●物語の作品世界を嗜む
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 「耳をすませば」では、雫ちゃんは何回か涙を見せてくれます。
 最初は、物語を読んでいる時。雫ちゃんは、もともと物語を読むのが大好き でしたから、感受性が豊かで、すぐに本の世界へ没頭して読みふけってしまう子 だったのでしょう、映画でもそういうシーンが出てきます。おそらくは、日頃か ら分担されているであろう家事をほったらかしてスナック菓子つまみながら読ん でいました。よほど感情移入していたのか、目には涙さえ浮かべていましたが、 突然帰宅した姉のうるさい小言攻撃に、そんな感傷はどこかにケシ飛んでしまい ました。
 つまり、最初に流した涙は、その程度の意味でした。換言すれば、典型的な モラトリアム少女の姿を体現しているかのような涙でした。

 次に目を潤ませたのは、神社で杉村君に突然の告白を受けて、うろたえ動揺 した時です。物語をたくさん読んでいても、夕子ちゃんの恋愛の相談に乗ってい ても、自らがこのような事態に直面しようとは、全く想定していなかったのでし ょう。涙を流すほどではなかったものの、その衝撃は物語を読んだときのそれと は比較にならない位強かったに違いありません。モラトリアム少女は、大いに揺 さぶられます。

 雫ちゃんは、帰宅すると机の上に置いてあった物語の本をはじき飛ばすよう にして突っ伏しました。
「にぶいのは自分じゃないか。」
今にして思えば、かなり象徴的なシーンです。リードオンリーの物語大好き少 女から決別し、自らが(恋愛物語の世界に)関わる領域へと踏み込んでゆくので す。
 この伏線がなければ、後での屋上における彼女の劇的な精神的成長はなかっ たでありましょう。

 次はストーリーのヤマ場、学校の屋上で聖司の決意を聞き、告白をうけ、そ して我に返った時ににじませた涙です。読書中など、自分の世界に引きこもって 流すそれとは違い、自分のこと以外は配慮する余裕のない位にうろたえている時 とも違い、ここでは他者の存在、とりわけ異性の存在を特に意識しています。

 聖司君が「おまえのあの歌を歌ってがんばるからな。」と言ったとき、雫ち ゃんは思わず「私もがんばる。」と応えました。しかし、既に目標を定め、それ に向かって進んでゆく聖司君と比べ、ただ何となく毎日を過ごしているだけの自 分にも気付きます。これだけなら、既に前日の晩、地球屋の帰りに聖司君から聞 いてはいたものの、「実は、自分は以前から雫に気がついていて、図書館で隣に 座ったこともあったし、図書カードに先に名前を書くためにたくさん本を読んで きた〜」という言葉が付け加えられるに至り、ついに雫ちゃんの心の本丸が落城 します。

 聖司君はずっと好意を寄せてくれていたのに、気付きかけもしなかった自分 。今まで同じ本を読んでいながら、進路や目標について聖司君とあまりにも落差 のありすぎる自分。イタリアへ行く聖司君を励ましたいのに、(自分よりがんば っている聖司君に)「がんばれ」とは言えない自分…。彼女の心中は、いかばか りなものだったでしょう。もし、このまま誰にも邪魔されなかったとしたら、彼 女はその場で泣き出してしまったかも知れません。いや、おそらくは聖司君に自 分の涙を見せまいと、駆け出してしまったことでしょう。

 ここで、屋上まで上がってきたクラスメイトに、絶妙としか言いようのない タイミングで冷やかされましたから、思わず「こらーっ」とどなって追いかけま した。しかし、それは照れ隠しのために追いかけたというよりは、むしろ聖司君 の前から離れる口実だったといった方が適切ではないかと、私はひそかに思って います。雫ちゃんは、屋上の扉の中に入ったところで立ち止まり、大粒の涙を浮 かべました。多分、うしろでニヤニヤしている絹ちゃん達にも気付いていたこと でしょう。でも、雫ちゃんにとっては、絹ちゃんの前で照れてみせることよりも 、聖司君の前で見せたくなかった涙を流す事の方が大事だったのです。

 この映画の中で、雫ちゃんが一番成長したところはどこかと問われれば、私 は迷わずここのシーンを挙げるでしょう。ただ物語を読むだけの少女から、恋愛 の何たるかもろくに知らなかったモラトリアム少女から、この屋上のわずか数分 間の間に、好きな異性を意識し、好きな異性の目標を意識し、自らのあまりにも ありきたりな姿を本当の意味で思い知るという劇的な変化が起こったからです。 おそらくは、彼女の長い人生の中でも、これほどの変化を他に見出すことは難し いのではないかとさえ思います。

