります。例えば、冒涜的な面と深い面、小さな面と大きな面、うつろな面と神聖の面、おぞましい面と神々しい面など、ありとあらゆる性質を内包しているのです。


(2) 神の宇宙創造

 @ 創造目的と宇宙創造

 神の宇宙創造は、すべての根源である神が、自らの性質(神性)を体験するために、自分の姿に似せて被造物を創造しました。

 「存在のすべて」である神は、絶対の存在であるため、概念としての知識はありましたが、体験としての知識はなかったのです。そこで、相対的な世界、すなわち宇宙を創造し、体験的に、あるいは実感的に、自らの神性を知ろうとされたのです。

 絶対的世界は、存在自体であり、それを体験的に知るには、相対的世界でなければならないのです。

 たとえば、容姿など自分について全く知らない人間が、光や音など、五感で感じるものが何もない、部屋の中にいるとします。そこでは自分について知る方法が、何もありません。

 そこに、1点の灯りが出現したとします。すると、自分と灯りとの距離、灯りの大きさなどによって、自分の位置や大きさなどを、知ることができます。さらに灯りが明るくなって、自分の姿が映し出されれば、自分の容姿も、見えてきます。

 このように相対的世界では、他者との相対的関係をもつことによって、自分自身を知ることができるのです。

 宇宙は、物質的世界と、霊的世界からなっています。

 霊的世界では、思いとその実現とに時間差が無く、思いが即実現します。

 物質的世界でしか、神性を体験的に知ることはできません。

 要約すれば、神の宇宙創造は、無形の神すなわち「存在のすべて」の神が、無数にある神性を表現して有形的な宇宙を創造し、まさに自分自身を鏡に映すようにして、自分を体験するために、行なわれたのです。

 それは、画家が、自らの脳裏に浮かんだ無形のイメージを、キャンパスに描いて表現し、それを客観視することにより、喜びを実感することと、似ているといえるでしょう。


 A 魂の創造

 神は、神ご自身の性質と能力を分与した魂を創造されました。それは、神の分身(分霊)といえます。魂は、宇宙創造の時に、決められた数だけ創造されています。

 神の分身である魂が、物質的世界の人間に宿ることにより、いろいろな体験をします。したがって、人間は、魂-精神-身体という3層になっています。

 魂自身が自らを体験的に知ることによって、神ご自身も自らを体験的に知ることができるのです。

 いいかえれば、魂の目的は、神から分与された、概念としての知識を、人間の精神、身体による活動、すなわち人生において実体験し、体験としての知識を体得することです。

 魂が実体験するときに、神ご自身も無形なる絶対的な自分自身(神性)を、有形的に実体験しているのです。

 神の分霊が魂ですから、魂は、神と一体です。したがって魂の目標は、母体である神の無形なる神性を実体験して成長、完成し、分霊する前の神に帰一することなのです。

 このように、神ご自身も、自身の分身たる魂とともに共同して、無限に、成長・変化し続けるのです。


 B 人間の創造と人間の構成要素

 人間は、魂の乗り物として、創造されました。したがって、人間は、魂、精神、身体からなっています。

 魂は、神の分霊として個別性をもちながらも、全てがつながっています。それを、家の中の空気に例えられています。

 空気はすべてつながっているものですが、家の中では、各部屋ごとの独特の空気、例えば、台所なら食物の香りがする、リビングルームはそれ特有の雰囲気があるというように、個と全体がつながっています。しかも、屋外の空気ともがつながっています。

 魂も、それと似ています。人間一人ひとりの魂の個別性はありますが、それらは、決して別々に分離しているのではなく、つながっているのです。

 さらに神と魂の関係を、大洋と波を例えにして、説明しています。

┌−−−−−−−−−−
 大洋がなければ、波は波として存在する力をもたない。

 小さくても大きくても波は波だ。

 波のひとつひとつは違っていても、どの波も、大洋そのものと分離してはいない。

 波は浜辺に打ち寄せるが、存在しなくなるわけではない。かたちを変えて、また大洋に戻っていく。

 波の存在は、大洋の存在の証だ。

 あなたの存在は、神の存在の証だ。

 《神へ帰るP130》(一部略)
└−−−−−−−−−−

 大洋と波はつながっています。その成分組成も同じです。波は大洋の一部なのです。

 波にも、大きな波、小さな波など千差万別の波がありますが、それは大洋の様々な性質の表れです。

 そして波は浜辺に打ち寄せるが、存在しなくなるわけではありません。かたちを変えて、また大洋に戻っていくのです。

 大洋と波の関係と同じように、魂は神の分霊で、神と魂はつながっているのです。

 それがもし、実感できれば、他者を無視した独善的な考えや行動は、他者だけでなく、自分をも害しているといえるのです。他者のために与えることは、自分に与えることになるのです。


V 人 生  
       
(1) 人生 

 @ 人生

 魂には、無数の神性が、概念としての知識として付与されています。

 人生は、魂が、その宿った人間の生活活動を通して、神性を実体験して、体験としての知識に変えていく過程です。すなわち、現実の生活に起こるさまざまな出来事をツール(道具)として、人間が考え行動することによって、概念としての神性を体験して、体験としての知識を体得していくのです。

 『神との対話』では、それを、パソコンのCD−ROMを例えに、説明しています。

 CD−ROMの中には、目には見えないプログラムが入っています。それをパソコンに読み込ませると、パソコンはいろいろな作業をします。

 その作業が1つのゲームだとすると、(ゲームに例えるのは、神が人間を持て遊んでいるように誤解されて良くないが、とも述べています)ゲームの内容は、プログラムとしてCD−ROMの中にすでにすべて書き込まれています(これが、概念としての知識ということです)。

 ゲームの実行中に、その場面場面に主人公の行動を選択、決定して、ゲームを進んでいきます(これが、体験としての知識です)。その選択の組み合わせは、数限りなくあります。

 それが人間が歩む人生に似ているのです。すなわち、神の分身としての魂には、概念としてのプログラムがすでに付与されています。人間が人生の中でいろいろな場面に出会い、いろいろな決断をして行動していくとき、いろいろなことを実体験し、その概念としての知識を、体験としての知識に変えていくのです。その時、同時に神ご自身がそれを実体験しているのです。

 魂は、人生において、自分自身を新しく創造あるいは成長させるために、身体に宿る時に(生まれる時)、それまで生きた前世の記憶を忘れます。絵を描く時、白紙のキャンバスでなければ、新しい絵を描くことができないのと同じです。

 過去の記憶を忘れることにより、まったく新しい自己を創造していくのです。それによって、概念としての知識として分与された神性を、新たに実体験し、体験としての知識、すなわち自己実現をしていくのです。

 アメリカの精神科医ブライアン・ワイス博士は、過去にさかのぼるという退行催眠によって、その人の前世の記憶をよみがえらせ、現実の生活に活用するという、前世療法という心理療法を行っています。


 A 魂と精神

 魂のレベルの考えと、精神のレベルの考えとは、必ずしも一致しません。というより、高次に成長していないレベルでは、精神は、魂の考えを感知できないのです。

 魂の目標は、神の神性を体験し成長していくところにあります。

 しかし精神の目標は、この現実世界で、より良く生きていくところにあります。そのより良いという価値観は、それぞれの成長レベルによって、異なっています。例えば、お金がすべてという価値観もあり、愛や真実が大切であるという価値観もあります。

 魂は、神性を体験していくためのチャンスを、人生の出来事として用意していきます。しかし、人間は精神の作用によって行動していますから、魂の意図する方向とは異なる選択、決定がなされる場合があります。

 すなわち、精神は、出来事の場面場面において、おうおうにして、魂の意図するところとは違った選択、あるいは決定をしていきます。そのために、その人間からすれば、自分の精神の意図とは違った結果が、現実には起きてくることがあります。

 しかしこれは、決して意味のないものではなく、必ず魂が成長していくために役立つものであるのです。

 相当高次に成長した個体のレベルでは、この魂の意図を精神は理解できるのです。キリストや、釈尊などのマスター(師)は、それらを理解できる人なのです。


(2) 生と死 

 魂−精神−身体が一体となった人間が、物質的世界(現実世界)で果たすべき課題が完了すると、物質的世界を離れて霊的世界に行きます。

 「死」は、物質的世界(物理的世界)から霊的世界へ移行する通過点であって、「生」の終わりではありません。

 輪廻転生によって霊的世界から物質的世界に移行する通過点が、「誕生」です。

 人間は、物質的世界でも霊的世界でも、形(エネルギーの振動数)は変わりますが、魂−精神−身体の3要素からなっているのです。

 「死」のプロセスは3段階からなります。

 第1段階で、自分は物質的な身体ではないことに気づき、第2段階で、死ぬ時に抱いていた信念を経験します。

 例えば、死んだら天国に行くと信じている人は、自分が思い描く天国の情景を経験するのです。

 死んだら全てが無になると信じる人は、眠っているときと同じような、何も無い情景を経験するのです。そしてほどなく、その人の愛した人たちが、目覚めをうながしてくれるのです。

 第3段階で、神と一体化して、終えたばかりの人生を、関わった全ての人間の視点で振り返ります。

 そして神の「聖なる審問」を受けるのです。

 「聖なる審問」の時、霊的世界に進むか、今来た元の物質的世界に戻るかは、人間が自由に選択できるのです。

 霊的世界に進むという選択をして霊的世界に入った時、人間の「死」のプロセスが完了します。

 その逆に、霊的世界の人間が、新たに神性を体験したいと希望すると、物質的世界に行きます(輪廻転生)。

 霊的世界の人間が、輪廻転生によって物質的世界に行く時にも、「聖なる審問」を受けるのです。



(3) 前世・現世・来世

 魂は、自己を完成させるために、現在の人生(現世)を通じて神性を体験しますが、その人間の個体で、体験できる内容が尽きると、身体から離れて(死)、霊的世界(来世)に行きます。

 そして、さらに神性の新しい体験を希望・意図したときに、再び現世に戻って、別の人間に宿ります。

 前世とは、その魂がそれ以前に生きた現世をいうのです。

 具体的にいいますと、魂が現世のAという人間に宿り、Aの人生を終えて身体を離れて(死)、来世(霊的世界)に行きます。

 そして、その魂が、新たに物質的世界で生きたいと意図したときに、現世のBという人間に宿って、Bの人生を体験します。その魂の前世とは、Aの人生をいうのです。

 魂には、前世の全ての体験が、記憶されているのです。


(4) 輪廻(りんね) 

 仏教でいう輪廻を、この『神との対話』でも述べています。

 すなわち、人間が死んでから、来世(霊的世界)に魂は行くのですが、魂の内包する概念としての神性が、完全に体験されないでいる間は、再び現世に戻って、それを完遂するために、また新たな人生を歩みます。その時、魂が宿る人間は、前の時(前世)とは違っています。

 これを繰り返すことを、輪廻というのです。

 ウォルシュ氏は、648回目の人生(現世)を、今、歩んでいます。(すなわち、すでに647通りの前世を生きているのです。)

 それを繰り返して、神の分身としての魂に与えられた、すべての神性を実体験して、完成したときに、その魂は、神に帰一し、一体化するのです。

 神と一体化した後、それは再び、高次の次元で分化します。すなわち、無限にこの分化と帰一が繰り返されるのです。これが、いわば神の呼吸であるのです。


(5) 堕落・原罪・地獄 

 『旧約聖書』の創世記第3章には、人間の始祖であるアダム(男)とイヴ(女)の失楽園の物語が書かれています。

 それを要約すると、

┌−−−−−
 アダムとイヴは、エデンの園で、神から取って食べてはならないと言われた『善悪を知る木の実』を、ヘビの誘惑によって食べてしまうという罪を犯すことによって堕落し、神によってエデンの園(地上天国)から追放された。

 ヘビ(天使を象徴している)は堕落して悪魔となり、堕落したアダムとイヴの子孫 (すなわち全人類)は、神の戒めを破ったという罪すなわち原罪を、生まれながらにして負っている。
└−−−−−

となります。

 キリスト教(カトリック教義)では、神の創造した宇宙は地上界と霊界から成り、人間は地上界での人生を通して人格を完成して地上天国を築き、死んだ後、霊界に天上天国を築くように創造されたとなっています。

 ところが、人間始祖の堕落により原罪を負った人間が繁殖し、地上界を支配することにより、地上、天上ともに天国の実現が不可能となったのです。

 『神との対話』では、「エデンの園の神話」は、人間始祖の堕落ではなく、神の「最初の祝福」を意味しているといっています。

 聖書にある「善悪を知る木の実を食べた」という出来事は、アダムとイヴで象徴される最初の人間が、相対的世界(現実世界)で、善なることと悪なることを自らの自由意志で選択し経験し始めたという、祝福すべき船出を意味しているのです。

 したがって、人間始祖の堕落は存在せず、人間に原罪はありません。

 キリスト教の教義では、この世(地上界)で、悪事を行った人間は、死んでから霊界に存在する地獄に行くといっています。霊界には、天国と、悪魔が支配する地獄の二極の領域(場所)があるのです。

 天国と地獄の中間には、煉獄、リンボーがあるとされています。

 『神との対話』では、霊的世界には天国のみがあり、キリスト教が説くような地獄はないといっています。

 地獄は、霊的世界の場所として存在するものではなく、低位の魂が自分自身で創り出し、経験するものだというのです。

 霊的世界では、思考が、即、現実となりますから、魂の成長レベルに合わせた現実が展開されます。

 すなわち、地獄という場所はないが、地獄の経験はあるというのです。



W 日常生活  
          
(1) 人間関係

 人間関係は、自分と他人との関係性の中で、自分自身を表現し、神性を体験することのできる最も重要な場です。人間関係の中で提供される出来事に対して、どうありたいかを選ぶことにより、本当の自分は何者であるかを決め、本当の自分になっていくのです。

 すべての人間関係を、自分を創りあげる機会であるとはっきり理解すれば、すべての人間的出会い、とりわけ個人的な人間関係を、素晴らしいものと思うようになります。

 様々な人間関係の中にあっても、他人の考えを尊重はするが、自分の体験や実感は、それ以上に大切にすべきです。

 他人の目を気にして、他人の好むような行動ばかりを取っていると、他人の人生を歩んでしまうことになるのです。


(2) 愛 

 愛は無条件、無制限で、何も必要としません。

 ほとんどの人々が、愛と必要性を混同しています。

 必要性とは、自分のものではない何かが自分の外に存在し、幸せになるにはそれが必要だということです。

 誰かを愛し、同時に必要とすることはあっても、必要だから愛するということはありません。必要だから愛するなら、それは相手を愛しているのではなく、相手が与えてくれるものを愛しているのです。

 何かを与えてくれようとくれまいと、相手自身を愛するなら、その時は本当に相手を愛しています。何も必要としないなら本当の愛なのです。

 愛は、神の本質であり、神そのものです。聖書に、『神は愛なり』(ヨハネ第一 4:8)とあります。

 完璧な愛とは、色の中の完璧な白のようなものです。多くの人は、白とは色がないことだと考えていますが、白は存在するあらゆる色が、合体したものなのです。

 それと同じように、愛とは、慈しみ、寛容、赦し、謙虚、信頼、忍耐、誠実などの感情ですが、それに憎しみや怒り、情欲、嫉妬、羨望なども包含された、あらゆる感情の総和なのです。

 魂が、完璧な愛を経験するには、そのあらゆる感情を経験しなければならないのです。


(3) 価値 

 価値は、その個体が目指す目標に到達するのに、有益なものを、価値があるといいます。その反対に、無益なものを、価値がないというのです。

 したがって、目指す目標の違いによって、価値観が変わってきます。金持ちになることが目標なら、お金がもうかる事柄に価値を見いだし、一方、魂の成長を目標とする者にとっては、お金はあまり価値がありません。

 人間には、多様な価値観があり、全ての人間は、自分の抱く価値観にのっとって生きています。


(4) エゴ 

 『神との対話』では、「魂−精神−身体」からなる人間のうち、「精神−身体」からなる部分を「エゴ」といい、「魂−精神−身体」からなる全体を、「真なる自分」と表現しています。

 エゴ(自我)というのは決して悪いものではなく、真の自分を知り、自己実現するためのツール(道具)です。

 しかしそのエゴが大き過ぎると、エゴにとらわれてしまって、さらに深く高いところへ入ることができません。結局、真の自分を見失い、人生のなかの道に迷ってしまいます。

 その迷っているエゴを救い出してくれるのが、本当の宗教の教えで、その教えは、本当の自分に連れ戻してくれるのです。


(5) 宗教 

 すべての宗教は、神への道をそれぞれ教え示しています。その道は数限りなくあります。それらの道のどれも、数限りない道の中の一つであり、どれかがより優れた道ということはありません。

 民族においても、選民というような、他の民族より優れている民族というものもありません。

 神は、すべての人間に平等に語りかけ、導いています。というより、人間の魂と神は通じていますから、心の奥深いところにある魂で神を訪ねれば、神を見いだすことができるのです。

 ところが、現実世界にとらわれ過ぎてしまうと、エゴ(自我)が大き過ぎて前面に出てしまい、その奥深いところまで到達することができず、幻想ともいえる現実世界の出来事に翻弄されてしまうのです。

 神は絶えず人間に語りかけています。それは、マスター(師)を通して、芸術や科学を通して、自然を通して、そして本人の魂の叫びを通して、絶えず語りかけています。問題は、それに人間が気付くか気付かないか、聴こうとするかどうかなのです。

 しかし時として、自分を「救世主」とか「真の親」とか名乗る者が現れます。そういう者からは、なるべく早く逃げるほうが得策です。真のマスター(師)は、自分を崇めよとはいわず、多くの人々をマスターに育てる者だからです。


(6) セックス 

 愛により一体化したいという思いが、セックスにより成就し、その結実として、子供が産まれます。

 セックスは、生殖を意図した場合に限られません。生殖を意図しないセックスも、何ら不条理なことはなく、一体化する喜びを与えてくれます。

 ただ、真の愛のない、肉欲だけのセックスは、魂の成長にとっては、益が少ないといえるのです。


(7) 金銭 


 金銭は、人生を生きるためのツール(道具)の1つです。

 すべての物についていえることですが、金銭自体には、正邪も善悪もありません。

 人間が過去に経験した金銭にまつわる邪悪な側面が、少しずつ人々の心に浸透していき、「金は汚いもの、邪悪なもの」という先入観が人間に植え付けられてきたのです。

 金銭にまつわる多くの問題を解決する1つの手段は、金銭の「見えない」という悪弊をなくすことです。

 労使や性別による賃金格差、社会的貧富の差、先進国企業による途上国での利益取得などについては、金銭の授受がオープンにされれば、その不公正さ、不公平さが暴露され、大きな変革をせまられることでしょう。


(8) 善悪 


 「善悪」は、物事の価値判断を表す言葉で、宗教は、その基準の設定に深くかかわっています。

 「善悪」は、キリスト教教義のいう、神とサタン(悪魔)が対峙するという二元論的なものではなく、物事の有益性を相対的に表したもので、物事の目的にかなった有益な考えや行為は「善」となり、その反対は「悪」となるのです。

 「善悪」は、神がその基準を押し付けるものではなく、人間自身が築き上げていくものなのです。

 もし神が「善悪」の判断を下せば、自由意思を持った人間を通して「自らの神性」を体験するという、本来の神の創造目的が損なわれてしまうのです。


(9) 後悔と罪悪感 


 「後悔」は、悔い改めてやり直そうという、成長にプラスとなる気づきを与えてくれます。

 「罪悪感」は、悪いことをおかした自分はダメな人間だという、自分を否定するマイナス的な思いで、「罪悪感」を持つ必要は全くありません。

 自分はダメな人間だと卑下することは、自分の成長にプラスにならないのです。

 良いことでも悪いことでも、過去のことは手放し、さらなる成長に向けて、新たな一歩を踏み出すのです。

 岐路に立ったとき、「これがわたしか?」「愛なら、いまどうするか?」と自問自答すれば、成長は速まります。

 いつか悪いことをおかした状況と同じような出来事が、人生に用意されます。

 その時、自分の思い描く最高のビジョン、最大バージョンで考え、行動するのです


(10) 羨望と嫉妬 


 「羨望」は、さらに向上しようという動機づけとして働きます。

 「嫉妬」は、ベースに不安があり、自分や他人の成長を妨げます。

 「羨望」は成長に好ましい感情ですが、「嫉妬」は人を殺してしまうのです。

 小児期に、「羨望」が親に否定され続けると、「嫉妬」に変質してしまいます。

 不安は愛と対極をなす感情で、これらがアクセルとブレーキのように協調的に働いて、人間は生活しています。

 現代社会では、感情が不安に偏り過ぎています。

 教育や社会のあり方を、愛を基本としたものにすべきなのです。


(11) 自殺と安楽死 


 宗教では、「自殺」は禁止されています。

 『神との対話』では、「自殺者は神に罰せられることはない」といっています。早く寿命を縮めること(自殺)はダメで、ゆっくり(タバコなど)なら良いというのは筋が通らないというのです。

 しかし、自殺自体に問題がないわけではありません。

 人生の課題を完了せずにのがれたとしても、再び物質的世界の、のがれようとした状況に戻ってきて、また一からやり直すことになるのです。

 死ぬ時、個体の意識状態は、そのまま霊的世界に持っていきます。自殺するほどの悲惨な心理状態を反映する世界は、地獄のような世界であるともいえるのです。

 苦境に立たされた時、「抵抗しないで見つめなさい」と『神との対話』はいっています。

 日頃から自分の感じている思いを、心の中にためないで外に出すことが大切です。外に出す方法(日記に書くなど)を自分なりに見つけるのが得策です。

 出来事や自分を客観視できれば、道がおのずと開けてくるのです。

 死にゆく過程に起きる苦しみと尊厳の喪失から、本人を解放するために死を早めること(安楽死)は、自殺とは全く別ものです。


(12) 教育 


 『神との対話』には、「教育」のあり方へのアドバイスが次のように書かれています。

@産む人間と育てる人間が同じでなくてもいい。

A知識ではなく智恵を教える。

B霊性を教え育てる。


(13) 自由 


 自由の最大の行使を通じてのみ、人間の最大の成長が達成されます。

 人間は日常生活の中で、様々な物事を自由意志で選択することによって、無限にある神性を体験していきます。

 自由は、神と魂の本質であり、また、人間の成長は自由の行使によってのみ達成されるのです。

 他人によって自分の自由が制限されるなら、他人のルールで生きることになります。それは他人の人生を生きることにほかならず、自分自身の成長にはならないのです。


(14) 自己啓発 


 『神との対話』には、自己を啓発する手立てが、以下のように書かれています。

@今日のあなたは、昨日のあなたではない。過去のことにいつまでも執着しないで、それを手放し、新しく出発する。

A他人より優れようとするのではなく、過去の自分より優れようとしなさい。

B毎日起きる出来事に対して、自分はどんな「存在」でありたいかを考え、そのありたい自分になろうと努力する。

C失敗したとしても、自分はもうだめだとあきらめたり、無力感や罪悪感にひたる必要は全くない。

D根になる固定観念をいちばん速く変える方法は、「思考−言葉−行為」というプロセスを逆転させることだ。

Eあなたの高いヴィジョンにそぐわない考えが浮かんだら、その場で「新しい考え」に変えなさい。

F他人を卑下する思いがわいた時、自分自身の中に巣くう劣等意識を改めるべきだ。

G人間の目指すべき手本は、イエス・キリストに示されている。

H成長するには、なるべく自分より高い意識の人間と交わるべきだ。

I物事を選択するとき、全力をあげて心から選択し、それが現実になるまでは、気持ちをそらさないことだ。

J決意するときに考えるべきことはただひとつ、それが「わたし自身」を表現しているだろうか、ということだ。

Kこんな目にあうのは「自分の責任だ」と思ったとき、はじめてその物事を変える第一歩となる。

L他人に心から与えれば、自分も豊かになる。

M人生でほんとうに大切なのは力ではなく強さだ。

Nどんな時にも決して希望を捨ててはいけない。

O仕事を選ぶ時に唯一考えるべきことは、「自分を表現できる仕事かどうか」ということだ。

P何事においても、やり過ぎはいけない。


X 『神との対話』とキリスト教教理の相違点 

 『神との対話』の内容を、キリスト教の教理と比較して、その相違点を述べてみようと思います。


(1) 宇宙の創造目的 

 『旧約聖書』創世記には、神の宇宙創造の経緯が書かれていますが、創造目的については、はっきりとは記されていません。

 キリスト教では、神の宇宙創造の目的については、「神は、神ご自身の栄光を現わすために宇宙を創造された」としています。

 『神との対話』では、絶対的存在の神は、自らを体験的に知るために、相対性の理論を利用して、相対的世界すなわち宇宙を創造し、魂(および人間)を通して自らの神性を実感的、体験的に知ろうとしたとしています。


(2) 堕落と原罪 

 キリスト教では、人間の始祖である、アダム(男)とエバ(女)が、エデンの園で、神から取って食べてはならないと言われた、善悪を知る木の実を、ヘビの誘惑によって、食べるという罪を犯し、堕落したため、それ以後の子孫は、生まれながらに原罪を負って、生まれている、といっています。

 ヘビも堕落して悪魔となったと説いています。

 『神との対話』では、エデンの園の神話の本質は、神の最初の祝福を、表現しているといっています。

 Uの(2)で述べたように、人間は魂の乗り物として、人生で神性を体験していきます。魂の宿った最初の人間は、相対的世界で、ゼロから神性の体験を始めます。善悪を知る木の実を食べたということは、相対的世界の体験を、人間が始めたという祝福すべき船出を意味しているのです。

 人間に原罪はなく、悪魔は存在しません。


(3) キリストと救済 

 キリスト教では、原罪を生まれながらに持っている人間を救済するために、神から、イエスキリストが遣わされました。

 イエスキリストは、罪人(人類すべて)の罪を、自らが背負って、十字架上で亡くなり、3日目に復活しました。そのイエスキリストを、信じることによって、人間は原罪から解放され、神に許される、というのが、キリスト教の救済論です。

 『神との対話』では、神は絶えず、魂を通して、自然を通して、多くのマスター(師)を通して、人間を導いているといっています。マスターとは、輪廻を繰り返して、神性を体得し、悟りのレベルに到達した、魂(の宿った人間)をいいます。

 人間自身が、人生の道に迷い、真理を求める時、神は、いつも導いています。どの道を歩もうと、いつかはゴール(神)に到達するのですが、迷っている人間、求める人間には神は応えているというのです。

 イエスキリストは、マスター(師)のうちでも、最高のマスターであるといっています。そして、イエスキリストを信じて求める者には、今も霊的に、導いているといっています。


(4) 輪廻と地獄 

 一般的なキリスト教では、輪廻は、説いていません。人間は、死ねば、霊界に行き、その人間の生き方の良否によって、それぞれ、天国、地獄、煉獄(天国と地獄の中間)に、行くといっています。

 大罪を犯し、イエスキリストによる贖罪(罪のあがない)を受けなければ、地獄に行くと、教えています。

 『神との対話』では、輪廻を説いています。現世で神性を体験した魂は、死んで来世に行きます。その魂が、さらなる神性の体験を希望した時、現世に戻ってきます。これを繰り返す(輪廻)といっています。

 『神との対話』では、地獄は、存在しているものではなく、来世において、魂の最低の成長レベルによって、自ら創り出し、経験するものだと、いっています。


(5) 選民 

 旧約聖書には、人間始祖のアダムとエバ以後、その子孫が増えて、ユダヤ民族となり、堕落によって追放されたエデンの園に、再び帰っていく歴史が書かれています。

 ユダヤ民族は、神の国を建設するべく、神に選ばれた民族で、それを選民といっています。

 『神との対話』では、旧約聖書は、一民族での歴史的物語で、人間始祖は、地球上の複数の地で誕生しているといっています。

 そして、神にとって特別な民族というものは無く、すべての人間、民族が、神にとっては、神の分身という特別な存在であり、神性を体験する道を、等しく歩んでいるというのです。


(6) 宗教 


 旧約聖書には、イエスキリストの生誕までの、ユダヤ民族の歴史が、記されています。イエスキリストの説いた教えが、新約聖書となり、キリスト教の教典になっています。旧約、新約ということばは、キリスト教的ないい方なのです。

 ユダヤ教は、イエスキリストを救世主とは見なさず、一人のラビ(ユダヤ教の教師)と見なしています。したがって、旧約聖書(モーセ五書)は、ユダヤ教では、トーラーと呼び、その教典になっています。

 イスラム教は、紀元後6世紀に、ムハンマド(マホメット)が起こした宗教で、教典はコーランといいます。マホメットは、旧約聖書ダニエル書に出てくる、天使ガブリエルに出会い、神の啓示を受けたとされています。
 このように、世界4大宗教のうち、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同じような歴史的過程の中で、誕生しています。

 4大宗教の残りの1つ、仏教は、紀元前5世紀、インドの、ガウタマ・シッダールタによって、起こされています。

 宗教は、さらに、インドのヒンズー教、日本の神道、中国の儒教など、世界にある民族の数と同じくらい、多数存在しています。

 『神との対話』では、宗教はどの宗教も、神に至る道を教えているといっています。しかも、どの宗教にも優劣はなく、すべての宗教が、神に至る道を示す、一つの教えだといっています。


(7) 終わりに 


 『神との対話』という、とてつもない大著を、私の稚拙な理解力と文章力で、まとめてみました。

 生命に終わりのないこと、死を恐れる必要はないことを、見事に著わした、『神との対話』に感動し、多くの人々に、読んでもらいたいという一心で、書きつづりました。

 神はあなたの帰りを待っておられます。組織的宗教にではなく、あなたの心奥深くに臨在する、魂の声に耳を傾けなさいと、神は言っておられます。

 『神との対話』の原著を、お読みくださることを切に希望しています。


(8) Y 『神との対話@』 全文 


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┌《注記》
・対話上の「ニールの言葉」には、P10 以降は、文に「
N:」を付けました。
・「P」はページを表します。
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P7

(1)第1章

1992年の春―イースターの頃だったと思うが―異常な現象が私の人生で起きました。神はあなたと話し始めたのです。私を通して。

説明させてください。

私はその頃、個人的にも、仕事的にも、感情的にも非常に不幸な状態でした。

私の人生はあらゆるレベルで失敗だった、という気持ちでした。私は、自分の思いを手紙に書くという長年の習慣があったので(いつも投函はしなかったが)、黄色の便箋を取り出し、私の気持ちをそこに吐き出しました。

今回は、私を苦しめていると思っている人への手紙というより、根源、つまり人間を苦しめている最も偉大な根源に、ダイレクトに送ろうと私は思いました。神に手紙を書くことに私は決めたのです。

それは、悪意があって、激情的で、混乱、歪曲、非難などいっぱいの手紙でした。

そして、たくさんの怒りの質問を書いたのです。

なぜ私の人生はうまくいかなかったのですか?

