●「もののけ姫」の関連テーマを考える
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●「たたら」の歴史について 1997/12/10




●エボシ御前と「権力」 1998/03/13




●「業病」ことハンセン病について 1998/04/12











 
●「たたら」の歴史について



*歴史的に注目されなかった金属精錬
 「もののけ姫」は中世の日本を時代背景として想定しているが、歴史的に馴染みの深かった武士や農民はあまり描かれず、金属精錬(製鉄作業)に従事する「タタラ場」の人々にスポットが当てられた。

 古代より、金属は銅鐸など儀式用の神器・祭器として重用され、鍬や鋤などの実用的な道具としても大いに利用されてきた。しかし、金属を精錬するためには、まず原料となる鉱物を探すことから始めなければならず、燃料としての木材も大量に必要とし、非常に困難を極める事業でもあった。8世紀初頭、元明天皇の時代に秩父の黒谷で自然銅が発見されたとき、年号が和銅と改められたが、金属の発見と精錬がいかに重要視されていたかを表している。

 しかし、金属精錬に従事する人たちの存在は、その任務の重要性ほど歴史の表舞台には登場しなかったし、その記録もあまり伝えられていない。その理由の一つには、日本は歴史的に農村社会であり、一カ所の土地に定住して稲作に従事する人たちが大多数を占めていた社会だったからということが挙げられる。金属精錬の従事者は、長期の定住を前提とせず農民のような季節を巡る一定のリズムも持たない。それゆえ、日本の社会では例外的な存在と見なされがちであった。さらに、柳田国男に代表される日本民俗学は、基本的に稲作文化にまつわる農村の研究が中心であり、金属にまつわる伝承はあまり熱心に研究されなかったことも、金属精錬の従事者が注目されてこなかった理由のひとつに数えられる。




*タタラ場製鉄の実際とその変遷
 山陰地方では、砂鉄を原料とする鑪(タタラ)製鉄が、古代より行われていた。特に島根県の出雲地方、石見地方は、その南の美作・備中地方とともに良質の砂鉄がとれる花崗岩地帯であり、『出雲国風土記』に「諸郷より出すところの鉄堅くして尤もくさぐさの具を作るに堪えふ」と記載されているように、古代よりタタラ製鉄の中心地帯であった。

 鑪(タタラ)は、古くは「野鑪」といって、地面に土炉を築いただけの簡単な設備であったとされている。中世から近世になると、製鉄技術の進歩によって恒常的な施設で製鉄を行う「永代鑪」に移行していった。「もののけ姫」に登場するエボシ御前のタタラ場は、その設定が室町時代であることを考えると、相当に大規模で先鋭的な「永代鑪」をもっていたといえる。

 タタラ場は、原料の砂鉄と木炭を確保する必要性から、普通は人里離れた山間部に設けられた。そして、山内(さんない)と呼ばれる居住区域に寄り集まって、一種閉鎖的な共同体を作り上げていた。タタラ師は、基本的には熟練を要する特殊な技能集団であり、鉄の売買、米や日用品の輸送などといった取引を除くと外界との交流はなく、土地の農民も彼らをゲダイモンを呼んで区別していたという。しかし、農閑期を中心に農民達がタタラ場へいわゆるパートタームに出かけて副収入を得ていた例も少なからずあったので、タタラ集団が全く閉鎖的だったわけではない。なお、タタラ場と農村との間における鉄や米・日用品の輸送には、一般に馬が用いられた。「もののけ姫」では牛が輸送の主役を担っていたが、史実としては、牛が用いられた例は少なかったのではないか思われる。

 原料となる砂鉄は主に山間部で産出された。砂鉄のことを小鉄(コガネ) 、これを含む山を鉄穴(カンナ)山、砂鉄を含む土砂をそれを水に流して砂鉄をすくいあげる作業を鉄穴(カンナ)流しと言う。カンナ流しは、大量の土砂を川に流す作業である。土砂から砂鉄を分離するとき、最初の土砂に含まれる鉄分はわずか数%に過ぎず、カンナ流しを繰り返すことによって最終的に80%以上の純度まで高めていく。しかし、その分の土砂はすべて流れてしまうのであるから当然ながら川の水は赤色に濁ってしまう。「もののけ姫」の作中でも、川が赤く染まっている場面があったが、これはまさに上流のタタラ場でカンナ流しが行われていたためであろうと思われる。

 中国山地の石見地方では最大といわれる矢上盆地は、もともと起伏に富んだ地形であったが、長年にわたるカンナ流しによって、その8割が平地化されてしまったといわれている。また、島根県の江川には赤井谷川という支流があり、同じく支流である矢上川は、別名濁川と呼ばれており、下流の江津市金田には濁畑という地名もあるが、これらはいずれも川が赤く濁っていたことにちなむ命名である。土砂を大量に含んだ濁流は、下流の田に流れ込んで土砂を堆積させる。そのため、タタラ場と農民たちとのトラブルが絶えなかった。そのため、カンナ流しは秋の彼岸から翌春の彼岸までの間に限るという協定が結ばれ、両者の共存が図られた。

