●第2章 同人にとって家庭とは−許容域をめぐるせめぎあい−
*2−1 同人活動に対する、家族の許容域
同じレベルの同人活動をしていても、家族と戦争中の人がいれば、平穏無事に過ごしている人もいる。これは、家族の理解、世間体に対する感度、同人の家族に対する振る舞いなど、幾つかの要因がからんでいる。 この現象は、簡単な模式図を作成すると理解しやすいが、その前に「世間のモノサシ」というものを再確認しておく必要がある。
幕張メッセで日本最大の同人誌即売会(コミックマーケット)が開かれていた頃の話。メッセ本館の二階通路には、即売会のサークルスペースが見渡せる場所があった。その日は隣で別の全く展示会も催されていて、そちらの方が目当ての家族連れが二階通路を通りかかった時、コミックマーケットの会場を偶然見ることになった。
「ぐえっ、何だこりゃ。」
「ナントカのマーケットだって。」
「あっ、マンガが何かの。」
「う゛わーっ、気持ちわるーい。いこいこ。」
といった言葉が連発されていた。それも一組や二組ではなく、あの光景を見た家族のほとんどが同様の反応をしていたという。同人関係者には異論も多かろうが、世間の認識はまあこんなものだ。そして、多分同人関係者の家族がこの場に来たとしても、同じような反応をするのではないか。
同人誌即売会に出入りしていることを「外部」の人間に知られることを極度に恐れる同人は数多い。うそだと思うならば、取材腕章=「外部」の象徴をつけて会場を一回りしてみたらいい。彼ら/主に彼女たちは一様に視線をそらし、取材腕章が通り過ぎるのをひたすら待つしぐさを見せる。頼むから放っておいてくれ、秘密なのだから、学校の友達や家族には絶対に知られたくはないのだから、という意志が背後から突き刺さってくるのを感じるだろう。
一般に、しつけの厳しい家庭ほど「一般の常識」に厳しく、世間体というものを非常に気にする。先のしぐさを見せた彼ら/彼女たちの多くは、多分しつけが厳しくて、なおかつ世間体に過敏な家庭に育っているのだと想像する。「一般の常識」が下す同人誌への認識と家族の特質を勘案した結果、(自分の)同人活動を偏見なく理解してもらうことにほとんど絶望しているのではないかと思う。もし、このまま家族に知られるところになれば、どのような干渉が加えられるかを知っているからこそ、秘密が破られてはならないのだ。
「世間のモノサシ」とやらが見えてきた。まとめると、次のようになる。
◇家族空間は、世間一般の常識に従う。
◇世間一般の常識は、同人活動に対して理解があるとは限らない。
◇世間体に敏感な家族ほど、同人活動に対し「一般の常識による干渉」を行う。
これを前提とすれば、以下の模式図が導かれる。
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この模式図から、次のようなことがわかる。 世間体に構わないか放任状態の家庭では、同人活動が相当のレベルにあっても、甚だしきは学業や仕事を投げ出して同人活動に熱中しても、あまり問題にされることはない。また、家族が同人活動をよくわかっていない場合も同様である。
一方、世間体に敏感な家庭では、漫画が好きだ・漫画本を買い集めているらしいといった程度の認識(商業誌と同人誌を区別する概念はない)ですむ低い活動レベルの場合はともかく、レベルが上がって親の知るところになると、たちまち摩擦域に入っていさかいが引き起こされる。しかし、後述するように家族が同人活動に対し理解を示せば、その限りではない。
*2−2 活動公表の有無による分類(第2類)
今、まさに家族と戦争中という話はあまり聞かないから、本来は摩擦域に入る同人も何らかの形で許容域に収まるような「工夫」がなされているものと推察される。家族に同人活動が知られることを避けることも、立派な「工夫」の一つである。即売会の会場で取材腕章を避けるしぐさも、同じ心理によるものであろう。そのような「工夫」ををする彼ら/主に彼女たちは、当然の事ながら同人空間に関わりのない「外部」の人、すなわち家族やクラスメイト・同僚には自分が同人のはしくれであることすら話さない。まして、自分が同人空間でどのような活動をしているかなどは話すはずもない。
一方、自分が同人活動をしていることを「外部」に公表してはばからない人もいる。前者を隠れ同人、後者を公表同人と呼んで定義してみよう。
◆「隠れ同人」
同人空間と無関係な人には、自分が同人活動をしている事を公表しない同人。
◆「公表同人」
同人空間と無関係な人にも、自分が同人活動をしている事を公表する同人。