 ここに、無目的なモラトリアムに満たされたストーリーの前半は終わりを告 げ、試行錯誤しながら新たなアイデンティティ確立を目指そうとする後半へ突入 していきます。私は、屋上での雫ちゃんの涙はその転換点を象徴するものとして 受け止めております。(ちなみに、よく前半の見せどころと言われる、即興でカ ントリーロードを歌う例の地球屋でのシーンですが、アニメーション制作に関す る技術的な視点はともかく、純粋にストーリーの流れから見た場合、さしたる意 味はありません。)

 そして、最後に見せてくれた涙は、地球屋でじいさんに自作の物語を読んで もらった後のシーン。ひたすら聖司君の背中を追いかけようとしてきて、物語と いう形を作り上げます。ここで、再び自分自身に戻って来て、現状を直視し、自 らの持つ可能性を見つめ直します。物語を書くという目標を達成した涙、さらに 大きな目標について実感を持って認識し、その目標に向かって努力していこうと する、決意の涙であるともいえます。ここでの涙は、彼女にとって大きな財産に なることでしょう。

 なかなか感動的ではありますが、ここに出てくる要素は、実はみんな既に出 尽くしてしまっています。ここでの涙は、ストーリーの流れを再確認するという 意味合いが大きいです。意地悪な表現をすれば、観客にサービスする「お約束の 涙」に近いものです。しかし、雫ちゃんがあまりにも純真で、あまりにも素直で すから、作為的な匂いは全然感じられず、そのあたりの演出は見事としか言いよ うがありません。

 私たちは、狂騒に満ちたバブル景気に翻弄され、続く不景気の荒波にもまれ るうちに、いつしか純真さを忘れかけ、涙を流すことの大切さを忘れかけてはい ないでしょうか。雫ちゃんの涙が語りかけてくる意味は、私たちにとって決して 小さくないと確信しております。





 杉村君は、かなり以前から、雫ちゃんに好意を寄せていました。グラウンド から目ざとく雫ちゃんの姿を見つけだし、用もないのにカバンをとってもらおう としたり、テストの後で「ヤマが当たったぜぃ」みたいなことをわざわざ言った りして、機会あらば彼女の気を引こうとしました。原作では、雫ちゃんに残暑見 舞いのはがきを出したりしています。けれども、当時の雫ちゃんは物語を読むこ としか関心がありませんでしたから、彼の懸命のアタックは、まるで効果が上が りませんでした。

 野球部の友達から頼まれて夕子ちゃんの返事を迫り、彼女に泣かれてしまっ た時も、それを雫ちゃんに相談したのは、夕子ちゃんと雫ちゃんが親友同士であ ることを知っていたからとはいえ、少しでも雫ちゃんと話をするきっかけが欲し かったであろうことは容易に想像できます。この相談を持ちかける時、校内では なく放課後の帰り道に、追いかけるように声をかけるシチュエーションをとった のも、何とかして二人っきりで話す時間と場所を求める気持ちがあらわれたので しょう。

 しかし、彼は鈍感な男で、しかも夕子ちゃんが自分を好きだったという予想 外の事態に対処する術も心得ていませんでしたので、彼は大層面食らいました。 彼自身、思いがけない形で雫ちゃんに自分の気持ちを告白してしまいます。けれ ども、雫ちゃんも鈍感であって、今まで恋愛経験もなかったと思われますし、ま してここで杉村君から告白されようとは想像の範囲外にあったでしょう。ですか ら、彼の告白は彼女を大いにうろたえさせただけで、そのあげく断られてしまい ました。

 杉村君は、本当に雫ちゃんが好きならば、もっと彼女の性格を研究するべき でした。そうすれば、彼女が物語以外のこと、具体的には彼女自身が恋愛の主役 になるということにまだ関心がないことを悟ったでしょう。なりゆきで告白した ところで、うまくいかないのは当たり前です。

 ところで、実のところ、聖司君も既に雫ちゃんに心を寄せていました。雫ち ゃんに気付いてもらうため、図書カードにたくさん名前を書いたり、図書館でと なりの席に座ったりといった行動にでていました。しかし、杉村君の積極的なア タックでさえ効かなかったのですから、聖司君程度のやり方で彼女を振り向かせ ることなどは到底無理な話で、自らの存在を彼女に気付かせることすら出来ませ んでした。さらに、聖司君が雫ちゃんと初めて会話をすることが実現した時でも 、彼は何を考えたのか「コンクリートロードはやめた方がいいぜ。」などとから かったりして、マイナスの印象さえ与えてよしとしていました。

