●物語から,現代日本を考察する
Consider present age of Japan

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聖蹟桜ヶ丘駅周辺
撮影地点は、丘の上というよりは山の頂ともいうべき高台で、はるか遠くまで見渡すことが出来ます。
ここからの風景は、映画の公開によって、あまりに有名になってしまいました。他に開設されている「耳をすませば」ホームページも、こぞって掲載していたりします。
この景観を美しいと感じるかどうかは人それぞれでしょうが、よい眺めであることだけは確かです。


 「耳をすませば」は、1995年7月の公開で、物語は1994年の夏から秋にかけて進行したことになっています。けれども、物語の背景は、それよりも数年前の風景をモデルにしているようです。

 まず、聖跡桜ヶ丘駅周辺。これは、監督自身が認めているように、今の風景はビルが建ちすぎたということで、わざと10年前の風景が描かれました。実際の風景は、写真にあるようにかなり過密化しています。
 また、現在の図書館では蔵書のバーコード化がほとんど完了しているのに、物語ではこれからバーコード化で大騒ぎというのは、やや遅れ過ぎの感があります。

 鉄道のモデルとなった京王帝都電鉄も、やはり数年前の状況をなぞっています。今ではほとんどの駅で自動改札化が完了しているのに、物語では向原駅が有人改札のままでした。月島雫の乗った形式の車両も既に引退してしまいました。この設定だけを見れば、映画はもっと早い時期、1990年初頭にかけて公開されていてもおかしくはなかったと言えます。
京王帝都電鉄の旧型車両
モデルとなった形式の車両は、映画公開時には既に本線上からは撤退し、高幡不動〜多摩動物公園間の支線を細々と走っていました。そして、現在では本支線とも完全に引退し、もうその姿を見ることは出来ません。

 1989年に連載された原作が、ジブリ内ではじめて映画化のための企画検討会議に取り上げられたのは93年の秋、公開されたのは95年の夏でした。このスケジュールは結果的に見て、作品のために幸運だったと思います。もし、早々に映画化されていたら、きっと映画の内容も大きく変わっていたことでしょう。

 原作が連載された当時は、いうまでもなくバブル時代の全盛期で、土地・株式・絵画のように、何ら生産することなく財産を殖やすことがトレンドでした。また、何でも華やかさがもてはやされ、地道に努力することが暗いとか、ダサイとされる風潮さえはびこっていました。

 若い世代もまた、この狂騒から無縁ではありませんでした。「耳をすませば」に出てくる、モノを作ること、職人賛美、地道な努力といったキーワードが受け入れられるには、やはりバブルが過ぎ去るまで待たねばならなかったように思います。

 「耳をすませば」は、まさにポストバブルの時代に出るべくして出た作品だということが出来ます。バブル以前の都市景観・社会情勢をあえて用いた理由は、バブル時代の反省を込め、地に足つけた原点に戻ろうとしたからではないかと想像しています。




多摩丘陵の景観
その景観は常に変化しています。しかし、ほんの数年の差でも変化を変化として感じられる世代の幅は、案外限られているのでは?
いろは坂の最上部から南東方向を撮影しました。

 「耳をすませば」は、確かに「若い世代」に向けられた作品です。しかし、最もインパクトを受けたのは、リアルタイムの若い世代よりも少し上の世代、つまり雫や天沢聖司と同世代=現在の中学生(バブル当時はまだ子供だった)よりも上の世代ではないかと感じています。

 現在の中学生は、都市景観の変化を時代の流れと認識するには経験が浅いですし、図書館のバーコードも生まれつきそこにあったものです。何でも大昔と比較するおじさん世代では、今更ビルが増えても通勤車両が代替わりしても慣れたものでしょうし、バーコードに至っては多分身近な問題として実感する機会はないのでは、と思います。

 やはり、ほんの数年の経過にも時代の変化として感じる世代が、青春期を送った風景の変化を今まさに実感したばかりの世代こそが、最も敏感にこの映画の背景を読みとるのではないでしょうか。

