韓国駆け足旅行記


河井章子


 「一人で行ってきたら?」と夫が言ってくれた。5月の連休をどう過ごすか相談していた時だ。かくして、突然、韓国行きが実現した。
 3年間の韓国滞在から90年に帰国。いつでも行けると思ったが、甘かった。子供ができた途端に動けなくなった。会報を読んで署名をするのが精一杯。中途半端には 行けない気もした。14年ぶりにどこに行って誰に会うか悩んだ。会いたい人は大勢いる。しかし時間は1週間だ。
 若い頃と違って体力に自信がない。電話しておいて、行けなくなったら申訳ない。翌日の行き先は、その日の終わりに決めることにした。

【4月30日(金)快晴】

 釜山ロッテデパート前まで迎えに来て下さった車貞述支部長は02年の訪日行動以来の再会だ。運転席の姜正守さんは初対面。3年前、自力で手帳を取得して来られた広島被爆者だった。
 韓国原爆被害者協会釜山支部には裁判闘争中の長崎被爆者、李康寧さんがおられた。
 支部では今年、新たに21名の登録があり、新しく手帳を取得する人が亡くなる人を上回っている状態だ。但し支部を通さず、手帳を取ってきた人の数は把握していない。
 支部420名のうち、148名に手帳がない。証人が見つからない為、手帳申請ができないのだ。特に幼い頃、被爆して、帰国後早く、両親が亡くなった人は申請が難しい。本人の記憶がない為、よほど確実な証人が必要になる。 
 4月の厚労省交渉でも問題になった「確認証」については何も情報がない。申請者もいない。「医者も役人も来ないで何の確認ですか。そういう寝たきりの人にこそ、まず手帳と手当を出すべきでしょう」と車さんの声が大きくなった。
 「手当が出るようになったのは幸いだが、『せめて日本人並みに』と何年も闘ってきたのに、高い検査は自己負担。渡日治療も半年待ち。その間に患者は死んでいく」北米代表と同じ発言だ。受け入れが全国に拡大された情報は、届いてなかった。 
 机の上に韓国語の手帳申請書を見つけて驚いた。去年私は、日本語の読み書きが出来ない人に、結構苦労して翻訳し、送ったのだ。こんな用紙があることを知っていれば・・・。それは大韓赤十字内の長崎県事務所が作成したものだった。広島の支援者は多分、誰も知らない。非会員の被爆者はもちろんだ。国ごとに、支援窓口が広島と長崎に分かれているが故の、情報の血行不良を感じた。
 医療費の自己負担分を仕分けする保険事務は人を頼むと高いので、李康寧さん自らなさっている。緑内障には酷な仕事だ。「最高裁判決は、いつ頃出るんでしょうね」とため息をつかれた。
 その夜は近所の小さなホテルをとってもらった。窓から見える通りのシャレたウィンドウと、車の多さに、時の経過を実感した。
釜山支部を兼ねる車貞述さん宅で左から李康寧さん、車貞述さん、姜正守さん

【5月1日(土)快晴】

 車さんと姜さんが郊外の精神病院まで送って下さった。90年にソウルの日本大使館前で農薬自殺を図った李孟姫さんの、娘に会う為だ。主治医の許可は得てあった。寝巻き姿の彼女は少し痩せたようだったが、整った顔立ちは、変わりなかった。中学まで優等生だったが、統合失調症を発症、以来、入退院を繰り返してきた。着替えが必要だという電話や、たまに、手紙で悩みを書き送ってきた。主治医とは病状について、メールで連絡を取り合ってきた。
 「ソウルの兄から7ヶ月も連絡がないの。電話にも出ないし手紙も戻ってくる。仮退院したいのに行く所がない」と訴えた。面会時間が尽き、「元気出して。いいこともあるから」と無責任な言葉をかけた。「会っても何の力にもなれない」と落ち込んで、山の上の病院を後にした。
 バスターミナルから、劉世銀さんに電話した。釜山にいるが、時間がなくて会えないと詫びると「ダメだ。すぐに戻って来てくれ。タクシーですぐだ」と懇願された。断り切れなかった。  
 釜山港を見下ろす山の上、彼は初めて会った時と同じく、松葉杖をついて立っていた。小学生だった娘さんは母親になり一人で生活を支えてきた奥さんは、この日も店でうどんをゆでていた。彼は家の裏に自ら植えた柿や棗などを1本ずつ指しては名前を教えてくれた。いつか彼が言った「人間は、明日、地球がなくなるとわかっていても、リンゴの種をまくものだ」という韓国のことわざを思い出した。戻ってよかったと思った。
 前慶南支部長、金日仙さんに電話が通じない。諦めて陝川行きの切符を買ったが、出発直前昌原行きに替えた。広島に来るたび、私にも電話を下さる日仙さんに、やっぱり会いたかった。昌原に着いて、市外局番がひとつ増えたと知った。娘さんのアパートで再会が叶った。膝の手術後も痛みが取れず同居しているという。その時、電話が鳴り、慌しく外出するという。  手帳申請の証人が見つかったのだ。その申請者が李孟姫さんの妹だと聞いて、耳を疑った。迎えの車に、顔も話し方も孟姫さんそっくりの李福任さんが座っていた。朝、孟姫さんの娘に会ったばかりだと言うと、彼女も驚いた。ずっと心配していたが、行方がわからなかったという。兄と連絡が取れない訳がわかった。7ヶ月前に、交通事故で亡くなっていたのだ。私は信仰を持たないが、誰かが、ここまで、導いてくれた気がした。
 自動車専用道を2時間。目指す固城に着いた時はもう夕暮れだった。  
 村はずれの、田んぼに面した小さな家で、朴三順さんは床についていた。「同じ町内で、家の下敷きになった一家が救出されるのを見た」と、証言をもらった。皆、深々と頭を下げた。さらに馬山でもう一人の妹、石任さんを、探した。道端で野菜を売っていた。福任さんが耳元に大声で話しかけると石任さんは泣き崩れた。被爆して帰国後、高熱を出し、聾唖となった。妹とだけは、かろうじて意思が通じた。
 昌原に戻り、日仙さんとひとつ布団に横になったのは、深夜だった。長い一日だった。
劉 世銀さん(店の前で)
「儲けはいくらもないけどお客さんと話していると、体の痛みが紛れるみたいです」と奥さん
被爆の証人になってくれた朴三順さん
手帳には被爆地、東蟹屋町とあった

