●随 想 録
Kinds of Memoirs

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[6]或る親父の人生 1999/07/21 ★

[5]左利きであること 1998/08/04

[4]モノの進歩、人の進歩 1997/11/07

[3]一流のパソコンはあるか  1997/10/21

[2]大学院へ進む 1997/06/01

[1]本当に欲するもの 1996/10/01









 
[6]或る親父の人生


大学生時代、友人Aの呼びかけでビラ配りのアルバイトを手伝うことになった。そのビラは市長候補の顔が印刷されてあり、友人Aの父はその市長候補と同じ政党の議員であり、要するに選挙の手伝いに動員されたのであるが、それはまあどうでも良い。学生バイトばかりではなく、その候補者を応援していると思われる土建業者の親方と、その子分も大勢動員されていた。その候補が当選すればご利益にあずかれることを期待してのことと思われるが、それもまあどうでも良い。

その日のバイトは、土建屋さん1人と学生1人づつで一つのチームを組み、幾つかに分割された市内の地域にビラをばらまいてくるという仕事であった。私とペアになったB氏は、いかにも土建屋という感じの親父であり、普段ならなかなか近寄りがたい雰囲気に満ちていた。

しかし、B氏はその雰囲気に似合わず、いろいろと自分の身の上話をしてくれた。鹿児島県の出身で、中学を卒業後、いわゆる金の卵として東京にやってきたこと、今の親方のもとで修業を積んだこと、親方に認められて大事な仕事を任せてもらえるようになったことなどを訥々と話した。特に、親方の本宅を新築する時、その工事を任されたことが一番の名誉であり、誇りであると言った。

ビラ配りの途中、B氏の自宅に寄り、そこでお茶をごちそうになった。こじんまりとした一戸建てであったが、よく手入れが行き届いていた。応接間には二人の息子の写真が飾られていた。二人とも大学を卒業して独立し、今は夫婦ふたりだけで暮らしている。

B氏は、自分は中卒なので学歴が全くないと言い、その自分の息子がどうして大学まで出たのか分からないと謙遜した。しかし、B氏にとっては、息子を二人とも大学にやったということは、たとえようもなく誇らしいことであると思われた。学歴で何度も悔しい思いをしたから、息子が大学に合格した時には自分のことのように喜んだという。

この種の話は、ありふれた自慢話かもしれない。しかし、B氏のそれは少しも嫌味には感じなかった。苦労に苦労を重ねてきた長い年月を経て到達した表情がそう思わせるのであろうか。息子について語るB氏の目は、優しさと威厳に満ちていた。たとえ学歴がなかろうとも、仕事で親方に認められ、家庭では息子を大卒まで育て上げたという自身と誇りに満ちていた。B氏は、自分の人生に悔いはないとも言った。自分のような若造が言うのも何であるが、本当に素晴らしいことだと思った。

B氏の話を聞きながら私は考えていた。数十年後、私も悔いのない人生が送れたと誰かに話すことが出来るだろうか、と。

余談であるが、ビラの市長候補は善戦及ばず落選した。





 
[5]左利きであること


私は左利きである。別になろうとしてそうなったのではなく、物心ついた時から左利きであった。両親は、私の左利きを矯正しようと、いろいろと試みたらしい。今でこそ、左利きは左利きのまま育てようという考えが主流であるが、当時はそうではなかった。両親は、幼い私の左手をタオルでぐるぐる巻きにして、使えないようにしたこともあるという。しかし、私自身は記憶がないのであるが、私はハサミを使ってタオルを外したそうだ。その後もいろいろあったらしいが、結局両親は諦め、私の生涯の左利きが確定した。

左利きは、世の中で暮らしていくにはあまり便利ではない。およそ道具という道具は右利き用に作られているからである。右利き用の道具を左手で使うというのは、実に不便で使いにくいことこの上ない。ハサミなど、一部の道具では左利き用が作られていたりするが、選択肢は非常に限られる。

道具に限らず、およそ世の中のものはすべて右利きが便利なように出来ている。全員が右手で切符を入れることを前提に設計されている駅の自動改札などは、その典型的な例であろう。コロコロと粘着テープつきのローラーを転がして絨毯のホコリをとるアレも、左利きが使うと何かと不都合である。右利きならば多分意識もしないようなところまで、世の中は右利き用に出来ている。

