広葉樹(白) 《生命の大切さ》

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講演者 古谷小枝子 先生  大和・生と死を考える会事務局長
日  時  1999年3月9日
会  場  南瀬谷小学校
参加者  南瀬谷小学校6年生180名


 もうそろそろ皆さんも中学生になりますので、希望で胸がいっぱいのことと思います。今日はいのちの大切さということでお話ししてみたいと思います。
 私の長男の玄斗君についてお話したいのです。玄斗君は十二歳でなくなりました。その十二歳までどんな風に生きたかを皆さんに聞いてもらいたいと思ってきました。皆さんも六年生になるまでに悲しかったこと、うれしかったこと、いろんなことがあったと思います。

 私の子供の頃の思い出の中で一番悲しかったのは、小学校三年生のときのことでした。陽のポカポカ当たる縁側で、私は猫が好きでしたから、子猫が5匹生まれて、猫と遊んでいました。そこへ庭先から二軒隣の大きな犬が入ってきました。そのころは放し飼いでしたから家に入ってきたのです。犬はその子猫たちに襲いかかって牙をむいてきました。私はまだちっちゃな三年生でしたから怖くてふるえて何も出来ないでいました。子猫も必死になって犬と闘ってたんですが犬がその子猫に噛み付いて猫は動かなくなってしまいました。
 この時二匹の猫が一生懸命生きたいのに犬にかまれて死んでしまいました。私はそれが悲しくて悲しくてしかたなかったことを覚えています。

 私が赤ちゃんを産んだときに、赤ちゃんはなかなか私の所に来ませんでした。二日たっても三日たっても来ませんでした。とっても不安でした。
 名前を玄斗とつけました。そしてその赤ちゃんは心臓が悪くて皮膚も紫色の赤ちゃんでした。私はびっくりしました。もしかすると十日しか持ちませんと言われました。
 赤ちゃんは一生懸命私にしがみついてきました。とても手術で治るような病気ではないので、その赤ちゃんを連れて家に帰りました。お乳を飲む力も大変弱いので、お乳を茶碗にしぼってそれを少しずつ飲ませました。また離乳食の時も少しづつそれを噛んで赤ちゃんに与えました。お医者さんには大きな声を出したら心臓に悪いから死んでしまうかもしれないとか、風邪をひいたらすぐ肺炎になって死んでしまうかもしれないと、いつも死ぬかもしれないと言われていました。

 でも玄斗は病気になることもなく成長をして行きました。しかしいつまでたってもなかなか歩くことができません。一年たったころやっと玄斗はその細い足で立ちました。それは大変な感動でした。普通の人にとっては歩くことは大したことではありませんが、このような玄斗にとっては歩くことがすごく大変なことだったのです。
 赤ちゃんはだんだん大きくなって幼稚園に入る歳になりました。この子はあまり体が丈夫でないし、そこで先生はこの子をどうしたらいいのかと悩みました。子供だから当然はしゃぐんですけども、頭が痛いと言ってうずくまってしまうんです。走ったり激しく動かなければ大丈夫だったので、この子の体に合わせてやってれば良いんだと思って幼稚園にいかせようと思いました。
 こんな危ない子供はこの幼稚園では見られませんと言ってみんな断られてしまいましたが、あるキリスト教の幼稚園で見てくれることになり、そこに通わせました。歩けませんから、電信柱から電信柱の間おんぶして、そしてまた少し歩いて、そうするとまた頭が痛いと言って歩けなくなってしまいます。そんなことを繰り返して幼稚園に通いました。でも彼は幼稚園が大変好きでした。

