【5月2日(日)雨】 陝川バスターミナルで降り、雨の中を、電話ボックスに走った。柳永秀さんに電話が通じない。先に原爆被害者福祉会館に行くことにした。96年開館だから訪問は初めてだ。90年には「全国7ヶ所に福祉施設を建設」と報じられたが、結局ここひとつだけだった。看護士さんに、来意を告げると金日祚さん(会報37号に掲載)が降りてきて「どしたんね!」と声をあげられた。自室に招き入れ、熱い人参茶を淹れて下さった。冷えた身体に暖かいオンドルの床が有難かった。留守電を聞いた柳永秀さんも来て下さった。入所者の久保ミサエさんが、彼の義母に当る。その波乱に満ちた人生を綴った「ヒロシマナガサキを考える」(発行・石川逸子)79号を読ませてもらった。愛した韓国人と結婚。家族には縁を切られ、広島で被爆、夫と海を越えてきた日本人女性も、ここで生活していることを、初めて知った。 【5月3日(月)雨】 食堂で入所者の方々と一緒に朝食を頂き、街へ向かうワゴン車に同乗、原爆被害者協会陝川支部を訪ねた。沈鎮泰支部長も初対面だ。精悍で、行動力のある人との印象を受けた。話を聞く間にも、次々と被爆者が訪れる。 会員は死亡により減少傾向。『韓国のヒロシマ』陝川に於いてさえ、登録540名のうち、手帳を持っているのは320名だ。しかし、確認証は、既に、3通、広島で、家族が代わりに受け取っていた。沈支部長は「会員全員に手当が支払われるべきだ。それも申請の翌月からではなく、少なくとも03年3月に遡って出すべきだ」と強調した。何度か泊めて頂いた故李判玉さんの奥さんが、会館に入所していることがわかった。食堂で韮の皮をむいていた権玉順さんにお礼を言った。孫振斗さんの妹、孫貴達さんや、李在任さんらにも挨拶し、大邱に向かった。峠道は、随分舗装がよくなっていたが、雨に煙る深い谷底をのぞくと、やはり怖かった。 大邱ではまず金分順さんを訪ねた。「まさか章子さんに会えるとは」と抱き締められた。共に広島で被爆された夫、姜点瓊さんと3人で、崔鳳泰弁護士に会いに行くことになった。 被爆者と二世の手で、アメリカの原爆製造企業を訴える計画などについて、熱く語られた。旧来の被爆者運動にはない、新鮮な発想だ。しかし訃報が相次いでいるなか、私にはとても間に合わない、何か、遠い構想のように思えた。だが、彼は若い人達と被爆体験の口述筆記も続けていた。中高生が読める本を作るという。「一世で終わる問題ではない」と言い切った。 その夜、安永千さん(前陝川支部長)や李碩図さん、姜大述さん(慶北支部)にも電話した。李碩図さんは具合が悪く出られなかったが、他のお二人は「よく来たね」と、懐かしがられた。さすがに強い疲労感を覚え、分順さんが敷いて下さった布団に、倒れこむように眠った。 【5月4日(火)晴れ】 またあの峠を越えて4時間、バスに乗る元気はなかった。新しい高速列車KTXで大田経由、全羅北道の益山をめざした。90年に郭貴勲さんと予備調査に回った時は、裡里といっていた。改札を出ると、2年前の訪日団以来の崔英鐸支部長と広島共立病院に見舞った柳益善事務局長の姿があった。銀杏や栗の入った名物のビビンパに感動。でも湖南支部のようすを聞くにつれて心が重くなった。90年の再結成時70名いた会員が今は40名。手帳があるのは21名だけだ。全羅道は徴用被害者が多い。「徴用先の地名もわからず、手帳が取れない会員から『私らには一円もないのか』と聞かれるとつらい。証拠や証人が不十分な者はその程度に応じて、半分でも三分の一でも出してやれないか」と訴えられた。 そもそも、なぜ被害者自身が徴用を証明せねばならないのか。証拠は全て日本にあるはずなのに。今年、韓国で成立した「強制動員被害真相糾明法」は、徴用した日本でこそ、作るべきだと、改めて思った。 