パソコンのマウスは左利き用に設定することが可能であるが、それが可能であるという意味しかない。自分のパソコン以外に触れなくて済むのならばマウスボタンの左右を逆にしてしまえば便利なのであるが、アクセルとブレーキを入れ替えるのと同じで、実際問題としてそういう設定など出来るわけがないのだ。それ以前に、私が共有パソコンを使った後、マウスを左側に残して置いただけで右利きの人はストレスを感じるのである。その気持ちはよく分かるのであるが、左利きは年中そういうストレスを感じていることを察して欲しいものだ。

私は、いちおう達筆ということになっている。習字の先生に言わせれば、私が書く字もクセだらけであるに違いないが、世の中ではかなり上手な方に入るらしい。私の字を見た人はたいてい褒めてくれるのは嬉しいのであるが、私が左利きだと知ると、これまたたいてい驚く。まるで、左利きは字が上手だといけないかのようなあからさまな反応まであって、あまり面白くない一瞬であるが、それだけ左利きは分が良くないということであり、今更気にしても仕方ない問題なのだ。(ちなみに、私が出来るのはペンか万年筆を使った習字だけであり、毛筆は使えない。試してみれば一目瞭然であるが、毛筆を使うとき左手で漢字を書こうとしても筆が逆立って絶対に不可能である。漢字というものは、つくづく右利きが書くのに便利な構造をしていると思う。)

このように、あまり分が良くない左利きであるが、高校時代、美術科に所属していた後輩から、猛烈に羨ましがられたことがある。彼女の兄も美術科に通っていたが、兄は左利きであった。そして、兄は非常にすぐれた才能を発揮していたからであった。

確かに、芸術の分野では左利きが多いという。スポーツの世界では、サウスポーは重宝される。けれども、だからといって左利きが優勢なのではなく、世間一般よりも少し左利きの確率が多いだけに過ぎない。やはり、どこに行っても多数派は右利きなのだ。たまたま左利きだからといって、あまり羨ましがられても困るのだが・・・。

右利きになるか、左利きになるかのメカニズムは、まだ充分に解き明かされていないそうだ。左利きになったのは、半ば運命的に授かったものなのだという。

だから、左利きだからといっても、くよくよ考えることなく暮らしていこうと思っている。





 
[4]モノの進歩、人の進歩


おおよそ、たいていのモノは、性能がよければよいほど重宝される。「価格と性能のバランスが大事」とはよく語られる話ではあるが、同じ価格ならばより高性能なモノの方が歓迎される原理に変わりない。

パソコンは、ほかのあらゆる分野と比べても、特に技術の進歩と価格の低下が著しい。数年前までは高価でとても手の出なかった機器が、今では大量に安く市場に出回るようになった。一般に、モノの価格性能比が向上することは、大変めでたいこととされている。

しかし、私は思う。モノの性能向上に対して、人間の能力は果たして追いついているだろうか。追いつくどころか、価格の低下にあわせるかのように、能力はむしろ下がっているのではないだろうか。

東武線沿線に、パソコンと映画とゲームを趣味としている知人がいる。彼の部屋には、高価なパソコンのハードと周辺機器が大量に陳列されている。もちろん、それだけではない。主要ゲーム機一式、AV機器はもちろん、その他大量のソフト、雑誌、ゲーム攻略本、漫画などが平積みされていて、まさにモノのジャングルといった様相さえ見せている。

彼は、ゲームをすることが大変お気に入りである。パソコンのゲーム、ゲーム専用機のゲームなど、主なゲームはひとおおりやり尽くしている。また、映画のソフトも熱心に収集している。しかし、それらの作品が持つ世界観だとか魅力について尋ねても、意味のある答えは返ってこない。ただ評判がよさそうだという理由だけで次々と買っているからだ。

テレビで放映されている番組の中にもいくつかお気に入りがあってよくビデオに録画をしているが、それらのビデオは無造作に積み上げられているだけであり、2度以上どころか、1度でも見返したかどうかさえ怪しい。定時にテレビの前に座らなければ好きな作品を見ることが出来ず、保存する手段もなかった時代と比べると、容易に作品を所有出来るようになったゆえ、かえって作品を鑑賞しなくなったような気がする。それが作品の魅力を嗜む能力・感性をも鈍らせてしまったのではないか。さらに、人間としての基礎的な能力までもが脅かされてつつあるのではないか、という疑念さえ感じずにはいられない。

