1999/12/04(土) 大家さんから電話がかかってきた。私が住んでいるコーポラスの中の一室が空いたので、その部屋を清掃して欲しいとのこと。建物の周りの草刈りをして以来、何かと頼まれ事が多くなった。大家さんは私が貧乏学生に戻ってしまったことを知っているので、何かと仕事を回してくれるのかもしれない。私としても、働いた分だけ家賃をまけてもらえるので非常に助かっている。 というわけで部屋の清掃をしていたのだが、ふと隣の部屋に住んでいる若い女性が、開放された扉から顔をのぞかせた。私が大家ではなく住人だったことに少し驚いた様子だったが、「これをどうぞ」とお茶を置いていってくれた。 爽やかな笑顔。うまいお茶。安くなる家賃。役得だなあ(笑)。 | ||
1999/11/19 (金) 新築されたNTT電気通信研究所の研究開発センターを見学する機会があったので、行って来た。 広大な敷地にそびえ立つ新築ビルは時代の最先端という趣であった。カクテル照明が降り注ぐ館内の吹き抜けをガラス張りのエレベーターが上下する風景はトレンディなショッピングモールのそれに似て、とても研究所の中にいるとは思えないほどである。 案内されたフロアで、開発中のデジタルコンテンツ流通システムやマルチメディア・アーカイブシステム、ネットワーク型統合教育システムといった各種ネットワークサービス・システムが紹介され、その概念および運用の実際についての説明を受けた。これらのシステムが広く供用されるようになると、旧来の生活環境を一変させてしまうほどの変化が訪れるだろう、ということであった。 それにしても、システムに関する説明項目は膨大で、とても全部頭に入りきらないほどであった。人間の記憶力を簡単に向上させるシステムでも開発されないのだろうか? あ、それなら昭和時代から睡眠学習マクラという偉大な発明品があって、学習雑誌とかで広告されていたっけ。あれを今も使っている人はいるのだろうか? いずれにしても、生身の人間が環境の急激な変化についていくのは大変だと思った。 | ||
1999/11/06 (土) 引き出しの裏から、なくしたと思っていた未現像のフィルム出てきた。記憶に間違いなければ、ざっと10年くらい前のものである。 行きつけのカメラ屋さんに行った。 「10年くらい前のフィルムですが、現像出来るでしょうか?」 「一応写っていると思うけど、色は多分飛んでしまっているよ。」 「うまくプリント出来るでしょうか?」 「現像して、とりあえず2〜3枚だけ試しにプリントしてみるね。」 しかし、プリントされた写真は見事に赤変化していて、とても見られる状態ではなかった。 「でも、白黒写真としてプリントすれば何とかなると思うから、そうしようか?」 「よろしくお願いします。」 という感じで、白黒ながら10年前の写真が復活した。どれも懐かしい写真だった。 7年前に死んだ犬の写真もあった。撮影したことも忘れていたから、貴重な写真になった。 | ||
1999/10/15(金) 私は、毎週金曜日にT大社会情報研究所の大学院ゼミに顔を出している。教授の誘いで、この日の午後に催されたシンポジウムを手伝うことになった。 最初は会場のプロジェクターの設置を手伝う程度と聞いていたのだが、何だかんだで議事進行の書記もやることになってしまった。他大学の学生がここまで手伝っていいものかと思ったが、いろいろと事情があって人手が足りなかったらしい。最初から分かっていれば、きちんとした服装をしてそれなりの準備もしておくのだが、バタバタした挙げ句、かなりのやっつけ仕事になってしまった。 シンポジウムのレベルは高かった。それなのに、会場の雰囲気は羨ましいくらいに大らかだった。 | ||
1999/10/10(日) 友人AとBが、彼の後輩Cを連れて泊まりにきた。いろいろと懐かしい話で盛り上がる。 ふと、CはDという女性に恋してしまったと告白した。 Dは私も知っているが、海外留学の経験もある才媛である。 Cの熱意は買うけれども、Dと釣り合うかどうかを考えると、いささか力不足という感は否めない。 それでも、Cは今度Dをデートに誘うと言い切り、AとBも話題に加わってあれやこれやと議論が始まった。 この青春の特権ともいうべき話題は、いつの時代も深夜まで果てしなく続いていくのであった。 | ||
