SVA東京市民ネットワークNEWS LETTER創刊号

戦後50周年を迎えるにあたって考えていること

 敗戦により「平和」な出発を始めたと思って50年、武力放棄をうたった憲法の見直しが、最高部数を誇る新聞社によって提示されるような状況になった。

 経済大国なのだから(今日の経済的繁栄を守りたければという意味が陰に含まれつつ用いられるのだが)国際「貢献」−それも自衛隊の活用のみが突出して語られ−するのは国際社会における義務だ、という声に「うん、そうだよなー」と、うなずいてしまう私たちがそこにいる。

 そこに至るまでに何があったのか。

 日本の戦後の経済成長について、私たちは、なにか、それが日本人のみの努力によって達成されたと思っいる(その過程には「構造的暴力」の加害者としての姿が付きまとうという問題点は省みられることはなく、そのことが、なにか、人間の優秀さを計る尺度かの如き価値観となり、「途上」国の人を見下げる高慢さが身についてしまっている)。しかし、その実現は、冷戦下におけるアメリカの対日政策の変更によるところが大きいだろう。

 出発点において、連合国の対日賠償請求権の放棄、そのアメリカの意向と、それを後ろ楯に、アジア各国と高圧的に交渉し、賠償条件の緩和、あるいは、賠償請求権を放棄させしめた。そして、その賠償も生産物・役務・借款の供与というものであり、日本製品の市場確保の役割を担い、疲弊し競争力のない日本の産業にとっては、立ち上がりのきっかけともなった。

 また、朝鮮戦争特需やベトナム戦争特需という、アジア地域での戦争=文字通り「暴力」に加担することにより、戦後の経済的復興と、その後の高度経済成長の下準備に役立てた。そして、円借款−これが累積債務の元であり、債務の返済のために構造調整政策の一環である政府財政負担の軽減を強制されることにより、その借款の恩恵を何ら受けていない貧困層にしわ寄せがいっている現実を考えるならば、この財源が主に私たちの積み立てた年金や郵貯だということも問われなくてはならないのだろう−というODAを用いて、安価な資源が恒久的に得られるようにし、構造的な格差を固定化し、今日に至っている。

 これは、百年前、日清戦争後締結された下関条約に始まる、アジアを踏み台にした「脱亜入欧」、そして、戦前の大東亜「共栄」圏の盟主という姿の延長であり、「ソフト」な実現と言えよう。

 敗戦によって、「平和」な出発をしたはずだったのに、「平和」な歩みになしえなかった、そのことが、戦後50周年を迎えた今、問われているのではないか。

 そして、この百年間の歩みを反省し、新たな出発の年にすることが、ひとつの国際貢献だし、この日本に今を生きている私たちの戦争責任の取り方といえるのではなかろうか。

(秀島 一光)


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