彼は、外観だけを見れば、なかなかの好青年である。勉強も出来るし、潜在的な能力は相当のものだ。しかし、彼の部屋はモノであふれかえっている。モノの多いのが悪い訳ではないが、きちんと整理・整頓することが出来ないから、狭い部屋を一層狭くしている。1年365日、決して片づくことはない。

潜在能力は高くても、彼の知性は、所有するモノの多さと反比例するかのように空洞化が進んでいるようだ。彼はたびたび高性能なパソコンに買い換える。それに呼応するかのようにパソコン関連の雑誌は山をなして増えるが、彼の本棚に教養書の一冊が追加される訳ではない。

彼は口を開けば忙しい、忙しいと言っている。しかし、これも本当に忙しいのではなく、単に事務処理能力が遅いに過ぎぬ。一定の時間にわずかな量しか処理できないから、年中“忙しい”状態になっているだけだ。しかも、貴重な時間の多くはゲームに興じたり、映画を漫然と鑑賞するために費やされていたりする。

要するに、彼の所有するモノはすごいが、彼の魅力はモノの威力に及ばない。部屋を埋め続けるモノの性能は進歩しているのに、彼自身の進歩は極めてスローペースである。分野によっては、むしろ退化さえしている。そして、何よりも重要なポイントは、彼自身、自らを向上させようという意欲に乏しいことである。その日、その日が平穏無事に暮らせれば、それでよしとする。モノに囲まれて暮らす生活に充分満足しているのだ。

彼が所有するモノの性能と、自身の能力のバランスは、果たしてとれているのだろうか。彼が持つ潜在能力と実際の能力のバランスは、果たしてとれているのだろうか。

もちろん、自分に限っては大丈夫、と安心することなんて出来やしないが…。





 
[3]一流のパソコンはあるか


同じ種類の商品でも、高級品から普及品まで様々なランクが存在する。鞄や時計を例に見ても、夜店の景品と見まがう粗悪品から、一流ブランド品と称されるものまで、まさにピンからキリまでいろいろとある。

一流ブランド品を買うのに資格が必要なわけではない。しかし、多くの場合、それを持つことは実用的な道具として供されると同時に、ステータスシンボルとしての記号的価値を表す側面もあるとされるから、必然的にユーザーとなる層は限られてくる。

一流ブランド品を購入すれば、自動的に一流の人間になれるわけではない。一流と目される、教養があり社会的評価の高い人々がいて、彼らによって選択されるものがすなわち、一流ブランド品と呼ばれているのではないか。

西欧諸国において、ひとつ一流品を持つということは、すべてを一流品で揃えなければならない暗黙の了解があるという。一流の人物なら、それにふさわしいものをまとうのが自然だから。もちろん、このような慣習について、西欧の階級制度が色濃く残る文化的背景は無視できないし、それが必ずしも正しいとは思わない。しかし、やはり一流ブランド品は、それを持つべき人物が持ってこそ意味をなすと思う。

ところで、日本はたぐいまれな平等社会ということになっていて、お金さえ出せば文字どおり誰でも一流ブランド品のオーナーになれる。ルイ・ヴィトンだバーバリだをむやみに買いあさる日本人観光客の姿はあまりにも有名だ。ここで問題なのは、さしたる向上心もなく教養もいい加減なのに、カバンや身の回り品だけは一流ブランド品にこだわったりする態度だ。何よりも本人自身の資質が重要だと思うのだが、日本においては、そのような態度も特に不思議とは思われていないようである。いや、誰でも理屈では分かっているかも知れないが、実際の行動が伴っている人はどのくらいいるだろうか。

さて、パソコンの世界を考えてみよう。確かに、マックを縦横に使いこなす一流のデザイナーは多いし、モバイルパソコンをかかえて颯爽と闊歩するビジネスマンは、いかにも一流エリートの雰囲気が漂う。けれども、それはあくまでも人の資質が優れているのであるし、パソコンも仕事の道具として使っているに過ぎない。ここで注目すべきなのは、主に個人が趣味として購入・使用するパソコンについてであり、それを持つことによってステータスを表し得るかどうかということである。