1999/09/22(水) スーパーで夕食の食材を買い込むと、合計金額が消費税込みでちょうど1000円だった。 レジの女の人は、何だか宝くじが当たったような嬉しさで「ちょうど1000円ですね!」と喜んだ。 翌日のレジも同じ女の人で、「今日は端数が出てしまいましたね」と言った。 それにしても、しっかり覚えていたなんて、余程珍しい出来事だったのか・・・。 | ||
1999/09/18 (土) 秋晴れの空が爽やかな早朝の通学路。 一台の車が電柱に激突していた。この道は前後1キロにわたって見晴らしの良い一本道であり、余程の事情でもない限り事故など起こりようのない場所であったので、意外といえば意外な風景ではあった。運転していたのは大学生風の若い女性で、近所の人たちに介抱されていたが、ほとんど怪我はないようであり、それは不幸中の幸いであった。事故の原因は、ネコの飛び出しによる急ハンドルだったという。 ちなみに、ネコはそのままどこかへ走り去ってしまったそうだ。 | ||
1999/09/06 (月) 大学院の夏合宿は、軽井沢のセミナーハウスであった。この研修所は、法学部時代のゼミ合宿で利用したことがあるが、卒業後に訪れる機会はないと思っていた。しかし、学部は違えども同じ大学の大学院に戻ったので、再び世話になる機会が巡ってきたというわけである。 しかし、道のりからして、当時とは随分勝手が違っていた。昔は、峠の釜飯を食べながら碓氷峠を越えてゆく優雅な旅であったが、今は新幹線であっという間に着いてしまう。新幹線が通ったのはいいのであるが、事実上新幹線でしか行けなくなってしまったのは経済的に痛いし旅情がない。軽井沢の駅も随分と豪華になっていた。 セミナーハウスも、にわかに信じられないくらい豪華になっていた。内装はすべてリニューアルされ、食堂は超デラックス、新築された浴槽棟に至っては絵に描いたような豪華絢爛さで、学生ふぜいが利用するには、あまりにも贅沢すぎた。うちの大学は、こんなにカネが余っていたのか? しかし、そのナゾが解けるのに時間がかからなかった。 「ここが改装された理由は、長野オリンピックの時に選手団の宿舎として提供したからだよ」 なんちゅー見栄っぱり! | ||
1999/08/28 (土) その夜、友人から興奮した電話がかかってきた。 その友人は、三浦カズというJリーガーを熱心に応援している。何でも、日本に復帰して初めて出場したJリーグの試合で2点をたたきだしてチームの勝利に貢献したかららしい。 「三浦カズは、この間ラモスと一緒に引退試合をしたんじゃなかったのか?」 とツッコミを入れると、 「何をいう。カズはまだまだこれから活躍するのだよ!」 と反論し、カズがいかに日本サッカーを支えてきたかを熱っぽく語った。そして、これからも日本サッカーの発展に貢献し続けるであろうことを信じ切っていた。 力が衰えてもなおファンを惹きつけるというカズという存在は本当にすごいものだと素直に感心した。 | ||
1999/08/10 (火) 高島屋からの届け物の不在通知が入っていた。配送所に電話をかけると、A氏と名乗る人物が出た。 「もしもし、不在通知が入っていたので、明日の夕方以降に配達していただきたいのですが」 「時間の指定は出来ないことになっています。せいぜい、午前か午後というくらいで」 「しかし、明日は夕方まで帰れません。昼間配達に来られても必ず留守ですよ」 「それは困りましたね。夕方のお帰りは何時頃になります?」 「4時まで用事があって、急いで帰って30分かかりますから、4時30分以降なら大丈夫だと思います」 「それでは、4時30分以降ということで手配しておきます」 といった感じで、A氏とのやり取りは終わった。 しかし、4時半というのは理屈上の最短時間であって、実際に帰り着く頃には5時になろうとしていた。30分の大遅刻である。配達の人はもう帰ってしまったか…。 ところが、配達の人は5時過ぎに来た。しかも、配達人が言うには、「この荷物は午後5時以降に届ける事」と指示されていたというのである。 A氏はあらかじめ余裕をもって手配していたわけだ。A氏は正真正銘のプロだ! | ||
