2001年の日記は現在編集中です。 しばらくお待ち下さい。 | |||||
2001年10月11日(木) 今回のパリ旅行も最終日となってしまった。ようやくパリ市の位置関係が分かりかけた頃に退散しなければならないのは実に名残惜しい。成田空港へ帰る飛行機は夜8時すぎに出るから、パリ市内からは4時半、遅くとも5時には出なければならない。荷物はホテルに預けて外出し、ギャラリーで最後の挨拶をしてから荷物を引き取って空港へ向かうプランを立てていたところ、フクオカさんから電話があった。フクオカさんは、昨日よりオペラ通り近くのアパートに滞在している。何と、私の荷物をアパートの方で預かってくれるという。空港へ向かうバスはオペラ座の裏から出ているので、有り難いことこの上ない。感謝! ホテルの朝食は、小さめのフランスパン1つ、クロワッサン1つにマーガリン&ジャム、そしてコーヒーかメチャメチャ甘いココアというもので、初日から最終日まで全く同じメニューだった。おそらく、このホテルの朝食は大昔から全く同じメニューが続いているものと思われる。フランスでの朝食は概して質素というし、まして安宿の朝食なので多くは望むべくもないのだが・・・。
フクオカさんが借りたアパートは、日本でいえば銀座地区のど真ん中にあるようなもので、パリ都心ならほとんどが徒歩圏に入ってしまう交通至便な場所にある。空間的なゆとりもアパートならではのもので、日本人向けに炊飯器まで備え付けられている。これで、これまで泊まってきたホテルと大差ない費用で借りられるのだから、滞在期間が一定の日数になるときは、現地のアパートを借りたほうが都合が良さそうだ。 郵便局へ寄って日本宛の手紙を何通か出し、ネットカフェのマダムに挨拶を済ませ、午後3時過ぎにギャラリーに戻る予定でフクオカさんと別れた。パリ市の西方に位置する新市街のラ・デファンス地区に行き、最後はカルチェ・ラタンに寄ってパリの大学を見るつもりだ。 ラ・デファンス地区は、さして珍しくもない高層ビルが立ち並んでいるだけであり、歴史が積み重ねられた旧市街と比べると(観光的に)見るべきものは新凱旋門くらいしかない。でも、私はパリに来る前から新市街を見に行こうと決めていた。 フランスは、芸術と料理だけの国ではない。技術と経済の国でもある。フランスの持つ技術力は世界に冠たるものがあり、その経済力も大きなものがある。統合市場ユーロの覇権争いも絡み、近年におけるフランス企業の世界戦略はますます拡大しつつあり、その影響は日本にも及んでいる。例えば、ルノーによる日産の事実上の買収、アルテミスによるあおば生命の買収、カルフールやセフォラの店舗展開など、フランス企業の日本進出が盛んになっているが、これもフランスの世界戦略の一部に過ぎない。フランスという国家の底力を垣間見るためには、フランス一のオフィス街であり、同時にヨーロッパ一のオフィス街でもあるラ・デファンス地区はどうしても見ておきたかったのだ。
終点の地下バスターミナルから地上に上がると、正面に新凱旋門が目に入った。その周囲を近代的な高層ビルが取り囲んでいる。旧市街が19世紀的様式であるとするならば、この新市街はまさに20世紀的様式と呼ぶべき街であった。 ちなみに、新凱旋門は別名「グランド・アルシュ」(大きな箱舟)と呼ばれており、迫りくる新ノアの洪水に対し、人種・民族・国籍の区別なく人類が乗り合うべき「大きな乗合船」という意味が込められているという。私達がこれから生きていくべき21世紀は、どのような未来が待ち受けているのであろうか。 ここでは、これまで見かける機会の少なかった背広姿のビジネスマンがせわしく歩いていた。街全体の空気も何だか違っており、旧市街とは異なるもう一つのパリの顔があった。滞在時間は長くはなかったし、ただ行ってきただけに過ぎなかったが、やはり一目見に来て良かったと思う。