うまくいくには何が必要でしょうか?

なぜ私は人間関係で幸せを見つけることができないのですか?

私は十分なお金を得ることは、永遠にできないのですか?

最後に―最も重要なことだったが―こんなもがき続ける人生を生きなければならないなんて、私は何をしたのでしょうか?

驚いたことに、最後の苦い、答えのない質問を書いてから、ペンを脇に放ろうとしたとき、まるで見えない力で押さえつけられているように、私の手は紙の上にのったままでした。

突然、ペンは自動的に動き始めました。私は何を書こうとしているのか分かりませんでしたが、アイデアは来ていると思われたので、そのまま続けることにしました。そうすると……

   あなたは本当にこれらの質問の答えを知りたいのか?ただ、怒っているだけなのか?

私はまばたきをして、その返事を思いつきそれを書きました。

どちらもです。怒っているのは確かですが、これらの質問に答えがあるのなら、(地獄のように確信して)それを聞いてみたいです!

   あなたはよく、地獄のように確信して、というね。だが、天国のように確信して、の方がよくないのかな?

私は書いた。

それはどういう意味ですか?

私が気づく前に、対話は始まっていたのです。私は、書くというより、ロ述筆記をしていました。

その口述筆記は3年間続きましたが、当時は話しがどこに行くのか分かりませんでした。

私の質問に対する答えは、質問を完全に書き終え、自分の考えを捨てるまで、私には来ませんでした。

しばしば答えは、私が書くより早く来て、私はそれに追いつくためになぐり書きをしていました。

私が混乱したり、言葉が別のところから来ているという感覚を失ったりしたときには、私はペンを下ろして、再びインスピレーションを感じるまで対話から離れました−申し訳ないが、それが本当にピッタリする表現です−そして黄色の便箋に戻って、もう一度書き取りを始めたのです。

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P8

これらの対話はまだ続いています。そしてその多くは、この本に書かれています。

この本は、最初は私も信じられなかった驚くべき対話を含んでいて、個人的な価値があるものと思っていました。しかし、今私は、私だけのものではないということを理解しています。

この本は、あなた、そしてこの本を読みに来たすべての人のためのものなのです。なぜなら、私の質問はあなたの質問だからです。

あなたにできるだけ早くこの対話に参加して欲しいのです。ここで本当に重要なことは、私の物語ではなくあなたの物語だからです。

ここにあなたを連れて来たのは、あなたの人生です。そしてあなたの個人的な経験です。さもなければ、あなたは、たった今、ここにはいないでしょう。

それでは、私が非常に長い間尋ねてきた質問をして、対話に入ることにしましょう。

神はどのように、そして誰に話すのですか?

私がこの質問をしたとき、私が受け取った答えはこうです。

   私は誰にでも、いつでも話す。問題は誰に話すかではなく、誰が聞くかではないか?

興味をそそられて、私は神に、この話しをもっとするように頼みました。

神はこう語りました。

   まず、語るという語をコミュニケートするという語に変えよう。その方がはるかに良く、はるかに完全で、より正確なものだ。

   私たちはお互いに話をしようとすると、信じられないほどの言葉の限界に出くわし、すぐに制限される。このため、私は言葉だけではコミュニケーションをしない。実際のところ、ほとんどしていない。私の最も一般的なコミュニケーションの方法は感情を通してだ。

   感情は魂の言葉だ。

   あなたが何かについて本当のことを知りたいのであれば、それについてどう感じるかを見なさい。

   感情は時に見つけるのが難しい。認識することはさらに困難だ。しかし、あなたの最も深い感情に隠されているのは、あなたの最高の真実だ。

   そのコツは、それらの感情になることだ。

   あなたにどうすればいいかを、教えてあげよう。あなたが希望するならね。

私は願っていたことを神に話しましたが、今は最初の質問に対する完全な答えを望みました。

神はこう語りました。

   私も思考とコミュニケーションをとる。思考と感情は同じではないが、同時に起こることもある。思考とのコミュニケーションに、私はしばしばイメージや画像を使う。このため、コミュニケーションのツールとしては、単なる言葉よりも思考の方が効果的なのだ。

   感情や思考に加えて、私は偉大なコミュニケータ(伝達手段)として、経験という手段も使う。

   そして最後に、感情や思考や経験がすべて失敗した場合に、言葉を使う。言葉は実際には最も効果的でないコミュニケータだ。それらは誤解される可能性が最も高く、ほとんどの場合誤解されている。

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P9

なぜだろう?それは言葉の性質のためだ。言葉は単なる音であり、感情、思考、経験を表す音だ。それらはシンボル、サイン、しるしだ。真実ではない。本物ではない。

言葉は何かを理解するのに役立つだろう。経験からは知ることができる。しかし、経験できないことがいくつかある。だから私はあなたがたに、知るための他のツールを与えた。それは感情とも呼ばれるし、思考とも呼ばれる。

今ここで最高の皮肉は、あなたがたは神の言葉をすべて重視していて、経験にはほとんどしていないということだ。実際あなたがたは、経験したことに価値はあまり高く置いていない。神から経験したことが、神から聞いたことと異なると、その反対であるべきなのに、あなたがたは自動的に経験を無視し、言葉を優先する。

物事に対するあなたがたの経験と感情は、事実上あなたがたが直感的に知っていることを表している。言葉は、あなたがたが知っていることを、ただ象徴化しようとするだけのもので、しばしば混同しうる。

これら経験、感情、言葉は、私がコミュニケートするためのツールだ。しかし、感情、思考、経験、言葉のすべてが私からのものだというわけではない。

多くの言葉が、私の名で、他の人々によって発せられてきた。多くの思考や感情が、私の創造物ではないものによって支えられている。これらから多くの経験が生まれている。

それらを区別することが必要だ。難しいのは、神からのメッセージと他の情報源からのメッセージとの違いを知ることだ。それには、基本的なルールを適用すればよい。

つまり、私からのものは、いつも、あなたがたの最高の考え、最も明快な言葉、最も偉大な感情だ。そうでないものは、他の源から来たものだ。

これなら区別する作業は簡単になる。

初めての生徒でさえ、最高で、最も明快で、最も偉大なものを認識するのは、それほど難しくないだろう。

だが、あなたがたにさらにガイドラインを与えよう。

最高の思考にはいつも喜びがある。最もきれいな言葉には、真実がある。最も偉大な感情は愛と呼ばれる感情だ。

喜び、真実、愛。

これらの3つは交換可能で、1つは他のものに常につながっている。どのような順序かは重要ではない。

これらのガイドラインに基づけば、どのメッセージが私からのもので、どれが他の源から来たものかを判断することができる。残りの問題は、私のメッセージに注意が払われるかどうかだけだ。

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P10
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《注記》
・これ以降の対話上の「ニールの言葉」は、文に「
N:」を付けました。
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私のメッセージは大部分、注意が払われていない。真実にしては良すぎるように思え、従うには難しすぎるように見えるからだ。多くは単に誤解されているだけだ。ほとんどは、メッセージが受け取られていないためだ。

私の最も強力なメッセンジャーは経験だが、これも無視される。特にこれは無視される。

あなたがたの世界は、経験に注意さえすれば、今のような状態にはならなかっただろう。経験を無視した結果、あなたがたは何度も何度も同じことをくり返す。私の目的は邪魔されたり、無視されたりはしないだろう。遅かれ早かれあなたがたは、そのメッセージを受け取るからだ。

しかし、私はあなたがたに強制はしない。決してあなたがたを威圧したりはしない。私はあなたがたに自由意志、選択する力を与えた。それをあなたがたから奪うようなことは決してしない。

それで、私は何千年もの間、あなたがたの住む世界のどんなところにでも、同じメッセージを何度も何度も送り続けている。私のメッセージをあなたがたが受け取って、つかみ、自分のものだと言うまで、私はメッセージを限りなく送る。

私のメッセージは、何百の形で、何千回も、何百万年にもわたって、送られるだろう。

あなたがたが本当にそれらを聞くなら、見逃すことはできない。一度本当に聞いたら、あなたがたはそれらを無視することはできない。

こうして私たちのコミュニケーションは、本格的に始まる。

あなたがたは過去に私に話しかけ、祈り、取りなし、懇願するだけだった。しかし、今や、ここでやっているように、私はあなたがたと話すことができる。

N:このコミュニケーションが神からのものであることを、私はどのようにすれば知ることができますか?これが自分の想像ではないことを、どのようにしたら分かりますか?

それらに何か違いがあるのかな?

私なら、他のことと同様に、あなたの想像力を通して、簡単に働きかけられると思わないか?

私はどんな時でも、1つ、あるいはいくつもの方法を使って、目的に正確に適合した正しい思考、言葉、感情をあなたにもたらすことができる。

あなたが自分の言葉で、これほどまでにはっきりと語ったことがないなら、これらの言葉が私から来ていることが分かるだろう。あなたがすでに、これらの質問にはっきりと語っていたら、あなたは尋ねる必要はなかった。

N:神は誰にコミュニケートするのですか?特別な人はいますか?特別な時はありますか?

すべての人は特別で、すべての時は黄金だ。他より特別な人も時もない。多くの人は、神が特別なやり方で、特別な人としかコミュニケートしないと信じている。

これによって、多くの人々は、私のメッセージを聞いて受け取る責任(これは別のことだが)は自分にはないと思っている。

そしてすべてについて、誰か他の人の言葉を聞くことをよしとしている。

あなたがたは私の声を聞く必要がないと思っている。なぜなら、他の人があらゆる事柄について私から聞いたと、決めつけているからだ。

私から聞いたという他人の言葉を聞いていれば、あなたがたは何も考えないでいられる。

これが、ほとんどの人が個人的なレベルで、私のメッセージから遠ざかる最大の理由だ。

私のメッセージを直接受け取っていることを認めた場合、あなたがたにはそのメッセージを理解し実行する責任が生まれる。

他人(たとえ2000年前にいた人たちであっても)の解釈を受け入れている方が、今いま、あなたがたが受け取っているかもしれないメッセージを解釈するより、はるかに安全で、簡単なのだ。

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しかし、私はあなたを神との新しいコミュニケーションのやり方に招待する。双方向のコミュニケーションだ。実のところ、私を招いたのはあなただ。だから私はあなたのところにやって来た。このやり方で、たった今、あなたの問いに答えている。

N:なぜ、ある人々、例えばキリストのような人々が、他の人々よりもあなたとのコミュニケーションがよく取れたのでしょうか?

その人々は本当に聞こうとしているからだ。

彼らは本当に聞こうとし、たとえそれが、怖く、狂ったようで、間違っているように見えても、コミュニケーションを続けようとする。

N:おっしゃることが間違っているように見える時でも、私たちは神に耳を傾けなければなりませんか?

特に間違っていると思われる時にこそ耳を傾けなさい。あなたがすべてについて正しいと思うなら、誰が神と話す必要があるのか?

あなたが知っているすべてにもとづいて前進し行動しなさい。しかし、時の始まり以来、あなたがたは、常にそうしてきたことに注意しなさい。

そして、今の世界がどんなふうになっているかを見なさい。

明らかに、あなたがたが見逃しいるものがある。理解していないものがある。

あなたがたは、自分が理解できることが正しいと思っている。

なぜなら「正しい」とは、あなたがたが同意することを示す用語だからだ。

だからあなたがたが見逃したことは、「間違っている」ように初めは見えるだろう。

これを前進させる唯一の方法は、「もし私が『間違っている』と思ったことが、実際には『正しい』ものだったらどうだろうか?」と自分に問うことだ。

偉大な科学者は、これを知っている。

科学者は、彼らの研究がうまくいっていない時、仮定の全てを脇に置いて、やり直す。

すべての偉大な発見は、正しくないことに向かう意志と能力から成し遂げられた。

それがここでは必要なことなのだ。

すでに神を知っていると自分に語るのをやめるまで、あなたがたは神を知ることはできない。

神の言葉はすでに聞いたと思うのをやめるまで、あなたがたは神の声を聞くことはできない。

あなたがたが私に、あなたがたの真実を語るのをやめるまで、私はあなたがたに私の真実を語ることはできない。

N:しかし、神についての私の真実は、あなたから来ていますよ。

誰がそう言ったのか?

N:他の人々です。

他の人々とは?

N:指導者。聖職者。ラビ。司祭。書物。聖書です!

それらは権威ある源ではない。

N:ないんですか?

ない。

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N:じゃあ、権威あるのは何なのですか?

あなたがたの感情に耳を傾けなさい。あなたがたの至高の考えに、あなたがたの経験に耳を傾けなさい。

これらのいずれかでも、あなたがたの教師から聞いたことや書物で読んだことと異なる場合はいつでも、その言葉を忘れなさい。言葉は真実の最も信頼性の低い媒体だ。

N:あなたに言いたいこと、尋ねたいことがあまりにもたくさん私にはあります。どこから始めるべきか分かりません。例えば、あなたが姿を現さないのはなぜですか?もし本当に神がいるなら、なぜあなたは私達みんなが理解できる方法で、姿を現さないのですか?

私は何度も何度も現われている。たった今もそうしている。

N:そうじゃないんです。私が言っているのは、誰も否定できないような疑う余地のない現れ方です。

というと?

N:たった今、私の目の前に現れるとか。

今そうしている。

N:どこに?

あなたが見るどこにでも。

N:いいえ、私の言うのは、疑う余地のない方法で、誰も否定できない方法で、ということです。

それはどんな方法なのか?あなたは私に、どんな姿や形で現われてほしいのか?

N:あなたが実際にお持ちの姿や形で。

それは不可能だ。あなたが理解できる姿や形は私にはないからだ。

私はあなたがたが理解できる姿や形になることはできるが、そうすると、彼らが見たものは、神の多くのうちの1つの姿形ではなく、神の唯一の姿形だと思ってしまうだろう。

人々は、私が、見えないものではなく、見えるものだと信じる。

しかし、私は偉大なる見えざるものであって、特定の瞬間に現われるものではない。

ある意味で、私は私でないものなのだ。

私は 'the am-notness’(私でないもの)から来て、いつもそれに戻る。

しかし、私が特定あるいは別の姿(それは人々が神だと理解できる姿だが)で来る時、人々は私を永遠にその姿だとみなす。

そして、他の形で、他の人々のところに私が現れれば、最初の人は、私が2番目の人には現れなかったと言う。

なぜなら、私が最初の人に見えたり、言ったようには、2番目の人には見えないからだ。だから、それが神だと、どうして言えるだろう。

私がどんな姿で、どんな方法で現れるかは、問題ではない。

私がどんな方法で現われようと、どんな姿をとろうと、あなたがたの疑いの余地はなくならないだろう。

N:しかし、もしあなたが、疑いの余地のない、疑問の余地のない、あなたの真実を証す何かをしてくださったら……

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...それでも、悪魔のものだとか、単に誰かの想像に過ぎないだとか、あるいは私以外の何ものかだとか言う者がいるだろう。

私が全能の神、天地の王として自分自身を現し、それを証明するのに山々を動かしたら、「それは悪魔に違いない」と言う者がいよう。

それはそうだ。

神は外側から見える物を通してではなく、内側の体験を通して自分自身を現す。

そして、内側の体験が神を現すのなら、外見は必要ではない。

もし外見が必要なら、内側の体験は不可能だ。

それから、もし啓示が要求されるなら、それは不可能だ。なぜなら、求めるという行為は、そこにはない、つまり、神の何ものも、今は現われていないということの表明だからだ。

このような表明は経験を生み出す。

何かについてのあなたがたの考えは、創造的であり、言葉は生産的である。

あなたがたの考えと言葉はいっしょになって、あなたがたの現実を極めて効果的に生み出す。

それゆえ、あなたがたは、神は今現れていないという経験をするだろう。

なぜなら、もし神が現われているのなら、あなたがたは神に現われてほしいと求めることはないからだ。

N:それは、私が欲しいものは求めることができない、ということですか?

何かを求めて祈るということは、現実には、私たちからそれを押しのけるのですか?

これは、時代を越えて尋ねられてきた質問だ。

そして尋ねられるたびに、答えられてきた。しかし、あなたがたはその答えを聞こうとはしなかったし、これからも信じようとしないだろう。

その質問は、今日の言葉と言語で、再びこのように答えられる。

あなたは求めるものを持てないし、望むものを持てない。

要望するということは、自分には不足していることを表明することだ。

欲しいと言うことは、「欲っしている」という経験を、あなたの現実に生み出すことになる。

したがって正しい祈りは、決して懇願の祈りではなく、感謝の祈りなのだ。

現実に経験したいことを前もって神に感謝することは、経験したいことがそこにあると、実際に認めることだ。

したがって、感謝は神に対する最も強力な表明だ。つまり、あなたが求める前に、神は答えているとあなたが認めることだからだ。

したがって願ってはいけない。感謝するのだ。

N:しかし、もし私が何かのために前もって神に感謝し、それが全く実現しないとしたら、どうでしょう?幻滅と恨みとなりますよ

感謝は、神を操作する道具、宇宙をだます装置として使うことはできない。

あなたは自分自身に嘘をつくことはできない。

あなたの心はあなたの真実の考えを知っている。

「神様、これをくださってありがとう」と言っていながら、ずうっと現実にはそれは存在していないとあなたがはっきり思っていれば、神はその現実を作り出す。

神はあなたが知っていることを知っており、あなたが知っていることはあなたの現実として現れる。

N:しかし、そこにはないと知っていることに対して、どうして本当に感謝ができるのですか?

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信念だ。

からし種ほどの信念があれば、あなたは山を動かす。

私がそれはそこにあると言ったら、それがあることをあなたは知るだろう。

あなたが尋ねる前から私は答えるだろうと、私は言ってきた。

私の名においてあなたが選んだものは、何でもそうなると、あらゆる方法で、あなたが知っているすべての教師を通して、私は言ってきた。

しかし、多くの人々は、祈りは聞かれなかったと言う。

どんな祈りも聞かれないことはない。

祈りは、「その通りだ」という強い表明にほかならない。

すべての祈り、そして思考、表明、感情は創造的なものだ。

それが強ければ強いほど 、あなたの経験に強く現れる。

祈りが聞かれなかったと言われるとき、実際に起きたことは、最も強く持っていた思考、言葉、感情が作用したということだ。

さらに、知っておかなければならないことは?ここに秘密があるのだが?
常に、思考の背後にある思考?支える思考とでも呼ばれるもの?が思考をコントロールしている。

したがって、あなたが懇願や嘆願した場合、あなたが願っていることを体験するチャンスは、ずっと小さくなる。

というのは、すべての願いの背後にある支える思考は、あなたが望むものはあなたにはない、というものだからだ。

ないというその支える思考が、あなたの現実になるのだ。

これを克服することができる唯一の支える思考は、神は求めるものは何でも間違いなく与えるという信念だ。

一部の人々にはそのような信念があるが、ごくわずかな人だ。

神は常にすべての求めに「イエス」と言うと信じるより、むしろ、求めること自体が不必要なことを直感的に理解すれば、祈ることはずっと楽になる。

そこで、祈りは感謝の祈りとなる。

祈りは決して求めることではなく、「その通りである」ことに感謝する言葉である。

N:祈りが、「その通りである」という表明であるなら、神は何もなさらないということですか?祈りの後に起こることは全て、祈りの行為の結果なのですか?

神は全能な存在で、すべての祈りを聞いて、ある人には「イエス」、他の人には「ノー」、残りには「たぶん、しかし今ではない」と言うと信じるなら、あなたは誤解している。

神はどんなルールで決めるのだろうか?

神があなたの人生の物事すべての創造者であり、決定者であると信じるなら、あなたは間違っている。

神は観察者であって、創造者ではない。そして、神はあなたの人生を助けるが、あなたが期待する方法では助けない。

あなたの人生の環境や条件を、創造したりしなかったりすることは、神の仕事ではない。

神はあなたを神の姿に似せて創造した。

神が与えた力によって、あなたが残りを創造しているのだ。

神は、承知のように、人生のプロセスや生活を作り出した。

しかし神は、あなたが望む人生を自由に選べるようにしたのだ。

この意味で、あなたの意志は、あなたへの神の意志なのだ。

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あなたは、自分の生き方で、人生を生きているが、私はそれについて選り好みはしない。

あなたがいだいている大きな幻想は、神があなたの生き方を気にしているということだ。

私はあなたがすることを気にしない。そう聞くのはあなたにとって厳しいことだろう。

しかし、あなたが子供たちを遊びに出すとき、子供たちがどんな遊びをするかを気にするだろうか?

子供たちが鬼ごっこをするか、かくれんぼをするか、あるいはままごと遊びをするかは、あなたにとって重要なことだろうか?

いや、そうではない。あなたは彼らが完璧に安全なことを知っているからだ。

あなたは子供たちを、居心地が良く大丈夫と思う環境に置いた。

もちろん、あなたはいつも彼らがけがをしないように願っている。

そしてもしけがをしたなら、あなたは子供たちを助けに行って、治してやり、再び安心させ、幸せになれるようにして、次の日も、行って遊べるようにするだろう。

しかし、次の日も、子供たちが、かくれんぼをするか、あるいはままごと遊びをするかは、あなたにとっては重要なことではない。

あなたはもちろん、どの遊びが危険かを子供たちに教える。しかしあなたは、子供たちが危険なことをしないようにはできない。

常に、いつまでも、今から死ぬまでのあらゆる瞬間にも、それはできない。

賢い親はこのことを知っている。

しかし、親は結果について心配しないことは決してない。

プロセスにはあまり気遣うことはなく、結果には大いに気を配るというこの二分法は、神の二分法をよく表わしている。

しかし神は、ある意味では、結果さえ気にしていない。究極の結果も気にしていない。

究極の結果は保証されているからだ。

そして、これは、人生の結果は疑わしいという、二つ目に人間のいだく大きな幻想だ。

究極の結果についての疑いが、あなたの最大の敵を生み出した。それが不安だ。

結果を疑うなら、あなたは創造主を疑うに違いない。神を疑うに違いない。

そして神を疑うなら、あなたは不安と罪悪感の中で、人生を生きなければならない。

神の意図と、この究極の結果を生み出す神の力を疑うなら、どうして平安でおられようか?

本当の平和を見い出すことができようか?

しかし神は、結果と意図を一致させる完全な力を持っている。

あなたはこれを信じることができない。(神は全能だとあなたは主張しているのに)

それであなたがたは、神の意志が妨害される方法を見つけるために、神と同等の力を創り出さなければならないと想像する。

それであなたがたは神話の中で、「悪魔」と呼ばれる存在を創造した。

この存在と神は戦っていると、あなたがたは想像さえしてきた。(あなたがたと同じ方法で神は問題を解決すると考えて)

そしてついに、あなたがたは神がこの戦いに負けることもありうるとさえ想像した。

これらすべては、あなたがたが神について知っていることと違うが、それは問題ではない。

あなたがたは幻想を生き、それで不安を感じる。全ては、神を疑うあなたがたの決意からなのだ。

しかし、もしあなたがたが新しい決意をしたらどうだろうか?結果はどうなるだろうか?

私はあなたがたに言う。

あなたがたは仏陀がしたように生きるだろう。イエスがしたように生きるだろう。あなたがたが今までに崇拝したすべての聖人と同じように生きるだろう。

しかし、これらの聖人に対したのと同じように、人々はあなたを理解できないだろう。

そしてあなたが、あなたの平和な思い、人生の喜び、内なる恍惚感を説明しようとしても、人々はその言葉は聞くが、理解はしないだろう。彼らはあなたの言葉をくり返すが、その言葉に新たなものを追加するだろう。

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彼らは、自分たちが見つけられないものを、どうしてあなたが持っているか、不思議に思うだろう。

そして、彼らは嫉妬をつのらせるだろう。

すぐに嫉妬は怒りに変わり、怒りの中で彼らは、神を理解していないのはあなただと、言い張るだろう。

そして彼らが、喜びからあなたを引き裂くことに失敗した場合、彼らはあなたに危害を加えようとする。怒りは甚大になるだろう。

そしてあなたが、「それは問題ではない、死でさえ、私の喜びを妨げることも、真実を変えることもできない」と彼らに言った時、彼らは間違いなくあなたを殺すだろう。

そして、あなたが安らぎをもって死を受け入れるのを見て、彼らはあなたを聖人と呼び、再びあなたを愛するだろう。

最も価値あるものを愛し、それから破壊し、それを再び愛するのが人間の本質だからだ。

N:しかし、なぜ?なぜ私たちはそんなことをするのですか?

すべての人間の行動は、最も深いレベルで、不安と愛という2つの感情のうちの1つによって、動機付けられている。

実際に2つの感情だけがある。魂の言語はこの2つだけだ。

これらは、知ってのとおり、宇宙とあなたがたの世界を私が創造した時、創り出した大きな極性の両端なのだ。

これらは2つのポイント−アルファとオメガで、それが、あなたがたが相対性と呼ぶシステムを存在させている。

これらの2点がなければ、そして物事に対するこれら2つの考えがなければ、他の考えは存在できない。

すべての人間の思考や行動は、愛または不安のどちらかに基づいている。

他に人間の動機はなく、他の考えはすべてこの2つの感情から派生した物だ。それらは単にバージョンが異なるだけで、同じテーマがゆがんだものだ。

これをよく考えてみると、正しいことが分かるだろう。

これが私が「支える思考」と呼んだものだ。愛か不安かのどちらかだ。

思考の背後にある思考だ!

それは最初の思考だ。最初の力だ。それは人間の経験のエンジンを駆動する、生のエネルギーだ。

そして、人間はどうして同じ経験を繰り返すかが、これで分かる。

それが、人間が愛し、破壊し、再び愛する理由だ。

常に、ある感情から別の感情に揺れ動く。

愛は不安を支え、不安は愛を支え、愛は不安を支える……。

……そしてその理由は最初の誤りにある。あなたが神について真実だと思っている誤りだ。

それらは、神は信頼できない、神の愛は頼りにならない、神は条件付きであなたを受け入れる、究極の結果は疑わしい、という誤りだ。

あなたが、いつもそこにいる神の愛に頼ることができないなら、誰の愛を頼れるのだろうか?

あなたが正しく行動しないと、神が手を引いてしまうというなら、単なる人間なら、なおさらのことではないか?

...だから、あなたがたは最高の愛を約束した瞬間に、最大の不安を感じる。

あなたが「私はあなたを愛している」と言った後に最初に心配することは、相手もそう言うかどうかだ。

そしてそう言うのを聞いたら、すぐに、あなたは今見つけた愛を失うのではないかと、心配し始める。

そしてすべての行動が、失うことに対する防衛反応になる。

神を失うことに対しても自分を守ろうとする。

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しかしあなたは、「自分とは何者か」を知っていれば、決して恐れることはないだろう。

あなたは、神が今までに創造したものの中で最も雄大で、際立つほどの、素晴らしいものなのだ。

誰がそのようなすばらしいものを拒絶できるだろうか?

神でさえ、そのような存在に欠陥を見つけることはできないだろう。

しかしあなたは、「自分とは何者か」が分からず、自分は大したものではないと思っている。

自分はすばらしくないものだと、あなたはどこで思わされたのか?

全ての言葉にあなたが耳を傾ける唯一の人々、つまりあなたの母親、父親によってだ。

両親はあなたを最も愛している人々だ。なぜ彼らはあなたに嘘をつくのだろうか?

両親は、あなたに、これはやり過ぎ、それは足りないと言わなかったか?

両親は、あなたは親の言うことを聞いていればいいと、言われなかったか?

両親は、あなたがもっとも活動的な時に、叱ったりしなかったか?

そして両親は、あなたの熱狂的な想像をやめさせようとしなかったか?

これら親の言葉は、あなたが受け取ったメッセージだ。メッセージは基準を満たしていないし、神からのメッセージではないけれど、そうかもしれないとあなたは思った。

なぜならそれらは、宇宙の神々からのメッセージのようだったからだ。

愛が条件付きであることを教えたのは、あなたの親だ。

あなたはその条件を何度も感じてきた。

その経験を、あなたは自分自身の愛の人間関係に取り入れる。

その経験を、あなたは神との関係にも持ち込む。

この経験から、あなたは神についてのあなたの結論を引き出す。

この枠組みの中で、あなたは自分の真実を語る。

「神は愛の神だが、神の戒めを破るなら、永遠の追放と地獄行きであなたを罰するだろう」と。

あなたは親に追放された経験はないか?

親の罰による苦痛を知らないか?

そんなことはないだろう。

それなら、親と神の違いをあなたは想像できるだろうか?(できないだろう)

あなたは条件なしで愛されることを忘れてしまっている。

あなたは神の愛の経験を思い出せない。

それであなたは、世界一般に見られる愛を基準にして、神の愛がどのようなものかを想像しようとする。

あなたは神に、"親"の役割を投影しており、あなたが善良かどうかで、神は裁きをし、報酬を与えたり、罰したりすると想像する。

しかし、これはあなたがたの神話に基づく神についての単純な見方だ。

「私は誰(真の神)」とは何の関係もない。

このようにして、霊的な真実というより人間の経験に基づいて、神についての考え方を作り出した。

そして愛を取り巻く現実全てを創造した。

それは不安に基づく現実で、不安に満ち、復讐する神という考えに根ざしている。

その背後にある思考は間違っているが、その考えを否定すれば、あなたがたの神学全体が破壊されるだろう。

それに取って代わる新しい神学は、真にあなたがたの救いにはなるだろうが、あなたがたはそれを受け入れられない。

なぜなら、恐れのない神、判断しない神、罰しない神という考えはあまりにもすばらしくて、あなたがたのもっとも偉大な神の概念からしても、受け入れられないからだ。

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この不安に基づく愛は、現実にあなたがたの愛の経験を支配している。

実際に愛の経験を創造してもいる。

あなたがたは条件付きの愛を受け取るだけでなく、同じ方法で与えているのを見るからだ。

そして、あなたがたがその条件を保留したり、後退させたり、設定したりしている間でさえ、心のある部分で、これは本当の愛ではないことを知っている。

それでもあなたがたは、愛し方を変えることはできないと思っている。

あなたがたは難しい愛し方を学んできたから、もし自分がまた傷つく状況になれば、ひどくけなされるだろうと、自分に言い聞かせる。

しかしほんとうは、あなたがたが変えなければ、もっとひどいめに合うだろう。

愛についてのあなたがた自身の(誤った)考えによって、純粋に愛を経験することは決してできない。

かつまた、あなたがたは、真の神を知ることは決してできない。あなたがたが変わるまで。

だが、あなたがたは永遠にわたしを否定することはできないだろうし、いつか私たちの和解の瞬間が来るだろう。

人間が取るあらゆる行動は、愛か不安に基づいている。単に人間関係の中だけではない。

ビジネス、産業、政治、宗教、若者の教育、国家の社会的課題、社会の経済的目標、戦争、平和、攻撃、防衛、侵略、降伏に影響を及ぼす決断、熱望したり放ったり、蓄えたり分け合ったり、統合したり分裂したりする決定、そして今までに行ったあらゆる自由な選択は、あり得る2つのうちのたった1つの考えから生じる。愛の考えか不安の考えか、からだ。

不安とは縮小、閉鎖、引き締め、逃亡、隠蔽、蓄積、危害などのエネルギーだ。

愛は、拡大、開放、送出、滞在、出現、共有、癒しのエネルギーだ。

不安は私たちの体を衣服に包み込み、愛は私たちを裸にする。

不安は私たちが持っているものすべてにしがみついて、しっかりつかむ。

愛は、私たちが持っているものをすべて与える。

不安はきつく抱き、愛はやさしく抱く。

不安はつかみ、愛は放つ。

不安は苦しめ、愛は和らげる。

不安は攻撃し、愛は改めさせる。

あらゆる人間の思考、言葉、行為は、どちらか一つの感情に基づいている。

あなたは選択する必要はない。なぜなら、それ以外の選択肢がないからだ。しかし、どちらを選択するかは自由だ。

N:とても簡単そうにおっしゃいますが、決断の瞬間には、不安が勝つことの方が多いですよ。なぜでしょうか?