 世間のバブルに浮かされたまま、いつの間にか時代が変わってしまい、自分がどういう位置にいるのか分からなくなってしまった。しかし、ピュアな感受性の少しは残っている。ここで、「耳をすませば」の中には、ほんの数年前だが現在では見ることのかなわない風景があり、時代に踊らされたり流されたりしない主人公がいる。もし、自分の青春時代がバブルの真っ盛りではなく、当時の風景の中で、このような生き方が生き方が出来たならば…。

 宮崎駿氏の意図がどのようなものであったかはともかく、「耳をすませば」はバブル時代に青春時代を送ってしまった世代の、こうあって欲しかったと思う、ささやかな追憶を呼び覚ます作品ではなかったかと、私は思うのです。




コンビニエンス・ストア
(ファミリーマート聖蹟桜ヶ丘店)
この店は、駅から団地に続く道の中間に位置しています。どこにでもあるありふれたコンビニの一つです。

 日本に登場して20余年を数えるコンビニエンスストアは、私たちの生活の中にすっかり定着しました。「耳をすませば」の中でも、夜間に牛乳1本のちょっとした買い物や、友達と待ち合わせをするための場所として、当たり前のように利用される光景が描かれています。

 通産省の統計によると、コンビニエンスストアと呼ばれる店は、現在全国で5万店を数えています。その数は郵便局の約2倍にも達するほどです。コンビニチェーンの最大手、セブンイレブン・ジャパンは、全体の売上高がついに親会社イトーヨーカ堂に肩を並べるまでになりました。雑誌の売上を中心に"書店"としても最強クラスとなって久しく、公共料金の支払い窓口、宅配便取り扱い、チケット、カード、CD−ROM販売からゲームソフトのデータ書き込み、果てはパック旅行の予約に至るまでのサービスも充実して、今や日常の暮らしになくてはならないものになっています。コンビニエンスストアは、文字通り便利さを求める時代のシンボル的存在であると言えます。

 しかし、コンビニエンスストアはこのまま安定してしまうのではなく、新たなサービス形態を常に模索しています。コンビニは、時代の流れに敏感だからこそ、コンビニエンスなのです。

 ところで、コンビニエンスストアの経営が成り立つには、周辺の人口が2000 人は必要だと言われています。ここで、日本の人口を現在営業中の5万店で割ると、1店あたりの人口は既に2500人弱−。不況知らずの勢いで増えてきたコンビニエンスストアも、さすがに飽和の兆しが見え始め、その成長の限界がささやかれています。現に、中小チェーンの撤退や身売りが目立ち始め、大手チェーンでさえも、新規出店の影で年間100店単位の既存店舗が閉鎖されているのが実態となっています。

 もっとも、1店あたりの人口の下限は、かつては5000人といわれていたそうです。しかし、弁当類の販売に力を入れ、先述したような各種サービスを充実させたため、5000人限界説は早々に打ち砕かれました。同様に、2000人限界説のラインに迫った今、従来にない新サービスの導入によって限界は克服され、一層の成長を見るかもしれません。

 コンビニエンスストアは、その統一された意匠と品揃え・サービスが売り物とされてきました。けれども、将来的には店舗ごとの個性化が進んでいくものと思われます。例えば、名古屋圏を中心とするサークルケイ・ジャパンは、幹線道路沿線型、都心型、住宅地域型など、立地の特色に合わせた店舗展開を進めています。相対的に共通の取り扱い品目は減り、それぞれのニーズに合った商品に重点が置かれるようになるでしょう。

 また、コンビニエンスストアは、若者だけの店ではなくなってきました。今まではコンビニ=若者の店というイメージがありましたが、現在は30代から40代以上の利用が増えています。かつて来客の7割以上を占めたという16〜25歳までの客層は、現在では半分以下にまでその比率を下げました。確かに、近所に立地し1階に入り口のあるコンビニエンスストアは、高齢者にとって便利です。この客層の変化に合わせて、商品構成も少しづつ高齢者向けにシフトが進んでいます。

