「世界社会フォーラム(WSF)」 に参加して




 1月16日から21日までインドのムンバイ(旧ボンベイ)で開かれた「世界社会フォーラム」に参加しました。人間と地球が豊に暮らせるような「もう一つの世界が可能だ」を合言葉に、130ヶ国から12万の人々が集まる国際会議で、全容をまとめることなどできません。私が一週間みた、ほんの一部、あれ・これを記します。


 * スラム街と軍施設が隣接

 私たちのホテルはムンバイの市街地から北西に離れた郊外、アラビア海に面するリゾート地にあり、フォーラム会場になった大工場の跡地もまた北の方でしたが、ホテルと会場の間は車で1時間以上かかりました。空港からの往復も同じ道も通るので、計16回通ったがたがた道。バスの中からみると驚くばかりのスラム街が延々と続き、夜おそくても、道路には大勢の人たちが蠢いています。壊れかかったぼろ小屋の家は狭く、路上に人も動物も溢れています。スラム街が途切れ、ホテル近くになると、広大な軍の施設、金網や突き刺したガラスで外部の侵入を防ぐフェンスがあり、建物内は煌煌と電気がつき、酒保のような売店なども垣間見えます。道路をへだてて、軍の訓練場らしき大きな広場もフェンスで囲まれていました。スラム街と軍の施設、この対照的な情景を毎日繰り返し見て、ショックを受けた同時にこのフォーラムの原点がここにあると痛感しました。


 * 郭貴勳さんと再会

 ピースボートでムンバイに来られた郭貴勳さんとは、16日夕刻、一年ぶりにお会いし、その後一週間の行動はご一緒でした。郭さんは集会で、在韓被爆者としての三重の苦しみと郭裁判勝利の報告をされました。日本の戦争責任を追及し、不公正な被爆者行政を裁判に勝つことにより正したと話した時、日本政府を敗北させた郭さんに大きな拍手が上がりました。また、インドのスラム街に触れ「この状態を放置して、軍拡に励むのか」と施政者への怒りをぶちまけました。全く同感。このフォーラム全体で韓国パワーはすごく、通路などでも元気のいいデモを繰り広げていましたが、選挙でブッシュを、落選させるための署名運動も展開していた様子。 真夏の暑さと黄色い砂埃が舞いとぶ中、昼食は殆どフレッシュジュースだけで、郭さんと何杯も飲んでいました。一度屋台のカレーを食べた時、バナナの葉で作った皿に盛ってくれるおいしいカレーを、のんびり食べていると汁がしみ出てきた楽しい思い出もあります。


インド・ムンバイで開催された世界フォーラムの分科会
「いま、核兵器の廃絶を! グローバル被爆者は語る」の会場にて
(前列右から2番目が筆者)


 * 核兵器廃絶の署名活動

 会場には何千人も入場できるホールが5つ、中小分科会のための仮設小屋が150ぐらいあるほか、ビルの中に板張りで仕切られたストール(出店)と呼ばれる小部屋が何百箇所かありました。その2区画を日本原水協が借りていました。壁に被団協の「原爆と人間展」のパネルを貼り、そこでは「いま、核兵器廃絶を」の国際署名活動をしましたが、大盛況でした。この期間中に集めた署名は45カ国3千名以上。

 この中で折り鶴を折って交流を深めることもありましたが、私は東友会の大倉さんから、たくさんいただいてきた「手造りのしおり」を皆さんにプレゼントして、喜ばれました。片面は和紙の千代紙、裏面に簡単な英語のメッセージで被爆者の願いが入っている小さくすてきなフイルムのしおりです。大倉さんのアイデアと地道な活動に感心し、ありがたく思いました。 


 * 世界のヒバクシャと連帯せねば

 私が発言したのは、19日「いま、核兵器の廃絶を! グローバル被爆者は語る」という分科会です。広島での被爆体験と放射能への不安を述べ、反戦・反核を訴えました。この会で特に印象に残ったのは、パキスタンの核実験場近くに住む青年の話です。「山全体が真っ白に見えた」というその時の恐怖を語り、遊牧民は強制移動させられ、家畜は死に絶え人も住めない地域になっているのに、政府は放射能の影響はないと宣言して外国人の立ち入りを拒んでいるという現状の報告でした。次のインド側の発言と合わせて、両政府は互いに相手国を非難し、ナショナリズムを煽って、核開発を競い合っていることがよく解りました。その他核廃棄物の問題、南アフリカ、オーストラリアなどのウラニウム鉱山におけるヒバク問題が数多く報告され、被爆者としては、これらの被害は他人事ではなく、今や全世界に広がるヒバクシャが手を繋がねばと確信しました。この会の終わり頃、インド人女性が娘さんと二人で、昔からインド・パキスタンで受け継がれてきたという優しい歌を披露され感動でした。