あなたがたは不安の中で生きるように教えられた。適者生存、最も強い者の勝利、そして最も賢明な者の成功について聞かされてきた。

最高に愛することの栄光については、ほとんど語られていない。

そこであなたは、一番の適任者で、最強で、最も賢い者になろうと、あらゆる方法で努力する。

どんな状況でも、自分が劣っていると思うと敗北してしまうと、あなたは恐れる。

なぜなら、劣っていると負けると、聞かされてきたからだ。

もちろん、あなたがたは不安に支えられた行動を選択する。そう教えられてきたからだ。

しかし、私はあなたがたにこう教える。

愛に支えられた行動を選ぶなら、生き残る以上のことを、勝利以上のことを、成功以上のことをあなたがたはするだろう。

そして、「本当の自分とは何者」で、何者になれるかという最高の栄光を、あなたがたは経験するだろう。

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これを行うには、善意だが間違っている世間の教師の教えを離れ、別の情報源からの知恵を持つ人々の教えを聞かなければならない。

あなたがたの中には、このような教師がたくさんいたし、今もいる。

あなたがたを案内し、教え導き、これらの真理を思い出させる者がいないなら、私はあなたがたを放っておきはしない。

しかし、思い出させる最も偉大なものは、あなたの外にいる人ではなく、あなたの内なる声だ。

これは、私が最初に使うツールだ。なぜなら、これは最もアクセスしやすいからだ。

内なる声は私が話す最も大きな声だ。なぜならあなたに一番近いからだ。

それは、すべてのことについて、あなたがたが定義した、真実か偽りか、正しいか間違っているか、良いか悪いかを伝える声だ。

あなたがたが任せるなら、針路を設定し、船を操縦し、旅を導くレーダーだ。

それは、あなたがたが読んでいる言葉が、愛の言葉か、不安の言葉かを、たった今、教えてくれる声だ。

この基準によって、心に留める言葉か無視する言葉かを判断できる。

N:いつも愛に支えられた行動を選ぶと、「自分とは何者か、何者になれのるか」という、最高の栄光を経験するとあなたは言われました。これについてもっと話してくださいませんか?

すべての人生の目的は一つだけだ。それはあなた、そして生きるもの全てが、最高の栄光を経験することだ。

あなたが言うこと、考えること、あるいは行うことは、すべてそのためだ。

あなたの魂がやるべきことは他にないし、他にしたいことは何もない。

この目的のすばらしいことは、決して終わりがないということだ。

終わりとは限界であり、神の目的にはそのような境界はない。

最高の栄光の中で、自分自身を体験する瞬間が来たら、その時に、さらに大きな栄光の実現をあなたは想像するだろう。

あなたが栄光であればあるほど、もっと大きく栄光になれ、栄光になればなるほど、もっと大きな栄光であれる。

最も深遠な秘密は、人生は発見のプロセスではなく、創造のプロセスであるということだ。

あなたは自分自身を発見するのではなく、自分自身を新たに創造しているのだ。

したがって、「自分とは何者か」を知ろうとするのではなく、何者になりたいかを決めなさい。

N:人生は学校だ、特定の授業を学ぶために私たちはここにいる、私たちが「卒業」したら、もはや身体に縛られることなく、より大きな探求に進むことができる、と言っている人たちがいます。これは正しいですか?

それは、人間の経験に基づいた、あなたがたの神話の一つだ。

N:人生は学校ではないのですか?

違う。

N:私たちは授業を学ぶためにこの世にいるのではないのですか?

いや、違う。

N:じゃあ、なぜここにいるのですか?

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「自分とは何者か」を思い出し、再創造するためだ。

私は何度もあなたがたにそう言ってきた。あなたがたは私を信じていない。しかしそれはそれでいい。

本当のところ、「自分とは何者か(真の自分)」にならって自分自身を創造しなければ、再創造はできない。

N:ああ、あなたは私を見失ってしまいました(分からなくなりました)。この、学校というところに戻りましょう。私は、教師が口々に、「人生は学校だ」と教えるのを聞いてきました。あなたがそれを否定するのを聞いて、私は率直に言ってショックを受けています。

学校は、知らないことがあって、それを学びたい時に行くところだ。

すでに知っていて、知っていることを体験したい時には、行くところではない。

人生(あなたがたがそう呼んでいるように)は、概念的にすでに知っていることを体験的に知る機会なのだ。

何も学ぶ必要はない。

あなたは、ただあなたがすでに知っていることを思い出して、それにそって行動するだけだ。

N:よく理解できません。

ここから始めよう。魂−あなたの魂−は、知るべきことはいつも、すべて知っている。

隠されたことは何もなく、知らないことも何もない。

しかし、知っているだけでは不十分だ。魂は体験を求めている。

あなたは自分が寛大であることを知っているが、寛大さを示す何かをしなければ、それは概念でしかない。

あなたは自分が親切であることを知っているが、親切な行為をしなければ、それは自分自身についての考えでしかない。

あなたの魂の唯一の願いは、偉大な概念を最大の経験に変えることだ。概念が経験となるまでは、すべては推測に過ぎない。

私は長い間、自分自身について推測してきた。

あなたがたと私がともに過ごした時間よりも、この宇宙の年令よりも長く、私は推測してきた。

だから、私が自分自身を体験し始めたのが、いかに若い−新しい−ことかが分かるだろう。

N:また分からなくなりましたよ。あなたがあなた自身を体験するのですか?

そうだ。

あなたにこのように説明してみよう。

最初は、すべてがそこにあって、他には何もなかった。

しかし、「存在のすべて(All That Is)」は自分自身を知ることができなかった。なぜなら、すべてはそこにあるが、他に何もなかったからだ。

だから、「存在のすべて(All That Is)」もなかった。

何か他のものがなければ、「存在のすべて(All That Is)」もないことになるからだ。

これは神秘主義者が時の初めから言ってきた、偉大なる「有って/無い (Is / Not Is)」ということだ。

さて、「存在のすべて(All That Is)」は、あるのは自分だけだということは分かっていたが、それでは満足できなかった。

体験的ではなく概念的にしか、その完全なすばらしさを知ることができなかったからだ。

そして、自分自身を経験することを、強く望んだ。なぜなら、それがどれほどすばらしいのかを知りたかったからだ。

だが、これは不可能だった。なぜなら、「すばらしい」という言葉は相対的な言葉だったからだ。

「存在のすべて」は、すばらしくないものが現れない限り、すばらしいと感じることができなかった。

そうでないものがなければ、そうであるものもないことになるからだ。

これは分かるかな?

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N:そう思います。続けてください。

さて、「存在のすべて」が知っていることはただ一つ、自分の他には何もないということだった。

そして、「存在のすべて」は、自分の外側の基準点からは、自分を知ることはできなかった。

そのような基準点が存在しなかったからだ。

基準点はただ1つ、その内側にのみ存在した。

それが「有って−無い」(Is-Not Is)ということであり、「私であって−私でない」( Am-Not Am)ということだ。

それでも「存在のすべて」は、体験的に自分を知ることを選んだ。

「存在のすべて」のエネルギーは、純粋で、目に見えない、聞こえない、観察されない、それゆえに誰にも分からないエネルギーだったが、自分のすばらしさを体験することを選んだのだ。

このためには、内側にある基準点を使う必要があると考えた。

「存在のすべて」は、自分のどの部分も全体よりも小さいはずだと、まさしく適切に考えた。

そして、自分自身を部分に分割した場合、部分は全体よりも小さくなり、残りの部分を振り返ることで、自分のすばらしさを見ることができると考えたのだ。

そこで、「存在のすべて」は自分を細分化し、栄光の瞬間に、「これ」と「あれ」とになった。

初めて、「これ」と「あれ」は、互いに離れて存在した。

それでも、どちらも同時に存在していた。

さらに、「これ」と「あれ」でないものも存在した。

こうして、3つの要素が突然存在したのだ。

「ここ」にあるもの、「あそこ」にあるもの、そしてここにもあそこにもないが、それらが存在するために必要なものの3つだ。

すべてを内包するものは、「nothing(無)」だ。

空間を内包するのは非空間だ。

部分を内包するのは全体だ。

理解できるかな?ここまではいいかな?

N:できていると思います。私が理解できるように明解な説明をしてくださったので。

先に進めよう。

さて、すべてを内包するこの「無」は、ある人々が神と呼ぶものだ。

しかし、それも正確ではない。なぜなら、それは神ではないもの、つまり「無」ではないものが、存在することを示唆するからだ。

私はすべてのものであり、見えるものでも、見えないものでもあるのだ。

偉大なる見えざるもの、「the No-Thing(無)」、「the Space Between(空)」といった神についての東洋的な神秘的定義は、見られるものすべてを神とする西洋的な記述よりも、正確というわけではない。

神は、すべてのものであって、すべてのものではない、と信じる人の理解の方が正しい。

さて、「ここ」と「あそこ」にあるものを創造するにあたって、神は自分でそれらを知ることができるようにした。

この内からの大きな爆発の瞬間に、神は相対性というものを創造した。これは、神がこれまで自分自身に与えた賜物の中でも最大のものだ。

したがって、相対関係というのは、神があなたがたに与えた最大の贈り物なのだ。

これはいつか、詳しく説明しよう。

「無(the No-Thing)」からこのようにすべてのものが飛び出した。これは偶然にも、科学者がビッグバン理論と呼んでいる超自然的な出来事と一致する。

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すべての要素が現れるにつれ、時間が創造された。

最初は、ものはここに存在し、それから、あそこに存在し、ここからあそこに行くまでの時間は測定可能だからだ。

神の見える部分が、自分自身を定義して、それぞれ「相対的」になったように、見えない部分も相対的になった。

神は、愛が存在するためには、そして純粋な愛である自分自身を知るためには、その正反対のものが存在しなければならないことを知っていた。

それで、神は自発的に、偉大なる対極、つまり愛の絶対的な対極を創造した。それが、愛ではないあらゆるもの、不安と呼ばれるものだ。

不安が生まれた瞬間に、愛は経験できるものとなったのだ。

人間がさまざまな神話の中で、悪魔の誕生、アダムの堕落、サタンの謀反などと語っているのは、愛とその対極つまり不安という二元性の創造のことをいっているのだ。

あなたがたは、純粋な愛を擬人化して「神」と呼んだように、強大な不安を「悪魔」と呼んで擬人化した。

地上のある者は、この出来事を巡って、やや緻密な神話を作り上げた。

それは、天使の兵士と悪魔の戦士の戦い、善の勢力と悪の勢力、光の勢力と闇の勢力の戦いというシナリオだ。

この神話は、人間の魂はしっかり認識しているが、精神はほとんど理解できていない宇宙の出来事について、人々が理解できる方法で伝えようとする、人類初の試みだったのだ。

自分を分割して宇宙を表現するにあたって、神は純粋なエネルギーから、現在存在している、見られるものと見えないものの両方を作り出した。

言い換えれば、物質的な宇宙だけでなく、形而上学的な宇宙(霊的世界)も創造したのだ。

「私であって/私でない( Am/Not Am)」存在である神の、私でない部分もまた爆発して、全体よりも小さい無数の部分になった。つまりあなたがたが「霊」と呼ぶエネルギー単位だ。

あなたがたの宗教的神話の中で、「父なる神」は多くの「霊の子供」を産んだと語られているのはこのことだ。

「天国」の無数の霊の突然の出現や存在という現象を、人々が理解できる唯一の方法は、生命が自己増殖するという人間の体験に対比することだった。

この例では、あなたがたの神話上の話しや物語は、究極の現実とそれほど違ってはいない。

なぜなら、私の全体を構成する無数の霊は、宇宙的意味で、私の子供だからだ。

自分を分割する神である私の目的は、十分な部分を創ることによって、自分自身を体験的に知ることができるようにすることだった。

創造主が、自分自身を創造主として体験的に知る方法は、創造するということだけだった。

それで私は、自分の無数の部分(全ての霊の子供たち)に、私が全体として持っているのと同じ創造力を与えた。

これはあなたがたの宗教で、人間は「神の姿をかたどり、神に似せて」創造されたと語られている。

しかしこれは、ある人々が示唆したように、神が人間の身体と同じような形をしているということではない(神は、特定の目的のためには、どんな物質的な形になることはできるが)。

神と人間の本質は同じもので、同じもので構成されているということなのだ。

私たち神と人間は 、「同じもの」なのだ!薄い空気から物理的な現実を作り出す能力を含めて、すべて同じ性質と能力を備えているのだ。

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私の霊の子供であるあなたがたを創造した私の目的は、神としての自分を知ることだった。

あなたがたを通してしか、方法がなかったのだ。

それゆえ、あなたがたを創造した私の目的は、あなたがたが神としての自分自身を知ることだと言える(そう何度も言われてきた)。

これはとても驚くほどシンプルに見えるが、非常に複雑でもある。

なぜなら、あなたがたが神としての自分自身を知る方法は一つしかなく、それは、神でない自分自身をまず知ることだからだ。

さて、ここはよく聞いてついてきなさい。非常に複雑になるから。準備はいいかな?

N: そう思います。

よろしい。覚えておきなさい。この説明を求めたのはあなただということを。

あなたは何年も答えを待っていた。あなたは、神学的教義や科学理論ではなく、素人の言葉でそれを求めた。

N: そうです。私が求めたことは知っています。

求めたなら、答えを受け取るべきだ。

さて、物事をシンプルにするために、議論のベースとして、「神の子たち」という神話モデルを、使ってみよう。

それは、あなたがたに馴染みのあるモデルだし、多くの点で、それほどかけ離れているわけではないからだ。

だから、この自己認識のプロセスがどのように機能するかに、話しを戻そう。

霊の子たちすべてに、私の一部として自分自身を知るように私がした方法が、1つある。

それは単純にそう告げることだった。

これを私は行なった。

しかし、分かると思うが、霊が自分自身を神、あるいは神の一部、神の子、王国の継承者(あなたがたが引用したい神話ならどれでもいい)と単に知るだけでは不十分だった。

すでに説明したように、何かを知ることと、それを体験することとは、全く別のことなのだ。

霊は、自分自身を体験的に知ることを強く望んだ。(私がそうだったように!)

概念的な認識だけでは十分ではなかったのだ。

そこで私は計画を練った。

それはすべての宇宙の中で、並はずれたアイデアで、目を見張る共同作業だ。

私が共同作業と言うのは、あなたがた全てが私と共に行うからだ。

その計画の下で、純粋な霊であるあなたがたは、今いま創造されたばかりの物質的な宇宙に入る。

概念的に知っていることを体験的に知る唯一の方法は、物質的な世界に入ることだからだ。

実際に、私が最初に物質的な宇宙を創造し、それを制御する相対性のシステム、そしてすべてのものを創造したのは、そのためだ。

物質的な宇宙に入ると、あなたがた、つまり私の霊の子供たちは、自分自身について知っていることを体験することができた。

しかしまず、あなたがたは、その反対のものを知らなければならなかった。

これを簡単に説明してみよう。

背が低いということを知らないかぎり、自分が背が高いということは、知ることができない。

痩せていることを知らない限り、太っている自分を経験することはできない。

究極の論理に基づけば、自分でないものに出会うまで、自分自身を体験することはできない。

これは、相対性の理論の目的であり、かつ、すべての物質的な生命の目的なのだ。

自分でないものによって、自分自身は定義されるのだ。

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さて、あなたがたが究極的に知る、つまり、自分を創造主として知る場合には、創造という行為をしなければ、自分を創造者として体験することはできない。

そしてあなたがたは、自分自身を創造しないということを体験するまで、自分を創造することはできない。

ある意味では、「在る」ためには、まず、「ない」でなければならないのだ。

分かるかな?

N: そう思います。

いいだろう。

もちろん、あなたがたが何者でもなくなる方法はない。

あなたがたは、いつでも純粋で創造的な霊であり、これからもそうだ。

だから、あなたがたは次善の策をとった。

あなたがたは、自分は本当は何者なのかを忘れたのだ。

物質的な宇宙に入る時、あなたがたは自分の記憶を捨てた。

これにより、いわば城の中で単に目を覚ますのではなく、自分が何者なのかを選ぶことができる。

それは、あなたがたが神の一部であることを単に告げられるのではなく、神の一部であることを自ら選択することなのだ。

それであなたは、全ての選択肢(それが神だ)の中で、自分自身が神の一部であることを体験できる。

しかし、何も選択肢がないところで、何かを選択することはできない。

どんなに頑張っても、あなたがたは、私の子でなくなることはできないが、私の子であることを忘れることはできる。

あなたがたは、今までも、今も、これからもずっと、神の全体の聖なる一部、つまり神の身体の一員であり続ける。

それで、神に戻ること、つまり、全体に再び復帰することを、「思い出すこと(リメンバランス)」と言われる。

あなたがたは、「自分とは本当は何者か」を思い出すことを、実際にやっている。

あるいは、あなたがたの様々な部分とー体となり、自分のすべて、つまり私・神のすべてを体験している。

したがって、地上でのあなたがたの仕事は、(すでに知っているので)学ぶことではなく、「自分とは何者か」を思い出すことだ。

そして「他の人々は何者か」を思い出すことだ。

それで、あなたの仕事の大きな一つは、他の人々に気づかせることだ(つまり、再び心に留めることだ)。それで彼らもまた思い出すことができる。

すばらしいスピリチュアルな教師はみんな、その仕事をしてきた。

それがあなたがたの唯一の目的だ。つまり、あなたがたの魂の目的だ。

N: ああ神様、この説明はとてもシンプルで、きちんとしています。つまり、それですべてが収まります!突然にすべてが!今私には、これまでに見たことのない全体像が見えています。

よろしい。それはよろしい。

それがこの対話の目的だから。

あなたは私に答えを求めた。私はあなたに答えることを約束した。

あなたはこの対話を本にして、多くの人々が私の言葉にアクセスできるようにするだろう。

それもあなたの仕事の一部だ。

さて、あなたは人生についての多くの疑問を持っている。

私たちはここに基盤を置いた。私たちは他の事柄の理解のために土台を築いた。

他の質問に行こう。心配することはない。対話する中で、あなたがしっかりと理解していないことがあるなら、すぐにすべてはっきりとするだろう。

N: 私には尋ねたいことがたくさんあります。非常に多くの質問です。大きなもの、明瞭なものから質問したいと思います。例えば、なぜ世界はこんな状態になっているのでしょうか?

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人間が神に尋ねてきたすべての問いのうち、これは最も頻繁に尋ねられたものだ。

時の初めから、人間はそれを神に尋ねてきた。

あなたは、対話の最初から今まで、どうしてこうでなければならないのか、知りたがった。

その典型的な質問は、いつも次のようなものだ。

神が完全かつ愛であるなら、なぜ疫病や飢饉、戦争や病気、地震や竜巻、ハリケーン、あらゆる種類の自然災害、深い個人的な失望、世界的な災難を、神は作り出すのだろうか?

この問いに対する答えは、宇宙のより深い謎と、人生の最も崇高な意味の中にある。

私は、私の善良さを現すのに、あなたがたの周りにあるもの全てを、完全であるように創造してはいない。

私は、あなたがたが愛を実証できないようにして、神の愛を実証したりはしない。

すでに説明したように、愛していないことを実証するまで、愛を実証することはできない。

絶対的な世界以外では、物事は、その反対のものなしに存在することはできない。

絶対的な領域は、あなたがたや私にとっては十分なものではなかった。

私はいつもそこに存在していたし、あなたがたもそこから来たのだ。

絶対というものには、体験はなく、知識があるだけだ。

知っていることは神聖な状態だが、最も大きな喜びは、「在ること(being)」の中にある。

「在ること」は、体験の後にのみ達成される。

進化とは、知ること、体験すること、在ること、だ。

これは神聖な三位一体、神の三位一体だ。

「父」なる神は、「知ること」だ。すべての理解の親、すべての体験の親だ。

なぜなら、知らないことを体験することはできないからだ。

「息子」なる神は、「体験」だ。父なる神が、自分について知っているすべてを体現化、行動化することだ。

体験していなければ、「在ること」はできない。

「聖霊」なる神は、「在ること」だ。

息子なる神が、自分自身を体験したすべてのものから、超越することだ。

単純ですばらしく「在る」ということは、知識と体験の記憶を通してのみ可能なのだ。

この単純に「在る」ということは、無上の喜びだ。

自分自身を知り体験した後は、「神の状態」だ。

それは神が最初に切望したものだ。

もちろん、神のところで、父、息子と表現したが、それは、ジェンダー(性)とは関係のないことは、説明しなくてもよく分かるだろう。

ここでは、あなたがたが用いている最も新しい聖書の美しい表現を使っている。

かなり前の聖書では、母と娘という比喩で、これを説明していた。

どちらも正しくない。

親と子の関係という方が、最もしっくりくるだろう。

あるいは、出現させるものと出現するものと言えよう。

三位一体の第三の部分を加えることによって、この関係が生み出される。つまり、出現させるもの、出現するもの、在るもの。

この三位一体の現実は神のサインだ。神のパターンだ。

三位一体は崇高な領域のどこにでも見られる。

時間と空間、神と意識、あるいは、微妙な関係を扱うどんな事柄の中にも、それは見られる。

一方、人生の大まかな関係では、三位一体の真実を見つけることはできない。

三位一体の真実は、人生の微妙な関係を扱うすべての人が認識している。

ある宗教家らは、三位一体の真実を、父と子と聖霊として記述している。

ある精神科医らは、超意識、意識、潜在意識という言葉を使っている。

ある心霊術者らは、精神、身体、霊魂と言う。

ある科学者らは、エネルギー、物質、エーテルと見る。

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ある哲学者らは、物事は、思考、言葉、行為において真実になるまでは、真実ではないと言う。

時間を議論するときは、過去、現在、未来の3つの時だけを語る。

同様に、認識的には、前、今、後の3つの時がある。

空間関係では、宇宙の点にしろ自分の部屋のさまざまな点にしろ、それを考える時、「ここ」、「あそこ」、「その間」と認識する。

大まかな関係の事柄では、「その間」は認められない。

大まかな関係は常に二者関係であるのに対し、より高い領域の関係は常に三者関係だからだ。

二者関係には、左−右、上−下、大−小、速い−遅い、暑い−寒い、があり、そして今までに創造された最大の二者関係、つまり男−女がある。

これらの二者関係には、「その間」はない。

1つのものかその他のものか、どちらかだ。

あるいは、これら二者の関係で、バージョンの大小の差があるだけだ。

大まかな関係の領域内では、概念化されていないものは、その反対の概念なしに存在することはできない。

あなたがたの日々の体験のほとんどは、この現実に基づいている。

崇高な関係の領域内に存在するものには、それと反対のものはない。

すべてはひとつで、すべてが終わりのない循環で一方から他方へ進む。

時間は、あなたがたが過去、現在、未来と呼ぶものが相互関係的に存在している崇高な領域だ。

つまり、それらは対極ではなく、むしろ同じ全体の一部なのだ。同じ考えの進歩、同じエネルギーの循環、同じ不変の真実の側面だ。

これから、過去、現在、未来が同じ「時」に存在すると結論すれば、それは正しい。 (今はそれについて議論する時ではない。時間の概念全体を探るときに、もっと詳細に説明しよう)

世界が今のよう状態なのは、他の状態であることができず、依然として大まかな物質的な領域に存在するためだからだ。

地震とハリケーン、洪水と竜巻、そしてあなたがたが自然災害と呼ぶ出来事は、1つの極から他の極への要素の動きなのだ。

誕生と死の循環全てが、この動きの一部なのだ。

これらは生命のリズムであり、生命そのものがリズムであるため、大まかな現実のすべては、それらの影響を受ける。

それは、「存在のすべて(神)」の核心となる波、振動、波動だ。

不調と病気は、好調と健康の対極であり、あなたがたの要請で現実に現れる。

あなたがたは、自分のどこかのレベルで、引き起こさなければ、病気になることはない。

そして、ただそうあろうと決めるだけで、再び元気になれる。

深い個人的な失望は、自ら選択した結果であり、世界的な災害は世界的な意識の結果なのだ。

あなたの質問では、私がこれらの出来事を選んだり、神の意志や願望で世界的な災害が起こるのだと推測している。

しかし私は、これらのことを起こそうとは思わない。あなたがたがそうすることをただ観察しているだけだ。

そして私は、それをやめさせることはしない。やめさせれば、あなたがたの意志を妨げることになるからだ。

それでは、あなたがたと私がいっしょに選んだ体験、神の体験を奪うことになる。

したがって、世界の中であなたがたが悪と呼ぶものを、どれも非難しないことだ。

むしろあなたがたは、何事にせよ、それについて何を悪いと判断したのか、変えるために何をしたいのかを、自分に問うべきなのだ。

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自分の外側よりむしろ内側に尋ねなさい。

「この災害に直面して、今、自分のどの部分を体験したいのか、どう自分はありたいのか」と、尋ねなさい。

なぜなら、あなたがたの人生のすべては、自分自身を創造する道具として存在し、出来事のすべてが、「自分とは何者か」を決定する機会としてのみ存在するからだ。

これはすべての魂にとっての真実であり、宇宙には犠牲者はなく、創造者だけがいることが分かる。

地球上に出現したマスター(師*筆者注)たちは、すべてこれを知っていた。

だから、あなたの知るマスターの誰もが、自分は犠牲者だと考えた者はいなかった。
しかし、多くのマスターたちは、実際には十字架につけられた。

それぞれの魂はマスターだ。だが、その起源や遺産を思い出せないものもいる。

しかし、それぞれの魂は、今という瞬間に、自分の最高の目的のために、そして最もすばやく思い出すために、状況と環境を創り出す。

だから、カルマ(因果*筆者注)の道を歩む他人の善悪を判断していけない。

他人の成功をうらやまず、失敗を憐れむな。なぜなら、魂の清算の時には、何が成功で何が失敗かは、あなたがたには分からないからだ。

それをどう利用するかをあなたがたが決めるか実証するまで、物事を災いとか、喜ばしい出来事とか言ってはいけない。

1人の死が何千人もの生命を救うとしたら、それは災いだろうか?

悲しみ以外何も起こらないなら、人生は楽しい事だろうか?

だが、これさえもあなたがたは判断すべきではなく、常に自分だけの考えにとどめ、他の人々にもそうさせなさい。

これは、助けを求める声や、ある環境や条件を変えようとする自分の魂の願いを、無視するということではない。

それは、何をするにせよ、ラベルを張ったり判断したりすることは、避けなさいという意味だ。

それぞれの環境は贈り物であり、それぞれの経験には宝が隠されているのだから。

かつて、自分が光であることを知っていた魂があった。

これは新しい魂なので、体験することを切望した。

「私は光だ」魂は言った。「 私は光だ」

だが、そのことを知ってもいたし語ってもいたが、それだけでは体験に代わるものではなかった。

この魂が現れた領域には、光以外、何もなかった。

すべての魂は偉大でり、崇高であり、そしてすべての魂は、神の素晴らしい光に満たされ輝いていた。

だから、問題のその小さな魂は、太陽の中のロウソクのようだった。

最も偉大な光の真っ只中にあって、その一部であった魂は、自分を見ることも、「本当の自分とは何者か」も体験できなかった。

さて、この魂は、自分自身を知りたいと、強く強く希望した。

その希望があまりに強いので、私はある日、尋ねた。

「小さき者よ、あなたの希望を満足させるには何をしなければならないか知っているか?」

「わあ、何でしょう、神さま?何でしょう?私は何でもやります! 」小さな魂は言った。

「あなたは私たちから離れなければならない」と私は答えた。

「そしてあなたは、自分自身に闇を求めなければならない」

「闇とは何ですか?神さま」小さな魂は尋ねた。

「あなたでないものだ」私はそう答えて、その魂は理解した。

こうしてこの魂は、それを実行した。すべてから離れて、他の領域に行ったのだ。

この領域では、魂はあらゆる闇を体験する力を持っていた。そしてそれを行なったのだ。

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しかし、すべての闇の真っ只中で、「父よ、どうしてあなたは私を見捨てたのですか」と魂は叫んだ。あなたがたが最も暗い時にいるように。

しかし、私は決してあなたを見捨てたことはなく、いつもあなたのそばにいて、「本当の自分とは何者か」をあなたに思い出させる、つまりわが家に呼び戻す、準備をしている。

それゆえ、闇の中の光になりなさい。闇を呪ってはいけない。

あなたでないものに囲まれているさなかにも、「自分とは何者か」を忘れないようにしなさい。

しかし、あなたが変えようと思っているときでも、その創造物を称賛しなさい。

最大の試練の時にすることが、あなたの最大の勝利になることを知りなさい。

あなたが創造する体験は、「自分とは何者」で、「何者になりたいか」の表明だからだ。

私は、小さな魂と太陽の寓話をあなたに話した。

なぜ世界がこうなったのかを理解し、誰もが、最も崇高な現実の聖なる真実を思い出した瞬間に、いかに世界が変わることができるかを、もっとよく理解させるためだ。

さて、人生は学校であり、人生で観察し体験することは、あなたの学びのためだと言う人がいる。

私はこれまでに語ってきた。あなたにもう一度話そう。あなたは学ぶためにこの人生に入ったのではない。

すでに知っていることを体験、実証するためだけなのだ。

それを実証する際に、あなたはその知識を活用し、自分の体験を通して自分自身を新たに創造する。

こうして、あなたは人生を正当なものとみなし、人生に目的を与える。あなたはそれを聖なるものにする。

N:あなたは、私たちに起こる悪い事は、すべて私たちが選んだものだとおっしゃるのですか?世界の災難や天災でさえ、あるレベルでは、私たちが「自分とは何者か」の反対の面を体験できるように、自分たちが創っているということですか?もしそうなら、私たちが自分自身を体験する機会を創り出すために、自分や他の人たちにとって、もっと苦痛の少ない方法はないのでしょうか?