 サンクスは、お年寄りに適した量の和風弁当や、従来の常識を覆す価格設定の高級弁当などを開発し、これまでコンビニを利用したことのない高齢層の開拓を試みています。他にも、セブンイレブン・ジャパンは、高齢化社会に向けてコンビニから地域へ給食のサービスが出来ないかを検討しており、ファミリーマートも、老人介護などのサービスをチケットで仲介するような事業を考えていると伝えられます。若年層の減少、来たるべき高齢化社会の到来を睨み、コンビニエンスストアは新しい客層として高齢者層に注目しつつあるのは確かなようです。そして、ただ立地しているだけの店舗を脱し、エイエム・ピイエム・ジャパンが実験を開始したように商品宅配サービスが将来的に普及していけば、従来のコンビニ像は大きく変わっていくことでしょう。

 「耳をすませば」に描かれたコンビニエンスストアが、その時代の典型例として懐かしがられる時代が来るのも、そう遠い将来のことではないかも知れません。




多摩ニュータウン 愛宕2丁目団地
比較的静かな環境の街です。同じ形をした建物がいくつも並ぶ、マッチ箱型団地の景観を見ることが出来ます。
完全に同じというわけではありませんが、映画に登場した団地とほぼ同じタイプの建物と言えそうです。

 団地の風景は、映画「耳をすませば」の世界を構成する、きわめて重要な要素の一つです。決して広いとは言えない間取り、仕切って使う姉妹の部屋、半分だけの窓…。現在ではあまり評価されない団地ですが、それはまぎれもなく高度経済成長時代を象徴する風景であり、戦後日本の軌跡そのものでした。

 団地は、そもそも戦後の住宅難を解消するために建設されました。1955年、日本住宅公団(現在の住宅・都市整備公団)が設立され、都市近郊のあちこちで団地が計画されました。ともかく、大量の住宅を供給しなければならない時代でしたから、間取りは2DK、面積も50平方メートル前後と狭く、建物の外観もマッチ箱を立てたような画一的なデザインばかりでした。しかし、ステンレスの流し台、水洗トイレ、内風呂、ダストシュートなどを備えた設備は、当時の若い世代にとってはあこがれの的だったと、当時の新聞は伝えています。1958年には、早くも団地居住者が全国で100万人に達します。団地は「若夫婦と赤ちゃんの街」と言われ、地区の小学校は活気でみなぎっていました。

 「耳をすませば」のモデルとなった団地の一帯は、多摩ニュータウンと呼ばれる地域に属します。総面積は約3000ヘクタール、多摩、稲城、八王子、町田の4自治体にまたがる、日本最大のニュータウンです。多摩ニュータウンは、1966 年に開発が始まり、71年には諏訪・永山地区で最初の入居が始まって、その後も年間1万人規模で一斉入居が続きました。
多摩ニュータウン・東寺方団地
映画のラストシーンで登場した街並みは、このあたりの風景がとてもよく似ています。
ここはバス停が近いですから交通の便は悪くないようですが、最寄りの駅まで歩こうと思ったら大変です。雫ちゃんえらい。

 団地の住人の多くは、地方から都会に就職して来た人達でした。産業構造の変化によって、地方から都市への人口流入が顕著になりましたが、団地は、まさにその受け皿としての役割を果たしたわけです。

 雫の父、月島靖也も、出身は新潟のようです。当時新婚だった月島夫婦は、ちょうど開発真っ盛りの時期に団地の住人となったのでしょう。

 ところで、地方出身者にとって、都会は単なる現住所に過ぎず、ふるさとはあくまでも出身地の地方、という傾向が強く見られるようです。お盆と正月は田舎で過ごす帰省ラッシュがなかなか廃れないのは、ふるさとは出身地にあるという事実を雄弁に物語っています。

 ふるさとには、まだまだ私たちの原風景ともいうべき山河や田園風景が残されています。多少昔の面影が失われても、そこに帰れば両親や兄弟・親戚が待っており、懐かしい旧友や恩師に会うことも出来ます。日本人にとって原風景とは、単なる田舎の風景だけではなく、地域での人と人の絆も一体となって、はじめて意味があるもののように思います。生まれ故郷も、訪ねるべき人がいなくなれば、ただの旅行者と同じになってしまいますから。

 ここで、団地の風景は田園風景に代わる、新しい原風景になり得るのでしょうか。汐姉さんのように、団地2世は成人すると別の所に住むようになるでしょう。そのとき、団地2世は、親が田舎に対する思いと同様に、生まれ育った団地に愛着を持つようになるでしょうか。

