SVA東京市民ネットワークNEWS LETTER「里程標」第10号

いっしょに考えてみませんか
「ボランティア」のこと

山崎泰弘

 私たちは何故「神戸」へいったのか。この「何故」を考えることから始めました。神戸の人たちは「困っているだろう」、「何か役に立つことができないだろうか」、「とにかく行って何かをやろう」。これが皆に共通した気持ちだったのです。素朴で単純な動機なのです。はじめに、「困っているだろう」と感じることがありました。「感じること」は理屈ではなく「感覚」ですから、「情」であり、感性に属する心の働きです。この働きとはいったいどんな仕組みで人にそのように感じさせるのだろうか。いくつかの解答らしいものを探してみました。
 はじめの答えは、キリスト教世界の「情」としての「兄弟愛」です。パウロの「ローマの信徒への手紙」の12章では、「兄弟の愛をもって(with brotherly love)互いにいつくしみなさい。喜ぶ者と共に喜び(Rejoice with those who rejoice)、泣く者と共に泣きなさい(weep with those who weep)。」とあります。
 キリスト教の世界では、人は神のみに従うものですから、人と人との関係は全く他に拘束されるものではなく、自由で平等なのです。独立しているのです。しかし、孤立しているわけではありません。それは「兄弟愛」で結ばれているからです。でも、行為としてすることは「ともに(with)」ということになります。「役に立つ」とか「役に立たない」とかの以前に、とにかく「ともに(with)」なのです。
 日本語の漢字で「同情」と訳された「sympathy」も、symは「調和する」とか「総合する」とかのことで、pathyは「感情」とか「苦痛」とかの意味であり、「同情する」は「sympathy with」ですから、やはり「ともに(with)」が基本であろうと思います。キリスト教世界の「情」がとても宗教的な動機に基づいていることが、これでよく分かります。
 日本の宗教的な動機の例としては、真宗教団の「同胞(どうほう・ともだち)」が分かりやすいと思います。「歎異抄(たんにしょう)」が伝える親鸞の言葉では、「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まふしたることいまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」となっています。この世にある全ての生命は、仏の前では生まれたときから互いに「父母兄弟(ぶもきょうだい)」であるということなのです。
 昨年は、宮澤賢治の生誕100年でしたが、「雨ニモ負ケズ」では、「東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲束ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコワガラナクテモイゝトイヒ 北ニケンクワヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ」挙句の果ては、「ヒデリノトキワ ナミダオナガシ サムサノナツワ オロオロアルキ」結局は、「ミンナニデクノボートヨバレ」ることになります。
 「同情」とか「父母兄弟」とかは、それが行為となって現れると、どうも「デクノボー」と呼ばれることになるようなもののようです。しかし実際役に立つかどうかではなく、行為することによって、する人も受ける人も心が通じ合って、一つの心や体験を共にすることができるということが貴重なのでしょう。独立した人は誰でも淋しく、孤独で弱いものなのですから、ボランティアを「する人」が「受ける人」から慰められ、そういう「慰め」を求めて「ボランティア」をするということも納得されるわけです。
 では、「する人と受ける人」の心の結びつきが、その人の行為として外に現れた場合、特に「集団」として一つの社会現象となったときに、その行為とその社会との関係はどのようなことになるのでしょうか。パウロの原始キリスト教会はローマ帝国から、親鸞の真宗教団は鎌倉幕府から、いずれも秩序を乱すものとされ相当の処置をされています。その時代の法や制度やそれらを創り運用している社会の価値規範とは異なる価値規範を持って行動する、秩序を乱す集団とみなされたのです。賢治も羅須地人協会を設立し、警察の取り調べを受けています。
 ところで、社会の秩序の基になっている法や制度は、それが創られた理想や理念とそれを実際に運用している人との間で、絶えず相互に検証されなければ、やがてその本来の働きが弱まってしまいます。理想や理念は、日常の生活のなかで、不断の自己純化や自己深化がされることを必要とするものなのです。人にこの働きをさせる能力が「情」の他のもう一つの「考える」ということ、「論理」の能力なのだと思います。
「論理」は「情」を強くし、持続させ、具体的にあらわす方法を教えてくれます。法や制度を否定することではなく、そのそもそもに立ち戻って今を考えることを教えてくれます。それは、ある部分では、今の社会に「実際に働いている」考え方とは別の視点を持つことにもなってきます。「情」は、今の社会と「新しい関係」を持つことを求めるようになります。これは極めて自然な流れのようなものなのです。
 ここで今の「神戸」のことになります。SVA神戸事務所の撤退は、「神戸」での「ボランティア」活動が、身体を使っての役務の提供から、「神戸」にあるいろいろな社会的制約のなかでどのようにして「情」を実現していくかという、「質的転換」をしようとしているのであろうと考えます。社会をつくり、秩序だて、運用している人たちと、相互補完的な協力関係から案件策定段階からの連携協力関係へ、もう一歩踏み出すことを必要とされているのだろうと考えます。
 こう考えてみると、必要とされながら、その能力がほとんど持ち合わせていないことに改めて気づかされます。「ボランティア」の社会的役割とは何であるのか。「ボランティアグループ」と他の社会的集団(国や自治体や企業やマスメディア等)とはどのような関係にあるべきなのか。「ボランティアグループ」相互の関係や、グループ内での個人相互の関係はどうあるべきなのか。考えなければならないことは相当にあります。その前に、考える手がかりとなるポイントは何なのかを勉強しなければならないとも考えられます。
 これをお読み下さった皆さんのお考えはいかがなものでしょうか。今後、私たちは、「何をどのように勉強すればよいのか」をテーマに考えてみることにしました。できたら、是非一緒に考えてみて下さいませんか。毎月第3木曜日の19時から、巣鴨のSVA東京事務所でミーティングを行っておりますので、どなたでもお気軽にご参加下さい。


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