*2−3 許容域に収める工夫
隠れ同人は、その行動自体が摩擦回避の「工夫」であるからまだしも、公表同人はよほど“恵まれた”環境にでもいない限り、高い確率で摩擦域に入ってしまう。しかし、まだ「工夫」の方法はある。 ここで、同じ位の活動レベルにある4人に登場してもらい、先の模式図にあてはめてみた。
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この図によると、A太は許容域の内側にある。ほとんど放任状態といっていいっていいのだが、摩擦の有無という限りにおいては問題はない。残りの3人は摩擦域に入っている。しかし、家族とのいさかいに明け暮れているわけでもなく、みんな平穏無事に暮らしている。その理由を確かめると以下のようになった。
B子は典型的な隠れ同人で、家族に知られないよう活動している。だから、漫画が好きな娘と思われている程度で済んでおり、見かけ上の活動レベルは充分許容域に収まっている。
C美の活動レベルは家族に筒抜けで、このままでは摩擦は避けられない。しかし、C美の学業成績は極めて優秀で、この成績をキープする限り、同人活動を黙認してもらっている。同人活動を認めさせる特殊因子によって摩擦を回避しているわけだ。
D吉は、家族との長年にわたってバトルを繰り広げていたが、最近ようやく黙認を勝ち取った。既に実家を出てアパート住まいをしており、黙認というよりは勘当に近いかも知れないが、家族を諦めさせる特殊因子によって平穏を取り戻したということか。
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もちろん、これらは単純化した一例に過ぎず、実際はもっと多くの因子が複雑にからみあっているだろう。けれども、結局のところ、突き詰めていけば以上の例かその組み合わせで説明できるのではないだろうか。 全くの放任家庭ならいざ知らず、つまるところ家族に理解(黙認)されておれば同人活動にいそしんでも差し支えないわけで、許容域へのパスポートは以下のように整理出来よう。
◇見かけ上、家族に理解される活動レベルを下げる。[隠れ同人の工夫]
◇特殊因子(家族に認めさせる/家族を諦めさせる)によって黙認を得る。[公表同人の工夫]
*2−4 まとめ
一般に、家庭は世間の常識に従って暮らしている。世間の常識は、同人活動に理解があるとは言い難い。どの家庭にも多かれ少なかれ常識の論理=世間体があり、世間体に過敏な家庭に住む同人ほど、同人活動のために家族と摩擦を引き起こす確率が高くなる。この理屈には多分に世間の偏見や無理解がまじっており、同人には不本意な表現かも知れない。
だが、このように判定されてしまう現実がなくならない限り、無視するわけにはいかないだろう。 偏見や無理解からくる無用な摩擦を避けるために、活動レベルの高い同人は多かれ少なかれ「工夫」をしなければならない。(いわゆる放任家庭なら「工夫」は無用だが、自分が何をしていても関心をもたれないわけで、そのような環境が果たして理想的かどうか。)
実際はB子のような隠れ同人のケースが圧倒的に多いと思う。同人活動を一種「秘密」にすることが悪いわけではなく、現状に適応する知恵とも言えるが、同人空間のイメージ向上のためには役立つまい。もっとも、本気で同人活動の魅力を積極的にアピールする気でもなければ、やはりこの選択が無難かつ現実的だろう。
望ましいのはC美のケースである。こそこそ隠すことなく実力で同人活動を認めさせる彼女のバイタリティーは、家族の偏見を解き、世間の常識とやらをもほぐしていく原動力になるだろう。ただ、いくら認めてもらっているといっても、本当に理解されたからとは限らない。
卑近な例を一つあげよう。その男は、同人関係者の間ではちょっと知られた顔であり、活動レベルもそれなりに高い。彼が即売会などで何をしているかは親もある程度は把握しているようであり、本人も(本業を)やるべきことはやった上で趣味の活動を認めさせる、C美タイプを自称している。 ある日、彼の家に電話すると、彼は不在で母親が出た。ひととおりの応対のあと、母親はこう付け加えた。「うちの息子は本当に変わってるでしょ。あんな子だけれども、仲良くしてあげてちょうだいね。」
同人の世界でどんなに有名な彼でも、多くの人から慕われているように見える彼でも、親の手にかかれば所詮はこんなものだ。やはり、親は世間の常識の子であり、その子の活動は悩みのタネなのであった。黙認しているといっても、見ているところはよく見ているのだ。