フランスでも、近年は大学の大衆化が進んでおり、一般の大学(ユニベルステ)を出ただけはもはやエリートとは呼ばれなくなっている。名門として有名だったソルボンヌ大学も大学改革の中で解体されてしまい、パリ第一大学や第三大学といった名称になってしまった。なお、真のエリートは、ユニベルステではなく、国立行政学院(ENA)や高等師範学校(ENS)といった超一流の難関校(グランゼコール)から輩出される。例えば、シラク大統領やジョスパン首相はENA出身であり、サルトルやパスツールはENS出身であった。グランゼコール出身者は、東大法学部出身のキャリアに匹敵する、いやそれ以上のパワーエリートとなって、フランスという国を動かしているという。 日本的な平等教育に慣れた目から見れば、フランスの徹底したエリート主義は凄まじいばかりではある。18歳の時点で(見方によれば義務教育が終わるまでに)人生はほぼ決定し、やり直しが効かない。しかし、現在のパリ市長を務めているドラノエ氏は必ずしもエリートではない。非エリートの市長誕生ということでニュースになったほどだ。エリート支配で固まっているフランスの社会制度もこれからは次第に変わっていくかもしれない。 結局、カルチェ・ラタンも一帯をざっと歩いただけで終わってしまったが、学生街の独特の雰囲気は確かに感じ取ることが出来た。私も日本に帰ったら一層勉強に励むことにしよう。(という心がけはいつもするのだが・・・)
あとは自力で日本へ帰らねばならない。 所要時間は1時間弱のはずだが、空港へ向かう途中で事故渋滞にひっかかってしまって大幅に遅れ、空港の第2ターミナルに着いたのは午後6時をだいぶ回っていた。大急ぎで搭乗手続きをしなければいけないのだが、全日空のカウンターは全く見あたらない。何と、ターミナルを間違えてしまったのだ。目指すべき第1ターミナルは連絡バスで10分くらいかかる。 辺りに日本人は皆無。連絡バスの乗り場はどこにあるのか見当もつかない。私のフランス語は使い物にならず、英語も充分ではない。出発時間は刻一刻と迫っている。大げさでも何でもなく、人生最大級の大ピンチに直面していることを悟った。飛行機に間に合わなかったらどうしよう。 なりふり構わず連絡バスの乗り場を聞いて回り、ほとんど奇跡に近い幸運さで第1ターミナルへたどり着き、全日空のカウンターを発見したときには、思わず全身の力が抜けてしまった。もし右に行くべき所を左へ進んでいたら、左に行くべき所を右へ進んでいたら、時間までに間に合わなかったに違いないから、運試しの神様に感謝せずにはいられない。 飛行機は一番窓側の席が当たった。隣はパックツアー帰りの老夫婦だった。ドイツ・スイス・フランスを10日ほどかけて回ったツアーの帰りだという。前後の席もそのツアーの人達らしく、帰りの飛行機はとても賑やかだった。時間はたっぷりあったので、隣の老夫婦といろいろと話をした。パリでの1週間のことや帰りの飛行機で乗り遅れそうになったことを話すと、「やはり個人旅行は大変ね。パックツアーだとそういう心配がないから、私達にとっては(パックツアーの方が)安心だわ。でも、あなたのような若い人は、いろんな出来事やハプニングこそいい思い出になるものよ。」と言われてしまった。確かに、いい思い出にはなるかもしれないが、空港で迷ったときは寿命が縮むくらい焦ってしまった・・・。 シベリア上空では、オリオン座が見られた。 パリから戻った翌日、大学の後輩が台湾で結婚式を挙げるため台北に飛んだ。これもまた一つの長大なレポートが書けそうなほどドタバタ道中劇となった。台湾の人達はみんな親切で本当に助けられ、台湾ならではの魅力もたっぷりと味わった。台北から戻るとすぐに社会情報学会の研究発表が控えていたので、最後のチェックのため連続で徹夜状態になった。発表が終わった頃には、さすがに体力も限界を超え、ついに熱を出して寝込んでしまった。何とか復活はしたものの、次の論文の締切や課題レポートの提出期限は容赦なく迫ってくる。あっという間にいつも通りの生活に引き戻されてしまったような感じがするが、時間をみつけてゆっくりとパリの思い出にひたることにしよう。 再びパリを訪れる日に備えて・・・ | |||||
2001年10月10日(水) 今日は終日フリーだ。午前中、フクオカさんとバスに乗ってエッフェル塔に出かけ、ルーブル美術館を見学した後は市内を適当に散策する予定である。なお、今日からフクオカさんはオペラ通りのアパートに引っ越すので、今夜は一人っきりでホテルに戻らなければならない。 エッフェル塔へ向かう途中、ダイアナ妃が1997年に事故死した場所を通り過ぎた。そこには記念碑が建っており、数多くの花束が置かれていた。ダイアナ妃をしのび、今も世界中から献花が絶えないという。