数多あるメーカーの多くは一流だし、40万円を越える高価なパソコンだってある。周辺機器を一式揃えたら、クルマ1台分くらいの投資が必要なことはザラである。しかし、それらのモノが部屋に陳列されている光景をもって、その人のステータスを具現することが出来るだろうか。否、せいぜいは“結構なシステムだことで”とマニア扱いされるのがオチであろう。つまり、どんなに高価で高性能なパソコンだって、“マニア向け商品”とは呼ばれても一流品とは呼ばれないのだ。

ここに、大きな意味が隠されているような気がする。

確かに、パソコンの歴史は浅く、一流品もヘチマもないのかもしれない。カバンなどとは本質が異なり、その時点で最も高性能なパソコンこそ、一流品の証だという説もあろう。しかし、新製品が発売される度に、常にパソコンを更新し続ける人は、果たして一流と呼ばれるのだろうか。おカネが有り余っている人、あるいは限りある可処分所得をすべてパソコンに注ぎ込んでいる人なら、常に最新機器を揃えておくことは可能かも知れないが、前者は単なる金持ち、後者は文字通りのマニアと呼ばれるだけで、その行為自体では誰も彼らを一流とは見なさないし、従ってパソコンも一流品とは見なされないであろう。

個人が趣味で使うパソコンが一流品と呼ばれないのは、結局、ユーザーそのものの姿を反映しているものと思えてならない。高性能なパソコンは充分一流品になり得るのだが、ユーザーが必ずしも一流ではないため、パソコンも一流品になれないのだ。身だしなみは無関心で服は安物を適当に着ているのに、パソコンだけは高価なものをそろえるユーザーは決して少なくない。教養書の1冊を読むではなく、感性を磨いたり人間性を高める努力をするでもなく、 機械自体に執着したり、その機械でインターネットに接続し、妖しい画像を見ていても仕方がないでないか。(妖しい画像が悪いのではなく、それしか見ないことが問題なのだ。)まさに趣味の問題と言ってしまえばそれまでだが、何かが違うという気持ちは拭い去ることが出来ない。

“マニア向け商品”が“本当”の“一流品”と“なる”文化が形成されんことを望む。





 
[2]大学院へ進む


大学卒業後、私は出版社に就職した。出版社というと猛烈に忙しいというイメージがあるが、それは週刊誌などを出している大手の話であって、教科書を作っている出版社はそれほど忙しいというわけでなはい。もちろん、それはヒマという意味ではなく、忙しいといえば忙しいには違いないのであるが、1年のサイクルで仕事をするのであるから季節によって仕事量に波があり、年中多忙ということはないのである。

私は残業というのが嫌いであった。だから、よほど忙しくない限り出来るだけ残業をしないように努めていたのであるが、上司から「あまり残業をしないと(この部署は)人が余っていると思われるから、少しは残業しろ」と言われたので、時間配分を調整して残業時間を増やしたりした。もちろん失敗も多々あって、どちらかというと嫌な思い出の方が多いのであるが、仕事はそれなりに面白かったし、このまま安定したサラリーマン生活を送るのも悪くはないと思っていた。

そんなある日、大学のゼミのOB会があった。その席で、先生は「毛利はいつ大学院に行きたいと言い出すか。」という意味のことを言われた。私はもともと大学院への進学を希望していて、その準備もしていたのであるが、私の主要な関心分野を専攻するのであれば学部を変えなければならなかったし、当時受験していた出版社の内定ももらっていたので、そのまま就職してしまったのであった。

実際、出版社での生活も悪くはなかった。それなりに安定した生活が送れる見通しはあった。しかし、私は「これは本当に自分が欲していた人生なのか」と。そうして、あれこれ考えていくうちに、やはりどうしても学問を追究する道へ進路変更をする決意が固まった。

勤務しながらの受験勉強は、なかなか能率が上がらない。ある司法試験の予備校で開設されていた大学院入試対策講座に通った。その講座は社会人向けに夕方から開講されていたので、通うには便利であった。いったん帰宅すると、もう勉強は手につかないので、もっぱら自習室に通った。土曜・日曜も出来るだけ自習室か図書館へ行って勉強するように努めた。

