2000年の日記は引き続き作成中です。
しばらくお待ち下さい。







2000/05/29 (月)

教育実習に先立ち、高校で事前オリエンテーションが行われた。今年の実習生は11人で、例年になく大所帯だという。美術が4人を占め、現代社会は私を含めて2人、保健体育も2人、残りは音楽・書道・家庭とバラエティに富んでいる。年齢は、当然ながら私が一番上であった。母校では卒業年度が丸分かりなので、大学でのように年齢のサバを読んで若いふりをすることは出来ないのが痛い。もっとも、現役の大学4年生ばかりではなく、比較的私に近い境遇の実習生もいたりしてホッとする。

一通りの打ち合わせが終わり、職員室を訪問した。私が卒業してから長い年月が経っているので、在学中にお世話になった先生はほとんど残っておられない。F先生は、当時から残っておられる数少ない先生で、私を一目見るなり「おう!久しぶりだな!まさか今頃(実習生として)戻ってくるとはな。」と声をかけて下さった。かなり昔のことなのに、しっかり覚えていて下さったようで何だか嬉しい。私が大学院に進学する前、一時期教科書の出版社に在職していたことを知ると、一発「おう!教科書の営業はしんどいやろ。営業回りでいじめられて、それで先生になろうと思ったってーか。」

私は制作で営業ではなかったのだが。・・・そうか、営業マンをイヂメていたのか。F先生・・・

2000/05/28 (日)

教育実習に備えて実家に帰省した。久しぶりに里帰りしたということで、高校時代の同級生Aと会うことになった。Aは高校の後輩Bと結婚して、現在は神戸市内の社宅に住んでいる。Bの同級生Cにも声をかけ、4人で会うことにした。

昔は一緒に遊ぶ機会も割と多かったのだが、こうやって4人が顔を合わせる機会は本当に久しぶりであった。盛り上がる昔話が懐かしい。ただ、昔と違うのは、AとBは結婚したのに対し、私とCは未だ独身であることであった。早くから所帯を持って女の子まで生まれているのを見ると、何だか人生の列車に乗り遅れたような気分にもさせられる。私は男だからまだ気楽だが、Cの目にA・B夫妻の姿はどう映ったのだろうか。

焦ったり急いだりしても仕方ないが、時間は止まってくれない。とりあえずCとそう納得しあった。

2000/05/26 (金)

目白通りを自転車で流していると、横を大型の観光バスが走っていた。修学旅行の中学生が乗っているらしい。通りは結構混雑しており、しばしば渋滞や信号待ちで停車するので、私の自転車と抜きつ抜かれつという状況になった。

ふと横を見ると、男の子が一人、自転車で並走する私をじっと見つめている。手を振ってみると振り返してきた。私はさらに応えようとしたところでバスは加速し、先に走っていってしまった。

しばらくして私が追いつくと、バスの窓が2つ空いていて、3〜4人が手を振ってきた。私が振り返すと彼らは歓声をあげて喜んだ。そうこうしているうちにバス渋滞に巻き込まれてしまい、今度は私が先に出る格好になった。渋滞は長く続いていた。

飯田橋付近に達した時、三回目の邂逅が実現した。今度は大半の窓が開いていて、数え切れないくらいの人数が手を振ってきた。三たび遭遇するチャンスを待っていたらしい。驚いて私も手を振り返したが、バスはあっという間に抜き去ってしまい、そして左折していった。

名も知らぬ生徒達は、姿が見えなくなるまで手を振り続けてくれた。

2000/05/07 (日)

銀行に就職した大学時代の旧友が、転勤のため大阪から埼玉の実家に戻ってくることになった。旧友は、大坂での勤務中に地元出身の姉さん女房をもらって所帯持ちになっている。ちなみに子供はまだいない。

久しぶりに会おうということで大宮駅まで迎えに来てくれた旧友は、すっかり関西人になっていた。アクセントはかなり大阪風になり、ボケとツッコミをかましながら赤信号を平気で横断したりするあたりの適応力のすごさには恐れ入った。もちろん、それだけではなく、旧友はすっかり銀行マンにもなっていた。学生時代はいかにも学生という感じだったのに、今では銀行員らしい顔になっている。職業というものは、人の雰囲気をも変えてしまうのだろうか?たぶん、所帯をもって落ち着いたことも関係しているのだろう。