故 李孟姫さんの妹、李石任さんは、未だ手帳もなく、独りで暮らしている


【5月2日(日)雨】

 陝川バスターミナルで降り、雨の中を、電話ボックスに走った。柳永秀さんに電話が通じない。先に原爆被害者福祉会館に行くことにした。96年開館だから訪問は初めてだ。90年には「全国7ヶ所に福祉施設を建設」と報じられたが、結局ここひとつだけだった。看護士さんに、来意を告げると金日祚さん(会報37号に掲載)が降りてきて「どしたんね!」と声をあげられた。自室に招き入れ、熱い人参茶を淹れて下さった。冷えた身体に暖かいオンドルの床が有難かった。   
 留守電を聞いた柳永秀さんも来て下さった。入所者の久保ミサエさんが、彼の義母に当る。その波乱に満ちた人生を綴った「ヒロシマナガサキを考える」(発行・石川逸子)79号を読ませてもらった。愛した韓国人と結婚。家族には縁を切られ、広島で被爆、夫と海を越えてきた日本人女性も、ここで生活していることを、初めて知った。

【5月3日(月)雨】

 食堂で入所者の方々と一緒に朝食を頂き、街へ向かうワゴン車に同乗、原爆被害者協会陝川支部を訪ねた。沈鎮泰支部長も初対面だ。精悍で、行動力のある人との印象を受けた。話を聞く間にも、次々と被爆者が訪れる。  会員は死亡により減少傾向。『韓国のヒロシマ』陝川に於いてさえ、登録540名のうち、手帳を持っているのは320名だ。しかし、確認証は、既に、3通、広島で、家族が代わりに受け取っていた。沈支部長は「会員全員に手当が支払われるべきだ。それも申請の翌月からではなく、少なくとも03年3月に遡って出すべきだ」と強調した。
 何度か泊めて頂いた故李判玉さんの奥さんが、会館に入所していることがわかった。食堂で韮の皮をむいていた権玉順さんにお礼を言った。孫振斗さんの妹、孫貴達さんや、李在任さんらにも挨拶し、大邱に向かった。峠道は、随分舗装がよくなっていたが、雨に煙る深い谷底をのぞくと、やはり怖かった。
 大邱ではまず金分順さんを訪ねた。「まさか章子さんに会えるとは」と抱き締められた。共に広島で被爆された夫、姜点瓊さんと3人で、崔鳳泰弁護士に会いに行くことになった。
 被爆者と二世の手で、アメリカの原爆製造企業を訴える計画などについて、熱く語られた。旧来の被爆者運動にはない、新鮮な発想だ。しかし訃報が相次いでいるなか、私にはとても間に合わない、何か、遠い構想のように思えた。だが、彼は若い人達と被爆体験の口述筆記も続けていた。中高生が読める本を作るという。「一世で終わる問題ではない」と言い切った。  
 その夜、安永千さん(前陝川支部長)や李碩図さん、姜大述さん(慶北支部)にも電話した。李碩図さんは具合が悪く出られなかったが、他のお二人は「よく来たね」と、懐かしがられた。さすがに強い疲労感を覚え、分順さんが敷いて下さった布団に、倒れこむように眠った。