 聖司君は、杉村君と比べて、はるかに消極的で自信のない少年でした。本当 は雫ちゃんに気があるのに、わざとからかったり無視したり。それもまた、愛情 表現の一種なのかもしれませんが…。杉村君とはずいぶんな違いです。雫ちゃん が地球屋を訪ねてきた帰りの別れ際、聖司君は「コンクリートロードの方もなか なかいいよ。」と言いました。彼はこのような言葉でさえも、最大限の勇気をふ りしぼって言ったのではないかと思います。まだ、雫ちゃんの気持ちを測りかね ていたのでしょう。彼にとってはその時点で精一杯の告白だったはずです。それ は半分だけ通じたようでした。「ヤなやつ」という彼女の聖司君に対するイメー ジは、何とかプラスに転じさせることに成功したわけです。

 続く屋上のシーンでも、聖司君は慎重でした。雫ちゃんが「私は聖司君と同 じ高校に行けたらいいな、なんて、てんでレベルが低くていやになっちゃうね。 」と言うまでは、彼は雫ちゃんの自分に対する好意を確信することが出来ません でした。それを確信して初めて、自分が以前から雫ちゃんに気付いていたことを 言えた位でしたし。その後、彼は雫ちゃんに事実上の告白をしますが、ストレー トには好きだと言わずに「おまえのあの歌を歌って頑張るからな。」と、どこま でも言葉を濁していました。

 ところが、この言葉で、二人の気持ちは充分通じ合ってしまったのです。

 あんなに懸命だった杉村君にもまるで気付かなかった雫ちゃんが、このよう な遠回しの表現を事実上の告白だと悟るなんて、驚くべき進歩だと思いませんか ?

 その変化の影には、皮肉にも杉村君の行動がありました。神社での杉村君の 告白は、物語以外に関心のなかった雫ちゃんの心を揺さぶり、彼女も現実の恋愛 の舞台に立てることを知らしめました。この動揺を乗り越えて、彼女は一段階成 長したわけです。この事件がなければ、雫ちゃんが地球屋へ向かうことはなかっ たでしょうし、たとえ地球屋に行ったところで、この成長がなかったとしたら、 雫ちゃんは聖司君を「ヤなやつ」と認識するだけで、聖司君は為す術がなかった でしょう。

 また、屋上のシーンに至る日の朝、杉村君は登校途中、雫ちゃんと鉢合わせ します。ここは、彼が雫ちゃんの心をとらえるために残された、またとない(事 実上最後の)機会でした。しかし、彼は「もっと速く走れ」と言いますが、あろ うことか、雫ちゃんの「先に行っていい。」の言葉を鵜呑みにして、彼女を見捨 てて先に行ってしまいました。ここでは、決してそんなことをしてはいけません 。その後、立ち止まってしまった雫ちゃんの顔を杉村君に見せてやりたいもので す。結局彼は、自らの行動でもって雫ちゃんのボーイフレンド候補を降りてしま いました。教室では当てつけがましくも雫ちゃんを無視して夕子ちゃんに昨日の 返事をし、そして夕子ちゃんにたなびいていくのです。雫ちゃんの見せた、何と も言えないつらそうな表情は、痛々しい限りです。

 でも、これで雫ちゃんは吹っ切れたのでしょう。また一段階成長しました。 ですから、いきなり聖司君が教室に現れても、もはや動揺することはなく、実に 的確な判断で屋上へ向かいました。そして、素直な気持ちで聖司君に接すること が出来たのです。

 私は、杉村君に「偉大なる露払い」という愛称をつけたいと思います。彼は 、不憫にも最後まで脇役でした。しかし、もし彼がいなかったら、雫ちゃんと聖 司君が気持ちを確かめ合うことはなかったでありましょう。聖司君、杉村君に感 謝するんだよ(笑)。夕子ちゃんとも仲良くしてね。





 夏休み中、雫ちゃんは保健室に高坂先生を訪ねて、図書室の鍵を開けてもら うようにせがみました。二学期が始まると、仲良し4人組で保健室へ行き、そこ でお弁当を広げていました。高坂先生も自然に話題へ混ざっていたところを見る と、彼女たちは半ば習慣的に保健室を利用していることを伺わせます。

 高坂先生は、どうやら雫ちゃんの担任ではないようです。しかし、先生は保 健医のかたわら、図書室の管理もやっているようなので、読書の大好きな雫ちゃ んが高坂先生になつくのは不思議ではありません。

 ここで、雫ちゃんにとって、保健室はどのような場所なのでしょうか。

 もちろん、大好きな高坂先生がいる場所です。また、気軽に昼休みを過ごせ る場所でもあります。ところで、一般には、保健室は校内に居場所のない生徒が 精神的助けを求める「駆け込み寺」のような意味合いがあるとされています。通 常、ケガをしたりとか気分が悪いときの他は、保健室には出入りはしませんから 。雫ちゃんには、果たしてそのような要素はあるのでしょうか?