給水塔の見える景観 (愛宕2丁目団地)
老朽化した団地は、いずれ建て替えの時期を迎えます。そのとき、現在の景観は全く異なったものになるでしょう。
団地2世の子供世代は、将来、自分たちが育った当時の風景を懐かしく思い出すでしょうか。

 残念ながら、現状ではあまり望みがなさそうです。そこは、いつ変わってしまうかも知れぬ、不確実性の街だからです。団地が老朽化して、一斉に建て替えの時期を迎えれば、街そのものが完全に別の姿になってしまいます。そこに住んでいた知り合いが散り散りになってしまえば、もはやそこで再び集うということも難しくなります。「カントリーロード」の歌詞ではないですが、まさに「帰りたいけど帰れない」ふるさとということにもなりかねないのです。

 団地風景は、それぞれが育った場所としての懐かしさは感じられるでしょう。しかし、心に焼き付いた風景があり、人と人の絆に裏付けられた原風景として認識されることは難しいのではないかと思います。

 もっとも、従来の「ふるさと」観について、かなりの揺らぎが出ていることも確かなようです。民族大移動とも形容される帰省ラッシュも、本当に故郷に帰りたいのではなく、地縁・血縁のしがらみや義理にしばられてやむなく、という要素が多分にあると言われています。故郷に住む人たちは確かに懐かしいけれども、そこは地縁・血縁による因習が依然として残っていたりします。都会暮らしに慣れた人達にとって、年に2回だけ帰省することは出来ても、もはや田舎に戻って生活することは困難かもしれません。

 郷愁としての「ふるさと」が、これからも田園風景の中にありつづけるにしても、団地2世を中心とする都市住民は、絆としての「ふるさと」を今住んでいる地域の中に見いだしてゆかねばなりません。もちろん、新しい地域の共同体を模索する試みは既に続けられています。これまでの地縁・血縁とは違う、団地ならではの都市型コミュニティーが定着するかどうか、これからその真価が問われることになるでしょう。このコミュニティーが、将来避けることの出来ない街の作り替え事業を乗り越えられれば、その時こそ、団地の中に絆としての「ふるさと」、すなわち原風景が見い出されるようになるかもしれません。




聖蹟桜ヶ丘駅
いわずと知れた、映画の舞台となったモデル駅。特急列車が停車します。駅ビルには京王百貨店が入居しています。
映画では背景として度々登場したものの、ここで買い物をする風景はついに登場しなかった(させなかった)のには、どのような意味があるのでしょうか…。

 「耳をすませば」は、東京西部・多摩地域に実際に存在する風景が忠実に描かれています。しかし、そこに描かれている駅前の雑踏、コンビニエンスストア、団地、路地裏や住宅街は、どこにでもあるありふれた景色であり、誰でも一度は似たような風景を見たような記憶があると思います。まさに「耳をすませば」は、私たちが生活する舞台をリアルに描写した作品であるといえます。

 映画のモデルとなった聖跡桜ヶ丘周辺は、昔はのどかな田舎町でした。それが今では大きなビルが建ち並び、地区の中心地として発展を遂げました。もっとも、これで開発は一段落したようで、中心部での大型開発プロジェクトは当分ないと思います。バブル経済もはじけたことですし(笑)。

 丘の上の住宅街として描かれた桜ヶ丘地区は、高度成長期に開けた新興住宅地で、裕福な人達が多く暮らす聖蹟の山の手といわれています。ただし、ここも住宅街としては開発され尽くしてしまいました。金毘羅宮のような古くからの建物とも調和した、閑静な住宅地としての景観に大きな変化はないでしょう。

おなじみ、金比羅宮
実際の建物は、いろは坂を上った頂上付近にあります。史料によれば、この金毘羅宮は江戸時代半ばの建立で、いろは坂とその周囲の松の樹も当時からすでに存在していました。また、丘の上には関戸駿河守某という武将の居城があったとのことで、劇中に出てきた「天守の丘」の由来はおそらくそこからきているものと思われます。(ただし、現存する写真の建物は、昭和40年代に再建されたものです。)
ここ数十年の間、付近の景観は劇的に変化しました。しかし、金比羅宮の敷地だけは昔日の面影を残しています。