 さて、製鉄の中心となる「永代鑪」には、高殿と呼ばれる建物の中に粘土で釜が築かれ、その両側に蹈鞴と呼ばれる送風装置が置かれていた。(鑪、高殿、蹈鞴、すべてタタラと読まれる。) 銑鉄を取り出すには、炉に砂鉄と木炭を交互に入れ、三昼夜、あるいは四昼夜の間送風を続けることを必要とした。炉に送風する作業は、それ自体が大変な重労働であった。なお、「もののけ姫」で描かれた送風装置は、蹈鞴より進歩した天秤鞴(ふいご) と呼ばれるものである。これは比較的新しい時代の登場したので、室町時代にはまだ普及していなかった。もっとも、これを使った送風作業(タタラ踏み)も重労働であることには変わりがない。

 ところで、史実におけるタタラ場は、本来浄めが厳重な場所であり、出産・月経などの赤不浄を極度に嫌ったという。タタラ踏みの要員も通常は男性であり、「もののけ姫」で描かれたように、若い女性ばかりでタタラを踏む例はほとんどなかったのではないかと思われる。

 タタラ製鉄は、江戸時代に入っても増大する鉄需要をよく支えた。しかし、明治時代になって洋鉄とその製法が入ってくると、近代的で大規模な製鉄所が交通の便のよい各地の海岸地帯に建設されていった。それに伴い、生産規模が小さく、交通の不便な山奥に立地する従来のタタラ場は次第に減少していった。現在では、美術品としての日本刀を生産するためといった特殊な需要に応えるために細々と生き残っているだけである。伝統のカンナ流しも、大正時代から昭和に入っても一部の地方でかろうじて残っていたが、昭和46年に水質汚濁禁止法の施行によって禁止され、ついにその歴史を閉じた。





 
●エボシ御前と「権力」



*「タタラ場」の権力システム
 エボシ御前が率いる「タタラ場」は、言うまでもなくタタラ製鉄を行う一大工場として描かれていた。そこには、直接製鉄に携わるタタラ者だけにとどまらず、砂鉄を採取する人々、鉄や食料を運搬する牛飼い、傭兵部隊ともいえる石火矢衆、あるいは「タタラ場」を守るための武器を開発する人々までが一緒に暮らしていた。「タタラ場」の中には、製鉄に関連する設備だけではなく、家畜の世話をしたり食料を煮炊きしたりする生活臭の漂う「街」と呼べる区画があり、周囲には堅固な城壁が張り巡らされ、さしずめ都市国家としての様相さえ漂わせていた。

 「もののけ姫」では、「タタラ場」どのようにして成立したのかについて詳しくは語られない。エボシ以前も、もともと小規模なタタラ集団が神々の山の近くで操業していたようである。しかし、そのタタラ集団は常々山の神(ナゴ)に苦しめられており、ある日石火矢衆を従えて現れたエボシがナゴを退治するとともに実権を握り、「タタラ場」として要塞化していったものと思われる。

 エボシ御前は、直接製鉄を指揮していたわけではなかった。製鉄の実務は従来からのタタラ者(村下)に任せていた。石火矢衆も、もともとの所属は師匠連という謎の組織であり、シシ神退治を条件に貸し与えられた傭兵であった。それでも、エボシ御前が「タタラ場」のリーダーとして君臨できたのは、エボシ御前の持つ「権力」によるものに他ならない。病者を引き取り、売られた女を集めてきて働かせることが出来る者、まさに「権力」の裏付けがあるからこそである。では、そのエボシ御前の持つ「権力」とは何だったのだろうか。

 一般に「権力」というと、「支配」の側面だけが想起されがちである。しかし、何故権力が「支配」を行いうるかというと、それは権力のもつ「保障」の側面があるからである。「権力」は、人々の生活を何らかの形で保障することを理由として形成されている。

 エボシ御前は、社会では差別されたり排斥される存在であった病者や売られた女を「タタラ場」に引き取り、その生活を保障した。エボシ御前は石火矢衆を使って「タタラ場」からナゴの神の脅威を取り除き、襲撃から米や鉄を運搬する牛飼い衆を護衛することでその安全を保障した。製鉄の安定した操業は、「タタラ場」に充分な食料をもたらし、それは石火矢衆の生活をも保障することにもなった。エボシ御前は、人々の要に位置し、人々の生活と安全を「保障」し得たからこそ、「保障」と「支配」=「権力」を持ち得たのである。