あなたはいくつもの質問をしたが、すべて良い質問だ。1つずつ取り上げてみよう。

いや。あなたに起こる悪いことすべてが( 悪とはあなたがたがそう呼んでいることだが)、あなたがたが選んだものだということではない。

それはあなたがたが自覚して選んだ、というのではないという意味だ。それらはすべて、あなたがたの創造物なのだ。

あなたがたはいつも、創造のプロセスの中にいる。つねに。毎分。毎日。

どのように創造するかということは、後にしよう。

今のところは、私の言葉をそのまま受け取っておきなさい。

あなたがたは大きな創造する機械だ。考えるのと同じ速さで、まさに新しいものを創り出している。

出来事、事件、ハプニング、状況、環境は、すべて意識から創り出される。

個人の意識はすこぶる強力なのだ。

神の名において二人以上の人々が集まるとき、どれほどの創造的なエネルギが放出されるか、想像できるだろう。そして集団意識ならどうか?

集団意識は非常に強力なので、世界的、地球的な結果をもたらす出来事や環境を創り出すことができるのだ。

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あなたがたの意味することからすれば、これらの結果をあなたがたが選択しているというのは、正確ではないだろう。

私はそれらを選んでいないし、あなたがたも選んでいるわけではない。

私のようにあなたがたも、それらを観察している。そして、それとの関係で「自分とは何者か」を決めている。

世界には犠牲者も、悪人もいない。

そして、あなたがたは、他の人々の選択の犠牲者でもない。

あるレベルでは、あなたがたは、自分が嫌だと言うことを、すべて創り出した。それを創造したということは、それを選択したということだ。

これは高度な思考のレベルであり、すべてのマスターが早かれ遅かれ、そのレベルに到達する。

なぜなら、すべてのものに対する責任を受け入れた時にだけ、力によってその一部を変えることができるからだ。

あなたが、それは、何か、あるいは誰かがしていると思っている限り、それに対処する力を失う。

「自分がこれをした」と言うときにだけ、それを変える力が出るのだ。

他の人のすることを変えるよりも、自分のやっていることを変える方が、はるかに簡単だ。

何かを変える最初のステップは、自分がそれを選択したことを知り、認めることだ。
これを個人的なレベルで受け入れられない場合は、「私たちは一体だ」ということを理解して、自分が選択したことを認めることだ。

それから、物事が間違っているからではなく、もはや「自分とは何者か」を正しく表せないということから、変えるように努めなさい。

何かを行う理由は一つしかない。宇宙に向って、「自分とは何者か」を表明することだ。

こうすると、人生は自己を創造するようになる。

あなたがたは人生を利用して、「自分とは何者」で、どうありたいかを願ってきたように、自分を創り上げる。

また、何もしない理由は一つしかない。もはやその行為が、どうありたいかというあなたの表明とならない時だけだ。それはあなたを反映していない。(つまり、re-present ーあなたをふたたび存在させない...)

もし、自分を正しく反映したいのなら、永遠の中に映し出したいと思う自分像に合わないものを、人生の中で変えようと努力しなければならない。

最も大きな意味では、起こるすべての「悪い」事は、あなたがたの選択によるものだ。

間違いは、それらを選ぶことではなく、それらを「悪」と呼ぶことにある。
それらを「悪」と呼べば、自分自身を悪と呼んでいることになる。あなたがそれらを創造したのだから。

このラベルをあなたは受け入れられない。だから、あなた自身に「悪」というラベルを貼るよりも、自分がそれを創造したことを認めないようにする。

この知的で霊的な不誠実さによって、あなたがたは今あるような世界を受け入れている。

あなたがたが、世界に対する個人的責任を認めるか、あるいはそれを深く感じていたなら、世界は今とは、はるかに違う場所になっていただろう。

誰もが責任を感じていたなら、世界が変わっていたことは、確かな真実だろう。これは非常にはっきりしたことだが、非常に苦痛なことでもあるし、皮肉なことでもある。

世界の自然災害や災難−竜巻やハリケーン、火山や洪水−その物理的混乱−は、あなたがたが特別に創り出したものではない。

あなたがたが創り出したものは、その出来事が人生に与える影響の大きさの程度だ。

出来事は宇宙の中で起こるが、どう考えても、あなたがたが引き起こした、創造したと言うことができないものもある。

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これらの出来事は、人間の意識の集合によって創られる。すべての世界が、共同して、これらの経験を生み出しているのだ。

あなたがた各々がしていることは、何事であっても、個々の出来事を通して行動し、自分にとって、それらが何を意味しているかを決め、それらとの関係性の中で、「自分とは何者か」を決めることだ。

こうして、進化という魂の目的のために、あなたがたは、自分の経験している人生や時を、集団としても個人としても、創造している。

あなたは、このプロセスを経験するのに、もっと苦痛のない方法がないかを尋ねた。答えはイエスだ。しかし、あなたの表面上の経験は何も変わらないだろう。

あなたが地上の経験や出来事(あなたと他の人々の両方のだが)に関する痛みを軽減する方法は、見方を変えることだ。

あなたがたは、外的な出来事を変えることはできない。(その出来事は、たくさんの人によって創造されたもので、集団的に創造されたものを個人的に変更できるほど、あなたがたは十分に意識の成長はしていないからだ)。

これは生きる上での熟達への道である。

それ自体に苦痛はない。苦痛は間違った思考の結果だ。考え方の誤りだ。

マスターは、最もつらい苦痛を消すことができる。このようにして、マスターは癒しをする。

苦痛は、物事についてあなたが下した、判断からくるものだ。判断を除くと痛みは消える。

判断はしばしば、前にした経験に基づいている。あることについての考えは、それ以前の考えに由来する。

前の考えは、もっと前の考えから生まれ、その考えはさらに前の考えから、というように、積み上げられたブロックのように続く。そしてさらに、鏡の広間の中で、ずっと昔にさかのぼって、私が「最初の考え」と呼ぶものへ到達するまで続く。

すべての思考は創造的であり、最初の思考ほど強力な思考はない。

これが、最初の思考がしばしば「原罪」と呼ばれる理由だ。

原罪とは、物事についての最初の考えが間違っていることをいう。

物事についての考えが、二番目、三番となるにつれ、その間違いは、何重にも重なっていく。

あなたに新しい理解をもたらすのは、聖霊の仕事だ。それは間違いからあなたを解放することができる。

N:アフリカの飢えた子どもたち、アメリカの暴力や不公平、ブラジルで起きた数百人の命を奪う地震に対して、私が「悪」と感じるべきではないと、あなたはおっしゃるのですか?

神の世界には、「すべき」「すべきでない」ということはない。

したいようにすればいい。

自分を表現していることをしなさい。自己の壮大なバージョンで自分を表現することをしなさい。

悪と感じたいなら、悪と感じなさい。

しかし、それを裁いたり、非難してはいけない。物事がなぜ、何の目的で起こるのかを、あなたがたは知らないからだ。

覚えておきなさい。あなたが非難する事柄で、あなたは非難される。あなたが裁く量り(はかり)でいつか裁かれる。

それより、「本当の自分」という最も崇高な思いを、もはや反映していない事柄を変えようとしなさい。あるいは変えようとしている人々を支えなさい。

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それでも、すべてを祝福しなさい。

すべてのものは、人生を通じての神の創造であり、それは最高の創造物だから。

N:ここでちょっと止めてもいいでしょうか?一息つかせてください。神の世界に「すべき」や「すべきでない」ということはないと、あなたはおっしゃいましたが?

そうだよ。

N:どうしてそうなのですか?あなたの世界にないなら、どこにあるのですか?いったいどこに...? 繰り返します。あなたの世界にないなら、「すべき」や「すべきでない」は、どこにあるのですか?

あなたの想像の中に。

N:しかし、私に正邪や良い悪い、すべきことすべきでないことについて教えてくれた人々は、すべてのルールは、あなたつまり神によって定められたと言いました。

それなら、教えた人が間違っているのだ。

私は、「正邪」、「良い悪い」を決して決めてはいない。

そんなことをしたら、あなたがたへの最大の贈り物を台なしにしてしまうだろう。

その贈物とは、あなたがたがしたいようにして、その結果を体験する機会だ。あなたがたが、「本当の自分とは何者か」というイメージの中で、自分自身を新たに創り出すチャンスだ。あなたがたの壮大な考えに基づいた、より高いあなたがたの現実を生み出す空間だ。

それらの贈り物を奪うことになる。

あることが−それは思考、言葉、行為だが−「間違っている」と言うことは、あなたがたにそれをしないように、と言うのと同じことだ。

それをしないように、と言うことは、禁止することだ。

禁止するということは、あなたがたを制限することだ。制限するということは、「本当の自分」を表現する現実を否定することだ。

そして、その真実を創造し、体験する機会をも否定することだ。

神はあなたがたに自由意志を与えた、と言っている人がいる。だが、その同じ人が、従わなければ、神はあなたがたを地獄に送るとも言っている。

そんな自由意志って、どんな自由意志だろうね?

神をばかにしてはいないかな? ましてや、神と人間との真の関係については、言うまでもない。

N:さて私たちは、私が議論したいと思っていた別のテーマに入りつつあります。それは天国と地獄に関することです。私がこの対話で知ったことからすると、地獄のようなものはないということでしょうか。

地獄はあるが、あなたがたの考えるようなものではない。あなたがたが教えられてきた理由で、地獄を経験するのではない。

N:地獄って何なのですか?

あなたがたの選択や決定、そして創造の、最悪の結果を体験することだ。

それは、神を否定する考え、そして神との関係で、「自分自身」を否定する考えの自然な結果だ。

あなたがたが間違った考えによって苦しんでいる、その苦痛が地獄なのだ。

しかし、「間違った考え」という言葉でさえ、誤った言い方だ。なぜなら、「間違ったこと」などはないからだ。

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地獄は喜びの反対だ。地獄は満足感がないことだ。

地獄は、「自分とは何者か」を知ってはいるが、それを体験できないことだ。

自分が本当の自分より小さく在ること、それが地獄であり、あなたの魂にとってそれ以上大きな苦痛はない。

だが、あなたがたが想像した、永遠の火の中で焼け死ぬとか、あるいは永遠の苦しみの中に置かれるというような場所としての地獄は存在しない。

私が何の目的で、そんなものを創るというのか?

たとえ私が、あなたがたは天国に値しないという、途方もない考えを抱いたとしても、あなたがたの失敗に対して何か復讐や罰を求める必要があるだろうか?

私があなたがたをただ見捨てるだけで、簡単にすむことではないか?

私のどんな復讐心が、筆舌つくしがたい永遠の苦しみをあなたがたが受けることを、要求するだろうか?

あなたがたが、それは正義のために必要だと答えるなら、天国で私とひとつになることを単純に否定するだけで、その正義の目的はかなうのではないだろうか?

際限のない苦痛を与えることなど必要なのか?

恐怖に基づくあなたがたの神学で構築されたような、死後の経験はないと、私は言う。

しかし、とても不幸で、不完全で、全的ではない、神の偉大な喜びから離れた、魂の経験はある。あなたがたの魂にとってはこれは地獄だろう。

しかし、私があなたがたを地獄に送ることはないし、地獄の経験をさせることもないと言っている。

自分自身を、自分の最高の考えから分離するときはいつでも、あなたがたは自分自身で地獄の経験を創り出す。

自分自身を否定するたびに、そして「本当の自分」を拒否するときにはいつでも、自分自身で地獄の経験を生み出す。

しかし、この経験でさえも決して永遠ではない。それは不可能だ。なぜなら、あなたがたが永遠に私から離れなければならないというのは、私の計画にはないからだ。

実際、そんなことは不可能だ。なぜなら、そのような事を実行するには、あなたがたが、「自分自身」を否定する必要があるだけでなく、私もそうしなければならないからだ。

私はそんなことは決してしない。

我々のうちのどちらかが、あなたがたについての真実を保っている限り、真実が最終的に打ち勝つだろう。

N:しかし、地獄がなければ、私がしたいようにでき、望むように行動できる。罰を恐れることなくどんな行動も起こすことができるのではないでしょうか?

あなたがたは、本質的に正しく生き、正しいことを行うためには、恐れが必要なのか?

あなたがたは、脅されなければ、「善良である」ことができないのか?

そして、「善良である」とはどんなことなのか?

誰が、それについて、最終的な決定権を持っているのか?誰がガイドラインを設定するのか?誰がルールを作るのか?

私はあなたがたに言う。あなたがた自身が、自分のルールを作るのだ。ガイドラインを設定するのだ。

そして自分が、どれくらいうまく、今やっているかを決めるのは、あなたがただ。なぜなら、「本当の自分とは何者」で、何者でありたいかを決めるのは、あなたがただからだ。

そして、自分がどれほどうまくやっているかを評価できるのは、あなたがただけだ。

誰もあなたがたを裁かないだろう。

なぜ、どのように、神は自分の創造物を裁き、それを悪と呼ぶのだろうか。

もし私が、あなたがたが完璧で在り、完璧に行動するよう欲したなら、あなたがたを完璧な状態に創造しただろう。

このプロセスの肝心なことは、あなたがたが、「本当の自分」を、そして本当にそうありたい自分を発見し、創造することなのだ。

しかし、他の者になる選択肢もなければ、あなたがたは本当の自分になることはできないのだ。

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私自らが与えた選択肢をあなたがたが選らんだために、あなたがたを罰するだろうか?

あなたがたに、第二の選択肢を選らんでもらいたくないのなら、なぜ私は最初のもの以外の選択肢を創ったのだろうか?

これは、非難する神の役割を私に割り当てる前に、あなたがたが自分自身に尋ねなければならない質問だ。

あなたの質問への直接的な答えは、イエスだ。

あなたは、報復を恐れることなく、望むようにすることができる。

しかし恐れは、結末を自覚させてくれるかもしれない。

結末は結果だ。自然に起こる結果だ。これらは、報復や罰とは全く違う。

結果は単なる結果に過ぎない。自然法則が自然に適用されて、出された結果だ。

起きたことの結果として、予想した通りに起きるものだ。

すべての物質的な生命は、自然の法則に従って機能する。

これらの法則を思い出し適用すれば、物質的なレベルで生命を支配することができる。

あなたがたへの罰と思われるもの、あなたがたが悪とか不運とか呼ぶものは、自然の法則以外の何ものでもない。

N:じゃあ、もし私がこれらの法則を知り、従うなら、私は二度とトラブルことがなくなるのですか?あなたはそうおっしゃっているのですか?

あなたが「トラブル」と呼んでいるものとしては、自分自身を経験することは決してないだろう。

あなたは、どんな人生の状況も、問題と考えることはないだろう。恐れおののく環境に出会うことはないだろう。すべての心配、疑い、そして恐怖に、終止符を打つだろう。

あなたは、空想上のアダムとイブが生きたように、生きるだろう。つまり、絶対的な領域での身体から離れた霊としてではなく、相対的な領域での肉体化した霊として、生きるだろう。

しかし、あなたはすべての自由、喜び、平和と知恵、そしてあなたである霊の理解と力を持つだろう。

あなたは完全に自分を体現した存在になるだろう。

これがあなたの魂の目標なのだ。

身体に宿っている間に、自分自身を十分に実現すること、本当の自分のすべてを具現化すること、それが魂の目的である。

これがあなたがたのための私の計画だ。

これは私の理想だ。私はあなたがたを通して自分を実現しなければならない。

こうして、概念は体験に変わり、私は自分自身を体験的に知る。

宇宙の法則は私が定めた法則だ。

それらは完璧な法則であり、物質の完璧な機能を創り出す。

あなたは雪の結晶よりも完璧なものを見たことがあるか?

その精緻さや、デザイン、対称性、結晶としての一致性、かつ独創性−すべては神秘なのだ。

あなたは、自然の素晴らしい光景の奇跡に驚嘆する。

しかし、私が一つの雪の結晶でこんなことを行えるなら、宇宙ではどんなことができて、今までやってきたと思うのか?

あなたがたが、最大の物体から最小の素粒子に至るまで、その対称性、デザイン性の完璧さを見ていたとしても、現実では、その真実を理解できないだろう。

今、それが垣間見えていても、あなたがたは、その意味を想像したり理解することはまだできない。

しかし、あなたがたが、今、理解できることより、はるかに複雑で驚異的な意味があることを、あなたがたは知ることができる。

シェイクスピアは素晴らしいことを言った。「ホレ−ショウよ、天と地には、あなたの哲学で夢見ているものより、もっと多くのものがある」

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N:では、どうすればこれらの法則を知ることができるのですか?どうすれば学ぶことができるのですか?

学ぶのではなく、思い出すのだ。

N:どうすれば思い出すことができますか?

静かにしていることから始めよう。

外の世界を静かにすれば、内なる世界が見えてくる。

この内なる目はあなたが求めるものだが、外側の現実に埋没している間は、得ることはできない。

それゆえ、できるだけ多く、内に入るようにしなさい。

内に入って行けない時は、内から出て、外の世界と取り組みなさい。

この格言を覚えておきなさい。

あなたは内に入っていかなければ、何もなしに出ていくことになる。

自分のものにするために、一人称でそれを繰り返しなさい。「私は、内に入っていかなければ、何もなしに出ていくことになる」

あなたは全人生を何もなしで過ごしてきた。

だが、今はそうである必要はないし、今までも必要なかったのだ。

あなたでなくなることはできないし、あなたができないことは何もない。あなたが持てないものも何もない。

N:それは絵に描いた餅のような約束に聞こえますが。

神は他にどんな約束をすると思うのか?私がすばらしくない約束をしたら、私を信じるのか?

何千年もの間、人々は、本当にしては良すぎるという途方もない理由から、神の約束を信じて来なかった。

だから、あなたがたは、より小さな約束、つまりより小さな愛を選んだのだ。

神の最高の約束は、最高の愛から始まる。

しかしあなたがたは、完璧な愛を想像することができない。だから、完璧な約束も想像できない。完璧な人間もだ。

それゆえあなたがたは、自分自身でさえも信じることができない。

これらを信じられないということは、神を信じられないということだ。

神を信じることは、神の最大の賜物、つまり無条件の愛や神の最大の約束である無限の可能性を信じることだ。

N:ここで口をはさんでもよろしいですか?あなたが気持ち良くお話しされている最中に、邪魔したくはありませんが、私は前に、この無限の可能性の話しを聞いたことがあります。それは人間の実際の経験とは合わないんですが。平均的な人々が遭遇する困難さはおいておいて、精神的あるいは肉体的な限界をもって生まれた人の挑戦はどうなんでしょう?彼らの可能性は無限でしょうか?

あなたがたは聖書の中に、いろいろな方法で、多くの所に、そう書いている。

N:例を1つ上げてください。

聖書の創世記第11章第6節を見てごらん。

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「主は言われた、『民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう』」とそこには書いてある。

そう。さて、あなたはそれを信じられるかな?

N:それは、弱者、虚弱な人々、障害者、制限のある人たちの問題に答えるものではありません。

あなたは、彼らが選んでもいないのに、制限されていると思うのか?

人間の魂は、どんなものであれ、人生の挑戦に偶然に出会っていると思うのか?そうあなたは思うのか?

N:魂は、どんな人生を体験するかを、前もって選んでいるとおっしゃるのですか?

ちがう。それでは出会いの目的がそこなわれてしまう。

出会いの目的は、あなたの体験を生み出すことだ。それによって、今という栄光の瞬間に、あなた自身を創造することだ。

したがって、あなたは、事前に、経験する人生を選ぶことはない。

しかし、あなたの経験を生み出すための人物、場所、出来事、つまり条件や環境、挑戦や障害、機会や選択肢は選ぶことはできる。

パレットの色、収納箱の道具、お店の機械を、あなたは選択することができる。

これらを使って創るのは、あなたの仕事だ。人生の仕事だ。

あなたの選んだすべてにおいて、可能性は無限なのだ。

あなたが制限されていると言う身体に宿った魂は、十分な可能性は持っていないと思い込まないことだ。

あなたには魂が何をしようとしているのか、分からないからだ。

あなたは魂の課題を理解していない。

あなたは魂の意図について、はっきりとは知らない。

だから、すべての人と条件を祝福し、感謝しなさい。

こうして、あなたは神の創造物の完璧性を認め、それを信頼する。

神の世界では、偶然に起こることは何もない。偶然の一致というようなものもない。

世界は、あなたがたが運命と呼ぶ、無原則な選択に、巻き込まれたりはしない。

雪の結晶が、デザインにおいて全く完璧なものなら、あなたの人生の素晴らしさについても、同じことが言えると思わないか?

N:しかし、イエスでさえ病人を癒しました。病人の状態が「完璧」だったのなら、なぜイエスは癒したのでしょうか?

イエスは、病人の状態が不完全であると見て、癒したのではない。

病人の魂が、そのプロセスの一部として癒しを求めているのを見たから、癒したのだ。

イエスはプロセスの完璧さを見た。彼は魂の意図を認識し理解していた。

イエスが、精神的肉体的病気すべてが不完璧性を表していると感じたのなら、地上の全ての人々を一気に癒したはずではないか?彼にそれができなかったとでも思うのか?

N:いいえ、できたと思います。

よろしい。では、なぜイエスはそれをしなかったのか?

どうしてキリストは、ある者は苦しみを受けさせ、他の者は癒されるのを、選んだのだろうか?

さらに言えば、なぜ神はいつも人々の苦しみを放っておくのか?

この質問は前にも尋ねられたが、答えは変わらない。

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P36

完璧さはプロセスにあり、すべての人生は選択から生まれるものだ。

選択に干渉したり、疑問を呈するのは、適切なことではない。

非難するのはもっと不適切なことだ。

適切なことは、それを見守り、そして、より高い選択を求め実践しようとしている魂を支援するために、何でも行うことだ。

それゆえに、他の人々の選択に注意深くありなさい。しかし批判してはいけない。

彼らの選択は、今のこの瞬間には、彼らにとって完璧であることを知りなさい。

だが、彼らがより新しい選択、別の選択、より高い選択を求める時が来たなら、助けてやれるようにしていなさい。

他の人々の魂と一つになりなさい。そうすれば、それらの目的や意図が、あなたにはっきりと分かるだろう。

一つになること、これが、イエスが癒した人々や、イエスによって人生に影響を与えられた人々全てが、行なったことだ。

イエスは、自分のところにやって来たすべての人々を癒し、救いを求めて、他の者を送って来た人々すべてを癒した。

彼は無秩序に癒しをしたのではない。

無秩序に癒すことは、それぞれの魂はそれぞれの道を歩むことができるという、宇宙の聖なる法則に反していたはずだ。

N:それは、頼まれなければ助けてはならないということですか?絶対に違うでしょう。でなければ、私たちは、インドの飢えた子供たちや、アフリカの拷問された大衆、あらゆるところにいる貧しい人々、しいたげられた人々を助けられなくなります。すべての人道的努力が失われ、すべての慈善活動が禁止されてしまいます。必死の思いで、個人が私たちに叫ぶのを、あるいは国民が助けを嘆願するのを、待たなければならないのですか?それまで、私たちが、明らかに正しいことをすることさえ、許されないのですか?

分かるだろう。質問自体がそれに答えている。

物事が明らかに正しければ、そうしなさい。

しかし、あなたがたは、「正しい」「間違っている」と呼ぶものについて、極端な判断を下していることを覚えておきなさい。

物事は、あなたがたがそう言うから、正しかったり、間違っていたりするだけなのだ。物事は、本来的には、正しかったり、間違っていたりはしない。

N:ないんですか?

「正しい」あるいは「間違っている」は、本来的な状態ではなく、個人的な価値観で、あなたがたが下した主観的な判断なのだ。

主観的な価値判断によって、あなたがたは自分自身を創造する。個人的な価値観によって、「自分とは何者か」を決定し、実証する。

あなたがたがこれらの判断ができるように、世界はまさに存在している。

もし世界が完璧な状態で存在していれば、あなたがたの自己創造のプロセスである人生は終了となるだろう。終わるだろう。

明日、訴訟がなくなれば、弁護士の仕事は終わるだろう。

明日、病気がなくなれば、医師の仕事は終わるだろう。

明日、疑問がなくなれば、哲学者の仕事は終わるだろう。

N:そして、明日、トラブルがなくなれば、神の仕事は終わるのですね!

そのとおり。あなたは完全に理解した。

何も創造するものがなくなれば、われわれ全ては創造を終えるだろう。

われわれ全ては、ゲームが続くことを期待している。

すべての問題を解決したいと言っていても、われわれはあえて問題のすべては解決しない。さもないと、やるべきことが何も残らないだろう。

あなたがたの産業と軍隊双方は、これを非常によく理解している。

これが、戦争のない政府を設立しようとする試みを、どこででも強く反対する理由なのだ。

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医学界もこれを理解している。

これが、自分たちの生き残りのために、奇跡自体の可能性は言うまでもなく、新しい奇跡的な薬や治療法に、医学界が断固として反対する理由だ。

宗教界も、明らかにこれを知っている。

これが、不安、裁き、報復を含まない神の定義や、神への唯一の道という考えを含まない宗教の定義を、宗教界が一様に攻撃する理由だ。

私があなたがたに、あなたが神だと言ったら、宗教はどうなってしまうだろうか?

私が、あなたがたは癒されると言ったら、科学や医学はどうなってしまうだろうか?

私が、あなたがたは平和に生きるだろうと言ったら、和平調停者はどうなってしまうだろうか?

私が、世界は不変だと言ったら、世界はどうなってしまうだろうか?配管工はどうなるのか?

世界は基本的に2種類の人々からなる。あなたが望むものを与える人と、物事を調整する人だ。

ある意味では、肉屋、製パン業者、燭台メーカーなど、あなたが望むものを単に提供する人々でさえも、調整者だ。

何かを欲するということは、しばしばそれが必要だということだからだ。

だから、中毒は調整が必要だと言われる。

それゆえに、欲望が中毒にならないように注意しなさい。

N:世界にはいつまでも問題があるとおっしゃるのですか?あなたはそれを実際に望んでいるとおっしゃるのですか?

私は、世界は存在するように存在していると言っている。

それは雪の結晶が、完璧なデザインで存在するように存在しているのと同じだ。

あなたがたは、自分の人生を創造したように、世界をそのように創造して来た。

私は、あなたがたが望むことを望む。

あなたがたが本当に飢えをなくしたいと思った日、飢えはなくなるだろう。

私はそれを行うためのすべての資源を、あなたがたに与えた。

あなたがたは、その選択をするためのすべてのツールを持っている。

だが、あなたがたはそうして来なかった。できないからではない。

明日にでも、世界の飢餓を終わらせることが出来るだろう。あなたがたが、そうすることを選択しないのだ。

あなたがたは、1日4万人が飢えで死ななければならない正当な理由があると主張している。

正当な理由などない。

しかし、1日に4万人が飢餓で死ぬのを止められないと言いながら、あなたがたは新しい生命を1日に5万人誕生させている。

そしてこれを、あなたがたは愛と呼ぶ。これは神の計画だと言う。

そんな計画は、論理性も根拠も全くない計画だ。同情がないのは言うまでもない。

あなたがたがそれを選択したから、世界が今のようにあることを、私はありのままに言っている。

あなたがたは組織的に自分たちの環境を破壊している。そうしておいて、いわゆる自然災害を、神の残酷ないたずら、あるいは自然の過酷な実態の証拠として挙げる。

あなたがたは、自分自身にいたずらをしてしまっている。それは残酷なあなたがたのやり方だ。

自然ほど優しいものは何もない。そして、人間ほど自然に対して残酷なものは他にない。

しかし、あなたがたはこのすべての関与から逃れ、すべての責任を否定する。それは自分たちの過ちではないとあなたがたは言う。これはこれで正しい。それは過ちの問題ではなく、選択の問題なのだから。

あなたがたは、明日、熱帯雨林の破壊を終わらせることを選ぶことができる。

あなたがたは、地球をおおう保護層を枯渇させないよう選択することができる。

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あなたがたは、地球の精巧な生態系への飽くなき猛攻撃を中止することを選択できる。

あなたがたは、雪の結晶を元に戻すよう、少なくとも、その容赦ない溶解を止めるよう努力することができる。

しかしあなたがたはそれをやるだろうか?

あなたがたは、同じように明日全ての戦争を終わらせることができる。簡単に。容易に。

必要なこと、今まで必要だったことは、あなたがたみんなが同意することだ。

しかし、お互いの殺害を終わらせるという基本的に簡単なことに同意できないのに、あなたがたの命を守るために拳を振って、天に求めることができるのか?

あなたがたが自分のためにしないことは、私も何もしない。

それが法則であり預言である。

世界は、あなたがたのせいで、そしてあなたがたが行なった選択、あるいはしなかった選択のせいで、今のような状態にある。(決定しないことも決定である。)

地球は、あなたがたのせいで、そしてあなたがたが行なった選択、あるいはしなかった選択のせいで、今のような姿にある。

あなたがた自身の人生は、あなたがたのせいで、そしてあなたがたが行なった選択、あるいはしなかった選択のせいで、今のようにある。


N:しかし、私はそのトラックにぶつけられることを選択したのではありません!私はその強盗に襲われることを、あるいはその狂人にレイプされることを選択してはいません。人々はそう言うでしょう。世界にはそう言える人々がいるのです。

あなたがたはみんな、根本的に、強盗に盗む欲望、あるいは必要性を生じさせる状態の原因となっている。

あなたがたすべてが、レイプを可能にする意識を作り出している。

犯罪を引き起こした原因を、自分の中に見い出したときに、犯罪を生みだす状態を癒すことがようやくできる。

空腹の人々に食べ物を与え、貧しい人々に尊厳を与えなさい。

不運の人々には機会を与えなさい。

より良い明日という小さな約束によって、大衆を怒らせている偏見を終わらせなさい。

性的エネルギーへの無意味なタブーや制限を取り除き、むしろ、人々がそのすばらしさを真に理解し、それを適切に注げるように助けなさい。

これらのことをしなさい。そうすれば、あなたがたは強盗やレイプを終わらせる大きな役割を果たすだろう。

曲がり角から来るトラック、空から落下するレンガのような、いわゆる「事故」というものに関していえば、そのような出来事を大きなモザイクの小さな部分としてとらえることを学びなさい。

あなたがたは、自分の救いのためのそれぞれの計画を実現するために、この世にやって来た。

しかし、救いは悪魔の罠から自分を救うことを意味していない。

悪魔のようなものはいないし、地獄は存在しない。

あなたがたは、自らを実現しないという忘却から自分を救っている。

あなたがたは、この闘いで負けるはずがない。失敗するはずがない。

したがって、それは闘いではなく、単なるプロセスなのだ。

だが、これを知らないと、あなたがたは絶え間のないあがきだと見なすだろう。

あなたがたは、長い間あがいたあげくに、 そういった宗教を創造するかもしれない。

この宗教は、闘いこそがすべての核心だと教えるだろう。

これは誤った教えだ。プロセスが進行するのは闘いの中ではない。勝利を得られるのは、身を任せたときだ。

事故は起こるから起こる。


生命プロセスの特定の要素が、特定の時間に特定の方法で一体となり、特定の結果を引き起こす。

あなたがたは、その結果を、自分の特定な理由で、不運と呼ぶこともある。


しかし、魂の課題を考えれば、それらは不運ではないかもしれない。

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自分の特別な理由で、あなたがたはそれを不運と呼ぶこともある。しかし、魂の課題を考えれば、それらは少しも不運ではないかもしれない。

私はあなたがたに言う。偶然というものはない、「偶然に」起こることは何もない。

それぞれの出来事や冒険は、「本当の自分」を創造し、経験するために、あなたがた自身によって呼び寄せられている。

真のマスターは、みんなこれを知っている。だからこそ、神秘的なマスターは、人生の最悪の経験(あなたがたがそう定義しているのだが)に直面しても、平静でいられる。

キリスト教の偉大な教師たちは、これを理解している。イエスは十字架を恐れたのではなく、それを予期していたことを、彼らは知っている。

イエスは逃げ去ることもできたが、しなかった。

イエスはいつでもプロセスを止めることができた。その力を持っていた。しかし、しなかった。

彼は人類の永遠の救いとして在るために、十字架を選んだのだ。

イエスは言った。「見よ、私がなせるわざを」

真実を見なさい。そして、あなたがたは、これらのこと、そしてそれ以上のことができることを知りなさい。

私は、あなたがたは神だと言わなかったか?