話を聞いていると、転勤の辞令は突然出たために奥さんの仕事の区切りがつかず、奥さんは夏頃まで大阪に残るという。すなわち、旧友はしばらくの間は実家で"独身"生活を満喫するわけだ。彼の口から、独身時代に通ったというお店の名前がこだまし始めた。

夏までに、生活パターンまでもが"独身"同然に戻ったりして・・・。

2000/04/26 (水)

社会学を専攻する大学院生の部屋は本館の3階にあったが、6階に引越しすることになった。教授・講師陣が増えて部屋が足りなくなり、院生室が明け渡されることになったからである。6階の部屋は広さが半分しかない上、窓は固定式で開かず、空調の利きは悪く、お手洗いも遠くて不便きわまりない。しかも、当分の間LAN回線が届かないから、メールのやりとりも出来ないという。

唯一のポイントは、見晴らしがいいことだけであった。今日はいい天気だなあ・・・。

2000/04/02 (日)

東京・日本橋地区の三越と高島屋が、共同で連絡バスを運行する試みを始めた。三越と高島屋は長年ライバルとして競ってきたが、日本橋地区そのものの地盤沈下が著しく、ついに両者は手を結んでなりふり構わない集客作戦に乗り出したというわけだ。ちなみに、両者の業務提携は商品の共同配送など別の分野にも及んでいるという。

さて、私の今日の三越でのバイトは、三越−高島屋間の連絡バスの案内係であった。無料で両百貨店間を移動できるとあって、割と多くの利用がある。ニュース等でも報じられて集客効果が上がっているようであるから、企画としては成功であろう。

ところで、よく観察してみると、片道で行きっぱなしというわけではなく、往復しているお客さんが意外に多いことに気がついた。三越と高島屋の間で品揃えや値段を比較しているのである。おそらく、両方を比べてみて気に入った方で購入するのであろう。ということは、三越から高島屋に出かけていったお客さんが再び三越に戻ってくれば三越の勝ち、高島屋からやってきたお客さんが再び高島屋へ帰っていけば高島屋の勝ちということになる。

1日の結果は・・・どうやら高島屋に軍配が上がったようだ。どうした三越!

2000/03/30 (木)

6月からの教育実習に先立ち、大学にて模擬授業の実践指導が行われた。他の学生を生徒に見立て、本番さながらに50分の授業を演じきるわけである。私も立候補してやってみた。だが、とりあえずやってみたという感じで、イマイチしっくりこなかった。もちろん、模擬授業というせいもあるし、広い大学の教室でやっているせいもあるし、生徒役の学生も授業の仕方のチェックに余念がなく、あまり授業の世界に入ってきてくれないせいもある。だが、それだけではない。感覚的に何かが違うのだ。それは何だろう?

そのナゾは、次の次の学生が大阪弁で模擬授業を行った時に解けた。言葉の違いだ!

その学生は、それはそれは見事な大阪弁で模擬授業を行った。授業の進め方も、いかにも関西風ともいうべきコテコテの進め方であった。おそらく出身校の先生の授業を模範にしているのだろう。あまりのコテコテぶりに、関東出身の学生は面食らったに違いない。けれども、私にとっては何というか懐かしく感じられ、授業が終わるまでの間ずっと、過ぎ去った高校時代を思い出していた。

そういえば、私はすっかり東京語に侵食されてしまったなあ・・・。

2000/02/26 (水)

商店街にネコがたたずんでいた。
4歳くらいの女の子が、母親の買い物を待っている間、ネコの頭をなでて可愛がっていた。
母親が戻った時、女の子は「ママ見て!ネコちゃん!ネコちゃん!」と言いながら母親に近づいた。
ところが、母親は「ネコを触った手で(ママの服に)触らないで!」と絶叫し、スタスタと歩き始めた。
女の子は泣きそうな顔になったが、健気にも「バイバイネコちゃん。」と言い残して母親の後を追った。