 結論から言うと、そのような要素はどこにもありません。しかし、やはり雫 ちゃんにとっては(おそらくはその友達とともに)保健室は大切な存在です。

 映画において、雫ちゃんはどのような描かれ方がなされているか、思いつく ままに挙げてみましょう。
まず、雫ちゃんは基本的に誰かに頼るところがありません。親、姉、先生(高 坂先生でさえも)、誰かに依存している様子はなく、精神的には完全に自立して います。友達とは互いに相談に乗ったりしていますが、常にべったりくっついて いるという訳ではありません。すなわち、友達と群れることを習慣にはしていな いのです。

 もちろん、雫ちゃんにも親しい友達はいます。そして、とても良いことに、 放課後にコーラス部へ顔を出しに行こうという誘いをあっさりと断って図書館( 実際は地球屋)へ行くことが出来ます。本当の意味で、仲の良い友達同士だとも 言えます。実のところ、一見仲良しに見えても、実際は薄っぺらな関係って、実 に多いのです。そういう人達は、仲間外れにされることを恐れますから、誘いを 断る勇気を持てず、その結果常に一緒に行動することになります。互いに群れて いなければ不安で仕方がないわけですね。(なお、同様の理由で、PHSの急速 な普及は、常に連絡が取れる状態でなければ見捨てられると不安がる人達の購買 力によるところが大きいのではないか、と思うのは私だけでしょうか。)

 また、雫ちゃんは周囲の様子を伺ってそれに合わせるということもありませ ん。例えば、母が休講で寝ていたという雨の日、雫ちゃんは制服の上にカーディ ガンを羽織って登校しました。その日は他にカーディガンを羽織っているクラス メイトはほとんどいませんでしたが、だからといって脱いだりするようなことは なく、自分は自分と、そのまま着ていました。無意識にみんなに合わせたりする 人も多いのですが、雫ちゃんはそういう余計な気遣いをしません。

 そして、雫ちゃんは意志決定がとても早く、かつ明快です。もっとも、突然 杉村君に告白されるなど、自分の想定しない事態に直面したときはどうしたらよ いかわからなくなることろが見られるのは先述したとおりですが、必要な判断材 料さえそろっていれば、極めて速やかに決断を下します。迷うということがほと んどありません。

 これらは、普通の女子中学生にありがちな性格とは大きく異なる、個人主義 的な要素ばかりです。さらに、ケガや病気でもないのに保健室に出入りする生徒 (例えば、依存心が高くて自分の意見を主張することも出来ず、周囲の顔色を伺 ってばかりで何事にも決断が遅い、内気で消極的な子)とはことごとくが正反対 の性格だったりします。このような雫ちゃんが、なにゆえ保健室を好むのでしょ うか。

 それは、保健室は雫ちゃんにとって「自分が自分らしくいられる場所」であ るからだと思います。雫ちゃん、夕子ちゃん、絹ちゃんとナオちゃんは、なかな か興味深いつながり方をしています。彼女たちの性格は決して似ているとは言い 難く、クラブ活動も別々です。この年頃では、同じクラブといった属性や性格が 同じという理由でグループを作り上げる傾向が見られるものです。が、彼女たち は、互いの性格は異なりますが、その違いを尊重し合って仲良しになっていると 思われます。ですから、似た者同士が群れるだけの関係とは違う、互いの長所を 伸ばし合い、欠点を補い合う、中身の濃い付き合いをしているのでしょう。

 けれども、そのような関係は、決して多数派とは言えません。ましてや雫ち ゃんみたいな個人主義的な性格をしていたら、なかなか大変だろうとも思います 。大体は、ナアナアの呼吸で順応しようとするからです。雫ちゃんの場合、適当 に主張を抑えなければ、そのような周囲からは浮いてしまうかもしれません。こ こはうまく対処していると思いますが、基本的にはナアナアの人間関係を求める ような性格でないことは確かだと考えます。

 市立図書館のシーンは数多く登場するものの、学校での図書室のシーンは、 無人の夏休み中に入った一回を除けば全く登場しない理由も、学校にいる限り、 図書室でさえナアナアの人間関係から逃れることが出来ないことの裏返しかもし れません。

 ここに、「何かに依存する場」としてとらえられがちな保健室は、皮肉にも 「自立した自分がナアナアのくびきから自由でいられる場」として変身するので す。「駆け込み寺」としての場ではなく、「名誉ある自立」を保つ場として、保 健室の意味を見い出すことが出来るのです。

 そう思って見れば、保健室で4人が弁当を広げ、最も自立した雫ちゃんが作 詞した「カントリーロード」を残りの3人が歌い、「ひとりぼっちおそれずに  強い自分を守っていこう。」という歌詞に感銘する姿は、実に味わい深い意味が こもっていると思いませんか?