しかし、あなたがたは信じない。自分を信じられないのなら、私を信じなさい。

イエスの十字架は、彼の慈悲の心だった。

イエスは、もし他に方法がないなら、彼を通して、全ての人々が天国(自己実現)に来れるように、世界に衝撃を与えることを願い、そう実行したのだ。

彼は悲惨さと死を打ち負かした。あなたもそうするかも知れない。

キリストの偉大な教えは、あなたがたは永遠の命を持つだろうということではなく、持っているということだ。

あなたがたは神のもとに兄弟になるだろうということではなく、兄弟だということだ。

あなたがたは求めるものは何でも持てるだろうということではなく、すでに持っているということだ。

必要なことは、これを知ることだけだ。

あなたがたは自分の現実の創造者であり、人生はあなたがたが考えるようにしか、現れない。

あなたがたが考えると、それは存在になる。これが創造の第一歩だ。

父なる神は思考である。思考は、すべてのものを生み出す親である。

N:これは覚えておくべき法則の一つですね。

そうだよ。

N:他にありますか?

私はあなたがたに、他のことも語ってきた。

私は時の始めから、あなたがたにそれらすべてを語ってきた。

何度も語ってきた。

何人もの教師を送ってきた。

あなたがたは、私の送った教師に耳を貸さないし、彼らを殺す。

N:しかし、なぜ?なぜ私たちは、最も聖なる人たちを殺すのでしょうか?私たちは彼らを殺すか、侮辱します。両方とも同じことですが。どうしてなのでしょう?

なぜなら、教師たちは、私(神)を否定するあなたがたのあらゆる考えに、立ち向かうからだ。

そして、あなたがたが自分のことを否定するなら、私を否定することになるからだ。

N:なぜ、私たちは、あなたや自分を否定したいのでしょうか?

なぜなら、あなたがたは恐れているからだ。そして、私の約束が、真実にしては良すぎると思うからだ。

あなたがたは、最も偉大な真実を受け入れることができない。

それで、あなたがたは、愛や力、受容ではなく、不安や依存、不寛容を教える精神性に、自分を落とさなければならない。

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あなたがたは不安で満たされている。あなたがたの最大の不安は、神の最大の約束は、人生最大の嘘うそかもしれないという不安だ。

そこで、あなたがたは、この不安から自分を守るために、最大の幻想を創造する。

つまり、あなたがたに神の力を与え、神の愛を保証する約束など、悪魔の偽りの約束に違いないと、あなたがたは主張する。

神はそのような約束をすることは決してない、するのは悪魔だけだ。

悪魔だけが、「神は恐ろしくて、批判的で、嫉妬深く、復讐し罰するものだ」と言っては、真の神を否定するようにあなたがたを誘惑するのだと、自分に言い聞かせる。

この説明は悪魔の定義にはよく合致しているが(もし悪魔がいればのことだが)、あなたがたは、創造主である神のような約束を、あるいは自分の中にある神のような性質を、受け入れないようにするために、神に悪魔的な特徴を割り振った。

それが不安の力というものなのだ。

N:私は不安をなくすように努力しています。もう一度、他の法則を教えてくれませんか?

第一の法則は、あなたがたが想像することはどんなことでも、そのようになれるし、行うことも、持つこともできるということだ。

第二の法則は、あなたがたは恐れるものを引き寄せるということだ。

N:なぜですか?

感情は引きつける力だ。あなたがたは、自分の強く恐れることを、体験する。

あなたがたが、より低級な生物と考えている動物(たとえ動物の方が、人間よりも完全性と一貫性を持って行動していてもだが)は、あなたがたがその動物を恐れていると、すぐに察知する。

あなたがたがより低級な生物と考えている植物は、大事にしてくれない人より、愛してくれる人に、はるかによく反応する。

これは偶然ではない。

宇宙には偶然はなく、壮大なデザインが、信じられないほどの "雪の結晶"が、あるだけだ。

感情は動いているエネルギーだ。エネルギーを動かすと効果が生じる。あなたがたが十分なエネルギーを動かすと、物質が創造される。

物質はエネルギーの凝集体だ。動き回り、押し合うエネルギーだ。

あなたがたが一定の方法で、十分に長い時間エネルギーを操作すれば、物質が生じる。

すべてのマスターは、この法則を理解している。

それは宇宙の錬金術だ。すべての生命の秘密だ。

思考は純粋なエネルギーである。

あなたがたが持つ思考、持っていた思考、これから持つだろう思考は、すべて創造的だ。

あなたがたの思考エネルギーは、決して死ぬことはない。いつまでも。

思考のエネルギーはあなたがたの存在を離れ、宇宙に向かって飛び出し、永遠に広がっていく。思考は永遠だ。

すべての思考は凝集する。

すべての思考は他の思考と出会い、信じられないほどのエネルギーの迷路で入り混じり、言葉にできないほどの美しさと、信じられないほどの複雑さの、絶え間なく変化するパターンを形成する。

エネルギーは、似たエネルギーを引き付ける。そして、似たエネルギーの 「塊かたまり」を形成する。

十分な似た「塊」が相互に交差し、ぶつかり合うと、それらは相互に「くっつく」(別の簡単な用語を使えば)。

「一塊になっている」理解できないほどの膨大な量の似たエネルギーが、物質を形成する。

物質は純粋なエネルギーから形成される。

事実、これが、物質の形成される唯一の方法なのだ。

いったんエネルギーが物質になると、その構造が、反対の、あるいは異なる形態のエネルギーによって破壊されない限り、非常に長い間物質であり続ける。

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この異なるエネルギーは、物質に作用して、実際に物質を分解し、それを構成している生のエネルギーを放出する。

これは、初歩的な言い方だが、あなたがたの原爆を支えている理論だ。

アインシュタインは、宇宙の創造的な秘密を発見し、説明し、機能化した人間で、その前後にいた、他のどの人間よりも、その秘密の近くにいた。

あなたがたは今、同じような精神の人々が力を合わせれば、好ましい現実を創り出せることを、しっかり理解するべきだ。

「二人以上が私の名によって集まっている所には、私もその中にいる」という聖書のフレーズは、はるかに意味のあるものになる。

もちろん、社会全体が、何かあることを考えると、驚くべきことが起こることがよくある。それらすべてが必ずしも望ましいものではないが。

例えば、不安に陥っている社会は、しばしば、実際的かつ必然的に、社会が最も恐れているような形で不安を生み出す。

同じように、大規模なコミュニティや集会では、合同の思考(あるいは心を合わせる祈りと言う人もいる)によって、しばしば奇跡を生み出す力が見い出される。

そして、たとえ個人であっても、その考え(祈り、希望、願い、夢、不安)が驚くほど強力なら、そのような結果を明らかに生み出す。

イエスはこれを定期的に行った。彼はエネルギーと物質を操作し、整理し直し、再分配する方法や、完全なコントロール方法を理解していた。

多くのマスターはこれを知っていた。今、多くの人々もそれを知っている。

あなたもそれを知ることができる。たった今。

これが、アダムとイブが共に食べた善悪を知る木の実だ。

アダムとイブがこれを知るまでは、あなたがたの知るような人生は、なかったかも知れない。

アダムとイヴ?これはあなたがたが最初の男と女を表現するために与えた神話上の名前だが?彼らは、人間の経験の父と母だった。

アダムの堕落と言われてきたことは、実は、彼の向上だった。人類史上で最も偉大な一つの出来事だった。

それがなければ、相対性の世界は存在しなかっただろう。

アダムとイブの行為は原罪ではなく、実のところ、最初の祝福だったのだ。

あなたがたは心の底から彼らに感謝しなければならない。

なぜなら、最初に「間違った」選択をすることで、アダムとイブは選択をする可能性を生み出したからだ。

あなたがたの神話では、イブを「悪」者にした。イブは善悪を知る木の実を食べ、そしてアダムを誘惑してその実を食べさせた。

この神話の設定によって、それ以来、女性が男性を「堕落」させたことになり、歪んだ性的見方や混乱は言うまでもなく、すべての面でゆがんだ現実を創り出している。(どうして、それほど悪いものが良く感じられるのだろうか?)

あなたがたが一番恐れることが、あなたがたを最も苦しめる。

恐れが磁石のように、あなたがたに引き寄せられる。

あなたがたが創った宗教的な信条と伝統であるすべての聖典には、恐れるなという明確な忠告が書かれている。

これが偶然だと思うのか?

法則は非常にシンプルだ。

1.思考は創造的である。

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2.恐れは似たエネルギーを引き寄せる。

3.愛は存在するすべてである。

N:えっ、その3番目には驚くな。恐れは似たエネルギーを引き寄せるなら、どうして愛は存在のすべてだといえるのですか?

愛は究極の現実だ。それは唯一のものだ。すべてだ。

愛の感情は、あなたがたが神を経験することだ。

最高の真実では、愛は存在する、存在した、そしてこれから存在するすべてだ。

絶対の領域に移ると、あなたがたは愛に入る。

相対の領域は、私が自分自身を体験するために、創造したものだ。

これはすでに説明した。

これで、相対の領域が現実になるというわけではない。

それは、我々が体験的に自分自身を知ることができるように、あなたと私が考案し、考案し続ける創造された現実なのだ。

しかし創造されたものは、非常に現実的に見える。

極めて現実的に見えるようにして、それが本当に存在するものだと受け入れるようにするのが、その目的なのだ。

このようにして、神は自分以外の何かを創造しようと努めた(厳密に言えばこれは不可能なことだが。神は存在のすべてだから)。

「他のもの」つまり相対的な領域を創造するにあたって、あなたがたが神であることを単に伝えられるのではなく、神であることを選べる環境を、私は創り出した。

そして、その領域で、概念ではなく創造行為として神格を体験し、太陽の中の小さなろうそく?つまり最も小さな魂?が、光として自分自身を知ることができる環境を、私は創り出した。

不安は愛の対極だ。それが最初の両極性だ。

相対性の領域を創り出すにあたり、私はまず自分自身の対極を創った。

今、あなたがたが物理的に住んでいる領域には、2つの存在、不安と愛のみがある。

不安に根ざした思考は、物理的な場で一つの兆候を生み出す。

愛に根ざした思考は、もう一つの兆候を生み出す。

地球上に生きたマスターたちは、相対的世界の秘密を発見し、その現実を認めることを拒否した者たちだ。

要するに、マスターは愛のみを選んだ人たちだ。あらゆる場合に、あらゆる時に、あらゆる状況で。

殺される時でさえ、彼らは殺そうとする者を愛した。

迫害されても、迫害する者を愛した。

これをあなたがたが理解するのは、非常に難しい。まして見習うのは、難しい。

だが、それは、すべてのマスターが今まで行ってきたことだ。

どんな哲学であろう
と、どんな伝統であろうと、どんな宗教であろうと、それが問題ではない。
すべてのマスターは愛のみを選んだ。

このような例や教訓は、はっきりとあなたがたに示されてきた。

何度となく、再三再四、あなたがたに示されてきた。
すべての時代を通して、あらゆるところで。すべての生涯を通して、あらゆる時を経て。

宇宙は、あなたがたにこの真実を見せるために、あらゆる工夫をしてきた。

歌や物語、詩や踊り、言葉や動きの中で、映画と言う動く絵や、本と呼ばれる言葉の集まりの中で。

最も高い山からそれは叫ばれ、最も低い場所でささやかれてきた。

人間のあらゆる経験の回廊を通して、この真実がこだましている。愛がその答えだ。しかし、あなたがたは聞いてこなかった。

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今、あなたはこの本に出会い、数えきれないほどの回数、数えきれないほどの方法で神が語ってきたことを、あなたは再び神に尋ねている。

それなら、私はこの本の文脈の中で、あなたに再び語ろう。

今なら、あなたは聞くだろうか?本当に聞くだろうか?

何があなたにこの本をもたらしたと思うのか?

どうして、あなたがこの本を手にすることになったと思うのか?

私が、自分のしていることを知らないとでもあなたは思うのか?

宇宙に偶然はない。

私はあなたの心の叫びを聞いた。私はあなたの魂の探求を見た。私はあなたが真実をどれほど深く望んでいるかを知っている。

あなたは、苦痛の中で、そして喜びの中で、真実を求めて大声で叫んだ。

あなたは絶え間なく、私に懇願した。

神を見せてくれ、神を説明してくれ、神を明らかにしてくれと懇願した。

私はここでそれを行っている。大変分かりやすい言葉だから、あなたは誤解することはない。

とても簡単な言葉だから、あなたは混乱することはない。

とても平易な言葉だから、あなたは言葉づかいで迷うことはない。

だから今、先に進もう。私に何でも聞きなさい。何でも。

私は答えが出るよう工夫しよう。

答えるために私は全宇宙を使おう。

だから注意していなさい。

この本だけが私のツールではない。

あなたは質問をしたら、この本を置きなさい。

だが、見つめなさい。耳を傾けなさい。

あなたが次に聴く曲の歌詞。次に読む記事の情報。次に見る映画のストーリー。次に会う人の言葉。

次に聞く、川や海、そして耳を撫でるほのかな風のささやき。

これらすべては私の道具なのだ。

これらの道すべては私に開かれている。

あなたが聞くのなら、私は語ろう。あなたがわたしを招くのなら、訪ねよう。

私はいつもそこにいたことをあなたに示そう。すべての方法で。

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(2)第2章

「 あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。」(詩篇16:11)

N:私は人生すべての中で、神への道を探してきました。

知っている。

N:今や、それを見つけましたが、信じることができません。私はここに座って、自分にこれを書いているように感じます。

その通りだよ。

N:神とのコミュニケーションではないように思えます。

あなたは鐘や笛の音が聞きたいのか?そうして上げてもいいがね。

N:ご存じでしょうが、この本全体を冒涜と言う人がいると思います。特にあなたがそんなに賢くあられると、なおさらです。

説明しよう。あなたは、神は人生でただ一つの方法でしか現れないと考えている。

それは非常に危険な考えだ。

そう考えていると、神をあらゆるところに見い出すことは出来ない。

神が、一つの方法でしか現れない、一つの方法でしか語らない、一つの方法でしか存在しないと考えていると、あなたは、いつも私を見逃すだろう。

あなたは、全ての人生を費やして神を探しても、「彼女」を見つけることは出来ないだろう。

なぜなら、あなたは「彼」を探しているからだ。

私は、「彼」「彼女」を比喩として使っている。

冒涜的なこと、深遠なこと両方に神を見い出さないなら、あなたは物語の半分しか見ていないと、言われてきた。

それは偉大な真実だ。

神は悲しみと笑いの中にいるし、苦しみと甘美の中にいる。

すべての背後には、聖なる目的があり、それゆえにすべての中に聖なる存在がある。

N:私はかつて「神はサラミ・サンドイッチである」という本を書き始めました。

それは大変良い本になっただろう。私がインスピレーションを与えたのだ。なぜ書かなかったのかな?

N:冒涜のように感じたからです。少なくとも、ものすごく無礼だと感じたからです。

“すばらしく”無礼だという意味だろう!

神は「厳粛」でなくてはいけないという考えを与えたものは何だろうね?

神は上昇であり下降である。暑さであり寒さである。左であり右である。敬虔であり不敬である!

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神は笑うことができないとでも思うのか?

神が面白いジョークを楽しんではいけないとでも思うのか?

神にはユーモアがないと、あなたは思っているのか?

私はあなたに言う。神がユーモアを発明したのだよ。

あなたが私に話す時、ひそひそ声で話さなければならないのか?

俗語や乱暴な言葉は、私には使ってはいけないのか?

私はあなたに言う、あなたは親友と話すように、私に話していいのだよ。

私が聞いたことのない言葉があると思うのか?私が見たことのない光景があると思うのか?私が知らない音があると思うのか?

私がある者を見下し、他の者を愛するとでもあなたは思うのか?

私はあなたに言う。私は何ものをも見下すことはない。

私に嫌(いや)なものは何もない。

それは生命であり、生命は贈り物だ。言い表せない宝物だ。聖なるものの中でも聖なるものだ。

私は生命だ。生命は私だから。そのすべての側面は聖なる目的を持っている。

神の理解と承諾なしに、何も存在しない。何も。

N:どうしてこうなるのですか?人間によって創り出された悪は何なのですか?

あなたがたは、神の計画の外では、どんな物事も創造することはできない。思考、物体、出来事、それにどんな種類の経験も、創造することはできない。

神の計画は、あなたがたが自分の望むものを、何でも創造することなのだ。

そのような自由の中に、神たることの神の体験がある。

私があなたがたを創造したのは、その体験のためなのだ。生命そのものを創造したのも、その体験のためなのだ。

悪は、あなたがたが悪と言うから悪なのだ。

それでも、私はその悪を愛している。なぜなら、あなたがたが良いと知ることができるのは、あなたが悪と呼ぶものを通じてだけだからだ。

あなたがたが神の業を知り、行うことができるのは、悪魔の仕業と呼ばれるものを通してのみだからだ。

私は冷たさより熱さをより愛しているわけではない。低さよりも高さ、右よりも左をより愛しているわけではない。

それはすべて相対的なものなのだ。それはすべて存在の一部分なのだ。

私は「悪」以上に「善」を愛しているわけではない。

ヒトラーは天国に行った。

あなたがたがこれを理解できたら、神を理解できるだろう。

N:しかし、私は善と悪が存在し、それらは対立していると信じるように育てられました。そして神の目には、あるものはダメで、不都合で、受け入れられないと信じるように育てられました。

神の目には、すべてが「受け入れられる」。

どうして神が、存在するものを受け入れないことがあろうか?

物事を拒否することは、それが存在することを否定することだ。

それがダメだと言うことは、それは私の一部ではないと言うことだ。それは不可能なことだ。

しかし、あなたは自分の信念をしっかりと持ち続け、自分の価値観に忠実であり続けなさい。

これらはあなたの親の価値観であり、親の親の価値観だからだ。

あなたの友人やあなたの社会の価値観だからだ。

それらは、あなたの人生の骨組みを形作っていて、それらを失うことは、あなたの体験の編み物をほどくことになる。

それでも、それらを1つずつ調べなさい。一枚ずつ見直しなさい。

家を解体するのではなく、それぞれのレンガを見て、壊れているように見えたり、これ以上家の構造を支えられないものは取り替えなさい。

正邪についてのあなたがたの考えは、ちょうどそれと同じだ。

それらは、「自分とは何者か」という形を作り出し、その実体を創り出す考えだ。

これらを変更する理由はただ1つ、変更する目的はただ1つだ。もしあなたが、「自分とは何者か」にてらして、幸せと思えない時だけだ。

あなただけが、自分が幸せかどうかを知ることができる。

あなただけが自分の人生について、「これが私の創造物だ。私は大変満足している」と言うことができる。

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あなたの価値観が自分に役立つなら、持ち続けなさい。それを主張しなさい。守るために闘いなさい。

しかし、誰にも危害を加えない方法で闘うようにしなさい。危害は癒しにはならない。

N:あなたは、私たちの価値観はすべて間違っているとおっしゃりながら、同時にその価値観を守りなさいとおっしゃっています。この点はいかがですか?

私は、あなたの価値観は間違っているとは言っていない。しかし正しいとも言っていない。それらは単なる判断に過ぎない。評価、決定だ。

その大部分は、あなたではなく、他の誰かによってなされた決定だ。おそらくあなたの親だ。あなたの宗教だ。あなたの教師、歴史家、政治家だ。

あなたの真実に組み込まれた価値判断の中で、自分の体験に基づいて行なった判断は、ごくわずかしかない。

あなたがたがこの世に来たのは、体験するためなのだ。自分の体験によって、自分自身を創造することだった。

あなたがたは、他人の体験によって自分自身を創り出してきた。

罪というものがあれば、これがそれだろう。

他人の体験で、自分を創り出すことだ。

これがあなたがたが犯した「罪」である。あなたがたみんなが。

あなたがたは、自分自身の体験を待たずに、他人の体験を福音として(文字通り)受け入れる。

そして、実際の体験に初めて遭遇した時、すでに知っていると思っていることを、遭遇した体験に重ね合わせる。

もし、あなたがたがこれをしなかったら、まったく違った体験をしたかもしれない。

その体験は、あなたがたを教えた教師や情報源の方が間違っているとしたかもしれない。

ほとんどの場合、あなたがたは、両親や、学校、宗教、伝統、聖典が間違っているとは、見なしたがらない。

そこで、あなたがたは、他人に言われたことに賛成して、自分の体験の方を否定する。

人間のセクシュアリティに対する扱いを見ると、これがよく理解できる

性的体験は、人間の可能な体験のうちでも、最も愛らしく、エキサイティングでパワフルで、爽快で、新鮮で、活気溢れ、肯定的で、親密な、一体感のある、再創造的な物理的体験であることを、みんな知っている。

体験的にこれに気づいたのに、あなたがたは、他人が前に公表した性に関する判断、意見、考えを、自分の体験の代わりに受け入れてきた。

その他人はみんな、あなたがたの考え方に強い関心を抱いている。

これらの意見や判断、考えは、自分の体験とはまっこうから対立しているのに、あなたがたは、教師が間違っているとするのが嫌なので、自分の体験の方が間違っているに違いないと自分を納得させる。

その結果、あなたがたは、「性」についての本当の真実を裏切ってきた。それが破壊的な結果をもたらしている。

あなたがたは、金銭についても同じことをしてきた。

人生で、大金を持つたびにいつも、あなたがたはすばらしいと感じた。それを受け取ったことも、使ったこともすばらしいと感じた。

それは悪いことでも、邪悪なことでも、本質的に「間違っている」ことでもない。

しかしあなたがたは、金銭についての他人の教えがあまりに深く自分に染み付いているので、他人の「真実」のために自分の体験を拒絶してきた。

この他人の「真実」を自分のものとしたことで、あなたがたはその周りにいろいろな考えを形づくった。

思考は創造的だ。

あなたがたはこうして、金銭にまつわる個人的な現実を創り出してきた。

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その現実は、あなたがたから金銭を押しのけてしまう。なぜなら、良くないものを引き付けようと誰がするだろうか?

驚いたことに、あなたがたは神についても、この同じ矛盾を創り出してきた。

あなたがたの神についての心の体験はすべて、神は善であると言っている。

あなたがたの教師の教えはすべて、神は悪であると語っている。

神を恐れることなく愛するべきだと、あなたがたの心は言っている。

あなたがたの教師は、神は復讐心に燃える神だから、恐れるべきだと言う。

あなたがたは神の怒りを恐れて生きなければならない、と彼らは言う。

あなたがたは、神の存在に震えていなければならない。全人生を通して、あなたがたは神の審判を恐れなければならない。神は「正義」だと言われるから。

そして、神の恐ろしい正義に直面すれば、あなたがたは困ることになると、神は知っている。だから、神の命令に従順であるべきだ。さもないとひどいことになる。

何よりも、あなたがたは、「神が厳しく神の法への従順を求めているなら、なぜ神は、法が破られる可能性を生み出したのか」という理にかなった質問をしようとしない。

教師は、神はあなたがたに「自由な選択」をすることを望んでおられるからだと教える。

だが、一方でなく他方のものを選べば糾弾されるのなら、どんな選択が自由な選択だと言えるのか?

自分の意思でなく、他人の意思でなされたなら、「自由意思」とどうして言えようか?

あなたがたにこれを教える人々は、神を偽善者にしている。

神は赦しと同情であると言われる。だが、あなたがたが「正しい方法」でこの赦しを求めないなら、そしてあなたがたが「神のところ」に正しい方法で来ないなら、あなたがたの願いは聞かれないし、その叫びは聞かれないだろうと言われる。

正しい方法が1つしかないのなら、それもさほど悪くはないだろう。しかし、「正しい方法」は、教える教師と同じ数だけあるのだ。

したがって、あなたがたはほとんど、大人の生活の大半を、神に礼拝し、従い、奉仕する「正しい」方法を探して過ごす。

皮肉なことに、私はあなたがたの礼拝を欲してはいないし、服従を必要としてもいない。そして、私に仕えることさえ必要としない。

これらの行為は、歴史的に、支配者が臣民に要求する行為だ。

支配者は、通常、異常に自己中心的で、不安定で、専制的である。

それらは、どんな意味にしても、神々しい要求ではない。

世界が、その要求は偽物で、神の必要性や要望とは無関係であると今でも結論づけられないとは、驚くべきことだ。

神は何も必要としない。存在のすべては、まさに存在のすべてなのだ。

それゆえ、神には何の必要も不足もない。それが神なのだ。

ともかく何かを必要とする神を、そしてそれが得られなければ人々を罰する神を信じることにした場合、本当の私よりもはるかに小さい神を信じることになる。

あなたがたは、本当に劣った神の子たちということになる。

とんでもない、我が子たちよ。この本を通して、もう一度私は保証しよう。私は何も必要としない。何も要求しない。

これは私に欲求がないという意味ではない。欲求と必要性は同じではない(あなたがたの多くは、生涯、そう思っているが)。

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P48

欲求はすべての創造の始まりだ。それは最初の思考だ。魂の中の壮大な感情だ。それは、次に何を創造するかを選ぶ神だ。

神の欲求とは何か?

第一に、栄光の中で、私は自分自身を知り、体験したいと思った。自分とは何者かを知りたいと思った。あなたがたや宇宙の世界すべてを創造する前には、体験することは、私には不可能だった。

第二に、私は、あなたがたが「本当の自分とは何者か」を知って体験することを願う。そのために私は、あなたがたが選んだどんな方法ででも、自分自身を創り、体験することができる力を、あなたがたに与えた。

第三に、私は、人生すべてのプロセスが、絶え間ない喜びや、持続的な創造、終わりのない拡大、そして今という瞬間における完全な満足を体験するものであることを願う。

私は、これらの願いが実現する完璧なシステムを確立した。その願いは今も、この瞬間にも、実現されている。あなたがたと私の唯一の違いは、私はこれを知っているということだ。

あなたがたがすべてを知った瞬間に(その瞬間はいつでも訪れ得るが)、私がいつもそうであるように、大きな喜び、愛、受容、祝福、そして感謝を、あなたがたも感じるだろう。

これらは神の五つの姿勢だ。

この対話を終える前に、私は、あなたがたの人生でこれらの姿勢を適用すれば、どのように神性に導かれるかを示して上げよう。

短い質問に対して、大変長い答えになったね。

そう、あなたがたの価値観が役に立っていると感じる限り、それを持ち続けなさい。

しかし、その価値観が、あなたがたの体験の場で、今までで最高かつ最良のアイデアをもたらしてくれるかどうか、思考、言葉、行動によってよく観察しなさい。

その価値観を1つずつ調べなさい。世間の目という光を当ててみなさい。

もしあなたが、自分とは何者か、何を信じているかを、動揺したり躊躇したりすることなく、世界に伝えることができるなら、あなたは幸せだ。

私とのこの対話を、さらに続ける理由はない。なぜなら、あなたは「自分自身」そして「自分の人生」を創造し得たからだ。それは改善する必要はない。あなたは完璧に達した。本を置いてもいい。

N:私の人生は完璧ではありませんし、完璧に近いこともありません。私は完璧ではないのです。私は実際には、欠陥のかたまりです。私はこれらの欠陥を直そうと、時には心底から、願っています。そして、何が自分にそんな行動をとらせるのか、何が私を破綻させるのか、何が私を邪魔するのかを知りたいと願っています。それが私があなたの元に来た理由だと思います。私は自分で答えを見つけることができませんでした。

あなたが来てくれて私は嬉しい。私はいつも、あなたを助けるためにここにいた。そして今もここにいる。

あなたは、自分で答えを見つける必要はない。今までもなかった。

N:しかし、座って、あなたとこのように対話し、ましてや、神が答えているなどと想像するのは、あまりにも厚かましいように思えます。つまり、気が狂ったようなことを私はしていますよ。

そうか。聖書の著者たちはみんな正気であったのに、あなたは狂っているというのだね。

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N:聖書の著者たちは、キリストの生涯の証人であり、見聞きしたことを忠実に記録したのです。

訂正するよ。新約聖書の著者のほとんどは、生涯で、イエスに出会ったことも、見たこともなかった。

彼らは、イエスがこの世を去って何年も経ってから、生まれた。通りでナザレのイエスに会っても、彼らには分からなかっただろう。

N:でも...

聖書の著者は、偉大な信者であると同時に、偉大な歴史家だった。

彼らは、他の人々や年長者によって、自分たちや友人たちに伝えられた物語を書き綴った。それらは、年長者から年長者へと、最終的に書面による記録が作られるまで、伝えられたものだ。

そして、著者が記したすべてが、最終的な聖書の文書に含まれているわけではない。

既に「教会」が、イエスの教えの周りに生まれていた。

そして、力強い考えの周りに人々が集まるといつどこでも起こるように、教会や集団の中に、イエスの物語のどの部分を、どのように伝えるべきかを決定した特定の人々がいた。

この選択と編集のプロセスは、福音と聖書の収集、執筆、出版を通して続けられた。

元の聖書が書かれて数世紀経ってからでさえ、高位にある教会協議会は、どの教義と真理を当時の公式聖書に入れるべきかを、再度決めていたのだ。

そして、大衆に明らかにするには、どの教義が「不健全」あるいは「時期尚早」かも決定していた。

そして、他にも聖なる書はある。

そのどれもが、それ以外では普通といえる人々によって、インスピレーションを受けた瞬間に書かれた。その書いた人々は、あなたよりも狂っていたわけではない。

N:この対話の書が、いつか「聖なる書」になると、あなたはおっしゃっているのですか?