1999/07/29 (木) 教育実習の手続きをするため、母校の高校へ行って来た。 私は大学時代に教職課程をとらず、大学院も博士課程に入った今頃になってとっているので、教育実習もそれだけ遅いというわけだ。 当時の先生方はほとんどが転勤・退職のため離任され、今も残っておられるのは体育の先生、保健の先生ほか、ほんの数名だけであった。もちろん、私の担任の先生も全員残っておられない。おまけに、学校の校舎は一部を残して全面的に建て替えられたうえ、制服もブレザータイプに変わってしまった。そこは確かに母校ではあったが、ほとんど別の学校というくらい、何もかもが変わってしまっていた。 けれども、校庭の大木だけは昔のままだった。この木を見るといろんなことを思い出す。私だって恋の一つや二つは語ったことがあるが、この木はいつも静かに見守ってくれていた。その恋は結局実らなかったということを、木に報告することを忘れていたっけ・・・。 木の下に立つと、ほろ苦い記憶が昨日のことのように甦ってきた。 | ||
1999/07/21 (水) 図書館で調べものをしていたら雲行きが急に怪しくなり、ゴロゴロと雷が鳴り始めた。 この日は、たまたま窓を開けたまま出かけていたので、やばい!と慌てて引き返した間に合わず、猛烈な雨が降ってきた。それはそれは一生のうち何度も遭遇できないと思わせるほどの凄まじい集中豪雨で、全身はたちまち濡れねずみ、何とか帰り着いたものの部屋の中はびしょびしょになっていた。 家の前を流れている川もたちまち危険水位まで上昇し、あわや氾濫か?と思わせた。実は、この川は7年前の豪雨であふれ出し、近隣を水浸しにしている。その再来が心配されたが、今回はほんの少しあふれただけで、ギリギリセーフだった。(=写真左:普段の水位 写真右=7月21日の水位) しかし、水が引いたあとの道には、何匹もの魚やドジョウが打ち上げられていた。合掌。 | ||
1999/06/16 (水) 友人につきあって池袋に行ったとき、鬼子母神の近くを通りかかったので寄ってみた。 そこは、東京の都心にあるとは思えないほど静かな空間であった。樹齢数百年はあろうかという木々に囲まれ、閑静で落ち着いた雰囲気の中に本堂がある。 一軒の駄菓子屋もあった。それは20年前から時の歩みを止めたかのような趣で、私が幼い頃に胸をときめかせた懐かしい駄菓子がほとんどそのまま残っていた。駄菓子屋につきものの"お婆さん"も健在で、これまた懐かしさがこみあげる。いまどき、こんな所が残っていたんだ。 数ある菓子の中から幼い頃に食べた記憶のあるラムネ菓子を発見したとき、心はすっかり童心にかえっていた。値段はひとつ50円。昔は10円か20円だったような気がするが、そのくらいは気にしない。50円玉をひとつ握りしめ、「これください!」と言う頃には、気分はすっかりノスタルジー。しかし、 「はい、毎度。53円です。」 な、な、何?53円?3円ってのは消費税か?こんな駄菓子屋が消費税をとるのか?しかも切り上げ? ・・・と動転しながら財布から10円を追加して取り出して、おつりの7円を受け取った時には、気分は完全に平成11年に戻されていた。1円2円3円の消費税をチマチマ計算するなんぞ、ちっとも駄菓子屋らしくない!ないない! けれども、ラムネの味は20年前そのままの甘さだった。 | ||
1999/06/12 (土) 野良ネコの太郎くん復活! しばらく姿を見ないと思っていたら、何げに私が住んでいる部屋の前で堂々と昼寝していた。 至近距離でドアが開閉しても逃げないばかりか、起きかけもしない。当然、写真を撮っても気づきもしない。このふてぶてしさだけは相変わらずである。エサも何とか確保出来ているらしく、見た目も健康そうだ。 後ほど、太郎くんは一階の自転車置き場で目撃された。時間帯によって昼寝する場所を変えているらしい。それはそれでいいのだが、またしても私の自転車の下で寝ているのである。私はエサをやるわけでもなければ可愛がったりもしないのに、なにゆえ私の近くに居ついているのだろうか?ともかく、出かけるので自転車を動かしたのだが、太郎くんはちょっと目が覚めたかと思うと、すぐ寝入ってしまった。 全く、驚くということを知らないネコである。さぞ長生きすることだろう。 | ||