 支配者は、往々にして「支配」のみに目を奪われ、「支配」=「権力」という考えに陥りがちである。しかし、エボシ御前は謙虚であった。常に冷静沈着に振る舞い、決して偉ぶることはなかった。そして、最小の「支配」で最大の「保障」を「タタラ場」にもたらす術を心得ていた。だからこそ、様々な出身階層で構成された、雑多な「タタラ場」の人々をうまくまとめあげることに成功していたのであろう。

 エボシ御前が握っていた「権力」は、「タタラ場」の外にも及んでいた。エボシ御前の鉄は、市場で売りさばかれ、主に米と交換された。タタラ操業は、大規模になればなるほど、より少ないコストで良質の鉄を生産することが出来る。鉄製品の数々は人々の生活に欠くことが出来ないから、安価で高品質なエボシの鉄は、市場で強力な主導権を持っていたものと思われる。

 市場を支配する力は、すなわち「権力」である。エボシ御前の「権力」は、鉄を扱う商人を潤し、人々に鉄製品のある豊かな生活を保障した。

 当地の武将であるアサノ公方も、何とかエボシ御前を支配下において、製鉄の利益を吸い上げようと目論んでいた。それが実現できなかったのは、まさにエボシ御前が市場において強力な「権力」を有していたからに他ならない。もし、力関係の上で「タタラ場」の方が市場より弱ければ、足下を見られて買いたたかれたであろう。あるいは、女たちが作った=穢れた鉄ということで、さらに安値でしかさばけなかったかもしれない。しかし、エボシ御前が率いる「タタラ場」の鉄は、そのような偏見の入り込む余地のないほどの価値をもって君臨した。「タタラ場」の鉄は、エボシ御前の「権力」によってその品質を保証され、市場でも価値を与えられたのである。

 ところで、もしアサノが「タタラ場」を屈服させようと企てるとしたら、防御堅固な「タタラ場」を攻めるよりも、単に「タタラ場」への食料供給をストップさせた方が余程簡単であった。何故なら、「タタラ場」自身は食料を生産しないので、食料の供給を絶たれたら、たちまち飢餓に見舞われるからだ。

 しかし、アサノが持っていた「権力」では、「タタラ場」への食料の流れを阻止することは出来なかった。アサノが「タタラ場」に食料を売ることを禁じれば、当然市場への鉄製品の供給も止まる。そうすれば、鉄の取引で生活する商人や鉄製品を消費する人々に深刻な影響をもたらす。力関係でいえば、「タタラ場」が飢えるより先に、これらの人々の方が立ち行かなくなるであろう。アサノはそれらの人々の生活まで肩代わりすることは出来なかった。つまり、アサノは人々の生活を「保障」し得なかったからこそ、最後には軍事力に頼って直接「タタラ場」を攻めざるを得なかったのである。軍事力に頼った時点で、アサノは既に負けていたとも言える。

 映画では、「タタラ場」とアサノの戦いは首なしデイダラボッチの出現でうやむやになってしまったが、これがなかったとしても、アサノが「タタラ場」を軍事的に攻略出来たかどうかは疑わしい。何しろ、「タタラ場」はアサノ側を上回る新型の銃を量産しており、むやみに攻撃を仕掛けてもアサノ側に犠牲者を増やすだけだっただろう。アサノに唯一の可能性があるとすれば兵糧攻めしかないであろうが、エボシの率いる軍勢が「タタラ場」に引き返してきたら、アサノ軍は挟撃されて壊滅するのが関の山だったろう。




*経済権力の象徴=「タタラ場」
 「タタラ場」の銃は強かったが、何よりも強かったのは、そこでの生産物である鉄そのものであった。鉄製品を背景とした市場の支配は、経済的な「権力」を象徴するものであった。その本質は「市場の所有」である。エボシ御前は、「タタラ場」で生産した鉄を売りさばく「市場」を所有(制覇)していたのである。これは、アサノが所有していたと「領地+農民」の概念とは異なり、いわゆるシマ、なわばりとも言うべき法的土地所有とは異なる次元に成立していた「所有」である。正確に言えば、アサノの領地と農民が封建的所有であるならば、エボシのそれは近代的所有であり、「市場」の制覇である。アサノのような封建的支配と重複するものではないので、エボシはしかるべき税さえ払えば「タタラ場」はアサノと充分共存できたはずである。しかし、「タタラ場」のもつ「権力」は、アサノに税を払う必要もないほど強大なものであった。封建的領地を必要としないエボシ御前は、アサノの領地はもちろん、領地の概念をも超えた「市場」で経済的実権を握り、君臨していたのである。アサノの焦りも理解できようものである。

 日本の支配者といえば天皇であるが、「もののけ姫」の時代背景となった中世においては天皇の政治的権力は失墜しており、宗教的な権威を保っているだけであった。各地域を治めていたのはアサノをはじめとする武家であり、土地と農民を不可分のものとして扱う封建的支配を特徴としていた。ここで、「タタラ場」に君臨するエボシ御前が握っていた「権力」は、紛れもなく「経済権力」であったと言える。それは、一般的には市場経済が成立した近代以降の概念として理解され、封建的支配とは元来矛盾するものであるが、中世の日本は封建経済下にあっても、ある程度の近代的市場経済が成立していたから、エボシのような勢力が存在しても歴史的に矛盾するわけではない。実際、史実におけるタタラ場も、その経済力を背景にして相当の独立性を保っていた。

