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北・南米の被爆者代表は約2ヶ月の滞在中、2度の厚労省交渉や広島県・市交渉に臨み、二転三転する対応に消耗されたと思います。
さらに広島から成田経由で帰国の際、田淵周子さんの健康状態に不安を持った日本航空側から診断書を求められ、急遽広島の共立病院からファックスしてもらい、何とか出発に間に合ったそうです。その間、3時間、皆さん、どんなにご不安だったでしょうか。
喘息で、東京でも咳が止まらなかった田淵さんのような方に、来日手当申請を強いる現行制度の理不尽さ。改めて憤りを覚えます。
先日サンパウロからメールが届きました。
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2月、厚生労働省の職員にお見舞いを受けた寝たきりの被爆者、宮城調吉さんが、私達の日本滞在中にお亡くなりになっていました。医療支援が間に合いませんでした。
そして6月、高橋シズコさんがお亡くなりになりました。昨年の医師団派遣の時は、救急車で診療所に行き、健診を受けられた方です。帰国治療に行ける方、手当申請をして帰られる方、こちらで何もされず、お亡くなりになる方、援護の差が益々、開いていきます。これが厚生大臣の言う「人道支援」でしょうか。怒りだけが残ります。
一つ、嬉しいニュースがあります。広島県から、手帳を発行できないと書類を突き返された嚢泰一(バイ・タイヒル)氏の証人が見つかりました。被団協第300号の証人捜しに載せて頂き、たった今、ファックスで証人がいるとの連絡が入りました。
皆様の御陰で59年経った今、手帳を取る為の路が開けようとしています。有難う御座いました。ではまた。
7月2日 盆子原 国彦
厚労省担当官が見舞った際の長崎被爆者、宮城調吉さん(85)。5月に逝去された。
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田淵周子さんのお話し
ブラジルへの帰途、成田空港で足止めされた、田淵周子さんには、厚労省交渉の後、東京の宿舎、ルーテル教会センターで、被爆の体験などについて伺っているので、次にご紹介します。
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一九三一年生まれ、実家は弓削島で造船業を営んでいました。広島女学院に入学、寄宿舎に入って六日目の八月六日。強制疎開の後片付け作業に動員され、雑魚場町へ向かって歩いている時に、被爆しました。
ちょうど材木の下をくぐり抜けている時だったので、火傷はせずに済みました。
逃げる途中に、ある小父さんに会い、一緒に駅へ行きました。しばらくして出た貨車に乗って、三次まで連れて行ってもらいました。その後、弓削島に帰りました。
「島へ帰ってから、貝を掘りよったら眼がまわる。熱を測ったら42度もあったじゃろうか。吐いたり、髪が抜けたり。毎日ビタミン剤を打ってもろうた。お祖母さんがお大師さんに願掛けしてくれて。私は信仰はしてないんじゃが、ある時、眼の前に小坊主さんが、フッと現れた。と思ったら、急にようなった。あれは不思議じゃった。」
中学の時から、外国へ行きたかったので、一九六〇年、夫と二人、サントス丸でブラジルに渡りました。初めは綿花の栽培。次に人を雇ってコーヒーを栽培。その後、街に出て、夫はサラリーマンになり、生活は安定しました。でも肺気腫と喘息の為、薬が手放せません。
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次号では、同じ日に伺った、尾糠芳枝さんのお話をご紹介する予定です。
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