 むしろ、変化の波は駅周辺から隣の駅へと拡がっていくと思います。映画中で杉の宮と呼ばれた一の宮一帯は、土地の産土神である小野神社を中心に開けたという開墾農地で、かつては緑豊かな水田が拡がっていました。しかし、今ではそこにも開発の波が及びつつあります。聖蹟の街を見下ろす丘の上に立てば、今まさに区画整理されようとしている農地を見ることが出来ます。

 隣の杉の宮駅は、道路と線路が平面交差し、いかにも私鉄沿線の駅らしい雑踏とともに描かれていましたが、今後最も劇的な変化を遂げるとすれば、ここの駅前の再開発ではないかと想像しています。映画に出てきた杉の宮駅の風景は、どこの沿線でも普通に見ることが出来ます。実際に多くの駅前地区で再開発の計画が進行していますから、早晩今までの景観は見られなくなってしまうと思われます。

 私たちは、ディズニーランドのような非日常の空間に行くと、とかくポーズをとって写真を撮りたがりますが、駅前の商店街を背景にした普段着のままの写真も残しておきましょう。地味かもしれませんが、数十年後、それがたまらなく懐かしく思えるようになるのではないかと信じています。

都市の風景は、日々変わっていく
多摩都市モノレールの建設現場です。撮影地点は、聖蹟桜ヶ丘と高幡不動の中間点くらいです。
団地は日本の都市景観を変えましたが、その団地の屋上をかすめて高架線が延びていく、更なる変化を象徴的するような光景だと思います。

 さて、映画では、汐姉さんが住み慣れた団地を出てアパートを借り、自活を始めました。雫も、いづれは家を出ることになると思います。成人した子供が親元を離れるのは珍しくありませんが、団地では、その傾向が一層顕著といわれています。団地はその手狭さゆえ、3世代同居を望むことが出来ないからです。そして、両親はそのまま残って年老いていくでしょう。

 入居者の加齢と子供の減少によって、団地は今後急速に高齢化が進んでいくものと予想されています。多摩ニュータウンの諏訪・永山地区では、七校あった小学校が四校に統廃合されました。中学校も、1997年度より三校から二校に減ります。母校の喪失は、そこの卒業生の郷土・ふるさと意識に深刻な影響を及ぼすかもしれません。

 また、団地は街自体の老朽化も進んでいます。多摩ニュータウン内でも、窓枠が錆びたりコンクリートの壁が落ちたりする建物が目立ってきました。先述したように、高度成長期に建てられた団地は手狭で、補修を続けても街全体の発展は見込めないため、やがて一斉に建て替えられることになるでしょう。実際、諏訪二丁目団地は、1996年5月に団地の建て替え推進を総会で決議しました。間取りが狭く老朽化した団地を建て替えることで、若い世代を呼び込み、何とかにぎわいを取り戻したい、という住民の願いが働いたとも伝えられます。加えて、単なるベッドタウンを脱し、駅前地区を中心にオフィスや商業施設を積極的に誘致して、職住近接の業務複合都市へ転換することを目指す計画も進行しています。

 たとえ、街の面影が完全に失われることになっても、そこに住んでいた人達の多くが散り散りになったとしても、新たな団地のありかたを模索する動きが止まることはないでしょう。高齢化対策、再開発への取り組みは、いづれ全国の街に共通する課題となります。団地そのものが開発の象徴であったように、今度は再開発のモデルとして、再び脚光を浴びることになるかもしれません。



 絶え間なく変化を続ける暮らしの中で、ふと当時の街並みを思い出すとき、めまぐるしい日常に忙殺される中で、ふと青春のほのかな記憶を思い出すとき、「耳をすませば」に描かれた1990年代の風景は、それぞれの思い出と重なって、いつまでも鮮やかに思い出されることでありましょう。

(コンビニ・団地関連の文章を作成するにあたり、日経新聞、日経流通新聞、朝日新聞、読売新聞の当該関連記事を参照しました。)





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