【5月5日(水)晴れ】 韓国も「子供の日」で、平澤の駅前広場は大勢の人で賑わっていた。畿湖支部に電話しようとした時、角を曲がって現れた3人連れにハッとした。一人が朴昌煥さんに見えたのだ。そんなはずはない。いつも金敏経さん、梁基成さんと3人で迎えて下さった光景が甦り、視界がにじんだ。支部では金敏経支部長と李根睦同志会会長、それにソウルで会う約束の郭貴勲さんまでおられて驚いた。どうせなら平澤で一緒に話そうと来て下さったのだ。金支部長に85年の報告書「イルボンサラムへ」の写真を見せると「この人は逝った。この人も逝った・・・。」予想をはるかに上回る亡くなった人の多さに強い衝撃を受けた。 途中から加わった鄭昌禧さんは、広島市役所から電話があったと話した。「○○さんを知っていますか」突然の国際電話に驚き、慌てているうちに電話は切れてしまった。「あれが証言の真偽を確かめる電話だったら・・・」と悔やんだ。 金支部長は「話を聞くと被爆者に間違いないが証拠がなくて申請書が作れない。証人は手帳がないといけないので余計難しい」と首を振った。 郭貴勲さんは、長崎の海上の炭鉱に徴用されていた同胞を案じた。「長崎市街を通らずには国に帰れないはず。つまり、全員被爆者だ。でも、そんなことを知っている者はほとんどいない」 3月に出た大きな新聞広告の話になった。被爆者の申請を促すもので、何件か問い合わせもあったらしい。90年には「爆心から2キロ以内で被爆した者は申請を」とラジオで言っていたが。一番、印象に残ったのは、郭さんの次の言葉だ。「手帳を取る為の委員会でも作って、ノウハウを結集して協力してもらえたら、もっと早く、たくさんの人が取れたかもしれませんね」 日本の支援者達は、少人数で全力を尽している。もっと、他の手立てがあっただろうか。その問いを反芻しながら、ソウルに向かった。
【5月6日(木)晴れ】 いよいよ最終日。金成洛副会長と、入院中の李広善会長を見舞う約束だったが、退院され、協会事務所でお会いすることになった。辛泳洙会長の頃に通った事務所とは、道路一本隔てたビルの2階。質問は最小限にした。まず10月からの新施策。90年代から独自の支援が行なわれてきた韓国では、その体制はどうなるのか、伺ってみた。 「『韓国では自己負担となるMRIなど高額医療に予算を充ててほしい』という坂口厚労相宛ての要望書を3月、日本大使館に提出。その時、『大使館は日本ではないのか。なぜここに手帳や手当を申請してはいけないのか』と聞いた。答は『外務省と厚労省の領域というものがある』」。 厚労省が北米代表に言ったのと同じセリフだ。手帳も確認証もない会員への処遇や、独自に支給してきた葬祭料(約15万円)等は、10月以降、どうするのか。 「日本と韓国の支援策のうち、重複するものは韓国政府がやめるだろう。これまで出してきたものを今になって中止する訳にはいかない。医療支援が拡充され、完全無料化できれば、日本まで治療に行く人も少なくなるだろう。」さらに「日本では68年から手当が出ているが、我々にも受け取る資格はあったはずだ。補償ではなく当然受け取るべき手当。これは私達の総意だ」と断言された。退院直後にもかかわらず丁寧に答えて頂いたことを感謝し、空港に向かった。 支部長を退いた人が、痛む足を引き摺りながら証人を捜す。遠方までハンコをもらいに行く。「なぜそこまで?」と尋ねると「気の毒で、見とられんからね」という答が返ってきた。85年に初めて訪れた時「もう遅すぎる」と思った。あれからまもなく20年。その間に多くの人が斃れていった。しかしその屍を越え、なお前に進む人達を各地で見て、頬を打たれる思いがした。「まだできることがあるだろうか」と、回ってみたが、「まだ仕事はよけえあるんよ」と教えられた。 |