フクオカさんは、アパートへの引っ越しのための準備があるため途中で別れ、あとは一人で行動することになった。ルーブル美術館を見学して、その後は適当に市内を散策するつもりだ。 ルーブル美術館に着いてみると、入り口には長蛇の列が出来ていた。観光客が活動を始める時間にさしかかったらしい。そういえば、エッフェル塔も上るときはほとんど並ばなかったが下りてきたら行列が長く延びていた。混雑しそうな観光名所は朝一番で行くに限るようだ。結局、ルーブルは混雑が激しかったという印象を残したまま、適当なところで切り上げることにした。全部見て回るのは、次にパリへ来る機会の楽しみにとっておいても悪くはないだろう。 午後はどこへ行こうかと思って地図とにらめっこした結果、モンマルトルの丘に行ってみることにした。メトロを利用するのが便利なのだが、外の景色が見えないのでバスを利用することにする。バス停で超美人のマドモアゼル(イバラーダーのMayaさんによく似ている)にモンマルトルへの行き方を聞いたら、ちゃんと通じたようで、バスの乗り場と下りるべきバス停まで丁寧に教えてくれた。私の会話力も少しは上達したかなとウキウキしながら車中の人となったが、バス停を降りたら全然違う場所だった。モンマルトルはモンマルトルでもモンマルトルの丘ではなく、モンマルトル通りの端っこであった。慌てて地図で確認すると、そこはパリ市の一番外れであって丘とは全然違う場所ではないか!ふつう、観光客が行きたがるモンマルトルといえば丘しかないはずなのだが・・・・。ここは、おのぼりさんに見られなかったということで前向きに考えることにしよう。ふっふっふっ。(^o^)
辺りは暗くなってきた。いそいそと丘を下り、再びバスに乗ってオペラ通りまで戻り、ネットカフェまで辿り着いたところ、夜もだいぶ遅くなっていた。ギャラリーまで足を延ばすかどうか迷ったが、もうこんなに遅い時間までフクオカさんはいないだろう判断して、そのままホテルまで引き上げてしまった。 ホテルに帰ると、フクオカさんから電話連絡があった。旅行の後半は出来るだけ自力でやることになっていたので、正直なところ、電話がかかってくるとは思っていなかった。私は、結局ギャラリーには立ち寄らずにホテルに戻ってしまったのだが、フクオカさんは閉場時刻ギリギリまで佐藤さんとギャラリーに詰めておられ、私が顔を出さないので誘拐でもされてしまったのかと心配してくれていたらしい。ホテルへ引き上げる前、念のため電話しておくべきだったと反省。 いよいよ、明日は私にとってのパリ最終日だ。 | |||||
2001年10月9日(火) 次第に残り時間が気になってきた。木曜日の夕方には空港へ行かねばならないから、実質2日半しか残っていない。イバラード展は予想以上の盛況でオープンし、ギャラリーでお手伝いする機会もなくなってきたので、残された時間はいろいろなところを見て回り、いろいろなことを経験することに費やそうと思う。 ホテルからネットカフェへ移動するのに、初めてバスに乗った。フクオカさんがバスの路線図を調べたところ、ちょうど良い路線があったからだ。バスだと外の景色を楽しみながら移動することが出来るので、メトロよりも断然いい。そのため、以降の移動手段はほとんどバスになってしまった。 パリの路線バスは日本のそれよりも図体がでかく、車がひしめきあっている狭い通りを急加速・急減速ですり抜ける。これでよく接触事故が起きないものだと思う(パリを走っている車は結構あちこちがへこんでいたりするので、接触は日常茶飯かもしれないが)。どちらにしても、バスの運チャンのドライブテクは相当なものだ。 ネットカフェからギャラリーに移動する間に寄った店でテレホンカードを買った。ホテルからかける電話は手数料がかかるので、国際電話をかけるならテレカ+公衆電話の方が断然有利だという。しかし、フランスの公衆電話は日本とはかけ方が異なり、テレカに記載された接続先番号を入れ、続いて暗証番号を入れるという面倒な手続きを踏まなければ使える状態にならない。そればかりか、「次にどういう操作をしろ」や「あと○○分話せるぜ」といったメッセージは、機械の音声で受話器を通して流されるのだ。つまり、フランスの公衆電話は、ただでさえ聞き取りが難しいフランス語を、受話器から完璧に聞き取れないと事実上使うことが出来ないという、世にも恐ろしいシロモノなのであった。 