 このように考えると、「タタラ場」は中世における経済的権力の拠点として機能していたと理解することが可能である。「タタラ場」は日本国内に位置するが、天皇の宗教的権威は及んでいなかった。また、「タタラ場」はアサノの領地内(正確には、アサノの領地のうち人間の力が及ぶ地域=農村部と及ばない地域=シシ神の森との境界である)にも位置しているが、アサノの政治的権威も及んでいなかった。そして、「タタラ場」の経済的権威は、鉄製品が流通する「市場」の広い地域にまたがっていた。
支配者 権力の種類 権力の及ぶ範囲
天皇
宗教的権力

日本全土
(ただし、日本全土へは宗教的影響を及ぼすのみで、政治権力は武士階級に握られていた。)
アサノ
政治的権力

アサノの領地内
(ただし、その支配は安定せず、常に隣国から征服される危険性もあった。)
エボシ御前
経済的権力

日本全土
(ただし、鉄の「市場」に対する主導的影響力を持っていたという意味であり、人々を封建的に支配していた訳ではない。)




*"都市国家"としての「タタラ場」
 また、「タタラ場」は、単なる製鉄工場ではなく、一種の"都市国家"としての機能さえ果たしていた。それも、外部から原料を調達し、生産物の市場を外部に求める植民地国家に類似した経済活動を行っていた。すなわち、森から原料(砂鉄)と燃料(木材)を調達し、「タタラ場」の内部に設けた巨大な生産設備で鉄製品を製造し、それ市場で売却することによって得られる資金によって食料を調達していたのである。

 植民地国家の場合は、原料の調達先と製品を売却する市場を同じ植民地に求めるが、「タタラ場」の場合は異なっていて一方通行の流れが出来ていた。森は、原料を収奪されるだけの存在であった。植民地国家の場合、原料と製品の経済的な流れを確かなものにするために政治的権力(植民地を政治的に支配する)を必要とするが、シシ神の森はもともと天皇の力も武士の力も及んでいなかったから、エボシ御前は原料調達のための政治力を考慮する必要がなかった。問題があるとすればモロ一族の怒りであるが、それさえ恐れなければ自由に山を削って原料を運んで来ることが出来た。

 そして、エボシ御前は製品の売却のための政治力も必要としなかった。もっとも、これはエボシ御前が鉄市場を牛耳ることを制御出来るだけの政治力をアサノが持っていなかったからであるという側面が強い。アサノの領民は「タタラ場」から徴税される訳ではなく、鉄と食料の交換という経済活動によって相互に利益を得ることが出来たが、アサノは政治的権力を背景に徴税するだけだったからである。アサノの居城周辺には中世の封建的な"都市"が発達していたが、それは強力な経済的権力を持った"都市国家"である「タタラ場」に対抗することは到底不可能であった。

 このように考えていくと、エボシ御前は単に経済力を持つだけの企業家ではなかった。小なりとはいえ、「タタラ場」という領域を統治する政治家でもあり、シシ神の森を恐れず、これと対決することさえ厭わない思想家でもあり実践家でもあった。エボシ御前は、「タタラ場」とい"都市国家"の元首として君臨し、天皇やアサノと対等以上に渡り合っていたと言える。
一般的な本国と植民地の関係 「タタラ場」と森・農村の関係
本 国

(政治・経済権力の拠点)
生産設備 製品の加工


原料↑ ↓製品

植民地

(原料の供給地と製品の市場)



本国は、植民地の領土と人民を保有し、製品の「市場」を持っていた。
(政治権力+経済権力)

植民地は、原料の供給地でもあり、製品の市場でもあった。

(本国が植民地に宗教を布教する場合、本国は宗教権力の拠点と
しての機能をも持った。)


 森 
(原料の供給地)
原料↓ 
「タタラ場」
(経済権力の拠点)
生産設備 鉄製品
製品↓ 
アサノの領地ほか
アサノの居城
(政治権力の拠点)
(鉄製品の市場)

アサノ公方は、領地と農民を保有していたが(政治権力)、
「タタラ場」は、アサノの領地という「市場」を持っていた(経済権力)。

原料供給地としての「森」は一方的に収奪されるだけの存在であった。

(宗教的権力としての天皇の力は、ここにはほとんど及んでいない。)