 そして小学生になりました。過激な運動さえしなければみんなと一緒にやれるかなと思い小学校に行きました。玄斗自身は自分の体は弱いということは知っていましたが、病気であるということをまだ知りませんでした。初登校の時に、私はいきませんでしたが、学校の先生がそれをみんなに話したのですね。友達がみんな七人ほど玄斗を囲んで守って帰ってきました。一人の子がランドセルを前と後ろに背負って「玄斗君のおばさん」と叫びながら帰ってきました。その時友達が、「玄斗ちゃんは知らないないんだね」と私に言うんです。先生がそういったよってみんなが言うのです。私は玄斗ちゃんは大丈夫だから頑張るから大丈夫だよとみんなに言いました。そして、玄斗が私に言いました。「学校のトイレで久野君に会ってにこっと笑ったらそれで友達になったんだ。」その久野君が玄斗君のカバンを前に背負って、四年間いっしよに学校に通ってくれました。
 三年生のある時、玄斗が学校から帰ってくるとママと叫んで私にしがみついてきました。校長先生の話を聞いたりする時校庭に出ますよねぇ。学校の校庭で、玄斗は出ないでいると、僕は病気なのに、先生が何を怠けているんだと叱ったというのです。先生は玄斗のことを病気だと知らなかったんだねぇと言っていっしょに泣いていました。
 玄斗は体が弱いなりにいろんなことに耐えていたのです。そして久野君やみんな友達がともに助けてくれて、学校の生活を過ごしていました。ある時国語の本を玄斗はハアハア息をしながら読んだそうです。そしてみんなが玄斗が本を読んだと拍手してくれました。
 ある時学校の先生が、「玄斗ちゃん頼んでいいかなぁ」といって校長先生の部屋へ書類を持ってくるように頼んだそうです。そして玄斗が家に帰ってくると、私はそれを知らなかったんですが、玄斗の目がキラキラと輝いているんですね。「ママ、きょう学校でお手伝いしたんだ」とうれしそうに叫んでいるんです。それを聞いている私は母親として、人は人のために働くとうれしいんだなということを思いました。何もしないではなく、誰かのために何かをしてあげることは素晴らしいことなんです。

 五年生のある日、玄斗はママと大きな声で叫びました。私が駆けつけてみると、玄斗はトイレで倒れていました。身動きできなくなっているのです。これは心臓病の人は、血液が脳で固まって脳血栓を起こしてこうなるんですね。それで玄斗は半身不随になってしまったのです。それですぐ車に乗せて大学病院に連れていきました。私は来る時が来たなあとその時思いました。大学病院の先生に玄斗をお願いし、私は廊下で待ちながら、泣いて泣いていました。そして窓の外を見るとすぐそこには牧場があって、馬がピョンピョン跳ね上がっているのが見えました。馬が何か私に語っているように思いました。
 こんな泣いた私の顔を見たら、玄斗はどう思うだろうか、不安に思うだろうと顔を洗って作り直しました。それから玄斗には、私は笑顔を作りながら言いました。玄斗は「また入院?」と聞いてきました。私は「そうね少し入院ねっ」と答えました。もしそこで私が泣いていたら玄斗はまた大変な病気だろうと思って心配したに違いありません。
 私たち親は、先生から手術が大変難しいということを聞いて知っていましたので、玄斗の手術はしないと決めていました。しかしあるとき主治医の先生が、私たちのいないときに、「玄斗ちゃん、あなたは手術をしないと生きていけないんだよ」と言ってしまいました。ある時私が病室に入ると、玄斗は毛布をかぶっていました。ノートを見ましたら、そこには死ぬことを思うと悲しいということが書いてありました。そして毛布を私がとると玄斗は眠っていませんでした。そして私に向かって、ママ、玄斗は生きられないじゃないかと叫びました。私はその時どう答えようか分かりませんでした。
 玄斗は幼稚園はキリスト教の幼稚園にいましたので、神様のことは知っていました。そこで私は玄斗に対して、「命は神さまのものですよ。先生はそれをなおしてくれたりしますが、命は神様が与えてくださったものですよ、生きるとか死ぬということは神様が決めることなんですよ」という風に言いました。

 そして玄斗はリハビリに頑張ったけれども、ある時私たちは、玄斗をこれからどうしようかということを先生と話し合いました。先生は手術しないといつ転んで大量出血で死んでしまうかもしれないということも言いましたし、また他の先生は私の子供だったら手術しないでこのまま残された命を一生懸命生かしてあげたほうがいいということを言ってくれました。そこで私達は手術を受けることはやめて家に帰ることにしました。
 小児病棟には六人の小人たちが入っていました。そこである女の子がお腹が痛いようと言っていましたが、看護婦さんは忙しいのですぐやって来てくれませんでした。そしたら玄斗が私に向かって、あっちあっちというのです。その女の子のところに行ってあげてということなのです。私はその女の子のところに行って、お腹をさすってあげました。私は、自分の子供だけのことしか考えていなかったけれども、玄斗はちゃんと他の子のことも優しく見ていたんだなぁということを思いました。