ギャラリーのある建物に備え付けの公衆電話から、国際電話にチャレンジしてみた。しかし、操作は間違えていないはずなのに、何度試みてもことごとく失敗した。そこで、佐藤さんに救いを求めたところ、入力する番号を違うものにすればいいらしいということが分かった。最初に入力するべき番号は2種類あって、どの電話機にどの番号を入れるかは機械の音声が指図しているのだそうだ。しかも、佐藤さんがかけるとつながるのに、私が試すと何度やっても失敗した。街頭にある別の公衆電話からかけるとちゃんとつながったから、私の操作が間違っている訳でもなさそうだが・・・。結局、この公衆電話から自力では最後まで一度もつながらなかった。多分、相性が悪いのだろう。
ギャラリーに戻ると、佐藤さんの友人でイランさんという方が来場されていた。イランさんはかつて日本に住んでいたこともあるフランス人で、流暢な日本語を操る。日本のサブカルチャー文化に対する理解も深い。 フランスのテレビでは、日本製のアニメーションがかなり放映されている。ホテルのテレビをつけた時も、ピカチュウらしき番組をやっていた。日本のコミックも割と人気があり、幾つかはフランス語に翻訳・出版されている。熱心なファンになると、日本語のコミックを直接読むという。後ほど、イランさん推薦のショップに足を運んでみることにした。そこでは、日本製のサブカルチャー関連のグッズが扱われている。 そのショップはバスチーユ地区にあった。フランス革命はバスチーユ牢獄から始まったが、そのバスチーユである。ただし、今は牢獄は現存せず、所在場所の痕跡だけが残っている。バスチーユ地区から北東側に伸びる通りは、さしずめ日本の原宿といったところで、大勢の若者でにぎわう商店街になっている。 さて、目指すショップに入ると、いきなり日本語のCDが流れていた。日本語のコミック、雑誌がところ狭しと並べられ、各種のグッズも満載されていた。パリ市内でも、これだけ日本語の密度の高い場所はそうそうないと思われるほどであった。しかし、店員は誰一人として日本語が話せず、英語さえほとんど通じなかった。ナゾだ・・・。 ギャラリーに戻ると佐藤さんが待っており、しばらくするとイランさんも戻ってきた。ギャラリーが閉場するまで、いろいろと話をした。聞くところによると、イランさんは7月に帝国ホテルで行われたスタジオジブリ作品の最新作「千と千尋の神隠し」の完成披露記者会見に出席していたという。実は、私も取材の機会があってそこにいたから、私とイランさんは日本で一度同じ空間に居合わせていたことになる。もちろん、その時は全く面識もなく挨拶することもなかったのだが、それにしても世の中は狭いものだ。 シャトレ駅で佐藤さんと別れ、レアールまでイランさんと話ながら歩いた。イランさんは、年末に日本のサブカルチャーをフランスで紹介するイベントを企画・運営に携わっている。予定会場のフォーラムはレアールの中心部にあり、駅へ向かう途中少しだけ立ち寄った。スタジオジブリの作品の幾つかをフランス語字幕で上映することはほぼ決定し、既にかなりの期待が集まっているという。 およそ文化と名が付くものはフランスの専売特許で、日本は文化を輸入する一方というイメージがある。だから、サブカルチャーといえども日本発の文化がフランスで紹介されるというのは意義深いものがあると思う。そのイベントの盛況に期待せずにはいられない。 レアール駅でイランさんと別れ、メトロでホテルまで引き上げた。フクオカさんの部屋に電話で戻った報告をして、早々に寝入った。 | |||||
2001年10月8日(月) いよいよパリ展の初日だ。いろんな人がやってくるのでネクタイをしめて行く。途中、ネットカフェに立ち寄った。ここはパリ市では唯一日本語が使えるところだという。営業時間は朝の10時からとのことだが、実際にオープンするのは10時15分過ぎくらいだとのこと。ネットカフェ周辺の商店も似たような感じで、ここは確かにゆったりしたパリの時間が流れているようだ。 ギャラリーに着くと、すでに佐藤さんも到着していた。早速、土曜日に時間切れになってしまった会場設営の続きに着手する。百貨店へ走って版画用の額の残りを調達し、佐藤さんがプリントアウトした絵の題名&仏語訳をスチロール樹脂に貼り付けて切り分ける作業を行った。大きさや文字の位置を統一してズレがないように細心の注意を払ったが、思いのほか時間がかかってしまい、今にして思えば、もう少し簡略化してスピードを上げたほうが良かったかもしれない。 照明の調整も行った。脚立を借り、絵にうまく光が当たるように位置と角度を調整するのだが、これがなかなか難しい。ライトは素手でさわれないほど熱くなっているし、下手に動かそうとするとスパークが飛んだりしてのけぞってしまう。そこで、いったん電源を切ってから見当をつけ、そこから微調整を重ねていくという方法をとり、相当に気合いの要る作業になってしまった。後でギャラリーの人がやってきて、結局全体を直してもらった。やはり、照明のプロは仕事が違う。