 ありふれた団地に居を構える月島家は、どこにでもありそうなごく標準的な 家庭のように見えます。しかし、その家風は、一般的な家庭のそれとは際だった 違いを示しています。それが最も顕著に現れたのが、雫ちゃんの成績が下がった ときの家族の対応でした。

 自分の能力を試したくて、雫ちゃんは物語を書き始めます。家族は、案外早 い時期から、雫ちゃんが何かをしているらしいということを承知していました。 しかし、特にその内容を詮索するわけではなく、いたって平穏な毎日でした。し ばらくして、雫ちゃんの成績が急降下したことがわかります。それを知った時、 姉は激怒したものの、両親はあえてそのことを追及しませんでした。そして、自 分のことは自分で責任を持つという原則を確認して、雫ちゃんの好きなようにさ せます。姉も最後は理解を示して、エールを送りました。

 このような月島一家の底流を流れる家風とは、そして教育方針とは、一体ど のようなものでしょうか。

 端的に書きとめると、
○モノを使わないことを恐れない。そして、知識を財産とする。
○常に自分で判断し、行動する。そして、習慣を財産とする。
○親は自らの背中で行動を示す。そして、信頼を財産とする。
ということになりましょうか。

 月島家は、およそ消費生活というものに興味がありません。もちろん、月島 家も一般家庭の例に漏れず、家電製品に囲まれ、テレビだってあります。しかし 、それを利用しなければならないという観念は希薄です。漫然とテレビをつけっ ぱなしにする風景は月島家では考えられず、必要がない限りテレビに触れること もないでしょう。モノを使わないことを恐れないわけです。

 必要な時だけしかモノを使わない、というのは簡単そうで、実はなかなか難 しかったりします。普通の感覚では、テレビはとにかくつけるものです。使わな ければ、NHKに納めている受信料がソンだと思います。ポケベルやPHSを買 ったら、無理矢理用事を作ってでも使わないと基本料がソンだと思います。定額 制のプロバイダに入って、テレホーダイにも契約すると、何が何でもつながなけ ればソンだと思ったりしませんか(!)。しかし、月島家には、モノは使わねばソ ン、という発想はありません。

 使わないでソンなのはモノではなく、むしろ自分の頭であり知識である、と いう考えが浸透しているのではないかと思います。この家には大した財産はない でしょうが、そのかわり、それぞれの頭の中に知識という財産が蓄積されつつあ るのです。

 ところで、知識を重んじるからといっても、両親が子供達に知識を伝授する ということはあまりなかったと思います。教えたのは「勉強のための知識」では なく、「勉強する習慣」の方ではなかったかと想像しています。 もちろん、そ れには自分で考え、判断し、行動する習慣も含まれています。知識を教えるより も、この習慣を先につけさせ、知識そのものの習得は本人の習慣に任せるわけで す。 両親は早々に子離れを宣言し、子供のやることにとやかく口出しはしませ んが、これも、子供に習慣の大切さを教えたからこそ、出来ることだと思います 。

 また、月島家の両親は、それらの教育方針を口先ではなく、自らの行動でも って実践しています。世間には、口を開けば「勉強しろ、勉強しろ」と言い、子 供を塾に通わせる親が少なくありません。でも、そういう親自身はプロ野球中継 とかを見るだけで、教養書の一冊を読むわけではなかったりします。

 月島家の両親は、子供に「勉強しろ」とは言いません。「塾に通え」とも言 いません。親は子供に構わず、ただ自分のやりたい研究をやっています。けれど も、百万言の「勉強しろ」よりも、親が実際に何かをやっている姿勢を見せた方 が、よほど子供のしつけにいいですよね。(ひょっとすると、勉強するという習 慣についても、両親は言葉でなく、自らの背中でもって教えたのかもしれません 。)

 …モノを使わないことを恐れない。知識を重んじ、自ら考え行動することを 重んじ、勉強をする習慣を大切にする。そして、親自身が見本を示す。これらが 、月島家の家風であり、教育方針であると言えます。

 ですから、ここで雫ちゃんの好きなようにさせたからといって、親は決して 役目を放棄したわけでも放任したわけでもありません。 親自身、その判断には 相当の勇気を要したはずです。まさに、いままでの教育方針への是非を試された 格好になっているからです。

 両親はどこまでも立派でした。先行きが不安なら、今は受験期という大義名 分のもとに、強制的に勉強させる選択肢もありました。でも、あくまでも娘の自 主性に任せたのです。娘は、既に自分で考え、判断し、行動することが出来ると 信じていなければ、このような決断は下せなかったでしょう。ちゃんと勉強する 習慣が身についていると信じていなければ、娘の自主性に任せるような決断は下 せなかったでしょう。