 
●「業病」ことハンセン病について



*「もののけ姫」とハンセン病
 「もののけ姫」には包帯で全身を覆った病者が登場する。エボシ御前は、タタラ場で作業している包帯で巻かれた人々の病気は「業病」である、と表現した。「業病」には、難病・直りにくい病気という意味も含まれるが、ここではハンセン病=いわゆる癩(らい)病のことを指していると思われる。実際、癩(らい)病の患者は差別の対象であり、社会から排斥される存在であり、特に近代以降にその傾向が顕著になった。特に、明治時代、ハンセン病患者を隔離する法律が作られ、患者は強制的に隔離施設へ収容されることになった。それは、公権力による合法的な差別であり、ハンセン病患者に対するいわれなき偏見が増幅される素地にもなっている。そのため、ハンセン病=伝染病ではなく治る病気であることが分かった後も、偏見は長い間色濃く社会に残っている。東京都の東村山市には、「全生園」というハンセン病患者を隔離・収容した施設がある。宮崎駿氏の語録には「『全生園』に行ってごらん。それまでの人生観が変わるから」というくだりがあるが、氏がこのように「全生園」訪問を勧めるということは、氏がハンセン病をよく理解しようとしていたことがうかがわれる。
 ここでは、ハンセン病と社会との関わりについて考えてみる。



*ハンセン病とは、どのような病気か
 ハンセン病は、細菌による感染症の一種で、らい菌(Mycobacterium)という細菌が体内に入り込み増殖することで引き起こされる。主に体内の末梢神経が侵されることによる知覚まひ、運動まひなどが生じ、手足や顔に皮疹、結節(こぶ)が出来たり、眉毛が脱落したり脱毛したりする、いわゆるハンセン病特有とされる症状が引き起こされたりする。

 らい菌は人間の神経と親和性が高いため、簡単に神経の中に入り込む。また、らい菌は比較的温度の低いところを好むため、人体の中でも手足の先や鼻、目、耳などの部位の末梢神経で増殖しやすい。そのため、他の病気に比べて外見からみて分かりやすいところに変化が生じるため、「癩にかかると指が腐っておちる」「鼻が溶けてなくなる」などと呼ばれ、差別の原因になってきた。(ただし、これらは神経障害が引き起こす二次的な症状であって、いわば後遺症に過ぎない。)

 ハンセン病は、極めて進行の遅い病気の一つとされている。ひとつのらい菌が分裂するには数週間かかりる。他の病原菌、例えば赤痢菌やコレラ菌は約1時間に1回分裂し、1つの細菌がたちまち数百万個にも増えて病気を引き起こすことを考えると、らい菌による病気は極めてゆっくり進行する。感染しても、体内で菌が増えて実際に症状として現れるまでに平均数年、ときには数十年に及ぶ長い期間がかかりる。そして、発病に時間がかかる分、治療にも長い時間がかかり、数年から十年以上にわたる治療・服薬が必要とされる。

 ハンセン病は、かつて癩(らい)病と呼ばれていた。癩(らい)病は、昔より毛穴から侵入する伝染病であるとする説や、仏罰による報いであるとする説などがあった。江戸時代以降は家筋説=遺伝説が広く信じられていたが、1873年(明治6年)にノルウェーのアルマウエル・ハンセン氏によってらい菌が発見されると、伝染病ということになってしまった。ここで、病気に対する理解の不足や差別・偏見が重なって、患者は社会から隔離される方向へ進んでいくことになった。
*ハンセン病とは、どのような病気か

・発病すると手足に神経障害を引き起こす。昔は癩(らい)病と呼ばれていた。
・感染症の一種で伝染病ではないが、昔は伝染病と考えられていた。
・今では完全に直る病気であるが、昔は不治の病と考えられていた。




*ハンセン病患者は、何故差別されてきたのか
 ハンセン病を引き起こすらい菌は、結核菌と近縁関係にある。しかし、結核が主に肺の中や骨、腸など体内で病気が進行するのに対して、手足や目・鼻・耳・頭髪など外見の目立つ部分に障害が現れるため、それだけ忌み嫌われ、偏見を生むことになった。

 ハンセン病は慢性の病気で症状の進行は極めてゆっくりした病気で、必ずしも命を落とす病気ではなかった。治療薬のなかった昔でさえも、免疫力低下などによる他の病気を併発しない限り、つまりハンセン病だけが原因で死ぬことはあまりなかったといわれている。ただし、それがかえって長期間にわたって外見上の障害が人々の目に触れることになり、一層の偏見と差別を助長することになった。

 そして、長い間病気の原因が分からなかったことも、差別を生み出す要因になった。その昔、癩(らい)病と呼ばれたハンセン病は、「業病」や「天刑病」と呼ばれ、「過去に悪いことをした報い」とか「天が罰している刑」などとされ、差別されてきたという。