ようやく準備も整った頃、ぽつぽつと人が集まり始め、オープニングパーティーが始まった。佐藤さんが多くの方に呼びかけをされていたこともあり、おそらくフクオカさんもこれほど集まるとは予想していなかったと思われるほど大勢の来客で賑わった。ギャラリーの隣に特設されたパーティー会場はたちまち満員になり、ギャラリーの方まで人があふれるほどであった。私もいろんな人に挨拶を試み、写真も撮って回った。割とよく話をした青年が(話したといっても通訳を介してだが)、近いうち日本にやってくるという。ジブリ美術館にも寄りたいそうだが、今のところ海外からは予約できないので、私が代わりに確保しておくことになった。 いろんな人と話が出来るまたとない機会なので、心の中では張り切っていたが、片言のフランス語とジェスチャーだけはやはり限度があった。結局、まともに話をすることが出来たのは、日本語か英語を話せる人だけであった。他の人とは周りの人に通訳の支援をお願いしなければ会話が成立しなかった。これまでは、話せようが話せまいがガシガシやってきたのであったが、今さらながら語学力の不足を思い知らされることとなった。再びフランスに行くときはきちんと話せるように勉強しておこう。 それにしても、オープニングパーティーは盛況だった。みんな熱心に絵に見入り、パソコンから再生されるCD-ROMの音楽に聴き入っていた。めげぞうは、特に女性に人気が高く、マドモアゼルからマダムまで、めげぞうを手にとっては受けまくっていた。談笑の輪があちこちで出来、ひとつの社交場が生まれていた。お世辞でも何でもなく、イバラードが世界に広がっていくのを実感せずにはいられなかった。 あっという間に閉場の時刻になり、名残惜しいままホテルへと引き上げた。さすがに疲れた・・・。 | |||||
2001年10月7日(日)
今日は日曜日なので、ギャラリーはお休みである。そこで、のみの市(フリーマーケット)をひやかしたあとパリ郊外のベルサイユ宮殿を探検することになった。夜からは、フクオカさんと別行動をとり、パリに住んでいる私の旧友と久しぶりに再会する予定になっている。 週末になると、のみの市はパリ市のあちこちで催されている。今回は、ポルト・ドゥ・ヴァンブ(千駄ケ谷のイメージ)という、パリ市の南部で催されている市に行った。道路の両脇に布を広げた台がズラリと並び、骨董品ともガラクタともつかない小物類、アンティークな腕時計や指輪などのアクセサリー類が所狭しと陳列されていた。フクオカさんは丹念に見て回り、特に絵画のチェックは入念だった。今回は特に何も買わなかったが、何度か通ううちに掘り出し物に巡り合えるかもしれない。 のみの市を後にしてオーステルリッツ駅(近鉄上本町駅のイメージ)へ行き、そこでRER(高速郊外鉄道)に乗ってベルサイユ宮殿に向かう。ベルサイユへ行く路線は3つあるが、そのうち一つがストのため動かなかったので、もう一つの路線にしたのだが、これがパリの南側を延々と迂回するルートをたどり、約1時間の旅となった。RERは高速鉄道と名乗ってはいるが、のんびりゆっくり走っている。ほとんど地方鉄道のイメージだ。それにしても、電車が走り出してすぐに緑豊かな田園風景に変わったのには驚いた。日本で言えば都心から1時間以上離れたあたり、東京なら大宮か大船の先、大阪なら草津か西明石の先、名古屋なら大垣か豊橋の先まで行かねばお目にかかれないような風景が、パリ市を出たとたんに広がっているのだ。さらに驚くまいことか、沿線風景はみるみるローカル化していき、ついには人家もまばらになって、あたかも原野の中を走っているかのような様相さえ呈してきた。ここは本当に21世紀のパリ近郊なのだろうか?