 教育方針への自信。親の背中。そして、信頼…。 月島家の、最も大切にし て得難い財産は、もしかしたらこの "信頼"なのではないでしょうか。





「お父さんのふるさとは新潟・柏崎だけれども、私にとってのふるさとは多摩 しかない。だけど、多摩の街って何なのだろう?」

 自分が住むところは、多摩丘陵を切り開いて造成された街。固有の文化も伝 統も持たない、人工仕立ての街。森を削り、谷を埋めて開発が進んでいく街…。
「ここしかない」ふるさとの姿は、あまりにもわかりにくく、あまりにも漠然 としています。

「ふるさとって何か、やっぱりわからないから、正直に自分の気持ちで書いた の。」

何を考え、どのように感じて、雫ちゃんは「カントリーロード」を訳していっ たのでしょう。

「ふるさとって、何なのだろう?」

 雫ちゃんは、自分が住んでいる街を「ふるさと」として意識したことがあり ませんでした。そこは、ただ現在住んでいるだけの場所に過ぎませんでした。

 一般に「ふるさと」というと、うさぎを追った山、小ぶなを釣った川、それ らを含む美しい田舎の田園風景を連想します。それは、日本人の心の奥底に刻み 込まれている、一種の原風景のようなものだからです。しかし、東京近郊しか知 らない雫ちゃんにとっては、それはイメージだけの世界に過ぎません。また、父 親の故郷である柏崎の親戚訪問も、姉と同行したくない理由だけでキャンセルし てしまうほどですから、田舎に対するあこがれも特に持っていません。

 しかし、「カントリーロード」の翻訳は、雫ちゃんが「ふるさと」とは何か を考えはじめる契機となったことは確かなようです。それは、特にはっきりと描 かれたわけではありませんが、ストーリーの進行に応じて流れる「カントリーロ ード」のメロディは、雫ちゃんが「ふるさと」を見出していく過程と軌を一にし ていました。

 最初に登場した「カントリーロード」の原曲は、いきなり冒頭で流れます。 原曲の歌詞と、都市の雑踏シーンの組み合わせは、いささか違和感を感じますが 、まだ「ふるさと」が自分のものになっていない雫ちゃんを登場させるためには 、原曲のままで良かったのでしょう。

 初めて「カントリーロード」の訳詞が出てきたのは、夏休みの学校でした。 雫ちゃんと夕子ちゃんは、校庭のベンチで、とりあえず訳してみた歌詞を口ずさ みます。いろいろと工夫してはいるのですが、完成度としてはまだまだでした。 一見風刺のように見える「コンクリートロード」も、自分が今そこに住んでいる 現実を忘れ、まるで他人事のように感じていたことの裏返しに過ぎません。とい うのも、雫ちゃんはまだまだ実感を持って「ふるさと」を感じることがなかった であろうからです。

 次に歌われたのは、2学期に入ってからの保健室でした。この間に、雫ちゃ んが地球屋を発見し西老人に出会ったことは、「ふるさと」の認識に少なからぬ 影響があったことと思われます。それは、無意識のうちにも、訳の完成度を高め るのに役だったのではないかと想像しています。

 「ふるさと」というのは、単なる風景ではありません。自分が知っていて、 自分を知っている人がその街にいてこそ、その街を「ふるさと」だと感じられる ものです。ここで、家庭と学校以外の場所での出会い、すなわち地球屋の発見と 西老人との出会いは、雫ちゃんにとって、まさに「ふるさと」発見につながる劇 的な出来事でありました。

 西老人はサービス精神こそ旺盛ですが、いわゆる営業スマイルを見せること はありません。どのような相談にも乗ってくれるし、職人のこころを淡々と説き ながら、雫ちゃんを優しく、そして力強く応援してくれます。(いささか出来過 ぎたきらいはありますが…。)おそらくは家族と学校の中にしか知っている人が いなかった雫ちゃんにとって、西老人は街の中ではじめて出会う「理解ある大人 」だったのではないかと思います。

 図書館へ続く階段を下りながら、雫ちゃんは叫びます。
「いいとこ見つけちゃった。」
猫を追いかけて、図書館を通り抜け、裏口の扉を乗り越えるちょっとしたスリ ル感にはじまり、急な上り坂、はじめて見る丘の上の街、ロータリー、地球屋、 おじいさん、天守の丘…。その嬉しそうな表情は、街の中に自分の行動圏が拡が っていく喜びが大きく表現されていました。その喜びが反映されたのでしょうか 、「カントリーロード」はより洗練されて、完成度の高い訳詞に仕上がっていま した。それが学校の中でも保健室で披露されたのは、何やら意味ありげです。