大学院は2校受けた。一つはあっさり落とされたが、もう一つ受けた母校の研究科で何とか拾ってもらうことが出来た。母校といっても学部が違うから知っている先生もいないしキャンパスの所在地も異なり、感覚的には全く違う大学ではあったが・・・。正午に掲示された合格発表は、会社が終わった夕方遅くになってから見に行った。掲示板に自分の名前を発見したとき、まず浮かんできたのは、これからどうやって生活していこうかとか、どのタイミングで上司に退職の意志を伝えるかということであり、嬉しいという感覚は湧いてこなかった。ずっと後になってようやく、この年齢で進路を変更するということの意味をかみしめ、覚悟を新たにした。

大学院に入学した後も、しばらく勤務は続ける二重生活を送った。そして、仕事の区切りにメドがついた時点で退職し、ふたたび完全な学生の身分に戻った。在職中に貯めた貯金と退職金が学費と生活費の原資になった。生活は苦しくなったが、サラリーマン時代とはまた違うやりがいを感じながら毎日を送っている。思えば、いろいろと進路変更をして回り道をして、両親をはじめいろんな人に迷惑をかけてきたが、ようやく自分の目指すものが見えてきたと思う。

大学院を修了した後は、このまま大学に研究者として残ることを目指している。もちろん、それは決して簡単なことではなく、確たる見通しがあるわけではないが、自分の選んだ道を信じて、これからも頑張っていくつもりである。





 
[1]本当に欲するもの


教科書図書館に行く機会があった。旧刊の棚を小学校から順に追ってみた。かつて世話になった教科書を見つけるたび、当時の思い出が懐かしい。高校の棚では受験生時代、大学進学以降の記憶もよみがえる。ふと、フランスの哲学者アランが著した『幸福論』を思い出した。

「多くの人は、あれやこれやが手に入らぬことの不平を言う。だが、その原因はいつでも必ず、かれらがそれを本当には欲しなかったことにある…。大将になることが出来ず、隠居先で畑でも耕そうかという退役大佐は、実は大将になろうと本当には欲しなかったのだ…。」

高校生だった当時、私は薦められてこの本を読んだ。あまりにもよく知られたこの一節は、いかにもその通りと納得したような気分になった。本当に欲するもの、か。とりあえずは大学進学かな。

進学を考えられただけでも恵まれていた。けれども、それが有難いことだという自覚に乏しかった。今になって思えば、ほとんど何も考えないまま、私は理系の大学生になっていた。

しかし、入学して早くも壁に直面した。講義についていけないことはなかったが、何かが違うという気持ちをぬぐい去ることが出来なかった。どのように表現すべきなのか、未だに適切な言葉が思い浮かばないが、端的に言うと、自分の将来像を描くことが出来なかったのだ。

その頃、アルバイト先で知り合ったマレーシアの青年は、たとえ外国人労働者と呼ばれようとも、明確な目的とビジョンを持って働いていた。旺盛な学習意欲は周囲を圧倒し、そのはつらつとした姿はまばゆいばかりだった。それに比べると、自分は不平ばかり言って、本当に欲するものが何かさえ分からないような状態だった。

いろいろと考えたが、当時の新聞に載っていた、やはり進路を変更して大学に入り直した新聞記者の記事に励まされたこともあって、結局進路変更を決意、出来るだけ講義に出席しながら予備校に通って、翌春法学部に合格した。もちろん、理系を逃避同然で終わりたくなかったから、試験は可能な限り受けた。退学届と引き換えに、22単位優6個の成績原簿が残った。

文系転向をどこまで「本当に欲して」いたのかは自信がない。だが、少なくとも、何かを希望しながら不平を言うだけで終わらなかったつもりだ。幸い、ゼミの指導教官にも恵まれ、研究テーマを存分に追究することができた学生時代だったと思う。

今再び『幸福論』を読み返すと、アランは「希望するのと本当に欲するのとはちがう」とも書いている。単に希望するだけでは何も変わらないと言うことを、本当に欲し、かつそれに向かって頑張らないと何も得られないということを、その一節は意味しているのだろうか。自分の置かれた、目標を目指すことの出来る環境の尊さを忘れず、「本当に欲する」目標を現実のものとするために、信念を持ってこれからも努力していきたいと思っている。

教科書図書館の帰り道、リクルートスーツの学生や浪人生とおぼしき集団とすれ違った。彼らは何を、どのように欲しているのだろうか。

運命は、我々をひきずって嘲弄する。 だが「真に欲する」運命は、我々が切り開いていくものなり。






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