1999/06/06 (日) 電車の中でThe Daily Yomiuriを読んでいたら、向かいに座っていた10歳くらいの女の子がふたり、声を出して新聞の見出しを読み始めた。 「えー、じー、・・・・・・・・やった、読めた読めた!」 「えーっと、これは、えむ、えむ、・・・・・・うーん、分かんない!」 私と目が合うと、ひとりが「あのね、これなんて読むの?」と聞いてきた。解説すると、 「やったー、読めた読めたー。テニスの試合! でも分かんないー。」 「アガシとメルデヘフだよ。テニスの試合で、今度決勝をするの。」 「ふーん。じゃ、これは?・・・・」 という感じで、さらに隣の記事を聞いてきた。 しかし、それにしても小さい頃から英文に抵抗がなく、これくらい屈託もなければ、二人は将来はさぞ楽しみな国際人になることだろう。 しかし、何でも質問するあまり、怪しい大人にはついていかないように。(誰だ、私を怪しい大人という奴は!) | ||
1999/05/22 (土) そろそろ寝るかという時間に電話が鳴った。旧友からだった。 何でも飲み会が遅くなって、家に帰れる終電に乗りそびれたという。旧友の家はだいぶ郊外にあるので、終電が早いのだ。久しぶりだったし、まぁいいかということで、いそいそと部屋を片付けて駅まで迎えにいった。 懐かしい話にひととおり花が咲き、いよいよ寝ようかというとき、旧友はインターネットをやりたいと言った。そこで基本的な操作を説明し、気が向いたら朝までやってていいよと言って私は寝入った。 旧友は本当に朝までやっていた。人は、こうやってインターネットにはまっていくのか。(・_・) | ||
1999/05/17 (月) 学校の帰り道、自転車を順調に走らせていると、突然横道から自転車が飛び出してきた。慌てて回避したが、あまり車道に飛び出すと車にひかれる可能性もあったので無理に避けず、そのまま衝突してしまった。 幸い、ぶつかってきた少年にも私にもケガはなく事なきを得たが、あとで気がついたら自転車のリムがゆがんでいた。 自転車の修理屋さんに持っていくと、症状の割には高い修理代金がかかると言われた。ゆがみの修正は、素人が考えるほど簡単ではなく時間もかかるかららしい。そこで、日を改めて自転車屋さんが忙しくない日に持っていって頼んでみたところ、修理代金を20%まけてもらった。 何でも頼んでみるものだ(笑)。 | ||
1999/05/03 (日) 久しぶりに高校時代のクラスメイトと会った。彼女は地元で就職したが、転勤のために現在は東京に住んでいる。仕事は相当にハードらしく、忙しくしているようであった。私は未だ学生だったりする。 懐かしい話がひととおり終わってから言った。 「どうだ、僕はまだ充分大学生で通用するだろう。」 すると、 「ムリムリ。どんなに若く見せようとしたって、肌の衰えは隠せないわ。二十歳くらいの男の子の肌はもっとピチピチしてるもの。」 肌を見ただけで私の年齢を見破るとは、さすが私のクラスメイトである。 | ||
1999/04/16 (木) 日中の長さが感じられるようになった夕方の通学路。 ガードレールの脇に、二人の中学生がたたずんでいた。彼女たちの足元には息絶えた猫が一匹。多分、交通事故に遭ったものと思われた。 二人とも、その猫が既に死んでいることは感づいているだろう。しかし、そういう時にどう振る舞ったらよいか分からない様子であった。 立ったまま眺めていたかと思うと不意にしゃがみ込んでみたり、まだ生きているのではないかという希望を持ってのことであろうか、棒きれでつっついてみたり、しまいには足で揺すってみたりして、やはり死んでいるという現実を思い知らされると、先生を呼びに行ったのか彼女たちは一目散に学校へ戻っていってしまった。 猫の死で 少女は何を 学ぶだろう・・・ | ||
1999/04/12 (月) 新学期が始まった。授業もつつがなく開始された。 大学院で出なければならない授業およびゼミの数は減ったので、今年は教職課程をとることにした。 教職課程−すなわち学校の先生になるための教員免許を取得するコースである。これは、通常は大学2〜4年生の間をかけて履修する。しかし、私は大学時代に教職課程をとらずに卒業してしまっていた。大学院も博士課程に入って今更ながらではあるが、免許を取ろうと思い立ったわけである。 というわけで、大学2年生に紛れて教職の授業を受けることになった。 私としては大学院の勉強もあるし、単位を落とさないギリギリまで手を抜くつもりでいた。実際そうすることが出来る授業もあったが、私の身分が既にバレている先生からはこう宣告された。 「キミは大学院生なんだから、授業に関連する資料は探して調べ、積極的に発言・質問するようにしなさい。他の学生と同じにしていても単位はあげないよ。」 ううう。それはあまりにもむごい。(; ;) | ||