 次に登場するのは、あの有名な地球屋での即興演奏会のシーン。歌詞そのも のは、保健室で歌われたものと大差なかったでしょうが、いよいよ学校を飛び出 して、街の中の、自分のとっておきの場所で歌われます。もっとも、これは幾つ もの偶然と聖司君の機転なくしてはあり得なかったシーンなので、そこに積極的 な意味を見出すことは難しいです。でも、訳詞を学校の行事のために作った、と いう枠を越えたところで歌われた瞬間でありました。以後、「カントリーロード 」は、雫ちゃんと聖司君の絆を象徴する歌として描かれます。

 屋上で、聖司君が事実上、雫ちゃんに告白をするシーン。二人の目の前には 、雨上がりの日差しがまぶしい多摩の街並みが拡がっていました。そこで、聖司 君はいささか照れながらも言い放ちます。
「イタリアへ行っても、おまえのあの歌を歌って頑張るからな。」
そう、その歌は、雫ちゃんの「ふるさと」像が込められた「カントリーロード 」。「ふるさと」を遠くから思いながら、そして雫ちゃんを思いながら歌いたい 歌。
二人が離ればなれになってから、幾度この「カントリーロード」が歌われたこ とでしょう。

 そして、ラストシーン。朝もやに包まれた街を見下ろしながら二人を包み込 むように「カントリーロード」が流れます。
ここは確かに自分たちの街なんだ、私はこの街で力強く生きて行くんだという 思いを新たにするのにふさわしい、美しい風景。
思い出が積み重なり、未来に羽ばたいていく礎を築いていくところ。そこは、 両親が暮らす街。友達が暮らす街。西のおじいさんが暮らす街。そして、目の前 にいる好きな人と同じ時を生きている街…。

 そう感じた時、眼下に拡がる風景は「ふるさと」になったのです。






 高度情報化革命前夜の風景−「耳をすませば」
 私たちは、「耳をすませば」の背景に描かれた現代日本の風景をリアルに感 じることが出来ます。どこかで見たような景色、街の雑踏、家庭の生活感…。し かし、休みなく変化を続ける時代の流れは、これらのリアリティの多くを早晩ノ スタルジーに変えてしまうと思われます。特に、高度情報化革命が進行中と言わ れる今、私たちは過去の10年間とは比較にならないような劇的な変化を今後の10 年間に経験していくであろうと予想されています。

 ところで、雫ちゃん世代はまさに高度情報化革命のただ中に位置しており、 旧来の習慣の中で暮らした最後の世代という役回りを背負わされています。雫ち ゃんの日常には、失われつつある数々の習慣が生活の舞台の中でこと細やかに描 かれています。ちょうど高度経済成長前夜の農村を描いた「となりのトトロ」の ように、「耳をすませば」は、高度情報化革命の波に呑み込まれる前夜の日本に スポットを当てた、1990年代を代表する作品として評価されるかもしれません。
 以下に、今後見られなくなるであろう幾つかの習慣を見ていきましょう。

○図書カードを利用した、最後の世代
 現在、図書館のシステムはほとんどがバーコード化されたので、これから学 童期に入る世代の子供は、もはや貸し出しカードに接する機会がありません。雫 ちゃんは、貸し出しカードを利用して本を借りた最後の世代となりました。自分 より先に借りた人の名前を発見し、どんな人だろう、と思いを巡らしたり、気に なる女の子よりも先に本を借りて、貸し出しカードに名前を残そうとしたりする 麗しい試みは、もう永久に出来なくなってしまいました。

○手書きで物語を書く、最後の世代
 月島家でも既にワープロが導入され、雫ちゃん以外は全員、ワープロを使い こなしています。雫ちゃんも、いづれはワープロで物語を書くようになるでしょ うが、ともかくワープロを使う教育を受けずに育った、最後の世代であろうこと は間違いありません。雫ちゃんよりも下の世代では、もう物心ついたときからキ ーボードに親しみ、文章はワープロを使って書くという習慣がはじめからついて いるでしょうから。

○不要なものは持ち歩かない、最後の世代
 雫ちゃんは、用事がないときは、何も持ち歩きませんでした。手ぶらで街を 歩くことがごく自然に出来ました。当たり前のように思われるかもしれませんが 、現在、この手ぶらで外出するという習慣は、既にほとんど消滅していますし、 これからも復活することはないでしょう。実際に使う使わないに関わらず、何か を持たないと安心して外に出られない人が圧倒的に多くなっているからです。試 しに、手ぶらで街に出てみましょう。何も持っていないと不安感に襲われると思 います。
 特に、ポケベルなり携帯電話なりの普及によって、たとえ使う用がなくても 、服を着るようにそれらを持ち歩くことが当たり前になる時代は、もうそこまで 来ています。子供だって、外出すれば必ず塾の教材なりを持ち歩く習慣が身につ いていて、ほどなくPHSなどを手に入れたりすると、もはや手ぶらでの外出は 考えられなくなるでしょう。