ネコはそのままたたずんでいた。

 
2000/02/03(木)

ゼミの後輩から電話がかかってきた。ゼミといっても法学部時代のゼミであり、後輩といっても私が卒業してから入室してきた後輩であり、特に一緒に勉強をしたという訳ではないのだが・・・。後輩は、現在社会人として働いているが、大学院に進学して勉強したいというので、いろいろと相談に乗って欲しいという。

そこで、とりあえず何を勉強したいのかという問題意識を持つこと、研究テーマを固めること、研究計画書をしっかり書くこと(面接で聞かれる)、自分のやりたい研究領域を得意とする教授がいる大学をピックアップしておくこと等々、ひととおり説明した。大学院入試は成績さえ良ければ合格するものではない。しっかりとした問題意識と研究テーマを持たなければ合格以前の問題だし、そのテーマを指導出来る教授がいない大学を受験しても仕方がないのである。

あまり楽な道ではないが、決意が固いのならば頑張って欲しいと思う。

2000/01/24(月)

期末試験もたけなわとなり、試験に関する事務を手伝っている私も連日夜遅くまで大学に居残っている。そこでの内容を詳しく紹介することは出来ないのが残念であるが、採点は非常に厳正であることくらいは紹介していいだろう。厳しいと評判の先生はもちろん、甘いと言われている先生も同様である。
一般に、自信のない学生ほど、答案の片隅に

「よろしくお願いします。」
「ぜひとも単位を下さい。」
「合宿や遠征で勉強する時間がありませんでした。寛大な処置をお願いします。」

などと書きがちである。しかし、そんな余計なことを書いても全く意味がないばかりか、ほとんど逆の効果しか生まない。4年生の中には、

「年末まで就職活動に奔走し、ようやく内定を勝ち取りました。卒業出来ないとせっかくの内定を取り消されてしまいます。就職氷河期の事情を考慮のうえ、何とぞ単位を下さいますよう切にお願いします。m(_ _)m 」

といった類の悲壮感に満ちた嘆願を書く学生もいるが、これも書くだけムダというものだ。そんな嘆願を書くヒマがあったら、どんな内容であろうが答案を1行でも増やした方がましだ。何か書いてさえあれば先生も点数をつけられるが、何も書いてなければ採点のしようがないのだ。

かくして、もう一度就職活動をやり直す学生は今年も誕生しそうな気配である。

2000/01/19(水)

古巣の法学部へ期末試験の事務を手伝いに行くことになった。現在、私は文理学部の大学院に通っているから、法学部は長いことごぶさたである。

法学部の教務課で所定の用紙に記入していると、一人の女性の職員が私を見て「あら、どこかで見覚えのある顔だわ。」と言った。意外な言葉に驚いたが、「はい、私はここ(法学部)の卒業生です。」と答えると、「ああ、やっぱり。」と納得されてしまった。私が教務課へ足を運ぶ機会など年に数回がせいぜいだったし、しかも卒業してからもう長いこと経っているのに、私を覚えていたというのだ!特に何か手を煩わせたこともないはずなのに・・・。

私はそんな印象に残るタイプだったのだろうか?いや、その職員の記憶力が抜群にいいんだろう、きっと。

2000/01/03(月)

幼なじみの結婚話があったかと思えば、今度は元クラスメイトの離婚話が飛び込んできた。彼女は高校を卒業してほどなく結婚したのだが、若気の至りだったのか必ずしもうまくはいかなかったようで、このたび正式に離婚が成立したとのことである。まあ、今の時代にバツイチは珍しくないし、これから何とでもなるだろう。

長い人生、いろいろあるさ。幸せになって欲しいと思う。

2000/01/01(土)

幼なじみが華燭の典をあげることになった。

彼女と同じクラスになったことはなかったのだが、近所に住んでいたこともあって結構いろいろな思い出があったりする。彼女は地元に就職し、私は東京生活が長くなったので、たまに里帰りしたときしか会わなくなっていたが、とにかくめでたいことではある。

これで、音信のある異性の幼なじみは全員結婚が決まったことになった。

幸せになって欲しいと思う。