ベルサイユ宮殿は各国からやってきた観光客で埋め尽くされていた。まあ、世界で最も有名な観光地の一つであるから、当然といえば当然ではある。日本人観光客も多く、あちこちで日本語(正確には日本語の方言)が飛び交っていた。 さてさて、入場待ちの行列に並んだが、料金を支払う場所を見つけられないまま、いつの間にか宮殿内の巡回コースに乗ってしまっていた。時間帯によって無料サービスになっているのか、団体専用入口の中に紛れたのかは不明だが、総合的に判断して前者らしいという結論に落ち着いた。(補足:後ほど調べてみた結果、無料で入れたのは窓口係のストのためだったと推定される。)宮殿内は、それはそれは豪華絢爛で、王族の親族と思われる肖像画も多数飾られていた。最初の数枚は感心して見入っていたが、全く同じパターンの肖像画が果てしなく続いていたので、しまいには飽きてしまうほどであった。それぞれに美術的な価値は高いに違いないが・・・。 「鏡の間」にも入った。歴史の教科書にも載っている、あまりにも有名すぎる場所であり、評判に違わず豪華絢爛を極めていた。しかし、残念なことに、ここに至るまでの数々の豪華なアイテムに慣らされていたせいか、期待していたほどの感動はなかった。ルイ14世は、この「鏡の間」から、一体何を考えて外の景色を眺めていたのであろうか。 宮殿の外にも観光客があふれていた。日本人の観光客も多く、あちこちで写真を撮りまくっている。庭もベルサイユ宮殿の見どころなのであるが、まともに見て回ると1日がかりになってしまうので、ここは次にくる機会ということにして、そそくさと引き上げることになった。
帰りは、行きとは違うRER線を利用した。パリ市の北側からアプローチして終点のサンラザール駅(阪急梅田駅のイメージ)に至るルートであった。所要時間は30分ほどなので、次回に行くときはこちらの方が便利そうだ。 途中、エッフェル塔が望見できたので、電車の中から写真を撮った。すると、後ろに座っているおばさま達の一団が私の方を見て「あれは中国人かしら?」などと噂をしているのが聞こえたので、「やあやあ、ぢつは私は日本人だったりするのだよね!」とツッコミをいれて一団の中に混ぜてもらった。聞くところによると、おばあさんに娘さん二人、上の娘さんのお嬢さん二人の家族であった。英語が全く通じず、すべてフランス語で話さなければならなかったので、まともな会話は成立しなかったはずであったが、割と盛り上がったりして、最後は手作りのクッキーまでもらってしまった。 サンラザール駅でおばさま達に挨拶して別れると、いきなり迷子になってしまった。フクオカさんの姿を求めてあちこち探し回ったが、どこにも見あたらない。完全にはぐれてしまったようだ。あるいは置き去りにされてしまったのだろうか? フランス語がダメなのに地元のおばさまとの会話を試みる無謀さに呆れられていたようだし・・・。もっとも、市内に戻ってからの予定は確認してあったし、気を取り直して次の待ち合わせ場所へ向かうことにした。 夜は、プラス・ディタリーという広場(表参道のイメージ)で旧友の牧野君、藤井さんと待ち合わせし、久しぶりに再開した。彼らとは、かつてアテネ・フランセという東京・お茶の水にあるフランス語の学校で一緒に勉強をした間柄である。当時、いつかパリで同じように会うことが出来ればいいね、と話し合ったものだが3年の時を経てようやく実現したことになる。しかし、私は大学院試験が終わるとフランス語は忘れていく一方なのに対し、彼らは現在パリに住み、フランス語を完璧にマスターした上でそれぞれ歴史とピアノを学んでいる。はううう〜。(+_+)(+_+)(+_+) 一通り昔話に花が咲いた後、パリに着いてからの苦労話をいろいろと聞かされた。異国の地で生活するということは、観光で訪れるのとは異なる大変さがあるという。風俗・習慣の違いは何とかなっても、いわゆる人種的な差別をどうしても感じずにはいられないことがあるそうだ。パリの街は既に人種のるつぼになってはいるが、そのような状態を決して快く思わない人がいることは厳然とした事実であり、それもまたパリの現実の一側面なのである。もちろん、そうではない人も少なくないし、人種・民族の分け隔てなくつきあえる相互理解が進んでいくことを願わずにはいられない。 ホテルに帰ったのは夜もだいぶ更けた頃であった。フクオカさんの部屋に電話して報告する。ちゃんと無事に戻れるかどうか心配して下さっていたようであった。感謝! ベッドに入ると、今日一日にあった様々な出来事が思い浮かんできた。しかし、感傷にふける間もなく曝睡モードに入ってしまった。 | |||||