 そして、差別においては何よりも社会的な要因が強く働いていることを見逃してはならない。もともと、らい菌の感染力は、未だ培養が成功していないことから見ても極めて弱いものであり、仮に感染しても実際に発病する発症力は更に弱いとされている。その割合は他の感染症に比べて非常に低く、1000の感染につき発病に至るのは1例以下といわれるほどである。しかし、このような感染力が弱い菌であっても、体内の免疫系が弱っている状態、すなわち衛生状態や栄養状態が悪い状態にあれば、感染・発症する危険性は高くなってしまう。

 結局、もともと社会的に差別され、慢性的に飢餓や貧困に直面している人達がより高い確率で感染・発症することになり、社会的差別と病気の差別が複合的なものになり、決定的な差別になった。すなわち、ハンセン病に対する差別には、単に医学的な要因だけではなく社会的な要因も深く関わっていることを見逃すことが出来ないのである。
*ハンセン病患者は、何故差別されてきたのか

・手足や目鼻の崩れなど、外見の障害で病気がはっきり分る病気であったから。
・慢性的な病気であったため、障害が長期間人の目に触れたから。
・発病の医学的な原因が分からず、宗教的な排斥にも利用されたから。
・社会的な因子(社会的弱者が感染しやすい)により差別が助長されてきたから。




*ハンセン病=癩(らい)病の歴史はどのようなものだったか
 癩(らい)病は、奈良時代には既に文献の中に登場していた。8世紀に完成した「日本書紀」によれば、「朝鮮の百済から『白癩』の者が渡来した」とある。けれども、ここでいう「白癩」には、いわゆる癩(らい)病=ハンセン病だけではなく、その他皮膚病一般の病気も含まれていたとされている。

 12世紀の「今昔物語集」には、「比叡山の僧侶が法会(ほうえ)を妨げ、尊い僧にたいして嫉妬した報いとして『白癩』となり、周囲から穢れた者として排斥され、京都の清水坂の庵に入って間もなく死んだ」という話が記載されている。このことから、癩(らい)病を患う者は差別の対象とされて忌み嫌われていたことがうかがわれる。

 癩(らい)病に感染したことが分かると、その人は故郷を追われ、放浪の民となることが少なくなかった。「癩者」は非人として扱われたのである。そのため、彼らは物乞いで生計を立てるほかなかった。ある者は寺院で施しを受けて生活した。鎌倉時代には、律宗の僧叡(えいそん)・忍性(にんしょう)が奈良に集まる「癩者」を救済したとされている。薬師寺の近くには西山光明院が設けられ、薬師寺の保護のもと「癩者」がそこに収容されていた。また、忍性は鎌倉の極楽寺でも「癩者」の救済を行っている。

 時宗の開祖一遍の布教を描いた「一遍聖絵」には多くの「癩者」が描かれていることはよく知られている。一遍のもとに集まった時衆のなかには、多くの「癩者」が含まれていた。ただし、「一遍聖絵」を見る限り、「癩者」は他の「乞食」の集団と明らかに区別されているので、やはり差別の対象となり虐げられていたことがわかる。

 室町時代以降は「癩者」に関する事実を示す史料が少なく、「癩者」の実態はよく分からない。しかし、16世紀以降に来日したカトリック宣教師たちは、積極的に「癩者」救済に関わったという。特にフランシスコ会は熱心で、フランシスコ会宣教師たちが設けた修道院にはたいてい「癩病院」が付属で設けられていた。その場所は、大坂・肥前・有馬・長崎・京都・伏見・江戸・広島・和歌山などにまたがり、1607年の大阪では4か所に約400人の癩(らい)病患者が収容されていたという。宣教師による「癩者」救済は、江戸幕府によるキリスト教弾圧によって消滅を余儀なくされたが、その時、多くの「癩者」も殉教したといわれている。

 江戸時代に入っても、「癩者」の生活は寺社の門前や、町家を回っての物乞いによって生計を立てざるを得なかった。京都では、五条橋を過ぎて清水坂に向かうあたりに「癩者」の集落が形成され、市中や清水寺への参詣者に物乞いをしていたという。

 さて、「癩者」、すなわちハンセン病患者は、ざっと人口1000人あたり1人くらいの割合でいたと推定される。原因が分からず治療法もない当時は大変恐れられていたが、社会から隔離されることはなかった。差別され、忌み嫌われていても、ある意味で社会と共存していたということも出来る。癩(らい)病によって死体の山が築かれることはなかったし、癩(らい)病患者の交際範囲に感染者が続出したわけでもなかったからである。

 しかし、明治時代になると、癩(らい)病患者をとりまく環境は一変する。遺伝病と信じられてきた癩(らい)病が感染する病気であると分かって、8種伝染病に追加されると、あたかも伝染病の王であるかのように宣伝され、ひどいものになるとコレラやペストよりも恐ろしいと見なされるほどであった。実際の感染力は非常に弱かったのであるが、国家の強力な宣伝は癩(らい)病=恐ろしい病気という考えが国民全体に行き渡らせることになった。近代化を急ぐ明治政府にとって、諸外国では既に過去のものになりつつある癩(らい)病が、未だ日本では蔓延しており、放浪したり神社・仏閣の前で物乞いしたりしている癩(らい)病患者を放置しておくことは国家の体面にも関わることだったという事情もある。そこで、癩(らい)病患者の隔離が進められることになった。

