SVA東京市民ネットワークNEWS LETTER「里程標」第5号

疎外、絶望、そして、存続・・・・・・・ 

秀島 一光

 「頑張って」ということばは、励ましのことばと信じられているけれども、受け取る側にとっては、そうでないこともあるということは、考えてみたほうがいい。

 淡路・阪神地域に地震が発生して以来、誰もがこぞって「頑張って」と言いつづけてきた。当初は、励ましのことばに聞こえていただろう。しかし、ほとんど、実効的な手だてが、当事者に届かないまま、1年が経ってしまい、当事者自身ではどうにもならないことまでも含めて、「頑張って」(自助努力せよ)といわれているようにも聞こえてしまうとき、そのことばは、打撃にすり代わってしまっているだろう。

 当事者のおかれている状況に、思い至らず、傍観者として、ただ、ことばだけで「頑張って」というとき−そのことばを発した当人は「わたしってやさしいひとだわ」などと自己陶酔してるのだろうが−そこには、非当事者としての無責任さが潜んでいるということも知っておいたほうがいい。そして、それはなにも、この大震災に限ってのことではない。

 たとえば、政府が大新聞に一斉に一面広告を出したにもかかわらず、この大震災に対する募金の数分の一にも満たない額しか集まらない元従軍慰安婦(日本軍軍隊慰安婦)への基金−私は国家が謝罪しないで民間基金でごまかすやり方には反対なんだけども−そして、その民間基金に反対する立場の「市民基金」はメディアが取り上げなかったこともあって、その数分の一という状況なのである。もちろん、募金の額の多寡の問題にすり替えることではないだろうけども、そのことは関心の反映であることも確かなのだから。

 最近、山口泉という作家でもあり、評論家の存在を−岩波の『世界』に去年の11月号からの「虹の野帖」( 評論文) を連載−知った。彼の著作の『世の終わりのための五重奏』河出書房新社刊から、以下……
「……この世界が滅びることに喜びを見出す者たちの第二のグループとは、この世界において疎外され、絶望し、もはやこの世界の存続に意義を感じられなくなった人々である。そして彼らは考えるだろう−平和を守り、核兵器を廃絶し、自然環境を恢復させ、子どもたちに『豊かな未来』を与えようとするような世界は、ただその世界において恩恵を受ける者、心楽しく暮らすことが出来る者にとってのみ、価値あるものにすぎないのではないか、と……」(p170)

 私たちは、上記のような存在があること、あるかもしれないことについては、いつも、頭の片隅に留めておいたほうがいいだろう。そして、そのような存在の側から、次のようなことばが、発されることの意味も、同時に、噛みしめる必要があるだろう。「だからこそ、僕は−僕みたいに、自分よりも前の人間も、自分より後の人間ももたない、本当だったらこの世界に自分をつなぎとめるものの何もないはずの人間が……その世界の平和を願ったり、そこに生きる人々の解放を望んだりすることには−特別の意味がある、って考えるんですよ」(p171)
 それは、そのようなことばを発してもらえるような関わり方をしているのかということによるのだろう。

1996.1.26.記


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