刑法 昭和53年度第1問

問  題

 先行行為に基づく作為義務について論ぜよ。
 

答  案


一 例えば、湖でボートに二人で乗っていたところ、漕いでいる者Aが漕ぎ方をヘマして、他方(B)が湖の中に落ちたとする。この場合、ボート上の漕ぎ手Aが、Bが溺れ死ぬかも知れない蓋然性を認識しつつ助け出さず、結局溺死させるに至った場合、Aは殺人罪(一九九条)の責めを負うのだろうか。
  先行行為に基づく作為義務の理論は、右の場合のAについて、自らの行為によりBが溺れ死ぬ危険性を作り出した以上、AはBを救う作為をする義務を負い、右作為義務に反する不作為をしたAに殺人罪の責めを問いうるようにするものである。一般化すれば、自らの行為により法益侵害の危険を作出した以上は其の法益侵害の結果の発生を防止する作為をしなければならないとするものである。
  では、先行行為に基づいて作為義務が発生するという考え方は妥当か。作為義務というのは明文上無い概念であるから、作為義務というのが必要とされる根拠に遡って考えてみたい。

二 作為義務というのは、不真正不作為犯の成立を基礎づける概念である。冒頭の例で言えば、救助しないという不作為が「殺した」という一見作為を意味すると思われる要件に該当することとされるのは、「人を救え」という作為義務が存在し、其の作為義務に反したからこそ「殺した」と評価されることとなるからなのである。
  右のように不真正不作為犯の成立に作為義務が必要とされるのは、不真正不作為犯の成立する範囲を限定するためである。例えば、冒頭の例で当該ボートの周りにはC、Dがそれぞれ乗っているボートがあったとした場合、CやDの不作為によってB溺死という結果が生じたとも評価できる。このように不作為犯の場合、結果発生と因果関係のある不作為をした者は多数考えられるので、不作為犯成立の範囲が因果関係では限定できないそこで、不作為犯成立の範囲を明確化するため、作為義務を一定の範囲の者に課し、当該作為義務を負う者の不作為のみが構成要件に該当するものとしたのである。

三 このように作為義務が不真正不作為犯の成立範囲を明確化しようとするものだとすると、先行行為に基づき作為義務が生ずるとする考えは妥当なようにも思われる。「水からまいた種は自ら刈り取れ」という考えは社会通念にあったものであり、不真正不作為犯の成立範囲を明確にするものといえるからである。

四 しかし、先行行為だけで作為義務が基礎づけられるというのでは、不作為犯の範囲は広きに失するのではないか。冒頭の例でも、殺人罪の成立が認められると、実質的には、過失行為について故意犯の責めを問うことになってしまい、妥当でないと考える。
  思うに、刑法というのは強い害悪を加えるものであるから、その適用はなるべく控えめにすべきである(刑法の謙抑性)。とすれば、不真正不作為犯の成立は特定の者の作為がなければ法益保護が図れないという場合に限るべきで、作為義務が課されるのもそのような場合、具体的にはある者が法益を排他的に支配している場合に限るべきである。したがって、冒頭の例で、周りに救える人が何人もいた場合には、法益を排他的に支配していたといえないので、作為義務が発生しないとすべきである。
  また、よく問題となるひき逃げの事案についても、先行行為に基づく作為義務を全面的に認めれば、死亡の蓋然性を認識して逃げ去れば殺人罪ということになろうが、そのようにすべきでない。被害者の生命について排他的支配を設定、継続したという場合、例えば、被害者を自らの車に乗せ、一定時間走行し、その車内で被害者を死なせたという場合にはじめて殺人罪を認めるべきである。

五 このように作為義務の成立には排他的支配の有無が重要なのであり先行行為に基づき直ちに作為義務が生ずるものではない。
  しかし排他的支配の有無だけで作為義務の存否を決するのは妥当でない。自宅の庭に赤ん坊が捨てられた場合のように自らの関知しない事情によって排他的支配を有したときに作為義務を認めるのは妥当でないからである。したがって、排他的支配を有するに至るについて自らの意思に基づく先行行為があることが補充的に作為義務を根拠づけるものとして働くこととなると考える。

以 上


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