2001年10月6日(土)
あらかじめ予約しておいたホテルが二重予約されていて泊まれず、あまつさえ洗濯場の裏部屋に押し込められるというのは、本来ならば文句の一つでも言うべきところだ。でも、文句を言えるだけの語学力もないし、ここは謙虚(?)にホテルのフロントの人にフランス語の発音を教えてもらうことにした。もしかしたらイヤな顔をされるかもしれないが、何せこちらは下宿部屋なのだから文句はあるまい。 朝早い時間帯でヒマだったせいもあってか、フロントのムッシュは快く応じてくれ、フクオカさんが起きてくるまでの間、発音のコツをひととおりチェックしてもらった。(とはいっても、簡単にマスター出来るものではないが・・・。)語彙の乏しさは大げさすぎるくらいのジェスチャーで補うということで、ついでにジェスチャーのコツも特訓してもらった。 ムッシュの発音やアクセントは、CDに録音されている発音とは異なっているところもあったようだ。だが、フクオカさんによれば、NHKのフランス語講座などの模範的発音を忠実に再現しても、かえって通じないのだという。現地で実際に使われている言葉を聞きながらマスターしていくのが、やはり近道なのかもしれない。 朝食のあと、ホテル周辺を散歩してみた。昨日はキンギョのフンみたいにフクオカさんにくっついて歩いていたので、異国の街を一人歩きするのは生まれて始めての経験だ。下手に一人歩きなんかしたら、たちまちナゾのマフィアに拉致されてモナコの奴隷市場に売り飛ばされてしまうかも?と心配したが、幸いマフィアの一団に遭遇することはなく、地元のおじさまやおばさまがそそくさと歩いているだけであった。(この一帯は観光スポットから遠いので、観光客は歩いていなかった。) ホテルに戻ってフクオカさんと合流し、オペラ通り(銀座通りのイメージ)の界隈へ。初めてメトロに乗った。パリのメトロは日本の地下鉄とはだいぶ趣が違う。自動改札のレバーは体当たりしないと開かないし、メトロの扉は自分でレバーを引っ張って開けなければならない。でも、扉のレバーは結構ツボにはまって、これを引くのが趣味になってしまった。 オペラ通りに来たのは、アパートの契約のためであった。フクオカさんは、ホテルには5泊だけして、残りはアパートに入る予定である。その物件は、炊飯器をはじめ家具や食器類はひととおりそろっており、しかも申し込みルートの違いから(日本法人向けよりも割安な)現地価格で借りられるという。私は1週間しかいないが、フクオカさんはパリに3週間近く滞在される。長丁場を乗り切るには、いかに体調を崩さないようにするかがカギになるので、やはりアパートの方が快適にくつろげそうだ。費用面でもホテルに連泊するのと大差ないという。 近くにジュンク堂書店があって、寄ってみた。ここは日本語の書籍や雑誌が売られていて日本の新聞まで置いてある。しかし、レートはあまり良くなくて、例えば日本では3000円の本が300フラン(6000円)近くする。目当ての本が決まっているなら、個人で日本から直接取り寄せた方が安いかもしれない。ジュンク堂の地下にイバラード展に来てくれそうな感じのフランス人がいたのでイバラード展の宣伝を試みたが、フランス語での会話が成立せず、英語も通じなかったのでしっちゃかめっちゃかになり、またしてもフクオカさんにフォローしてもらうハメになった。むむむ。 再びメトロに乗って、昨年第1回のイバラード展を開いたエスパス・ジャポンへ挨拶に行った。そして、そこの主人が紹介してくれた中国料理店で昼食をとる。もちろん、日本の中華料理とは異なる本場の中国料理で、地元のパリっ子も大勢いて賑わっていた。フランス人だって毎日フランス料理ばかり食べている訳ではない。彼らも世界各地の料理に舌鼓を打っているのであった。なお、この辺りは(旧植民地を中心とした有色系の)移民の人達が多く住みついているという。実際、街を歩く人々の肌の色・髪の色は様々であり、パリは人種のるつぼになっていることを改めて実感させられる。