1999/04/05 (月) アルバイト先へ向かうため自転車を走らせている途中で、パンクに見舞われた。運の悪いことに、最寄りの駅までは遠い場所であった。駅まで走ったとしても、地下鉄に乗り換える時間を勘案すると出勤時間に間に合う見込みは低かったので、やむを得ずタクシーをつかまえた。 「大手町の○○ビルまで。ちょっと急いでいるので、よろしくお願いします。」 「○○ビルなら、△△通りから××通りへ出て、高架下のところで下りた方が早いから、そう行くね。」 「よろしくお願いします。」 それにしても多弁な運転手さんだった。お上の交通行政は間違っていると言い切り、信号機の時間調整を少し工夫するだけで車の流れはずっと改善されるという持論からタクシー業界の悲哀まで、実にいろいろなことを聞かせてくれた。それでいて、見事なまでの走りっぷりを披露してくれ、神業的な早さで目的地まで運んでくれた。 しかし、コストはかかった。タクシー代とパンクの修理代で、その日のバイト代の半分が飛んだ。 | ||
1999/03/30 (火) 高校の同期で同じクラブにいたYという男が神戸で個展を開催するというので顔を出しに行った。 彼は芸大を卒業し、現在は母校で美術の講師をしているほか美術教室の先生をしている。 今回の個展では、新作の彫刻5点がギャラリーに展示されていた。 彼は新作について、「これは天を表現している」「これは水の流れを表現している」といった簡単な解説をしてくれ、「あとは自分の思うままに感じてくれ」と言った。 しばらく鑑賞したあと、昔話に花が咲き、将来についてもいろいろと話をした。 帰り際に彼は言った。「俺は俺の道を頑張る。お前はお前の道を行け。」 | ||
1999/03/19 (金) ピアノを専攻している友達からコンサートの招待状が届いたので、行って来た。 コンサートの発表者は、音楽家として自立を目指す若手で構成されており、発表の内容は本格的でありレベルも高かった。彼女は、第二部の最初でショパンの「バラード 1番」を独奏した。 私の耳では、目の前で演奏される優雅な旋律にはただ圧倒されるしかない。しかし、彼女によると、まだまだ納得のいかない点が多く、ミスもたくさんあったという。 素晴らしい演奏であったが、より良い演奏を追求し続ける姿勢は一層素晴らしいと思った。 | ||
1999/03/15 (月) 大学院の博士課程の試験は、何とか合格することが出来た。 専門科目の論述は出題者の意図が汲み取れていないと言われたし、英語は専門用語が訳せていないと指摘されたし、フランス語に至っては半分しか訳せなかったし、口述試験ではコテンパンにツッコミを入れられたので、これはダメじゃないかと覚悟していたが、何とか通してもらえたようだ。 しかし、実力的にはまだまだである。一層勉強に励まなければならないと気合いを入れた。 | ||
1999/02/21 (日) その日のアルバイトは、閉店してから別の店へ手伝いに回された。その店は、何と言おうか、ランジェリーショップであった。閉店後に行う作業への応援であって営業中の手伝いではないにせよ、一体何を考えているのだろう。 エレクターを移動すると、満載していたランジェリーがポロポロこぼれてしまう。あわてて拾い集め、種類ごとに分類する。女性のアルバイトから「ランジェリーさわり放題だね」と冷やかされる始末。 別にやりたくてやってる訳じゃないわい。 もう怖いものなどないや、という気分になってしまった。 | ||
1999/02/06 (土) アテネ・フランセのカフェテリアで、突然女性が手を振ってきた。 「毛利くん、毛利くん、私、私!」ニコニコしながら、さかんに手を振っている。 しかし、不覚にも私はその女性を思い出すことが出来なかった。まごまごしていると、 「私よ、私。経理にいた…」 ここまで言ってもらってようやく思い出した。私が以前に勤めていた会社の先輩だった。もちろん、私が大学院に進学するため退職して以来のごぶさたである。 アテネ・フランセで会ったのは驚きであったが、私を忘れずに覚えていて、すぐ気付いてくれたのは嬉しかった。私がすぐに思い出せなかったのは申し訳なかったが、先輩は以前にまして若々しく、そして美しくなっていたので、余計に気付かなかった。 若いだけが全てではない。年齢を重ねて、ますます美しくなる女性もいる。 | ||