 当時の隔離所設立を訴える文書には、次のような記載がなされている。

「流浪せる癩患者が社会に病毒を蔓延せしむること多大なるは論を侯たざるも、なお恐るべきは彼らにして乞食をなすを肯せず、職人となり舟子となり飲食物製造者となり、甚しきはその両親癩にして、その子をして理髪人たらしめ、あるいはその夫癩にしてその妻に飲食物をひさがしむるの類に至りては実に危険極まれりと謂わざるべからず。」

悪しき病毒が個人から家族を経て、やがては親族の全般へと高波のように広がってゆくイメージは、劣悪な素質が世代を貫いて拡散してゆく悪夢めいた光景を連想させるのに充分なものだった。そして、

「浮浪者の記念なるは四股に生じたる潰瘍を治療する由なく、この傷より周囲に放散する無数の病毒乾燥して結核菌のごとく周囲に飛散す、独り潰瘍のみならず、不潔なる衣服に付着する病毒患者の動作によりまた周囲に飛散し、喀痰鼻汁の乾燥したるものまた結核患者の喀痰と同一の危険物にして、この病毒の様々の機会を持ち、癩病に侵され易き体質に寄生発育して数年の潜伏期間をもってこの人を癩病たらしむ。この恐るべき病毒の散布者たる浮浪癩病者は諸国の至る処に徘徊し、ことに神社仏閣名所旧跡の地にして人の集合するところは彼らの生活に尤も便宜なる所として群衆するを見る。」「このごときは一国の体面ないし一家の恥辱のごとき無形的損害のみにとどまらず、実に公衆衛生上の有害物にして、隔離所を起こし、これらの患者を強制的に収容するにあらずんば、国家は罪悪を行いつつあるものと云うべし」(養老院月報)

とまで表現され、もはや病気の治療を目指すのではなく、国家の体面を保つために癩(らい)病患者の隔離が進められていった。そして、1909年に「癩予防ニ関スル件」という法律が制定され、数度の改正を経て1931年に「癩予防法」となって、全ての患者の隔離が法律によって規定されるに至ったのである。

 ところで、鎌倉時代に書かれた『元享釈書』(げんこうしゃくしょ)には、奈良時代、光明皇后が「癩者」に接したという故事が記載されている。光明皇后は藤原不比等の娘で聖武天皇の皇后となった人物である。皇后自ら「癩者」の崩れた肉体を舐め回し、体中の膿を吸い尽くすと、その患者は如来になったという。この高貴な皇后が癩(らい)病患者をいたわるという構図は、近代以降、皇室の「仁慈」の象徴とされた。もっとも、これは「癩者」を救済するというよりは皇室の力を誇示するためといった要素の方が強く、そのために「癩者」の魂はかえって貶められたという側面をも併せ持っていた。誰にも真似することの出来ない皇后の善行は、同時に「癩者」の救いがたいおぞましさを一層想起させるものだったからだからである。

 かくして、「癩者」はより一層激しく差別され、隔離されて社会から完全に切り離された存在になっていった。特に「癩予防法」の制定は、アジア地域へ侵略を進める当時の国策の中での民族浄化思想やファシズム思想とも影響しながら、国民の間に癩(らい)病は隔離しなければならないような恐ろしい伝染病であるという恐怖心を植え付けることとなり、それは戦後数十年を経ても容易には消えない根深い偏見を残すことになっってしまった。
*ハンセン病=癩(らい)病の歴史はどのようなものだったか

・歴史は古く、奈良時代(8世紀)の記録までさかのぼる。
・昔から約1000人に一人の割合で発生し、その割合は一定していた。
・「非人」として扱われ、物乞いなどで生計を立てていた。放浪する者もいた。
・差別される存在であったが、寺院・僧侶などによる救済も行われ、一応社会の中で共存していた。隔離・収容され、不当に迫害されるようになったのは、明治以降の国策によるものが大きい。




*ハンセン病への偏見はどのようになくしていくべきか
 根拠のない偏見により、社会から不当に排斥され差別されてきたこと自体が、ハンセン病患者の受けた大きな差別の歴史を表すものであるが、特に明治以降、国家権力によって進められた隔離政策により、患者の基本的人権が「合法的に」侵されたことが最大の問題であったと言わねばならない。

 戦後になって改正された「らい予防法」も、依然として国家が患者の基本的人権を抑圧する性質を持っていた。普通に暮らしていた患者をある日突然着の身着のまま療養所へ連れ去る強制隔離に法的根拠を与えるものだったからである。これに退所規定は定められていないため、一度療養所に入ると生涯そこで過ごすことを事実上強制させられた。現金は取り上げられ、療養所の中でしか通用しない「金券」と交換させられたりしたが、この「金券」には法律的な根拠は何らないものだった。