【5月4日(火)晴れ】

 またあの峠を越えて4時間、バスに乗る元気はなかった。新しい高速列車KTXで大田経由、全羅北道の益山をめざした。90年に郭貴勲さんと予備調査に回った時は、裡里といっていた。 
 改札を出ると、2年前の訪日団以来の崔英鐸支部長と広島共立病院に見舞った柳益善事務局長の姿があった。銀杏や栗の入った名物のビビンパに感動。でも湖南支部のようすを聞くにつれて心が重くなった。90年の再結成時70名いた会員が今は40名。手帳があるのは21名だけだ。全羅道は徴用被害者が多い。「徴用先の地名もわからず、手帳が取れない会員から『私らには一円もないのか』と聞かれるとつらい。証拠や証人が不十分な者はその程度に応じて、半分でも三分の一でも出してやれないか」と訴えられた。 
 そもそも、なぜ被害者自身が徴用を証明せねばならないのか。証拠は全て日本にあるはずなのに。今年、韓国で成立した「強制動員被害真相糾明法」は、徴用した日本でこそ、作るべきだと、改めて思った。

【5月5日(水)晴れ】

 韓国も「子供の日」で、平澤の駅前広場は大勢の人で賑わっていた。畿湖支部に電話しようとした時、角を曲がって現れた3人連れにハッとした。一人が朴昌煥さんに見えたのだ。そんなはずはない。いつも金敏経さん、梁基成さんと3人で迎えて下さった光景が甦り、視界がにじんだ。
 支部では金敏経支部長と李根睦同志会会長、それにソウルで会う約束の郭貴勲さんまでおられて驚いた。どうせなら平澤で一緒に話そうと来て下さったのだ。金支部長に85年の報告書「イルボンサラムへ」の写真を見せると「この人は逝った。この人も逝った・・・。」予想をはるかに上回る亡くなった人の多さに強い衝撃を受けた。
 途中から加わった鄭昌禧さんは、広島市役所から電話があったと話した。「○○さんを知っていますか」突然の国際電話に驚き、慌てているうちに電話は切れてしまった。「あれが証言の真偽を確かめる電話だったら・・・」と悔やんだ。  金支部長は「話を聞くと被爆者に間違いないが証拠がなくて申請書が作れない。証人は手帳がないといけないので余計難しい」と首を振った。
 郭貴勲さんは、長崎の海上の炭鉱に徴用されていた同胞を案じた。「長崎市街を通らずには国に帰れないはず。つまり、全員被爆者だ。でも、そんなことを知っている者はほとんどいない」
 3月に出た大きな新聞広告の話になった。被爆者の申請を促すもので、何件か問い合わせもあったらしい。90年には「爆心から2キロ以内で被爆した者は申請を」とラジオで言っていたが。一番、印象に残ったのは、郭さんの次の言葉だ。「手帳を取る為の委員会でも作って、ノウハウを結集して協力してもらえたら、もっと早く、たくさんの人が取れたかもしれませんね」  日本の支援者達は、少人数で全力を尽している。もっと、他の手立てがあっただろうか。その問いを反芻しながら、ソウルに向かった。
釜山支部を兼ねる車貞述さん宅で左から李康寧さん、車貞述さん、姜正守さん

【5月6日(木)晴れ】

 いよいよ最終日。金成洛副会長と、入院中の李広善会長を見舞う約束だったが、退院され、協会事務所でお会いすることになった。辛泳洙会長の頃に通った事務所とは、道路一本隔てたビルの2階。質問は最小限にした。
 まず10月からの新施策。90年代から独自の支援が行なわれてきた韓国では、その体制はどうなるのか、伺ってみた。
 「『韓国では自己負担となるMRIなど高額医療に予算を充ててほしい』という坂口厚労相宛ての要望書を3月、日本大使館に提出。その時、『大使館は日本ではないのか。なぜここに手帳や手当を申請してはいけないのか』と聞いた。答は『外務省と厚労省の領域というものがある』」。
 厚労省が北米代表に言ったのと同じセリフだ。手帳も確認証もない会員への処遇や、独自に支給してきた葬祭料(約15万円)等は、10月以降、どうするのか。
 「日本と韓国の支援策のうち、重複するものは韓国政府がやめるだろう。これまで出してきたものを今になって中止する訳にはいかない。医療支援が拡充され、完全無料化できれば、日本まで治療に行く人も少なくなるだろう。」さらに「日本では68年から手当が出ているが、我々にも受け取る資格はあったはずだ。補償ではなく当然受け取るべき手当。これは私達の総意だ」と断言された。退院直後にもかかわらず丁寧に答えて頂いたことを感謝し、空港に向かった。

 支部長を退いた人が、痛む足を引き摺りながら証人を捜す。遠方までハンコをもらいに行く。「なぜそこまで?」と尋ねると「気の毒で、見とられんからね」という答が返ってきた。85年に初めて訪れた時「もう遅すぎる」と思った。あれからまもなく20年。その間に多くの人が斃れていった。しかしその屍を越え、なお前に進む人達を各地で見て、頬を打たれる思いがした。「まだできることがあるだろうか」と、回ってみたが、「まだ仕事はよけえあるんよ」と教えられた。