○コミュニケーションに距離を感じる、最後の世代
 何故か、「耳をすませば」では雫ちゃんと聖司君が電話をするシーンがあり ませんでした。常に直接会ってコミュニケーションをとっていました。イタリア へ行く時も、普通なら「○○日に出発するよ」などといった電話をするものです が、聖司君はそこにいると確かめたわけではないのに、図書館まで雫ちゃんを訪 ねました。そのような二人ですから、イタリアから国際電話がかかるようなこと もなく、ただお互いの心が通じ合っているという気持ちを支えに、それぞれの地 で頑張ったのです。
 考えようによっては、このような種類の精神的なコミュニケーションは、今 まさに滅びようとしている最たるものではないかと思います。何せ、インターネ ットが世界中に張り巡らされている時代です。さして費用もかけず、距離を感じ ることもなく、手軽に世界中のどことでも連絡を取ることが出来る時代です。戦 前ならいざ知らず、好きな人がイタリアへ行ったからといって、2ヶ月も全く連 絡をとらないというのは今後ますます考えられなくなるでしょう。
 しかし、逆説的ですが、連絡をとらないでもつながりが維持出来るというこ とは、高度情報化社会に対する強烈なアンチテーゼとして存在理由の輝きを放つ かもしれません。直接的コミュニケーションを貫く美学は、PHSなどでいつで も連絡のとれることが親しさの証のように思い、ひたすら浅薄な無駄話を消費す る時代において、何と貴重で尊いことでしょうか。(本当に固い絆で結ばれてい る二人なら、ちょっとくらい連絡が取れなくても浮気の心配などないはずですか ら、あえて雫ちゃんと聖司君のように、必要最小限以下のコミュニケーションで 済ませる試練に挑戦してみるのがいいかもしれません。)
 情報化社会がどの方向を目指そうとしているのか見失いそうになり、原点ま で立ち戻って考えたとき、この直接的コミュニケーションの持つ意味というもの が再評価されるでありましょう。

「地域」の原風景から「時代」の原風景へ
 さて、原風景という言葉を聞くと、まずは田舎の田園風景を連想するのが妥 当なところだと思います。昔は、多くの人が農村に住んでいました。ですから、 その風景は普遍的なふるさと像として日本人の心に刻み込まれているものと思い ます。

 さて、高度経済成長が始まると、農村の人口が大挙して都市に流れ込みます 。しかし、地方出身者の多くは、都市に住むようになってかなりの年月が経って も、出身地をふるさととして慕い続けました。そのために、現在もお盆と正月に 民族大移動とも形容される帰省ラッシュが見られるのは周知のとおりであります 。

 ここで、単にふるさとと言っても、「風景」よりはむしろ「地域」に対して 深い愛着が寄せられるようです。ですから、地方の都市化が進み、いわゆる農村 風景もかなりが失われても、帰省ラッシュはなかなか廃れないのでしょう。

 しかし、「地域」をより意識するのは、地方で生まれ、都会に住むようにな った人が多い高度成長期特有の現象だと思われます。その子供は、都市で生まれ 育った、都市をふるさととしなければならない世代だからです。けれども、街の 景観が変わり、同時に生活習慣も変化していくので、同じ街に住み続けていても 物理的に引っ越したのと同じような変化を現代の子供世代は経験しています。

 すなわち、地理的な変化で比較対照し過去に住んでいた「地域」を懐かしく 思う意識は、将来的には時代的な変化で比較対照し過去に住んでいた「時代」の 風景を懐かしく思うように変移していくのではないかと、私は思っております。 すなわち、「地域」の原風景からそれぞれの「時代」が原風景となっていくよう になるのです。

 あと10年もすれば高度情報化社会は完全に現実のものとなり、雫ちゃんも現 在とは全く違う生活をしていると思います。街並みも、変わるところは大きく変 わっているはずです。ふとしたとき、雫ちゃんは中学生だった当時を思い出すで しょう。図書カードに書かれた天沢聖司の名前に心惹かれた日のことを、家族が 寝静まった頃、物語を書くためにせっせとペンを走らせた日のことを。

 失われた習慣を懐かしく思い、その頃に郷愁を見出すとき、ふるさとの意味 するところの重点は「地域」から「時代」へと移っていくのです。







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