わが子よ、人生のすべては聖なるものだ。それから見れば、そう、これらは聖なる書だ。

だが、私はあなたが何を言いたいのかを知っているので、言葉であなたをはぐらかすことはしまい。

いいや、この手書きの文書がいつか聖なる書になるとは、私は言っていない。

少なくとも、数百年の間、あるいは言葉が時代遅れになるまでは、聖なる書になることはない。

分かるかな。問題は、ここで語られる言葉が、あまりにも口語的、会話的で、現代的であることなのだ。

人々は、もし神があなたと直接話し合ったとしても、隣人と話すように語ることはないと思っている。

神格化とまでは言わないにしても、言葉の構造に統一性があるべきだ、ある種の威厳や神聖さがあるべきだと思っている。

前にも言ったように、それが問題の一つなのだ。

人々は、神は1つの形でのみ「現れる」と思っている。

その形と異なるものは、すべて冒涜と見なされる。

N:私が前に言いましたように。

あなたが前に言ったように。

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しかし、あなたが質問したその心に思いを巡らそう。

なぜあなたは、神との対話ができることは、頭がおかしいと思うのか?

あなたは祈りを信じていないのか?

N:信じていますよ。しかしそれとは違います。私の祈りは、いつでも一方的でした。私は求め、神は沈黙したままでした。

神は祈りに答えたことがないのか?

N:いえ、ありました。けれど言葉で、ではなかった。祈りへのすごい直接の答えだと思えるいろんなことが、私の人生ではありました。しかし、神は決して私に語りかけはしませんでした。

そうか。じゃあ、あなたが信じるこの神は(この神は何でもできるのに)、話すことはできないんだな。

N:もちろん、神が望むなら、話すことはできます。だけど神が私と話したいなんて思うことはありえません。

これは、あなたが人生で体験する、あらゆる問題の根だよ。

自分が神に話しかけられるのにふさわしいと、あなた自身が思っていない。

自分には神に話しかけられる価値があると思わないなら、どうして神の声を聞くのを期待できるのかな?

私はあなたに言う。私は今、奇跡を起こしている。私はあなたにだけでなく、この本を手にしている人、これらの言葉を読んでいる人すべてに話しかけている。

彼らのそれぞれに、私は今話している。それが誰であるかをみんな知っている。

私は今、誰がこれらの言葉に、自分の道を見い出すかも知っている。

そして(私の他のコミュニケーションと同じように)、ある人々は聞いて理解できるが、ある人々は聞くだけで、何も理解できないことも、知っている。

N:ええと、別の話しなんですが。私は、この対話の文を出版しようと今思っています。

そう。それのどこが悪いのかな?

N:自分の利益のためにこれらすべてを作っていると言われませんか?疑われませんか?

あなたが書くのは、たくさんのお金を稼ぐことが動機なのか?

N:いいえ、そういうわけで始めたのではありません。私はこの対話を紙上で始めました。なぜなら、私の心は30年もの間、たくさんの質問に悩まされてきました。質問の答えは満たされず、答えに飢えていました。このすべてを本にしようと、後で思いついたのです。

私がそうしたんだよ。

N:あなたが?

そう。私がこれらのすばらしい質疑応答を、すべて無駄にすると思うのかな、え?

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N:そうは考えませんでした。当初、私は質問に答えて欲しかっただけなのです。欲求不満や探し求めるのを終わりにしたかっただけなのです。

よろしい。じゃあ、あなたの動機に疑問をはさむのはやめて(あなたはひっきりなしにやっているが)、話しを進めよう。

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(3)第3章

N:え〜と、私には百、千、 100万といった多くの質問があります。問題は、どこから始めるべきか、時々分からなくなることです。

質問だけをリストアップしてごらん。どこからでもいいから始めよう。今すぐ進めよう。浮かんだ質問のリストを作りなさい。

N:いいですよ。中には、かなり単純でいやしい質問もありますけど。

自分を批判するのはやめなさい。ただ質問を列記しなさい。

N:分かりました。じゃあ、今、浮かんだものをここに書きます。

N:1.いつになれば、私の人生はうまくいくようになるのでしょうか?「落ち着いた生活をする」ためには、そして何とか成功するためには、何が必要でしょうか?人生の闘いは終わりがあるのでしょうか?

N:2.いつ私はスムーズな人間関係が持てるようになるのでしょうか?人間関係で幸せになる方法はありますか?人間関係は、いつも挑戦的なものなのですか?

N:3.私はなぜ、人生で、十分なお金を得られそうもないのでしょうか?私は残りの人生を、切り詰めて生きる運命にあるのですか?この点で、何が自分の能力を最大限に発揮することを妨げているのでしょうか?

N:4.なぜ私は、人生で本当にやりたいことができないのでしょうか、そしていまだ生計を立てることができないのでしょうか?

N:5.私が直面している健康上のいくつかの問題は、どうすれば解決できるのでしょうか?私は生涯続く慢性の病気に苦しんできました。なぜ今も持ち続けているのですか?

N:6.私がここで学ぶべきカルマの教えは何ですか?私は何をマスターしようとしているのですか?

N:7.輪廻転生のようなことはありますか?私の過去世は何度あったのですか?過去世で私は何者だったのですか?「因果応報」は現実にあるのですか?

N:8.私は時に、強い霊感を感じます。 「霊能者」というような人はいますか?私はそうですか?霊能者だと主張する人々は「悪魔と取り引き」しているのですか?

N:9.良いことをしてお金をもらっても大丈夫ですか?私が世界でヒーリングの仕事ーそれは神の仕事ですがーを選んだ場合、それで金銭的に豊かになれますか?それとも両者は相入れないものでしょうか?

N:10.セックスは良いことですか?この人間体験の背後にある本当の物語は何なのですか?ある宗教が言うように、セックスは出産のためだけのものですか?真の神聖さと悟りは、性エネルギーの拒否、あるいは転換によって達成されるのですか?愛なしでセックスするのは良いことですか?肉体的な感覚だけの動機で、セックスをしても良いのでしょうか?

N:11.みんなができるだけセックスから離れているべきなら、なぜあなたは、セックスをとても魅力的で、素晴らしい、強力な人間体験とされたのですか?どうしてなのですか?ついでに、どうして楽しいものすべてが、 "不道徳か、違法か、あるいは肥満のもと"なのですか?

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N:12.他の惑星にも生命体はいますか?その生命体は、地球を訪れたことがありますか?私たちは今、生命体に観察されていますか?私たちは、その生涯に、地球外生命体の確固とした疑いのない証拠を見るでしょうか?生命体それぞれには、独自の神がいるのですか?あなたはすべての神なのですか?

N:13.ユートピアは地球に来るのでしょうか?神は、約束されたように、地球上の人々に姿を現わすのでしょうか?再臨のようなことはありますか?聖書の中で予言されているように、世界の終わり、つまりヨハネの黙示録のようなことはあるのでしょうか?唯一の真の宗教はありますか?もしそうなら、どの宗教ですか?

N:これは私の質問のほんの一部です。前にも言いましたように、私にはもっと多くの質問があります。これらの質問の幾つかは、とても未熟で恥ずかしいものです。しかし、どうぞそれらに、1つずつ答えてください。そして、それについて「対話」してください。

よろしい。では、始めよう。恥ずかしい質問だとあやまることはない。これらは、男も女も何百年もの間、質問してきたものだ。とてもばかげている質問であれば、なん世代にもわたって、何度も何度も尋ねられることはないだろう。

それでは1番目の質問に行こう。

あなたがたが選んだものをそのとおりに持つことができる、創造することができるという宇宙の法則を、私は確立した。

これらの法則は破ることも無視することもできない。

あなたがたは、これを読んでいる今も、これらの法則に従っている。法則に従わないことはできない。なぜなら、これは物事が働く方法だからだ。あなたがたはこれから逃れることはできないし、法則の外で行動することはできない。

人生の瞬間瞬間に、あなたがたはその法則の中で行動している。そして、あなたがたが今まで経験したことすべては、このようにして創造されたものだ。

あなたがたは、神と共同関係にある。私たちは永遠の契約を結んでいる。あなたがたへの私の約束は、あなたがたが求めるものをいつでも与えるということだ。

あなたがたの約束は尋ねることだ。尋ねること、そして答えることのプロセスを理解することだ。私はすでにこのプロセスについてあなたに説明した。あなたがそれをはっきり理解できるように、もう一度説明しよう。

あなたがたは3層の存在だ。身体、精神、霊魂からなっている。これらを、物質、非物質、超物質と呼ぶこともできるだろう。これが聖なる三位一体であり、多くの名で呼ばれてきた。

それがあなたがたであり、私である。

私は、三つが一つになって現れている。

神学者のある者は、これを父と子と聖霊と呼んできた。精神科医はこの三つを認識し、意識、潜在意識、超意識と呼んでいる。

哲学者は、それをイド、自我、超自我と呼び、科学はエネルギー、物質、反物質を呼んでいる。

詩人は精神、心、魂と語り、ニューエイジ思想家は、身体、精神、霊魂と言う。

時間は、過去、現在、未来に分かれる。これは、潜在意識、意識、無意識と同じではないだろうか?空間も同じように3つに分けられる。ここ、そこ、そしてその間だ。

この「その間」を定義し記述するのは、難しいし、とらえ所のないものとなる。

定義や記述を始めた瞬間に、その空間は「ここ」「あそこ」になる。

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しかしわれわれは、「その間」が存在することを知っている。「その間」は、「ここ」と「あそこ」を適切に支えている。ちょうど、永遠の今が、「前」と「後」を支えているように。

あなたがたのこれら3つの側面は、実際には3つのエネルギーだ。あなたがたは、それらを思考、言葉、行為と呼ぶかもしれない。この 3つがいっしょになって結果が創られる。それはあなたがたの言葉や理解では、感情とか体験とか呼ばれる。

あなたがたの魂(潜在意識、イド、霊魂、過去など)は、今までに抱いた(創造した)感情の総和だ。これらの内のあるものについての認識は、記憶と呼ばれる。「記憶がある」ということは、思い出す(再びメンバーになる)と言われる。つまり、部分を再度組み立てて元どおりにすることだ。

あなたがたは、自分のすべての部分を再構築する時、「本当の自分」を再編する。

創造のプロセスは、思考から始まる。考え、概念、視覚化だ。

あなたが見ているものすべては、かつて誰かの考えだった。あなたの世界には、最初は純粋な思考としてすべて存在する。これは宇宙にも当てはまる。思考は創造の第一段階だ。

次に言葉が来る。

あなたが言うことのすべては、表現された思考だ。それは創造的であり、創造的なエネルギーを宇宙に送り出す。言葉は思考とは異なるレベルの振動であるため、思考よりもダイナミックだ(したがって、より創造的だと言えるかもしれない)。それらはより大きな衝撃を与えて、宇宙を変化させ、改造し、影響を与える。言葉は創造の第二段階だ。

次に行為が来る。

行為は動いている言葉である。言葉は表現された思考だ。思考は形作られた思いだ。思いは集まったエネルギーだ。エネルギーは放出された力だ。力は実在の要素だ。要素は神の粒子、すべてのものの部分、あらゆるものの材料だ。

始まりは神である。終わりは行為だ。行為は創造する神であり、体験された神である。

あなたがたは、神のパートナーとして神の一部となるには、自分は善良でも、素晴らしくも、清くもないと考えている。

あなたがたは、長い間、真の自分を否定してきたので、真の自分を忘れてしまったのだ。

これは偶然に起こった事ではない。すべて神の計画なのだ。

真の自分にすでになっていたら、あなたがたは、真の自分を主張し、創造し、体験することはできなかった。

あなたがたは、私との関係を創造して、呼び出し、体験するためには、最初に、私との関係を解除(否定する、忘れる)必要があった。

あなたがたの最大の望み、そして私の最大の欲求は、あなたがたが私の一部として自分自身を体験することだった。

したがって、あなたがたは一瞬一瞬新しい自分を創ることによって、自分自身を体験するプロセスにある。私も、あなたがたを通して、私自身を体験している。

あなたがたは、神と協力関係にあることが分かるかな?その意味を理解しているかな?それは聖なる協力だ―真の聖なる交わりだ。

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人生は、あなたがそうありたいと選択すれば、うまくいき始める。

あなたはまだそれほど選択していない。

あなたは、先延ばしにして、ダラダラと長引かせ、抵抗している。

今こそ、約束されたことをあなたは公表し、実行する時だ。

これを行うには、約束を信じてそれに生きなければならない。あなたは神の約束を生活で実行しなければならない。

神の約束は、あなたが神の息子であるということだ。神の子孫、神に似たもの、神と同等のものということだ。

ああ...ここは、あなたが引っかかるところだ。「神の息子」、「子孫」、「似たもの」は受け入れられても、「神と同等なもの」と呼ばれることに、あなたはたじろいでしまう。

あまりに巨大で、あまりに素晴らしく、あまりに重い責任だからだ。

もしあなたが神と同等なら、あなたに対しては誰も何もできないということを意味する。すべてはあなたによって創造されるのだ。

もはや、犠牲者も悪人もいない。物事についてのあなたの考えの結果があるだけだ。

私はあなたに言う。あなたの世界であなたが見ているものすべては、あなたの考えの結果なのだ。

あなたは、本当に人生を "うまくいく"ようにしたいのか?そうなら、人生についてのあなたの考えを変えなさい。あなた自身についての考えも変えなさい。あなたは神であるように、考え、語り、行動しなさい。

もちろんこれによってあなたは、多くの、いや、ほとんどの人々との仲を、引き裂かれるだろう。

彼らはあなたを狂っていると言うだろう。冒涜していると言うだろう。

最終的にあなたのことはもうたくさんだと言って、あなたを十字架につけようとするだろう。

彼らがこうするのは、あなたが自分だけの幻想の世界に住んでいると思うからではない。(ほとんどの人はあなたがプライベートに楽しむのを許してくれる)遅かれ早かれ他の人々も、あなたの真実に魅了されると思うからだ。神の約束は彼らのためにもあるからだ。

ここであなたの仲間が妨害する。なぜなら、あなたが彼らを脅し始めるからだ。

あなたの単純な真実、簡素な人生は、世俗的な人々が考案できるどんなものより、より多くの美しさ、快適さ、平和、喜び、そして愛を提案するからだ。

その真実が採用されることは、彼らのやり方の終わりを意味するだろう。

それは憎しみと不安と偏見と戦争の終わりを意味するだろう。

私の名によって行なわれてきた非難と殺害の終わりである。「力は正義なり」の終わりだ。力で獲得することの終わりだ。恐怖を通しての忠誠と敬意の終わりだ。

彼らが知っているような世界、あなたがたがこれまでに創造してきた世界の、終わりなのだ。

だから、心しておきなさい。わが子よ。

あなたが、真の自分を実現するという、聖なる信念を受け入れ実行した瞬間から、あなたは、けなされ、つばを吐きかけられ、名を呼ばれて捨てられるだろう。そして最後に、彼らは、あらゆる方法であなたを告発し、試み、糾弾するだろう。

それではなぜ、あなたは、しようとするのか?

なぜなら、あなたはもはや世界に受け入れられることや認められることに関心がないからだ。

もはや、自分が手に入れたものに満足できないからだ。

あなたはもはや、他の人々に与えられたものにも喜べないからだ。

痛みを止め、苦しみを止め、幻想を終わらせたいと、あなたは思う。

あなたは、今のような世界はもうたくさんだと思っている。新しい世界を求めている。

もう求めるのは止めなさい。今こそ、新しい世界を呼び出しなさい。

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N:その方法をもっとよく理解できるように教えていただけますか?

よろしい。まず、あなた自身について、最高の考えを抱きなさい。あなたが毎日そのような考えで生きたら、どうなるかを想像してみなさい。

自分が何を考え、行ない、言うかを想像し、他人が行なったり、言うことに、自分がどんな反応をするかを想像しなさい。

その想像と、あなたが今考え、行ない、言っていることとに、何か違いがあるのは分かるかな?

N:ええ。大きな違いがあります。

よろしい。そうだね、あなたは今、自分の最高のビジョンを生きていないことを知っているからね。

さて、今の自分とこうありたいと思う自分の違いを見たら、自分の偉大なビジョンに合うように、自分の思考、言葉、行為を、意識的に変えようとしなさい。

これは、大変な精神的、身体的な努力を必要とする。

あなたのすべての思考、言葉、行為を、絶え間なく、一瞬一瞬、見張る必要がある。

意識的に選択することを、続けなければならない。

このプロセス全体は、意識的に生きることへの大きな動きだ。

この挑戦をしてみて気付くことは、あなたは人生の半分を無意識に過ごしてきたということだ。

言い換えれば、結果を体験するまで、思考、言葉、行為をどんな意識レベルで選んでいるか、気づかずにいたということだ。

そして、結果を体験しても、思考、言葉、行為がそれらと何らかの関係があるとはあなたは思わない。

これは、そのように無意識に生きることを止めようという呼びかけだ。

それは、あなたの魂が時の初めから、自分に呼びかけてきた課題だ。

N:そのように絶えず精神的に見張っていると、疲れはててしまうと思いますが。

そうかも知れない。第二の本性になるまではね。

実際、それはあなたの第二の本性なのだ。

無条件に愛することが、あなたの第一の本性だ。

第一の本性つまり真の本性を意識的に表現しようとすることが、あなたの第二の本性だ。

N:すみませんが、こんなふうに絶えず自分の考えや言葉、行いすべてを監視していたら、人間を駄目にしませんか?

そういうことは決してない。違った人間にはなるが、つまらない人間にはならない。

イエスはつまらない人間だったか?私はそうは思わない。仏陀は退屈だったか?人々は仏陀のところに集まり、共にいるように頼んだ。

マスターの誰もつまらない者はいない。おそらく、普通ではない。おそらく、異常だ。しかし決して退屈ではない。

そこでだ。あなたは自分の人生を「うまくいく」ようにしたいのか?ならすぐに、そうありたいと思う人生を想像して、実行してみなさい。

それと調和しない思考、言葉、行為をすべてチェックしなさい。そしてそれらから遠ざかりなさい。

あなたの気高いヴィジョンと一致しない考えが浮かんだら、その時、そこで新しい考えに変えなさい。

あなたの偉大な考えと一致しないことを言ったなら、二度と言わないと心に刻みなさい。

あなたの最善の意図と一致しないことをしたなら、それを最後にしようと決心しなさい。

そしてできるなら、関与した人たちと仲直りをしなさい。

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N:前にもこれは聞きました。私はいつも憤慨していました。真実味がないからです。つまり、ひどく気分が悪くても、認めてはいけないということでしょ。貧乏人に落ちぶれても、決してそれを口に出すなということでしょ。ものすごく動揺していても、それを顔に出すなということでしょ。

N:そこで、地獄に送られた三人についてのジョークを思い出します。1人はカトリック教徒、1人はユダヤ教徒、もう1人はニューエイジ思想の者でした。悪魔はカトリック教徒に、「地獄の熱さはいかがかな?」とせせら笑って言いました。カトリック教徒は、「もっと熱くしてください」と、すすり泣きながら言いました。それから悪魔は、ユダヤ教徒に、「地獄の熱さはいかがかな?」と尋ねました。ユダヤ教徒は、「もっと熱くしたって平気だ」と言いました。最後に、悪魔はニューエイジの者に尋ねた。 「熱いだって?」 「熱いって、何のこと?」ニューエイジャーは、汗をかきかき言い返しました。


それはおもしろいジョークだね。しかし私は、問題を無視したり、存在しないふりをしよと言っているのではない。

その状況に気づいて、あなたの最高の真実を語ることを言っているのだ。

あなたが文無しなら、文無しだ。嘘をつくことは無意味だし、認めまいとして物語をでっち上げるのは、実に無駄なことだ。

だが、それは文無しに対するあなたの考えだ。つまり、「文無しは悪だ」、 「ひどいことだ」、 「私は悪い人間だ。熱心に働く善良な人々は、決して文無しにはならないから」などと、考える。その考えが「文無し」の経験を支配する。

それは、文無しに対するあなたの言葉だ。 「私は文無しだ」、「一銭もない」、「もうお金がない」。これが、あなたが文無しである期間を決める。

それを取り巻くあなたの行動だ。自分を情けなく思い、意気消沈して座り、「そうして何になるか」と、方法を見出そうとはしない。その行動が、文無しの現実を長びかせている。

宇宙について最初に理解することは、状況に「良い」も「悪い」もないということだ。

状況はただ在るだけだ。だから価値判断をやめなさい。

二番目に知ることは、すべての状況は一時的であるということだ。変わらないものは何もない。静止しているものは何もない。どちらの方向に変化するかは、あなた次第だ。

N:すみませんが、ここでもう一度口をはさまなければなりません。病気にかかっている人がいて、山を動かすほどの信仰を持っています。必ず治ると考え、語り、信じていたのに、6カ月後に亡くなりました。それは、このプラス思考や積極的行動ということと、どう合致するのですか?

いいぞ。厳しい質問をしてきたな。

あなたは、これについて、私の言葉を全く受け入れていない。

だが、私の言葉を完全に受け入れなければならない時がくる。

なぜなら、このことについて延々と話し合っても、あとは、「やってみるか、否定するか」しか残されていないと分かるからだ。

しかし、まだその時ではない。

だから、対話を続けよう。話を続けよう。

「山を動かすほどの信仰」を持ち、6週間後に死んだのなら、その人は山を6週間動かしたのだ。

彼のためには、それで十分だったのだろう。

彼は、最終日の最後の時に、決めたのだろう。「大丈夫、もう私は十分だ。今すぐ別の冒険に行く準備ができている」

彼があなたには言わなかったので、あなたはその決心を知らなかったのだろう。

実は、彼はその決心をかなり早い時期に、数日、数週間前にしたのだろう。そして、あなたには言わなかった、誰にも言わなかったのだろう。

あなたがたは、死を望むのは良くないという社会を創った。死をよしとすることを、よしとしない社会だ。

自分が死を望んでいないので、死を望む人がどんな環境や状況にあっても、死を望むということを、想像できないのだ。

しかし、生きるより死んだ方がましだという状況はたくさんある。少しでも考えてみるなら、想像できるだろう。

だが、死を選択している人の顔を見ていても、あなたにはその真実ははっきりとは分からない。それほど明らかではないのだ。

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死にゆく者はこれを知っている。部屋の中で、自分の死の決意が、どれくらい受け入れられているかを、感じるとることができる。

どれほどの人が、死ぬ前に、部屋に誰もいなくなるのを待っているか、あなたは気づいたことがあるか?

愛する人に言わなければならないこともある。「さあ、行って、何か食べてきなさい」あるいは、「行って、少し休みなさい。私は大丈夫だ。朝、また会いましょう」

そして、忠実な見守りの人々が去ったとき、魂は守られていた身体から離れる。

集まった親戚や友人に、「もう死にたい」と言ったら、彼らは驚いて、「まあ、本気でそんなこと言ってるの」とか、「今、そんなこと言わないで」、「しっかりして」、あるいは「私を独りにさせないで」などと言うだろう。

医療者は全て、人々が苦痛のない穏やかな生活をし、尊厳をもって死ねるようにするのではなく、少しでも延命するように訓練されている。

医師や看護師にとって、死は失敗なのだ。

友人や親戚にとって、死は災いだ。

魂にとってのみ、死は救い、解放なのだ。

死にゆく人々に与えることができる最大の贈り物は、彼らを安らかに死なせてあげることだ。

「頑張れ」だとか、苦しみ続けろだとか、あるいは人生で最も重要な死という時に、他の人のことを心配しろなどと、考えないことだ。

これは、生きるつもりだと言っている人や、生きると信じている人、生きられるように祈っている人でさえ、魂のレベルでは、「気持ちが変わっている」ことが頻繁にある。

今や、他の探求のために、身体を捨てて魂を解放する時だ。魂がこの決定を下すと、身体はそれを変えることはできない。精神がいくら考えても、それを変えることはできない。

死の瞬間に、身体−精神−魂の三位一体の中で、どの部分が物事を動かしているのかを我々は知る。

あなたがたは、人生すべてにおいて、自分は身体だと思っている。ある時は、自分は精神だと思っている。

死の時にこそ、本当の自分を知ることができる。

ところで、身体と精神が魂の声を全く聞かない時もある。この時も、あなたが描くシナリオが創られる。人々にとって最も難しいことは、自分の魂の声を聞くことだ。 (これができるのは、ごくわずかしかいないことに気付きなさい)。

魂が、身体を離れる時が来たと決断することがしばしばある。身体と精神−それは魂の従者だが−はこれを聞いて、解放のプロセスが始まる。しかし、精神(自我)は受け入れたくない。
これは結局のところ、自我の終わりだ。

そこで、死に抵抗するように身体に指示する。身体も喜んで死に抵抗する。身体も死にたくないからだ。

身体と精神(自我)は、その抵抗に対して、大いに励ましや賞賛を外的世界、つまり現実世界から受ける。そこで戦略は確定する。

さて、この時点で、魂がどれくらい強く去りたいと思っているかによってすべてが決まる。ここに大きな緊急性がなければ、魂は「よろしい。あなたの勝ちだ。もう少し長くあなたといっしょにいよう」

しかし、身体にとどまることがより高い課題に有益ではないと、この身体を通して進化することはもうないと、魂がはっきり判断すれば、魂は去るだろう。それを止めることはできないし、止めようとすべきでもない。

魂の目的が進化であることはとても明確だ。それが唯一の魂の目的である。身体の成長や精神の発達には関係ない。これらはすべて魂にとっては無意味なのだ。

魂にとって身体を離れることは、大した悲劇ではないことも明らかだ。

多くの点で、身体の中にあることこそ悲劇なのだ。だから魂は、死全体を違ったふうに見ていることを理解しなければならない。もちろん、「生きる事」全体も、違ったふうに魂は見ている。

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それが、人が自分の人生で多くの欲求不満や不安を感じる原因だ。欲求不満や不安は、自分の魂の声に耳を傾けないことから来る。

N:どうすれば自分の魂の声に耳を傾けられますか?魂が本当に上司であるなら、どうしたら、フロントオフィスからその指示が来ていると、私は確信できますか?

あなたが最初にすべきことは、魂が何を求めているかを明らかにし、それについて批判するのをやめることだ。

N:私は自分の魂について批判しているのですか?

常にしている。死を望むことに対して自分自身を批判していることを、私はちょうど今、あなたに示した。

あなたは、自分が生きたい、真実に生きたいと思っていることに対しても、自分を批判している。

笑いたい、泣きたい、勝ちたい、負けたい、喜びと愛を体験したいと思っていることに対して、自分を批判している。特に喜びと愛を体験したいと思っていることに対して、批判している。

N:私が?

どこかであなたは、喜びを否定することが神々しいことだと考えるようになった。つまり、人生を祝福しないことが美しいことだと思っている。否定は良いことだと、あなたは自分に言い聞かせている。

N:それは悪いことだとおっしゃるのですか?

良いとか悪いとかではない。喜びに対して否定的だといっているだけだ。

自分を否定した後に良い気分になるなら、あなたの世界ではそれは良いということだ。悪いと感じるなら、それは悪いことだ。ほとんどの場合、どちらともあなたは決められない。

あなたは、そうあるべきだと自分に言い聞かせているので、あれこれと自分を否定する。

そこで、あなたは否定が良いことだと言いながら、なぜ気分は良くならないのか不思議に思う。

だから、最初にやるべきことは、自分自身に対するこれらの批判を止めることだ。何が魂の欲求であるかを学び、それに従いなさい。魂と共に行きなさい。

魂が追求しているものは、あなたが想像しうる最高の愛の感情だ。これが魂の欲求だ。これが魂の目的だ。

魂は感情を追求する。知識ではなく、感情だ。

魂はすでに知識は持っているが、知識は概念的なものだ。感情は体験的だ。魂は、自分自身を感じて、体験して、自分を知りたいと思っている。

最高の感情は、「存在のすべて」との一体化の体験だ。

これは、魂が熱望する真実への偉大な回帰だ。完璧な愛の感情だ。

完璧な愛は、色でいえば完璧な白のようなものだ。

多くの人は白は色がないと考えている。そうではない。白はすべての色を内包し、すべての色の合体だ。

だから愛とは、憎しみ、怒り、欲望、嫉妬、欲望といった感情がないことではなく、すべての感情の総和である。それは総計、総量、すべてだ。

したがって、魂が完璧な愛を体験するには、すべての人間の感情を体験しなければならない。

自分が理解できないことに、共感することができるか?自分が経験していないことに対して、他人を許せるだろうか?

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だから我々は、魂の旅のシンプルさと素晴らしさの両方が分かる。

我々はようやく、魂の求めるものが何かを理解する。つまり、魂の目的は、すべてを体験することだ。それによって、すべてでありえることだ。

下降が一度もなかったら、どうして上昇できるのか?

右であることが一度もなかったら、どのようにして左であることができるのか?

冷たいことを知らないなら、どうして暖かいことが分かるだろうか?

悪を否定したら、どうして善になれるだろうか?

選択するものがないなら、魂が何も選択できないことは明らかだ。

魂がその気高さを体験するためには、気高さがどういうことかを知る必要がある。

気高さしかなければ、それを知ることはできない。

そして魂は、気高さは気高くないところにのみ存在することに気付く。

それゆえ魂は、気高くないものを決して非難することなく、祝福する。

魂は、自身の他の部分が現れるために、なければならない一部をそこに見出すからだ。

もちろん、魂の仕事は、我々が気高さを選択するようにさせることだ。選択しないことを非難することなく、最高の自分を選択させることだ。

これは、多くの生涯を必要とする大きな務めだ。

あなたがたは、自分が選ばなかったものを、祝福するのではなく、すぐに批判したり、物事を「間違い」、「悪い」、「不十分」と呼びたがる。

あなたがたは非難するよりもっと悪いことをする。自分が実際に選ばなかったものに害を及ぼそうとする。破壊しようとするのだ。

自分が同意しない人、場所、または物事があれば、それを攻撃する。

あなたがたの宗教に対立する宗教があれば、それは間違っていると言う。

自分と相反する考えがあれば、それを嘲笑する。

自分と違う考えがあれば、それを拒否する。

これではあなたがたは過ちを犯す。なぜなら宇宙の半分しか創造できないからだ。他の半分を拒否すれば、自分の半分でさえも理解できない。

N:これらすべて、とても深い話ですね。ありがとうございます。今まで、こんなことを語ってくれた人はいませんでした。少なくとも、こんな簡潔さで、語ってくれたことはありません。私は理解しようと努めています。本当に、努力しています。しかし、いくつか理解しにくいことがあります。たとえばあなたは、「正しい」ことを知るために、「間違っている」ことを愛すべきだとおっしゃってるように思えます。言ってみれば、悪魔を受け入れよとおっしゃってるのですか?