 また、ハンセン病は遺伝病ではないのに、患者は半ば強制的に断種手術を受けさせられた。戦前に制定された「国民優性法」には、遺伝性による断種の対象としてハンセン病は入っていなかった。しかし、ハンセン病は遺伝性の見なされた疾病に準じるものと拡大解釈され、断種が公然と行われた。(戦後に制定された「優性保護法」にも、断種と人工妊娠中絶の対象としてハンセン病患者が明記され、この規定は1996年4月に「らい予防法」が廃止されるまで存続していた事実は驚くべきことであると言わねばならない。)

 1953年には「癩予防法」を改正した「らい予防法」案が国会に提出された。しかし、これは患者とその家族に対する差別を禁止しつつも、患者の隔離を合法化し多くの人権を抑圧するもので、法案そのものが差別的である内容は何ら変わるものではなかった。この法案には1951年に結成された「全療協(全国ハンセン病療養所入所者協議会)」などハンセン病患者の人権回復を目指す人達から激しい反対運動が起こったが、癩(らい)病=ハンセン病が恐ろしい病気であるという偏見が社会全体になお強く残っている背景もあって、付帯決議がついたものの結局法案は成立してしまった。その後も、法律の廃止を求める地道な運動が続けられたが、結局40年近くも放置され続け、1996年4月に至ってようやく「らい予防法」は廃止されることとなった。

 国家権力による差別は、ハンセン病=恐ろしい病気という恐怖心を国民に植え付け、民族浄化とファシズム思想と連関して大きな差別の嵐を作り出した。その偏見は戦後数十年経っても根強く残り、差別の対象は患者本人のみならず家族にまで及び、家族・親族への婚姻忌避、入店拒否、子どもの修学拒否、転居を迫る嫌がらせなど、様々な形での迫害になって表れた。それらの偏見は、現在をもってなお解消されたとはいえない。

 さて、「らい予防法」の廃止により、ハンセン病はようやく一般の感染症としての地位を得た。これまでのような隔離ではなく、一般の外来と同様、普通の病気として扱われるようになった。もちろん、感染症であるから不用意な感染予防を講じなければならないことは言うまでもないが、かつてのように医者や看護婦が診療を拒否したような、無理解と誤解に基づく誤った対応が繰り返されてはならない。そのために、いまなお社会に残るハンセン病に対する偏見をねばり強く取り除いて行かねばならない。

 次に、療養所を出て社会復帰していく人への支援を強力に進めて行かねばならない。新しい法律は、現在ハンセン病療養所に入所している人にも在宅患者にも、国の費用による援護がなされることを規定している。しかし、これは最低限の保障であって、患者のそれぞれが望む生活をバックアップするものとはいえない。例えば、医療保険の問題は今なお未解決のままである。また、法律の中にも元患者の社会復帰を支援すると規定されているが、それ以上のものではなく、予防法の廃止を受けて療養所を去った人もほとんどいないのが実状である。実際問題として、どのようにして効力ある施策を提示・運用していくかが強く問われているのである。

 さらに、ハンセン病の患者だけではなく、その家族の問題についても見落とすことが出来ない。「らい予防法」による強制隔離では、患者本人だけではなく、その家族もまた犠牲になった。家族の中から患者を出したために故郷を捨てざるを得なかった家族、離散してしまった家族は少なくない。しかし、これらの人々に対する保障や支援は全く考慮されていないのが実状である。少なくとも、社会全体の偏見をなくしていかなければ、解体してしまった家族の将来は浮かばれない。そのためには、強制隔離を法律で規定したハンセン病政策と国家による患者への人権侵害の歴史を正しく認識し、これを風化させない教育・啓蒙活動も重要になるだろう。

 私たちは、ハンセン病に対する知識を正しく理解し、何故ハンセン病患者が差別されなければならなかったのかを認識し、意識的、無意識的に関わらず差別的な視点をもってハンセン病およびハンセン病患者を見ないように努めなければならない。
*ハンセン病への偏見はどのようになくしていくべきか

・誤解と偏見により、ハンセン病患者が国家によって合法的に差別されてきた歴史を、まず認識する必要がある。
・「らい予防法」が廃止されてもなお、社会に残っているハンセン病に対する偏見をねばり取り除いて行かねばならない。
・療養所を出た人々の社会復帰およびその家族に対する支援を進めていかなければならない。
・これらを実現するための教育・啓蒙活動がとりわけ重要である。

参考文献
「癩者の生」澤野雅樹 青由弓社
「知ってならないか?ハンセン病と人権」ハンセン病と人権を考える会 編 解放出版社
「隔離」徳永進 岩波書店
「片居からの解放」大谷藤郎 など







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