1999/01/23 (金) 散乱した部屋を片づけにかかって一週間が経った。しかし、その作業は遅々として進まない。その最大の原因は書籍・資料類の増加であった。昨年来、資料が急激に増えて棚の容量が限界に達しており、もはや収容する場所がなかった。 要らない資料は気前よく処分しようと目論んだが、後日必要になるかもしれないものも多く、なかなか減らすことが出来ない。結局、棚を増設しなければならなくなった。 私が住んでいる部屋は6畳+キッチンのコーポラスで手狭だが、来客のため部屋の空間を広くとるように努めている。だから、あまり床スペースは減らしたくない。そこで、既設の棚の上に同型の棚を重ねて増設することにした。今回はこれで何とかなったが、これ以上増設する時は、今度こそ床スペースを減らさなければならない。 それにしても、あれば便利だがなくても困らないモノが結構あることに気が付いた。衣類も年月とともに増えていく一方なので、いずれ思い切った整理をしなければならないだろう。 必要十分にして、あまりモノを抱え込まない生活を心掛けようと思った。 | ||
1999/01/18 (月) 修士論文の作成もいよいよ大詰めである。時間との戦いの様相を呈し始めた。 早めから準備していたつもりであるが、なかなか予定通りに進むわけでもなく、データの分析に思いのほか手間取って、出来上がった範囲でまとめなければならなくなった。要するに時間切れだ。もっとも、分析は引き続き進めていき、別の機会に発表することもあるだろう。 さて、論文をまとめている間、部屋はすっかり作業場と化した。あちこちに文献や資料のコピーが散乱し、部屋は足の踏み場もない状態になっている。 私はどちらかというと部屋はきれいに片づけている方ではあるが、これだけ散乱した部屋を見るというのもまた壮観であることを知った。 修士論文は一大事業であったが、部屋の整頓も手間がかかりそうである。 | ||
1999/01/04 (月) 東京に戻ってくると、ポストには年賀状の束が届いていた。 自分は出さなかったのに出してくれた人もいて、あわてて返事を出すことになる。 その中に、ある高校生からの年賀状が混じっていた。昨年、随分と怒らせてしまい、すっかり嫌われたと思っていた子からだった。まさか届くとは思っていなかったので驚いたが、嬉しかった。 彼女は、今年から音楽の道を目指して歩み始めるという。見事、目標を実現して欲しいと思う。 | ||
1999/01/03 (日) 高校の同窓会があった。1クラスだけではなく、学年全体で集まる同期会である。 久しぶりに会う級友がとても懐かしかった。長いブランクがあるにも関わらず、誰が誰であるかはおおよそ分かり、昔話に花が咲いた。 同じクラスになったことがなく、卒業後一度も会ったこともない子も、一目見て「あ、毛利くんだ。」と思い出してくれた。私も彼女はすぐに分かったが、名前をなかなか思い出せなかったのがくやしかった。 かつてのクラスメイトは、私が社会人を経由して大学院に戻ったと聞いて、「私も、今からでも勉強したいことがあるわ。」と言った。受験勉強はもうたくさんだけれども、自分が追究したい勉強に年齢は関係ない。きっと、頑張って勉強を再開するだろう。 ともあれ、皆、それぞれの人生を着実に歩んでいるようであった。それが何というか嬉しかった。 | ||
1999/01/01 (金) 本日は元旦であるが、病院に行く用があった。(自分が医者にかかるというわけではない。) 驚いたのは、急患受付で待っている人たちの多さであった。そして、あわただしく動き回る医者さんや看護婦さんの姿であった。テレビは飽きることなく芸能人総出演の特別番組を流しているが、こたつミカンしているだけでは知りようもない元旦もあるのである。 医療の現場には年末も年始もないという現実を、これほど思い知らされた風景はなかった。 |