他にどうやって、あなたは悪魔を癒すのかな?もちろん、悪魔などは存在しないが、今はあなたが選んだ用語を使って答えている。

癒しとは、すべてを受け入れて、次に最善を選ぶというプロセスだ。

分かるかな?

選ぶものが他にないなら、あなたは神であることを選ぶことはできない。

N:あ、ちょっと待ってください!神であることを選ぶなんて言ってませんよ。

最高の感情は完璧な愛だ、そうではないか?

N:ええ、そう考えるべきですね。

そしてあなたは、もっと良い神の表現を見つけられるのかな?

N:いいえ、できません。

さて、あなたの魂は最高の感情を求めている。完璧な愛を体験し、完璧な愛であることを求めている。

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魂は完璧な愛だ。そして、魂はそれを知っている。

しかし、魂は知る以上のこと求めている。魂は完璧な愛を体験し、完璧な愛であることを求めている。

もちろん、あなたがたは神になりたいと思っている!他に何があると思うのか?

N:分かりません。確信が持てないのです。そのように考えたことがなかったと思います。それには何か少し冒涜的な感じがします。

悪魔のようになりたいと思うのは冒涜的ではないが、神のようになりたいと思うのは不快に感じるとは、興味深いことだね?

N:ちょっと待ってください!誰が悪魔のようになりたいと思っているのですか?

あなたがただ!あなたがたすべてだ!

あなたがたは、自分のうちにある「悪」を納得させるために、自分は罪のうちに生まれ、生まれながらにして罪人であるとする宗教を創り出した。

ところが私が、あなたがたは神として生まれ、生まれながらにして純粋な神、女神、純粋な愛だと言ったら、あなたがたは拒否しようとする。

あなたがたは、人生すべてで、自分は悪い人間だと自分を納得させてきた。自分だけでなく、自分の望むもの全てが悪いものだとしてきた。

セックスは悪い、お金は悪い、喜びは悪い、力は悪い、豊かさは悪い、何から何までもだ。

あなたがたの宗教の中には、ダンスは悪い、音楽は悪い、人生をたたえることは悪いと、人々に信じさせている宗教もある。

まもなく、笑顔は悪い、笑うのは悪い、愛するのは悪いと言うようになるだろう。

いや、ちがう、わが友よ。あなたがたは多くのことがはっきりとしていないのに、1つだけはっきりしていることがある。

あなたがたとその望むもののほとんどが、「悪」だということだ。

自分に対してそう批判して、自分のやるべきことは、良くなることだと決めている。

念のために言っておくが、それでも大丈夫だよ。どんな場合でも目的地は同じだ。ただ、より早くて近い道があるというだけだ。

N:というと?

今すぐ、自分自身を受け入れて、それを実証することだ。

これがイエスの行なったことだ。それは仏陀の道、クリシュナの道、地上に現れたすべてのマスターの歩みだ。

そして、すべてのマスターも同じメッセージをたずさえている。「私とあなたは同じだ。私ができることは、あなたにもできる。これらのことを、それ以上のことを、あなたもするだろう。」

しかし、あなたは聞こうとしなかった。

あなたがたは、その代わりに、彼は悪魔だと思ったり想像したりするという、はるかに難しい道を選択した。

あなたがたは、キリストの道を歩むこと、仏陀の教えに従うこと、クリシュナの光を持つこと、マスターになることは難しいと言う。

しかし、私はあなたがたにこう言う。「真の自分を否定することは、受け入れるよりもはるかに難しいことなのだ」

あなたがたは善と慈悲と思いやりと理解だ。平和と喜びと光だ。

あなたがたは、赦しと忍耐、強さと勇気、必要とする時の助け手、悲しい時の慰め手、負傷時の癒し手、
迷える時の教師だ。

あなたがたは、最も深遠な知恵と最高の真理だ。最も偉大な平和と最大の愛だ。

あなたがたはこういうものなのだ。

そして人生の所々で、あなたがたは、自分はそういうものだということを知っていた。

今、自分はいつもそういうものだと、心に留めおきなさい。

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(4)第4章

N:うわ!感激します!

まあ、神が感激させられなければ、地獄の誰かがするのかな?

N:あなたはいつも、こんな軽々しいことをおっしゃるのですか?

軽々しいことを言ったのではない。もう一度読んでごらん。

N:はい。分かりました。

よろしい。

しかし、私が軽々しくしても、かまわないではないかな?

N:分かりません。神はもう少し真面目な方だと私は思っています。

お願いだから、私を型にはめようとしないでくれ。

ところで、あなたも同じように、自分を型にはめないようにしなさい。

私には、すばらしいユーモアのセンスがある。

あなたが人生でしたことを見ると、あなたにもユーモアのセンスがあると言いたいね。時には、笑うしかないってこともあったじゃないかな。

それはかまわない。最終的には、すべてが大丈夫になることが分かっているから。

N:それはどういう意味ですか?

あなたはこのゲームで、負けることはないということだ。うまくいかないことはない。それは計画の一部ではない。あなたが行こうとしているところに、行き着けないことはない。

あなたが目的地を見失うことはない。もし神があなたの目標であれば、あなたは運がいい。神はとても大きいので、見失うことがないからだ。

N:もちろんそれはすごく心配です。何かで私たちがしくじったら、神に出会えず、神とともにおれなくなるのではないか、すごく心配です。

「天国に行く」という意味かな?

N:そうです。私たちはみんな地獄に行くことを恐れています。

だから、地獄に行くことから逃れるために、初めからそこにいようということだな。ふーん。おもしろい戦術だな。

N:また、軽々しいことを。

どうしようもないよ!「地獄」と聞くと、私は意地悪をしたくなってしまう。

N:やれやれ、あなたは根っからのコメディアンですね。

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それに気付くのに、こんな長い時間がかかったのかい?最近あなたは、世界を見たのかな?

N:それで別の質問を思い出しました。なぜあなたは、地獄に行かせるようなことをやめさせて、その代わりに世界を修繕されないのですか?

あなたはどうしてしないのか?

N:私はそんな力を持っていません。

ナンセンス。あなたがたはすぐにこの瞬間にも、世界の飢餓を終わらせ、病気を治す力と能力を持っている。

もし私が、医療専門家が治療法を隠したり、西洋医学以外の代替医療や治療法を認めないのは、それらが「癒やし」の職業構造をおびやかすためだと言ったら、どう思うかな?

もし、世界の政府は世界の飢餓を終わらせたくないと言ったら、どう思うかな?私を信じるか?

N:悩むでしょうね。それが大衆主義者の見解であることは知っていますが、実際に本当であるとは信じられません。治療を否定したい医師はいません。同胞が死ぬのを見たい人々はいません。

個人の医師では、いないのはその通りだ。個々の国民では、いないのは正しい。

しかし、医療や政治は制度化されており、その制度は、時には非常に微妙に、時には無意識に、しかし不可避的に、これら善良なことに抵抗する...それらの制度にとっては、存続に関わる問題だからだ。

そこで、非常に単純で明白な例を上げれば、西洋医学の医師は、東洋医学の医師の治療効果を否定する。

なぜなら、それを受け入れ、ある種の代替医療で治療ができることを認めると、構造化された西洋医学の制度の骨組みが破壊されてしまうからだ。

これは悪意を持ってやっているのではないが、狡猾なやり方だ。専門家が悪い人間だから、これをしないのではない。恐れているからするのだ。

すべての攻撃は、助けを求める叫びなのだ。

N:それは、『A Course in Miracles (奇跡のコース)』という本で読みました。

私が書かせたのだ。

N:わあ、あなたはすべての答えを知っておられるのですね。

それで思い出したよ。われわれは、あなたの質問に取りかかろうとしたばかりだった。あなたの人生を、どうやって軌道に乗せるか、うまくいくようにするかについて話し合っていたのだね。創造のプロセスについて話し合っていたのだね。

N:そうです。私はいつもじゃまばかりしていますね。

それはかまわないが、もう一度元に戻ってみよう。非常に重要な事柄の流れを失いたくないからね。

人生は創造するものであって、発見するものではない。

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あなたがたは毎日、自分のために存在するものを、発見するためではなく、創造するために生きている。

おそらく知らないうちに、あなたがたは一瞬一瞬、自分の現実を創り出している。

なぜそうなるのか、どのようにそれが機能するかをここに記してみよう。

@私はあなたがたを、神の姿に似せて創造した。

A神は創造者だ。

Bあなたがたは、三位一体の存在だ。その3つの側面は、たとえば、父と子と聖霊、精神と身体と霊、超意識と意識と潜在意識というように、呼びたいように呼べばいい。

C創造は、これら3つの部分から生まれるプロセスだ。言い換えれば、あなたがたは3つのレベルで創造する。創造の道具は、思考、言葉、行為だ。

Dすべての創造は、思考から始まる(「父から生まれる」)。それから、すべての創造は言葉に移行する(「求めなさい、そうすれば与えられるだろう。話しなさい、そうすれば成就するだろう」)。

すべての創造は行為で成就される(「言葉はひととなって、わたしたちの間に住まわれた」)。

E考えてはいるが話すことのないものは、一つのレベルでの創造をする。考え、そして話すことは、もう一つのレベルでの創造をする。考え、話し、そして行動することは、現実に現れてくる。

F本当は信じていないことを考え、話し、そして行うことは不可能だ。したがって、創造のプロセスには、信念つまり知ることが含まれていなければならない。

これは絶対的な信頼だ。願望以上のものだ。これは確実に成るということを知っていることだ(「あなたは信仰によって癒される」)。

したがって、創造行為には、常に知識が含まれる。それは、何かの現実として、身体レベルで理解し、全てを確信し、完全に受け入れることだ。

Gこれを知っていると、非常に強い感謝となる。

それは前もって感謝することだ。

おそらく、これは創造の最も大きな鍵だ。創造する時、前もってそのために感謝することだ。

このような「事は成る」という確信は、持つのがいいどころか、持った方がよい。

それは、マスターである確かなしるしだ。すべてのマスターたちは、その行為が成されることを事前に知っている。

Hあなたが創造するすべて、創造したすべてを祝福し、楽しみなさい。その一部を拒否することは、自分の一部を拒否することだ。

それが何であれ、あなたの創造の一部として、今現われている。

それを手に取り、主張し、祝福し、感謝しなさい。非難しないようにしなさい(“God damn it!”「非難など、とんでもない!」)。それを非難することは自分を非難することだ。

Iあなたが創造したいくつかの面で、あなたが楽めないと分かったら、それを祝福し、ただそれを変えるようにしなさい。もう一度選びなおしなさい。新しい現実を呼び出しなさい。新しいことを考えなさい。新しい言葉を語りなさい。新しいことを行いなさい。

これをしっかり行えば、新しく選んだ世界は、あなたに続くだろう。

それに頼み、求めなさい。 「私はいのちであり、道である。私についてきなさい」と言いなさい。

これが神の意志を、「天にあるように地にも」実現する方法だ。

N:もしすべてがそんなに簡単で、これらの10のステップが私たちの必要なすべてであるなら、なぜもっと私たちのために、それが機能しないのですか?

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それは、あなたがたすべてのために、機能している。

あなたがたの中には、十分に気づいて意識的に「システム」を使用している者もいれば、何をしているのか分からないまま、無意識のうちに使っている者もいる。

あなたがたの中には目覚めて歩いている者もいれば、眠ったまま歩いている者もいる。

しかしあなたがたは、私が与えた力を使い、今説明したようなプロセスを経て、自分の現実を創造している。発見しているのではない。

あなたは自分の人生が「うまくいく」のはいつかと尋ね、私は答えてきた。

あなたは、自分の人生についての考えをまず明確にすることによって、「うまくいく」 ようになる。あなたがどうありたいか、何をしたいか、何を得たいかを考えなさい。これについてきちんと明確になるまで、よく考えなさい。そして、明確になった時は、他に何も考えないようにしなさい。他の可能性は想像しないようにしなさい。

あなたの精神構造から、すべての否定的な考えを捨てなさい。すべての悲観主義をなくしなさい。すべての疑いを除きなさい。すべての不安を拒否しなさい。最初の創造的な思考を堅持できるように、あなたの心を鍛えなさい。

あなたの考えが明確でしっかりしたら、真実としてそれらを語りなさい。それらを声に出して言いなさい。

創造の力を呼び出す偉大な命令をくだしなさい。

「私はこういう人間だ」

他の人々に「私はこういう人間だ」という声明を聞かせなさい。 「私はこういう人間だ」というのは、宇宙の中で最も強い創造的な声明だ。

あなたが何を考えようと、何を言おうと、「私はこういう人間だ」という言葉は、体験を動かし始め、呼び起こし、あなたにもたらす。

宇宙は、それ以外に働く方法を知らない。それ以外の道はない。

宇宙は、瓶の中の魔法使いのように、「私はこういう人間だ」という言葉に答える。

N:あなたは、「一個のパンを取りなさい」とでも言うように、「すべての疑いを捨て、すべての不安を拒絶し、すべての悲観主義を無くしなさい」とおっしゃる。しかしこれは、言うはやすく、行うは難しですよ。「あなたの精神構造からすべての否定的な考えを放り出しなさい」というのは、 「エベレストを登りなさい、昼食前に」といっているようなものですよ。ずいぶん大変な命令なんですよ。

あなたの思考を抑え、それらをコントロールすることは、それほど困難なことではない。(ついでに言えば、エベレストに登るのもそれほど困難なことではないがね)それはすべて鍛錬の問題だ。意志の問題だ。

最初のステップは、あなたの思考を監視することだ。あなたが何を考えているのかを考えることを、身に付けることだ。

否定的な考え、つまり物事についてのあなたの最高の思いを否定する考えをしている自分に気づいたら、考え直しなさい!私の言う通りにやってみなさい。

自分がスランプに陥ったり苦境の中にいて、何も良いことがないと思うなら、もう一度考え直しなさい。

世界がネガティブな出来事でいっぱいの悪い場所だと思うなら、もう一度考え直しなさい。

あなたの人生が崩壊し、再び元どおりにはできないように見えたら、もう一度考え直しなさい。

あなたがたは、これを実行するために自分を鍛えることができる。 (今までは実行しないように訓練してきたことをよく考えてごらん!)

N:ありがとうございます。このプロセスをこんなに明確にしてもらったことは今までありませんでした。言われたように簡単に実行できることを望みます。私は少なくとも今、それを明確に理解していると思います。

あなたがたが再検討を必要とするなら、我々には何度でも人生がある。

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(5)第5章

N:神への真の道は何ですか?あるヨ−ガ行者が信じるように、禁欲節制を通じてですか?そして、苦行といわれるものは何ですか?多くの禁欲主義者が言うように、苦行と奉仕が神への道ですか?多くの宗教が教えるように、「善良であること」によって天国への道を得るのですか?あるいは、多くのニューエイジャーが言うように、自分のしたいように行動したり、ルールを犯したり、無視したり、伝統的な教えを捨てたり、身勝手に行動したりしていて、ニルヴァーナ(至福の境地)を見つけることができますか?どちらなんですか?厳格な道徳基準を守るべきなのか、自分のしたいようにしていいのか。どちらなんですか?伝統的な価値観を大切にすべきか、自分で創り出していくべきなのか。どちらなんですか?「十戒」を守るべきなのか、悟りへの7ステップを踏むべきなのか?

あなたは、その方法がどれか一つでなければならないと強く思っている。そうではないかな...それらすべてではいけないのかな?

N:分かりません。私がお尋ねしているんです。

では、あなたがよく理解できるように、答えてみよう。

だが、答えはあなたの内にあることを、今言っておこう。私の言葉を聞き、真実を求めるすべての人々に、このことを言おう。

熱心に尋ねるすべての心には、いずれが神への道かは、示されている。

それぞれに、心からの真実が与えられている。あなたの精神の旅を通してではなく、心の道に沿って私のもとに来なさい。あなたは決して、精神の中では私を見つけられないだろう。

神を本当に知るためには、あなたは精神の外に出なければならない。

しかしあなたは、質問の答えを求めている。私はあなたの真剣な質問から逃げるようなことはしない。

まず、あなたを驚かせ、しかもおそらく多くの人々の感性を怒らせるだろう声明から始めよう。「十戒」のようなものはない。

N:ええっ!十戒はないんですか?

そうだ、ない。誰に私は命じるのだろうか?私自身か?そして、なぜこのような戒めが必要なのだろうか?私が欲するものは何でもある。そうだろう?

だから誰に命じる必要があるのかな?

そして、もし私が戒めを出せば、自動的に守られるはずだろう?

そうなることを強く願って命じておいて、そうならないのを黙って見ているなどということはあるだろうか?

どんな王様がそんなことをするだろうか?どんな支配者がそんなことをするだろうか?

それでも私はあなたがたに言う。私は王様でも支配者でもない。私は創造者だ。しかし、創造者は創造を支配するのではなく、ただ創造し、創造し続ける。

私はあなたがたを、神の姿に似せて創造し、祝福した。

そして私は、あなたがたにある約束をして、言質(げんち)を与えた。

あなたがたが私とひとつとなったとき、あなたがたはどうなるかを、私は平易な言葉で語ったのだ。

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あなたはモーセのように、真剣な探求者だ。モーセも今のあなたのように、私の前に立って答えを求めた。

「おお、父なるわが神よ」彼は叫んだ。

「わが神の神よ、私に示してください。民に語ることができるしるしを、私に与えてください!私たちが選ばれたことを、どうすれば知ることができますか?」

そして私は、今あなたのもとに来ているように、聖なる契約、永遠の約束、確実な言質をたずさえ、モーセのところにやって来た。

「どうすれば分かるのですか?」悲しげにモーセは尋ねた。

「なぜなら私があなたにそう言ったからである」私は言った。「あなたは神の言葉を受けている」

神の言葉は戒めではなく、契約であった。これらは…

「10の言質」だ。

あなたがたは神への道を取ったことを知り、神を見つけたことを知るだろう。なぜなら、これらのしるし、これらの兆候、これらの変化があなたがたに現れるからである。

@あなたがたは、心のすべて、精神のすべて、魂のすべてをつくして神を愛するだろう。私をおいて、ほかに神はない。あなたがたは、人間的な愛や成功、お金、力、いかなるそれらの象徴も、崇拝することはもはやしない。あなたがたは、子供がおもちゃを脇に置くように、これらのことを脇に置く。それらに価値がないからではなく、あなたがたがそれを超えて成長したからだ。

そして、あなたがたは自分が神への道を取ったことを知るだろう。なぜなら、

Aあなたがたは、むやみに神の名を使わない。つまらないことで私を呼ばない。あなたがたは、言葉の力と思考の力を理解するだろう。あなたがたは、邪悪な方法で神の名を呼ぶことを考えない。あなたがたは、私の名をむやみに使わない。なぜならそれはできないことだから。私の名−大いなる「わたし」は、決してむやみに(つまり成果もなく)使われないし、いつまでも使われることはないだろう。あなたがたが神を見つけたなら、このことを知るだろう。

そして、私はあなたがたに、これらの他のしるしも与えよう。

Bあなたがたは、私のために1日をとっておくことを覚えておき、その日を聖なる日と呼ぶ。これは、あなたがたが幻想に長く留まらないで、「自分とは何者か」を思い出すようにするためである。そしてあなたがたは、間もなく日々を安息日と呼び、一瞬一瞬を聖なる時と呼ぶだろう。

Cあなたがたは、母と父を敬う。あなたがたが言い、行い、考えることすべてにおいて、父/母なる神を敬う時、あなたがたは神の子であることを知るだろう。あなたがたが母/父なる神を、そして地上の父母を(彼らはあなたに生命を与えてくれたから)敬うように、すべての人々を敬うだろう。

Dあなたがたは、殺生しないこと(つまり、理由なく故意に殺さないこと)を守るとき、神を見いだしたことを知る。あなたがたは、どんな場合でも、他の生命を終わらせることはできないこと(すべての生命は永遠である)を理解すると同時に、最も神聖で正当な根拠なしに、どんな固有の輪廻を終わらせたり、ある形から別の形に生命エネルギーを変えたりすることはしない。

あなたがたは、生命への新しい畏敬の念により、植物や木々、動物を含むすべての生命を尊重し、至高善のためにのみ生命体に影響を与えるようになるだろう。

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そして私は、あなたがたが神への道にあることを知るために、他のしるしもあなたがたに送ろう。

Eあなたがたは、不誠実や欺瞞によって愛の純粋さを汚すことはない。これは不義だから。私は約束する。あなたがたが神を見つけたとき、あなたがたはこの不義を行わないだろう。

Fあなたがたは、自分のものではないものを取ったり、だましたり、はかりごとをしたり、他の人を害したりすることはない。これは、盗むことになるからである。

私は約束する。あなたがたが神を見いだしたとき、あなたがたは盗むことはしない。

さらに、あなたがたは、

G真実ではないことを言ったり、それによって偽証したりはしない。

H隣人の配偶者を奪うことはしない。なぜ他の人すべてがあなたがたの配偶者であることを知っているのに、隣人の配偶者を望むのか?

I隣人の所有物を欲しない。すべての物があなたがたのものであり、あなたがたの物はすべて世界のものであることを知っているのに、なぜ隣人の所有物を欲するのか?

これらのしるしを見るとき、あなたがたは神への道を見いだしたことを知るだろう。

真に神を求める者は、もはやこれらのことはしないと私が約束するからだ。このような行動を続けることは不可能だ。

これはあなたがたの自由であって、強制ではない。これは私の言質であって、命令ではない。神は自ら創造したことに対して、命じることはない。神はただ神の子たちに語るだけだ。これによって、あなたがたは、自分たちは神の元に帰ろうとしていることを知るだろう。

モーセは本気で尋ねた。「どうすれば分かるのですか?私にしるしをください」

モーセは、今あなたが尋ねているのと同じ質問をした。

時の始めから、あらゆるところのすべての人々が同じ質問をしてきた。私の答えは同じように永遠である。しかし、これまでも、そしてこれからも、決して命令であったことはない。私が誰に命じるというのか?命令を守らなかったからといって、私は誰を罰するというのか。

存在するのは私だけだ。

N:じゃあ、天国に行くために十戒を守る必要はないのですね。

「天国に行く」というのではない。あなたがたはすでに天国にいることを知るだけだ。受け入れること、理解することだけで、努力や奮闘があるのではない。

あなたがたは、すでにいる所に行くことはできない。そうするには、今いる所を離れなければならない。それでは旅の目的全体が、無意味になるだろう。

皮肉なことに、ほとんどの人は、自分がいたいところに行くのに、今いるところを離れなければならないと考えている。

そして、彼らは天国に行くために天国を離れる。そして地獄を通過する。

悟りとは、行くべきところもなく、するべきこともなく、今の自分以外になるべき何者もない、ということを理解することだ。

あなたがたは、どこかに行こうとする旅をしているのではない。

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天国−あなたがたがそう呼んでいるところ−はどこにもない(nowhere)。「nowhere」の単語のwとhの間にスペースを入れてみよう。すると、天国とは、「今ここ(now here)」ということが分かるだろう。

N:誰もがそう言います!誰もが!それで私は頭がおかしくなりそうです!もし「天国が今ここにあれば」、どうしてそれが見えないんですか?どうして感じないんですか?どうして世界はこんなに混乱しているんですか?

あなたのいら立ちは分かる。これらすべてを理解しようとするのは、誰かに理解させようとするのと同じくらい、いら立たしいものだ。

N:ああ!ちょっと待ってください!あなたは、「神はいら立つ」と言おうとされたんですか?

誰がいら立ちを創造したと思うのかな?あなたは、私ができないことを体験できると思うのかな?

私は言おう。あなたがするすべての経験は、私もしている。私は、あなたを通して自分を体験しているのが、分からないのか?

これらすべてが、何のためにあると思うのか?

私は、あなたがたを通してしか、自分自身を知ることができなかった。私は、「自分とは何者か」を知ろうとして、あなたがたを創造した。

私は、私についてのあなたがたの幻想すべてを、この一つの章で打ち砕くことはするまい。

それで、あなたがたが神と呼ぶ私の最も崇高な形では、私はいら立ちは経験しないと言おう。

N:うわ!良かった。ちょっと、おどろきましたよ。

しかし、それは私ができないからではない。そう選択しないだけだ。ところで、あなたも同じ選択をすることができるのだよ。

N:うーん、いら立つかどうかはともかく、私はまだ天国がここにあるのかどうか疑っていますし、天国を経験もしていません。

あなたは、知らないことを経験することはできない。あなたは、天国を経験したことがないので、今、天国にいることが分からない。分かるかな、それは悪循環なのだ。

あなたは、知らないことは経験できないし、経験する方法も見い出せない。そして、経験していないことは知ることができない。

悟りとは、あなたが体験していないものを知り、それを体験することだ。知ることは体験するための扉を開く。そして、その逆もあることは想像できるだろう。

実際には、あなたがたは経験したこと以上に多くのことを知っている。ただ、自分が知っているということを知らないだけだ。

たとえば、神がいることをあなたがたは知っている。しかし、自分がそれを知っているということを知らないかもしれない。だからあなたがたは、その経験を待ってあたりをブラブラする。

そしてその間ずっと、あなたがたはそれを経験し続けている。しかし、知らずにそれを経験している。それではまったく経験していないようなものだ。

N:おや、私たちはここで堂々めぐりをしていますよ。

そう、しているね。それに、堂々めぐりというより、我々がその輪自体であるかも知れない。これは悪い輪とは限らない。崇高な輪でもありえる。

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N:禁欲節制は、本当の精神生活には必要なのですか?

そうだ。なぜなら最終的にすべての魂は、真実でないものを棄てるし、あなたが歩む人生の中で、私との関係以外は何物も本当のものではないからだ。

しかし、昔ながらの自己否定的な意味での禁欲節制は、必要ない。

真のマスターは、何かを 「あきらめ」ることはしない。真のマスターは、無用なものは、ただ脇に置くだけだ。

自分の欲望を克服しなければならないと言う人がいる。私は、ただそれらを変えなさいと言う。

最初の実践は厳しいしつけ
のように感じるが、2度目は楽しい訓練のように感じる。

神を知るためには、すべての世俗的な情熱を克服しなければならないと言う人がいる。だが、そういう情熱を理解して受け入れるだけで十分だ。

抵抗する相手は、いつまでも存続する。見つめていれば、消えていく。

すべての世俗的な情熱を克服しようと真剣に努力している人は、しばしば一生懸命過ぎて、その努力が情熱になってしまうとも言える。

彼らには「神に対する情熱」がある。神を知ろうとする情熱がある。しかし、情熱は情熱であって、一つの情熱を他の情熱に代えても、情熱に変わりはない。

だから、情熱を感じるものを批判しないことだ。

ただそれに気付いて、そして、自分がこうありたいと思う自分になるために、それが役立つかどうか、考えさい。

覚えておきなさい。あなたがたは常に、自分自身を創造している。一瞬一瞬、自分とは何者かを決めている。
あなたがたは主に、自分が情熱を感じる人や物事に対する選択を通じて、これを決めている。

霊的な道(あなたがたがそう呼んでいるが)を歩む者は、世俗的な情熱や人間的欲望をすべて棄(す)てているように見える。

だが実際にしていることは、情熱や欲望を理解し、幻想を見つめて、自分にとって役に立たない情熱からは離れていることなのだ。

その間、ずっと、幻想が彼にもたらすもの、つまり完全に自由になるチャンスのために、幻想を愛してもいる。

情熱とは、「在ること」を行為に変える愛である。

情熱は、創造のエンジンに燃料を供給する。概念を経験に変える。

情熱は、本当の自分を表現するように、我々を動かす火である。

情熱を否定してはいけない。情熱を否定することは、自分とは何者か、本当は何者になりたいかを否定することだからだ。

悟った者は決して情熱を否定しない。結果への執着を拒否するだけだ。

情熱は行為への愛だ。行為は経験された在り方だ。

しばしば行為の一環として、何が創造されるか?

期待だ。

期待なしに、つまり特定の結果を必要とせずに人生を生きること、それが自由だ。それが神々しさだ。私の生き方だ。

N:あなたは結果に執着しないのですか?

絶対に執着しない。私の喜びは、創造にあるのであって、結果にはない。

禁欲節制は、行動することを否定する決意ではなく、特定の結果を必要とすることを否定する決意なのだ。これは大きな違いだ。

N:「情熱とは、存ることを行為に変える愛である」という言葉の意味を、説明していただけますか?

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「在る」ということは、存在の最高の状態である。それは最も純粋なエッセンスだ。それは「今であり、今でない」、「すべてであり、すべてでない」、「 有であり、無である」という神の側面だ。純粋に「在る」ということは、純粋に神であることだ。

だが、我々にとって、ただ存在するだけでは十分ではなかった。我々は、自分は何者かを経験することを常に切望してきた。それには、「行為」という、神性の全く別の側面が必要だ。

あなたがたは、素晴らしい自己の核心においては、愛と呼ばれる神性の側面である。 (ちなみに、これがあなたがたの真実である)

さて、愛であることと、愛することとは全く別のことだ。

魂は、経験によって、自分自身を知るために、何かしたいと切望している。そこで魂は、行為を通じて、最高の考えを実現しようとする。

「これをなそう」とする衝動は、情熱と呼ばれる。情熱を殺すことは、神を殺すことだ。情熱は、「やあ」と言いたがっている神だ。

しかし、分かるだろう。いったん神(または、あなたの中の神)が、愛を実行すれば、神は自身を現わしているから、それ以上何も必要としないのだ。

一方人間は、しばしば投資には利益が必要と感じている。誰かを愛そうとするのは、それはそれでいい。だが、そのとき相手からも愛が返ってきて欲しいと思う。そんなことを思う。

これは情熱ではない。期待だ。

これが人間の不幸の最大の原因だ。それが人間と神を分かつ違いだ。

悟った者は、東洋の神秘主義者がサマディ(三昧)と呼ぶ経験を通して、この違いを終わらせようとする。それは神との一体化、統合だ。神性と融合し、溶け込むことだ。


したがって、悟った者は結果を放棄するが、決して情熱を放棄することはない。
実際に、マスターは直感的に情熱が神への道であることを知っている。それは自己実現への道である。

世俗的な言い方をしても、何の情熱もないなら生きているとは言えないと、はっきりと言えるだろう。

N:「抵抗する相手は、いつまでも存続する。見つめていれば、消えていく。」とあなたはおっしゃいました。そのことを説明していただけますか?