ギャラリー・ベルタンポワレの入口には、イバラード展のポスターが貼られていた。日本から送っておいた荷物も無事に届いており、廊下の奥に並べられてある。そこに持参した荷物を合わせて置き、さらに版画用の額を調達するために近くのデパートへ向かった。パリのデパートには、日本では想像も出来ない位、画材関係のコーナーが充実しており、額もいろんな種類が置かれていた。しかし、フクオカさんのイメージにかなう額がなく、もう一つ回ったデパートでようやく見つかった。 ギャラリーに戻ると、佐藤さんが到着していた。佐藤さんはパリの大学院で勉強しており、フランスの人達にイバラードの世界を紹介することに尽力されている。(佐藤さんは、9月に渋谷Bunkamuraの個展にも顔を出している。)早速、荷物をほどいて会場の設営準備にかかる。閉場までに間に合わなかった分は、オープン当日に作業することになった。 ギャラリーを出て、レアール(有楽町のイメージ)のイタリアンレストランでイタリア料理を食べた。パリに来て二日経つのに、フランス料理以外の料理ばかり食べているような気がする。しかも、日本人にはいささか量が多かった。でも、佐藤さんのパリでの貴重な話を伺うことが出来た。レストランは居酒屋の雰囲気に似て、あちこちで談笑の輪が盛り上がっていた。 佐藤さんと別れ、フクオカさんと初日から泊まるはずだった北駅近くのホテルに戻った。もう夜も遅くなっていた。パリにはコンビニエンスストアがないから、夜になると買い物が出来なくなってしまう。佐藤さんによれば、アラブ人が経営する商店は割と遅くまで開けているという話だったが、確かに開いていたホテル近くの商店は、いかにもアラブ系という感じの主人が店番をしていた。そこでシャンプーとミネラルウオーターを調達し、成分不明のナゾのジュースも求めてみた。カルピスに似た乳酸系飲料であった。 このホテルもシャワーしかなかったが、熱いお湯が出た。ほっとした。 | |||||
2001年10月5日(金) いよいよフランスへ出発することになった。気持ちよく旅立ちたいところだが、あいにくの雨であった。成田空港は初めてなので迷ってしまわないか心配したけれど、うまくフクオカさんと合流出来、飛行機も11時25分の定刻に出発した。パリまでは約12時間のフライトになる。飛行機の中ではフランス語の特訓をした。(初歩的な会話さえ満足に出来るかどうかというレベルであったが・・・。)座席は機体の中央部に当たったので、機会を見つけては外の景色を眺めに出歩いた。シベリアの大地が、地球の丸みさえ感じる地平線の彼方まで広がっていた。 ジェット気流にうまく乗ったのか、予定より早くシャルル・ドゴール空港に到着した。パリ展関係の手荷物が多いので、タクシーでホテルまで向かう。早速、特訓しておいたフランス語でタクシーの運転手に話しかけてみた。一応は通じたらしく、何やら詳しい返事が返ってきたが、ほとんど聞き取ることが出来ず、フクオカさんにフォローしてもらうハメになった。質問するネタは他にも考えていたのだが、仮に通じても返ってくる答えが聞き取れないのと、フクオカさんの「いかにもパリは初めてという顔をすると(わざと遠回りされるなどして)ぼったくられるので、何度も来ているように振る舞った方がいい。」という助言もあったので、おとなしく外の景色を眺めながら、フクオカさんと運転手の会話に耳を傾けることにした。フクオカさんのフランス語はとても上手だった。
フクオカさんは急激な食習慣の変化は体調を崩すという考えをお持ちのようで、夕食に選んだのは日本料理であった。うどんのおいしい店が満員で、少し散歩してから戻っても行列が出来ていたから、結局近くのラーメン屋に入った。私がパリで最初に食べた記念すべき料理は、豚骨のダシが効いたチャーシューラーメンとなった。客も従業員も日本人が多く、店内も日本語が飛び交っており、メニューがフラン建てという一点を除けば、新宿かどこかのラーメン屋と何ら変わることもなく、ラーメンも日本で食べる味とほぼ同じだった。 ステュジオに戻ると、洗面台には消滅寸前のちびたセッケンがあるだけで、シャンプーもリンスもなかった。ちなみに、パリのホテルは通常シャンプーもリンスも置いていないので、日本から持参しなければいけないと後で知った。お湯は出たが、水圧が低くてちょろちょろとしか出ず、しかもぬるかった。 夜空には、日本で見るのと同じ月が浮かんでいた。かくして、パリ初日の夜がふけていった。 | |||||
2001年10月4日(木) フランス旅行の準備とか。 今回のフランス旅行は、井上直久氏のイバラード個展がパリで開催されるのに合わせ、画商のフクオカさんに同行させていただく形で行くことになっている。必要に応じて個展の手伝いをする代わり、パリの歩き方とかマナーや習慣の違いについて教えてもらう予定。 作成中です。 | |||||
2001年の日記は、現在編集中です。 一ヶ月につき2〜4件程度の頻度になろうかと思います。 いつの間にか更新しているかもしれませんが、それほど早い段階では まとめられそうにありませんので、また気が向かれたときにアクセスして いただければ幸いです。 | |||||