 半年ほどして、玄斗はまたすごい発作を起こし、また病院に行くことになりました。治療される中で、玄斗はいっさい口からものを取ることができませんでした。私はそこで、もしこれで生きられないならば、少しでも何か食べさせてあげたいという風に私は思いました。あるとき私は、そこが個室でしたので、ビスケットを玄斗に先生にも看護婦さんにも黙って食べさせようと思いました。玄斗にこれ食べるといって、ビスケットをさし出しました。玄斗はそれを食べると、おいしいと言いました。そうしたら、看護婦さんが四人だーっと病室に入ってきました。病室の隅にはモニターがあって、私たちのやっていることをナースステーションで監視していたのです。「お母さん何やってるんですか」と看護婦さんは叫びました。
 それから玄斗は、点滴とか心電図、チューブで一杯つながれました。ある時玄斗は、ママと叫んで私の手を頬のところに持っていって頬ずりしました。そのときの玄斗の頬の感触が今でも私の手に残っています。そして間もなく昏睡状態になって、寝ることが多くなりました。寝てばかりいる玄斗で、ほっぺたをたたいてもなかなか起きてくれなくなりました。
 玄斗は目を じーっと開いて私の方見つめていました。その時私はもうおしまいなんだなあと思っていました。そうしたら、私に何か力が働いて早く言わなきゃ、早く言わなきゃというような気が、私はしました。
「玄斗、マリア様が見えたら、いっしょに行っていいよ」と私は言いました。そうしましたら、玄斗がうなずいていました。
 間もなく心電図が乱れて玄斗はなくなりました。先生からなくなりましたといわれた時には、私はもうここには玄斗はいないと思いました。ここにいるのは玄斗のなきがら、今まで住んでいたお家と思いました。玄斗は私の心の中にいるように思いました。そうしましたら先生が解剖させてくださいと言ってきました。私の主人はいやならしなくて済むんだよと言いました。私は玄斗と心の中で話していました。「玄斗ちゃん、もうあなたはこのからだから離れてしまったのだから痛くないよね。今までは痛かったけれどももう大丈夫だよね。だからあなたと同じ病気の子が少しでも長く生きられるようにするために、解剖させてあげて下さいね」と私は玄斗と話していました。どうぞお願いしますと私は先生に言いました。私は解剖しても、玄斗の顔を見ていつもと変わらないような玄斗であるようにお願いしました。先生はわかりましたと言いました。
 解剖した結果は、心臓の病気はあまりにも悪くて、もし半年前に手術していればその時に死んでしまっていたかもしれないというものでした。心臓の奇形があまりにも上手に出来ていて、十一歳生きられるだけの心臓の奇形だったのです。それを聞いたときに、私は玄斗は与えられた命を精いっぱい生きた、あっぱれと思いました。
 解剖の後、私は帰ってきたその玄斗を腕に抱きました。玄斗は、大変軽くなっていました。おしゃれな玄斗でしたから、奇麗なトレーナーを着せてあげました。
 学校のお友達がみんなでお葬式に来てくれました。教会でお葬式をしましたから、神父さんが玄斗の棺を開けて、みんなとお別れをさせてくださいました。友達は百人ぐらい来てくれて皆カーネーションの花を玄斗のまわりに飾ってくれました。玄斗は一杯の花で包まれていました。その時お友達はみんながお家に帰ってから泣いたそうです。

 それから私は、いつも玄斗の事を思い出すと泣いていました。台所に立っている時や買い物をしているときでも、それを思い出すと泣いていました。みんなに色々な思い出を作ってくれた玄斗でした。
 生きたくても生きられなかった、たった十一年しか生きられなかった玄斗のことを思うと、私は一日でも一生懸命に生きようと、一日を大切に生きようと思いました。
 玄斗は、体が弱かったけれども学校が嫌だとは一言も言いませんでした。みんなと一緒に走ったりすることもできないので、体操の時などは一人でいなければならないこともあったでしょうが、毎朝いつも楽しそうに出掛けていっていました。
 そして、お友達みんなが玄斗を支えてくれたから玄斗の十一年があったと思います。このお友達に会えなかったら、玄斗の一生は全く違ったものになっていたと思います。きっと玄斗は、優しい友達と一緒に過ごすことができ、今は、天国にいると思います。
 玄斗と仲良しだった久野君の詩を読ませていただきます。

サッカーボール
「空気がたくさんお腹の中に入って太っているボールさん
ボールさん、みんなに蹴られて痛くないの
でも涼しそうね
ひゅーっと蹴られると上がっていろんな景色を見られるものね
ボールさん、良いこともあるし痛いこともあるね
ボールさんてがまん強いね」

 サッカーボールをこんなふうにみられる子はほんとにやさしい子ですね。
 病気を抱えながら一生懸命生きた玄斗のことをどこかに覚えていてくださればと思います。人生にはいろんなことがありますから、人が悲しそうにしていたならどうしたのとひとこと言える子になってほしいと思います。自分のつらかったことを思い出すと、人のつらいことも分かるようになります。