あなたは、自分が現実だと認めないものに、抵抗することはできない。抵抗する行為は、その物事に命を与える行為だ。あなたがエネルギーに抵抗すると、エネルギーをそこに生じさせる。抵抗すればするほど、相手が何であれ、それを実体化する。

あなたが目を開いて見つめれば、それは消える。すなわち、幻想という姿を保てなくなる。

あなたが何かを見つめるなら、真に見つめるなら、それを見破り、それがあなたに見せている幻想を見抜くから、あなたの目には究極の現実以外は残らない。

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究極の現実を前にすれば、あなたの小さな幻想は力をもたない。幻想は弱った力で、いつまでもあなたをつかんでいることはできない。あなたはその真実を見いだし、真実はあなたを自由にする。

N:しかし、見ているものが消えて欲しくない場合はどうですか?

あなたは、常に消えるのを望むはずだ!

現実には、しっかりつかまえておくものは何もない。だが、あなたが究極の現実よりも幻想を選ぶなら、最初に創造したのと同じように、それを再創造するだけだ。

このようにして、あなたがたは、人生において、自分が持とうと選んだものを持つことができ、経験したくないものを人生から排除することができる。

だが、何ものにも抵抗しないことだ。抵抗によってそれをなくせると思うなら、もう一度考えなおしなさい。抵抗すれば、それをその場にもっとしっかりと植えつけるだけだ。すべての考えは創造的であると、私は言わなかったかな?

N:何も欲しくないと言う考えでもですか?

欲しくないなら、なぜそれについて考えるのか?二度と考えないことだ。だが、それについて考える必要がある場合、つまり考えないではおれない場合は、抵抗しないことだ。

むしろそれが何であれ、じかに見つめ、あなたが創造した物として現実を受け入れなさい。それから、それを保持するかどうか、あなたの望むように選択しなさい。

N:その選択は、何によって決めるのでしょうか?

「自分とは何者か」、「自分はどうありたいか」についてのあなたの考え方だ。

これはすべての選択、つまりあなたの人生で行ってきた、そして、これからもずっと行うだろうあらゆる選択を、決めるものだ。

N:それでは、禁欲節制者の生活は間違った道なんですか?

それは真実ではない。「禁欲節制者」という言葉は、間違った意味を持っている。実際には、何かを捨てることはできない。抵抗するものはそのまま存続するからだ。真の禁欲節制者は、放棄することはせず、ただ違ったものを選ぶだけだ。これは、何かから離れる行為ではなく、何かに向かう行為だ。

あなたは何かから離れることはできない。なぜなら、それは、地獄までもあなたを追いかけてくるからだ。したがって、誘惑に抵抗するのではなく、ただそれに背を向けなさい。私と向き合い、私と違うものには背を向けなさい。

だが、これを知っておきなさい。間違った道などはない。なぜなら、あなたが行くこの旅で、「行きつかない」ところはないからだ。

それは単にスピードの問題だ。つまり、あなたがいつそこに着くのかという問題だ。だが、それさえも幻想だ。なぜなら、「いつ」ということはないし、「前」も「後」もないからだ。ただ今があるだけだ。常に自分を経験している、永遠の瞬間があるだけだ。

N:それでは何の意味があるんですか? 「そこに行きつかない」ことがないなら、人生の意味は何なんですか?なぜ私たちは、何をするにも心配しなければならないんですか?

もちろん、心配しなくてもいい。しかし、しっかり観察するのはいいことだろう。自分は何者で、何をしているのか、何をもっているのかを、ただ気づけばいい。そしてそれが、あなたに役立つかどうかを見いだしなさい。

人生の意味は、どこかにたどり着くことではない。

あなたがたはすでにそこにいて、これまでも、そしていつもそこにいたことに気づくことだ。

あなたがたは、いつもそして永遠に、純粋な創造の瞬間にいるのだ。

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したがって、人生の意味は、自分自身を創造すること、そして、それを体験することなのだ。

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(6)第6章

N:苦しみはどうなんですか?苦しみは神への道なんですか?それが唯一の道だと言う人もいます。

私は苦しみなど喜ばない。私が喜んでいると言う者は、誰も私を知らない。

苦しみは、人間体験の不必要な側面だ。それは不必要であるだけでなく、あなたがたの健康にとって、賢いことではなく、不快で危険なことだ。

N:じゃあ、なぜ、こんなにも多くの苦しみがあるのですか?あなたが神であって、苦しみをすごく嫌うなら、なぜそれに終止符を打ってくださらないのですか?

私はそれに終止符を打った。それを実現するために私が与えた道具を使うのを、あなたがたが拒否しているだけだ。

知っているかな。苦しみは出来事とは何の関係もない。出来事に対する反応に関係している。

起こっていることは、ただ起こっているだけだ。あなたがたがそれをどう感じるかは別の問題だ。

私はあなたがたに、痛みを減らす方法で(実際に取り除く方法だが)出来事に反応する道具を与えたが、あなたがたはそれを使っていない。

N:すみませんが、どうして出来事の方をなくしてくださらないのですか?

大変いい質問だね。残念ながら、私はそれをコントロールできない。

N:あなたは出来事をコントロールできないんですか?

もちろん、できない。出来事は、あなたがたが選択して創造した時間空間の中で生まれるものだ。私は決してその選択に介入はしない。もしそんなことをしたら、私があなたがたを創造した意味がなくなってしまう。

だが、これまでにこのすべては説明してある。ある出来事は、あなたがたが意図的に創っているし、ある出来事は、多かれ少なかれ無意識のうちにあなたがたが自分に引き寄せている。

ある出来事、つまりあなたがたがこのカテゴリに入れている大規模な自然災害は、「運命(fate)」とみなされている。だが、「運命(fate)」さえも、「あらゆるところのあらゆる考えから(from all thoughts everywhere)」という言葉の頭文字になる。つまり地球の意識だ。

N:「集合意識」。

そう、そのとおりだ。

N:世界は急速に破滅に向かっていると言う人々がいます。私たちの生態系は死につつあります。地球は、大きな地球物理学的な災害に見舞われつつあります。地震。火山噴火。たぶん地軸の傾きさえも起きているかもしれません。集合意識がすべてを変えることができる、地球を私たちの思考で救うことができると言う人々もいます。

思考を実行に移しなさい。環境を救うために何か行わなければならないと信じる人々がいたるところにたくさんいれば、あなたがたは地球を救うだろう。だが、急がなければいけない。

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あまりにも長い間、多大な被害をすでに受けてきている。これは大きな姿勢の転換が必要とされるだろう。

N:あなたは、私たちがしなければ、地球とその住民が破壊されるのを見るだろうとおっしゃるのですか?

私は物理的な宇宙の法則を、誰もが理解できるように明確にした。

宇宙の原因と結果の法則は、科学者や物理学者、そして彼らを通じて世界の指導者は、十分知っている。
これらの法則は、ここでもう一度、その概要を述べる必要はない。

N:話を、苦しみについて戻しましょう。苦しみは良いという考えは、どこで私たちは思いついたのでしょうか?それと、聖人は「黙って苦しむ」という考えは?

聖人は「黙って苦しむ」。だからといって、苦しみが良いわけではない。マスターの学校の生徒たちは、苦しみが神の道だというわけではなく、神の道についてまだ学ぶべきこと、まだ思い出すべきことがあると理解しているから、黙って苦しんでいるのだ。

真のマスターは、黙って苦しんでいるのではまったくない。不満なしで苦しんでいるように見えるだけだ。

真のマスターが不満を言わない理由は、苦しんでいるのではなく、あなたがたが耐え難いと呼んでいる状況を、ただ経験しているに過ぎないからだ。

実践しているマスターが苦しみを語ることがないのは、言葉の力をはっきりと理解していて、それについて話さないことを選んでいるだけだからだ。

我々は、自分が注意を払うものを現実化する。マスターはこれを知っている。

マスターは、自分が現実化するものを意図的に選んでいる。

あなたがたも、みんなこれを時々行ってきた。痛みに対する気持ちの持ちようで、頭痛が消えたり、
歯医者の治療で痛みが減ったという経験のない人はいない。

マスターは、もっと大きな物事についても、それと同じようにしているだけだ。

N:しかし、どうして苦しみがあるのですか?なぜ苦しむ可能性などがあるのですか?

すでに説明したように、あなたでないものがなければ、あなたであるもの、つまり自分自身を知ることはできないし、なることもできない。

N:私たちが、苦しみが良いことだとどうして考えるようになったのか、私にはまだ分かりません。

あなたは執拗にそれに疑問を持っている。賢明なことだ。

黙って苦しむことに関する最初の知恵は、ひどくゆがめられて、今や多くの人々が、苦しみは善で、喜びは悪だと信じている(そしていくつかの宗教は実際にそう教えている)。

だから、ガンを患っていても耐えていれば、彼は聖人だとされ、一方、(衝撃的な例を上げれば)性的能力が旺盛で、公然とセックスをするなら、彼女は罪人だとされる。

N:わあ、衝撃的な例を上げられましたね。そして巧みに、代名詞を男性から女性に変えられましたね。それは強調するためですか?

あなたがたの偏見を示すためだ。あなたがたは、女性が性的能力旺盛であったり、ましてや公然とセックスをすることなどは好まない。

街中で声を上げてセックスする女性を見るよりは、戦場で泣くことなく死んでいく男を見る方が、あなたがたにはましなのだろう。

N:あなたはそうじゃないんですか?

私は、どちらがいいかは判断しない。だが、あなたがたはあらゆる種類の判断をしている。そして、あなたがたを喜びから遠ざけているのはあなたがたの判断であり、不幸にしているのはあなたがたの期待だと、私は言っている。

これが重なると、あなたがたは病気となり、そこから苦しみが始まる。

N:あなたのおっしゃることが本当だということは、どうしたら分かりますか?これは神が話していることで、私の行き過ぎた想像力ではないことが、どうしたら分かりますか?

あなたは前にもそれを尋ねた。私の答えは同じだ。両者にどんな違いがあるのか?たとえ私が言ったことすべてが「間違って」いたとしても、あなたならもっと良い生き方を考えられるのかな?

N:いいえ。

それなら、「間違っていること」が正しくて、「正しいこと」が間違っていることになる!

だが、ジレンマからあなたを救うためにこれを言っておこう。私が言うことは信じてはいけない。ただそのように生きなさい。体験しなさい。それから、あなたがしてみたい他の生き方を、何でもいいからしてみなさい。その後、あなたの経験に目を向けて、自分の真実を見いだしなさい。

いつか、あなたがたに大きな勇気があれば、戦争よりも愛を生み出すことの方がいいと考える世界を経験するだろう。その日あなたがたは、歓喜にひたるだろう。

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(7)第7章

N:人生はとても怖いです。そして、とても混乱しています。物事がもっとはっきりするよう望んでいます。

あなたが結果に執着しなければ、人生は恐ろしいものではない。

N:何も欲しなければ、という意味ですか?

そのとおり。選択しなさい。だが、欲してはいけない。

N:それは、頼られる者がいない人にとっては簡単です。妻や子供がいる場合はどうなりますか?

一家の主の道は、いつも困難な道だ。恐らく最も困難だろう。あなたが指摘するように、自分ひとりだけなら、「何も欲しない」のは簡単だ。あなたに愛する人がいるときは、彼らにとって最高のものを望むことは当然だ。

N:家族に与えたいと思ってもすべてを与えられない時は心が痛みます。素敵な家とか、ちょっとした服、十分な食べ物をです。私は、まるで家計をやりくりするために20年間苦労してきたように感じます。いまだそれについて、見せるものが何もありません。

物質的な富のことを言っているのか?

N:男が子供に譲ってやりたいと思う、基本的なほんのわずかなものです。男が妻のために与えたいと思う、ごくありふれたものです。

なるほど。あなたは、これらのすべてを与えることが、人生の仕事だと見ている。それが人生だとあなたは思っているのか?

N:そんなふうに言っていいのか分かりません。私にとって、人生はこんなものではないと思いますが、少なくとも副産物としてこれらがあれば、すてきだと思います。

それでは話を戻してみよう。あなたは、人生とはどんなものだと思っているのか?

N:良い質問ですね。私は長年にわたり、それに対していろんな答えをもらってきました。

今のあなたの答えはどうかな?

N:その質問には2つの答えがあるように、私には感じます。つまり私が望ましいと思う答えと、現実的な答えの2つです。

あなたが望ましいと思う答えは何なのか?

N:私は、自分の人生が魂の進化のためにあることを望んでいます。自分の人生が、私の最も愛する部分を表現し体験するものであることを望んでいます。思いやりや忍耐、与えたり助けたりすること、という私の部分です。知ること、賢明であること、許すこと、そして……愛することという私の部分です。

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この本をすでに読んだような発言だね!

N:ええ、難解なレベルですが、美しい本です。でも私は、それを「実用化する」方法を見つけたいと思っています。さきほどの質問への現実的な答えとは、人生の現実は日々生き延びることということなんです。

おや。あなたは、その2つが両立しないと考えているのかな?

N:まあ……。

魂の進化にはげんでいては、日々の生活ができないと考えているのかな?

N:本当のことを言うと、私は日々の生活以上のことをしたいのです。私は、これまでの年月を生きのびてきました。まだここにいますからね。しかし、私は生きるための苦労を終わらせたいのです。その日その日を生きるだけでも大変な苦労です。私は日々の生活以上のことをしたいのです。私は豊かになりたいんです。

豊かさとはどんなことを言っているのかな?

N:お金が次にどこから来るのか心配しなくてもいいくらいのお金を持つことです。家賃や電話料金を払うだけでストレスを感じなくていいくらいのお金を持つことです。とても俗っぽくていやですが、私たちはここでは現実の生活の話をしています。あなたがこの本に描かれている、雲をつかむような、ロマンチックな霊的な生活の話ではありません。

少し怒っているように聞こえるが?

N:怒るというより欲求不満なんです。私は20年以上、霊的なゲームをしてきました。その結果を見てください。1回の給料をもらってやっとのこと救貧院に入らなくてすんでいるんです。そして今、私は失業したばかりです。収入がまた無くなりそうなんです。本当に生活の苦労に疲れました。私は49歳です。私はもう少し生活に安定が欲しいのです。そうすれば、「神のこと」、魂の「成長」などに、もっと時間を割けることができるでしょう。私の気持ちはそこにあるんですが、生活が許してくれません……。

うーん、言い出しにくいことを言ったね。あなたは、経験を同じくするたくさんの人々のために、話しているのだろう。

あなたの真実の訴えに、一つずつ答えよう。答えをたどれば、簡単に分析することができるようにね。

あなたは20年間、霊的なゲームをしてきたと言うが、そうではいない。ゲームの端にほんの少し手を染めたに過ぎない。(言っておくが、これはしかっているのではないよ。本当のことを言っているだけだよ)。

20年前からあなたは、そのゲームを見つめ、もてあそび、時に試してきたことは認めよう……。だが、ほんの最近まで、あなたはゲームに真剣に取り組んできたようには私は感じない。

はっきりさせておこう。「霊的なゲームをしている」とは、あなたの全ての精神、身体、魂を、神の姿形に似せて自己を創造するプロセスに捧げることを意味している。

これは、東洋の神秘主義者が書いた、自己実現のプロセスなのだ。それは多くの西洋の神学が唱導してきた、「救い」のプロセスだ。

これは一日一日の、一時間一時間の、一瞬一瞬の最高の意識の活動だ。毎瞬行なわれる選択と再選択だ。それは進行し続ける創造だ。意識的な創造だ。目的をもった創造だ。今まで我々が議論してきた創造のツールを、はっきりした目覚めと崇高な意図をもって使っている。

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それが「この霊的なゲームをする」ということだ。さて、あなたはいつからしてきたかな?

N:まだ始めてもいません。

極端から極端に行くことはないし、そんなに自分に厳しくなることもない。あなたはこのプロセスに専念している。

実際、あなたが思っている以上に、あなたは頑張っているよ。

だが、あなたは20年近い間、そうして来てはいない。しかし実のところ、関わった期間が重要ではない。今努力しているか?それだけが重要なことだ。

あなたの訴えに取り組もう。

あなたは、「今の自分を見てください。あと一歩で救貧院行きだ」と言う。

私はあなたを見て全く違うことを考える。私は、もう一歩で豊かな家に入れる人を見る!

給料の小切手が1回でも無いと、自分の存在は消えてしまうとあなたは感じているが、あと1回の小切手であなたは涅槃(ねはん)に入ると私は見る。

もちろん、あなたが何を「小切手」と見ているのか、何の目的で働いているのかによって、大きな見方の違いがある。

あなたの人生の目的が、安定と呼ばれるものを得ることであれば、あなたが1回の小切手が無いと救貧院行きだと感じる理由は理解できる。だが、この評価さえも訂正できるものだ。なぜなら、私が与える報酬で、すべて良いことがあなたに起こるからだ。これは、物質的世界で安定を感じる経験も含まれている。

あなたが私のために働くときに得られる報酬は、霊的な安らぎ以上に多くのものだ。物質的な快適さもあなたのものになる。

だが、皮肉なことに、一度、私の報酬によって得られる霊的な安らぎを経験すると、あなたが心配している物質的な安らぎは、気にならなくなる。家族の物質的な安らぎさえ、あなたの心配ではなくなる。

なぜなら、あなたが一度神の意識レベルに上がると、自分は他の人間の魂に責任を負ってはいないこと、すべての魂が安らぎの中にあることを願うのは称賛されるべきことだが、それぞれの魂は瞬時に自分の運命を選ぶべきだし、選んでいることを、あなたは理解するからだ。

故意に他の人を虐待したり、あるいは破滅させたりすることは、明らかに、高潔な行為ではない。あなたが自分に依存するようにしむけた人々のニーズを無視することも、明らかに不適切なことだ。

あなたの仕事は、彼らを自立させることだ。あなたなしでやっていける方法を、できるだけ早く、完全に教えることだ。

生きるために、彼らがあなたを必要とする限り、あなたは彼らにとって祝福にはならない。あなたが不必要なことを認識した瞬間にのみ、真に彼らを祝福できる。

同じ意味で、神の最大の瞬間は、あなたには神が必要でないことをあなたが認識した瞬間だ。

私にはよく分かっている...。これはあなたがたが今まで教えられてきたことと、すべて反対だということを。

だが、あなたがたの教師は、怒る神、嫉妬深い神、必要とされることを要求する神を、あなたがたに話してきた。それは神ではなく、神であるべきものの神経症的な代用物なのだ。

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真のマスターは、最も多くの生徒を持つ者ではなく、最も多くのマスターを生み出す者だ。

真のリーダーは、最も多くの追随者を持つ者ではなく、最も多くのリーダーを生み出す者だ。

真の王は、最も多くの臣下を持つ者ではなく、最も多くの人々を王のような気高さに導く者だ。

真の教師は、最も多く知識のある者ではなく、最も多くの人々に知識をもたらす者だ。

そして、真の神は、最も多くのしもべを持つものではなく、最も多くの人々に奉仕するものであり、それによって他の人々すべてを神にするものだ。

なぜならこれが、神の目標でもあり栄光でもあるからだ。神の臣下はもはや臣下ではなくなり、すべての人々が、神を到達不可能なものとしてではなく、必ず到達できるものとして知るからだ。

私は、あなたには幸せな運命が必ず訪れることを知っている。あなたは、必ず「救われる」。これを知らないことこそ、地獄だ。

そこで今、親や配偶者、愛される人として、あなたの愛を、相手を束縛する接着剤にしてはならない。最初は引き寄せ、次に転換して跳ね返す磁石にするよう努めなさい。それは、引き寄せられた人々が、生きるためにはあなたから離れられないと、信じ出すといけないからだ。

これほど真実と違ったことはない。他の人に、これほど大きな損害を与えるものはない。

あなたの愛が、愛する人々を世界に押し出し、彼らが自分自身を十分に体験できるようにしてあげなさい。

これによって、あなたは本当に愛したといえる。それは大きな挑戦でもあり、一家の主の道でもある。多くの気を散らすものや、世俗的な心配ごとがあふれている。

禁欲主義者は、これらのどれにも悩まされない。彼はパンや水、寝ころがる質素なマットを与えられ、それで祈りや瞑想、神との黙想に、すべての時間を捧げることができる。

このような状況下でなら、神を見るのはいかに簡単だろうか!いかに単純な仕事だろうか!

ああ、だが、配偶者がいたら、子供がいたら!

午前3時にオムツを変えなければならない赤ちゃんに神性を見なさい。月初めに支払いが必要な請求書に神性を見なさい。配偶者を襲う病気に、失業した仕事に、子供の発熱に、親の痛みに、神の手を見出しなさい。今、我々が話しているのが聖人なのだ。

私はあなたの疲れを理解している。苦労に飽き飽きしていることを知っている。しかし、私はあなたにこう言おう。あなたが私に従うとき、苦労は消える。神の領域に生きなさい。そうすれば、全ての出来事は祝福となる。

N:仕事を失ったし、家賃の支払いもあります。子供が歯の治療を必要としています。崇高な哲学が、これらの解決にはほとんど役立たないと思われる時に、どうしたら私は神の領域に行くことができますか?

私を最も必要とするときに、私を捨ててはいけない。今は、あなたの最大のテストの時だ。今はあなたの最大のチャンスの時だ。ここに書かれたすべてのことを証明するチャンスだ。

「私を捨ててはいけない」と言うと、前に話した貧しい、神経症的な神のように聞こえるかも知れない。だがそうではない。

あなたは、自分が望むように「私を捨てる」ことができる。私は気にしないし、我々の関係を変えることもない。私はあなたの質問に答えて、こう言っているだけだ。

状況が困難になると、あなたはしばしば自分とは何者かを忘れるし、自分が選んだ人生を創造するために私が与えた道具を忘れてしまう。

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今こそ、かつてないほど、あなたがたが神のところに行くべき時だ。

第一に、それはあなたがたに大きな心の平和をもたらすだろう。そして、平和な心から、素晴らしいアイデアが溢れ、そのアイデアは、あなたがたが持っていると思う最大の問題の解決策になるだろう。

第二に、あなたがたが自分自身を実現するのは、神の場においてであり、それがあなたがたの魂の目的、唯一の目的なのだ。

神の場にいるとき、あなたがたは、現在体験していることはすべて一時的なものであることを理解する。

私はあなたがたに言う。天と地は過ぎ去るが、あなたがたは消え去ることはない。この永遠という視点から見ると、あなたがたが正しい光の中で物事を見るのに役立つ。

これら現在の状況や環境は、一時的なものに過ぎないという、真実を見ることができる。

そこで、それらをツールとして使うことができるだろう。なぜなら、これらの現状や環境は、現在の経験を創造するための、一時的なツールだからだ。

あなたは、自分とは何者だと思うのか?失業という経験との関係から、自分とは何者だと思うのか?

そして、おそらくもっと重要なことだが、あなたは、神が何者だと思うのか?

問題が大き過ぎて、私が解決できないことがあると、あなたは思うのか?

ひどすぎて、私の奇跡では、この苦境から脱するのは無理だとでも思うのか?

私が与えたすべてのツールを使っても、ひどすぎて、あなたには対処できないと思うのは分かるが、私にとっても大きすぎると本当に思うのか?

N:仕事がないことが、神にとっては大したことではないのは、頭では分かります。しかし感情的には、私は確信が持てないのです。あなたができるかどうかではなく、なさるかどうか、確信が持てないんです。

そうか。それは信頼の問題だね。

N:そうです。

あなたは私の能力に疑問を抱いているのではなく、ただ私の意志を疑っているのだね。

N:ええ。私は、自分のためになる教訓が、経験のどこかにあると言う神学をまだ信じています。私には解決策があるはずだとは、まだ確信できません。多分私は、問題を抱えているべきなのかも知れません 。多分、これは私の神学が語っている「試練」の一つでしょう。だから、この問題は解決されないかもしれないと心配しています。これは、あなたが私を試そうとなさっている問題の一つではないかと...。

ここで、私とあなたがたがやり取りする方法を、もう一度見直した方が良いだろう。

なぜなら、あなたはそれは私の意志の問題だと思っているし、私はあなたの意志の問題だと言い続けているからだ。

私は、あなたが自分のために望むことを、望む。それ以上でも以下でもない。私は、要求ごとに、あなたに与えるべきかどうかを、ここに座って判断したりはしない。

私の法則は因果の法則であって、そうなるかも知れないという法則ではない。あなたが選んだもので、持てないものは何もない。

求める前にも、私はあなたに与えているだろう。あなたはこれを信じるかな?

N:いいえ。すいません。私は、あまりにも多くの祈りがかなえられないのを、見てきましたから。

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あやまる必要はない。ただいつも、自分の経験から得た真実を大切にしなさい。私はその事は理解しているし、尊重もしている。私との間ではそれでいいのだよ。

N:よかった。求めるものは何でも手に入るなんて、私には信じられないからです。私の人生がその証拠です。実際に私は、自分が求めるものを得ることは、ほとんどありません。得られた時などは、罰当たりな幸運だと思いますよ。

それはおもしろい言い回しだね。

あなたにはいろんな言い回しがあるようだ。あなたの人生では、罰当たりな幸運も、祝福すべき幸運もありうるのだね。

私は、あなたが祝福すべき幸運にあることを望んでいるよ。もちろん、決してあなたの決断に干渉するつもりはないがね。

私はあなたに言う。あなたはいつも、自分が創造するものを得ているし、あなたはいつも創造し続けている。

私は、あなたが創り出す創造物について、批判はしない。あなたがますます多くのものを創り出す力を与えるだけだ。あなたが創造したものが気に入らなければ、もう一度選び直しなさい。神としての私の仕事は、常にあなたにその機会を与えることだ。

さて、あなたは、自分が望んだものを得たためしがほとんどないと、言っている。

だが、私は、あなたは求めたものをいつも得てきたと言う。

あなたの人生は、いつも自分の人生に対する考えの結果である。それは、自分が選んだものはめったに得られないという、あなたの明らかに創造的な考えも含まれる。

現在の状況では、あなたは自分を、失業した状況の犠牲者だと見ている。だが、真実は、あなたはもはやその仕事を選んでいないのだ。

あなたは朝、期待に胸ふくらませて起きるのではなく、不安を抱いて起きるようになった。

自分の仕事に幸せを感じるのではなく、不満を感じるようになった。あなたは何か他のことをしようと夢を抱くようにさえなった。

これらのことは、何も意味がないと思うのか?

あなたは自分の力を誤解している。

私はあなたに言う。あなたの人生は、あなたの意図によって進む。

では、今のあなたの意図は何なのか?

人生は、自分が選んだものをめったにもたらさないというあなたの理論を、証明しようとしているのか?
それとも、自分は本当は何者なのか、私(神)は何者なのかを、明らかにしようとしているのか?

N:悔しいし、駄目な人間で恥ずかしいです。

そう考えると、あなたにとって役立つのかな?

真実を聞いたら、素直にそれを認めて、それに向かって動こうと、なぜしないのか?

自分を責める必要はない。ただあなたが選んだということに気づき、もう一度選び直しなさい。

N:しかし、なぜ私はいつもネガティブなことばかり選ぶんでしょうか?そうしておいて、自分を責めるのでしょうか?

期待できるとでも思うのか?

子供の頃から、あなたは「悪い者だ」と言われ続けた。あなたは、「罪」の内に生まれたことを受け入れている。

罪悪感は教えこまれた反応だ。

あなたがたは、物心がつく前に、自分のしたことに罪悪感を感じるように言われてきた。不完全に生まれたことを恥じるように教えられてきた。

あなたがたは、この世に不完全な状態で生まれてきたと教えられている。それは、宗教家がずうずうしくも「原罪」と言っているものだ。

それは最初の罪ではあるが、あなたがたの罪ではない。

神が不完全なものを創造した、あるいは創造できたと考えるなら、それこそ、神の何たるかを知らない世界が、あなたがたに犯した最初の罪だ。

あなたがたの宗教の中には、この誤解を中心にして、全ての神学を構築しているものもある。

それはまさに誤解だ。

私が描くいかなるもの、生命を与える全てのものは、すべて完璧である。それは神の完璧性の完全な反映であり、神の姿形に似せて創造されている。

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《推奨》

 『神との対話』に興味のおありの方は、日本語版『神との対話』普及版(1)サンマーク出版 864円 をお読みください。吉田利子氏の素晴らしい日本語訳です。Amazonで販売しています。

・英文は、サイト: Summary of "Conversations with God"  に掲載してあります: https://ncode.syosetu.com/n8290ea/



「神との対話」との対話  当ページの加筆版を他サイトに連載しています。


付記)

現代人と宗教 (伊能言天 日本医事新報No.3064 昭和58.1.15)

 一昨年の5月5日付朝日新聞に、日本人の宗教意識を探ったアンケート調査結果が載っている。それによると、死後の霊魂を信じる人が60%、超自然の偉大な存在を感ずる者が54%にも上り、特に20代に多いという。

 現代人にこのような宗教心が厳然としてありながら、既成宗教が衰微の一途を辿っているのは一体なぜだろうか。その原因は二つあると考えられる。一つは宗教の形骸化、いま一つはその非科学性である。

 宗教には、必ずそれを唱導した教祖がいる。月探険の帰路に神秘体験を持つ、アポロ14号宇宙飛行士ミッチェル氏は言う。「教祖が悟った霊的真理は、教祖の死後そこまで到達していない弟子達によって人間的自意識にまで引き戻され、教団化によってその本質から離反してしまう」。即ち、真の宗教と、宗教団体とは全く異質なもの、と言うのである。

 宗教の組織化は、神との交わりという無形を本旨とする宗教の外形化につながり、知らぬ間にその本質から遠ざかって、気付いた時には、まさに宗教団体という宗教の形骸(抜け殻)になり下ってしまう。

 一方、世界的宗教のうちキリスト教、仏教が生まれたのは今から2000年余の昔で、当時の科学的知識は洋の東西を問わず、現代とは雲泥の差があったことは自明の理である。例えば古代ギリシャ人は、大地は扁平な円盤でその回りを大河が取り囲んでいると考えていたし、ユダヤ思想にもこれと似た宇宙観があった。

 このような宇宙観を背景にした宗教的教理には自ずと限界があり、物質の根源や生命の本体が究明され、月へも足を踏入れている時代にあっても、旧態依然とした教理をそのまま温存しておく事ほど愚行はない。

 今や、組織を伴わない、最新の科学的知識に基づく新しい宗教の解明こそが、人類に課せられた重要課題であると言えるのではなかろうか。


 組織を伴わない宗教は、私の理想の宗教観です。宗教情報のみの提供に寄与し、信じるか否かは、まったくの本人の自由で、組織、規則、義務、権利、拘束はいっさい無い宗教です。それは、自分の心の内、魂に在る宗教とでもいえるでしょう。
 インターネットは、その意味で、最適なツールとなりうると思われます。


 お知り合いに、当ページを紹介して下さる方は、こちらをご利用されると便利です⇒


「神との対話」のホームページ(英文)
このサイトは、「神との対話」の著者ニール・ドナルド・ウォルシュ氏のメッセージを、日本語に訳して伝えている。
魂のための公民権運動