 * ガンジーの曾孫を訪ねて

 20日の午前中、立命館大学の藤岡先生の案内でガンジーのストール(出店)と別な建物にあった関連の展示場を見学しました。非暴力の抵抗運動に徹したインド民衆の父マハトマ・ガンジーの曾孫にあたる、ツシャール・ガンジーさんのお話を聞き、ガンジーがいつも携行した糸車の模型で、動かし方などの説明して下さいました。ツシャールさんは、展示場にも同行して、ガンジーの生涯を展示したパネルの説明や、今も続くムンバイの北グジャラート地区での虐殺などの実態を話して下さいました。ムンバイはガンジーの運動の根拠地の一つだったので、中心街にはもっと立派な博物館があります。翌21日、閉会会場に向う途中その博物館でトイレ休憩があり、、わずか数分でしたが見学できたのは幸運でした。今回アジアで初めて開催された世界社会フォーラムを成功させたインドの底力を感じました。

糸車を説明するツシャール・ガンジーさん


 * 「スパルタカス、リターズ」観劇

 20日の夜は、バンガロールのグループによる150人の子どもたちも出演する音楽劇「スパルタカス、リターンズ」を野外ホールで観劇できたのが幸せでした。出発前に、現地在住の日本人中山実生という方の紹介メールを、友人の小寺隆行さんからの転送で拝見し、楽しみにしていたイベントです。夜一人では無理だったところ、同じグループの平和学研究者藤田明史さんが、同行して下さり念願が叶いました。その時になって初めて膨大なプログラムを入手、上演する場所探しをする始末。大小数箇所も野外広場がありましたが、何と開会行事をした最大の広場がその劇の会場でした。夜空を仰ぎながら、寝転がったりしている人たちもいました。この劇は、ローマ時代の奴隷労働と現在の児童労働の対比を考え、奴隷解放に身を捧げたスパルタカスが2千年経った今、甦ってきたら ――― というテーマです。スパルタカスを演じた俳優の声はすばらしく迫力があり、大勢の子どもたちの演技も歌もとてもよかったです。このグループは児童虐待など人権問題に取り組み、芸術を通して社会変革をめざしているインドの団体だそうです。タクシーで1時間、夜道をホテルまで帰りましたが、料金は400ルピー、日本円にしてわずか600円ほどでした。窓から見る風景はバスより目線が低いので、貧しさが一層身近に迫り、つらく感じられました。


 * 閉会行事の中で

 最後閉会行事が開催された中心街の広場まで、ホテルから3時間半バスに揺られて到達、何万人もの人々で熱気がむんむんしていました。正面ステージには三体の大きな人形(黒・白・黄色の顔)が手を繋いでいるし、サイドには多くの人々から寄せられた刺繍の布を繋いだタペストリーが飾られていました。その舞台では、民族楽器を奏でる楽団。私が座っていた左隣にインド人家族がいて、可愛い三才の女の子が母親にあまえ、そのうち退屈してむずかっている様子。東友会有志から頂いて来たピースハンカチを差し出すと、とても喜び、鳩が飛び交うピンクのハンカチを振りながら踊り出しました。ステージの音楽に合わせて、リズミカルにとても巧く、思わず周りから拍手がわき起こりました。両親と片言英語で会話を交わし、親しくなりました。右隣に陣取っていた女性にも声をかけると彼女はパキスタン人で、夫と二人で参加していましたがこちらとも仲良くなり、自分たちも戦争NO、核もNOだと気持を語りました。期せずして両隣がインドとパキスタンの家族だったことが嬉しく、フォーラムの象徴のような出会いだったと幸せでした。

ピンクのハンカチを喜んだ女の子


 * ムンバイを振り返って

 世界の今はアメリカの一極支配で、各国政府権力者はブッシュの言いなり、その下で国民は苦しむという、日本と同じような構造が多くの国にあることが見えました。さらにこれを何とか覆さねばと考え、行動している人たちが世界中にいることも肌で感ずることができました。国境を超えて民衆が連帯すれば「もう一つの世界は可能」だと、ここに生き残る地球の未来があると希望が持てる、そんな体験でした。今年の3月20日、米英のイラク攻撃から1年になりますが、この日に「全世界で同時反戦行動を!」の声がフォーラムであがり、それぞれの国で今取り組んでいます。私もこれが成功して、昨年を上回る大きな反戦の波が世界中を回るようにしたいと思います。しかし「もう一つの世界」を実現するためには、まだまだ地道な研究や行動の積み重ねが必要です。道は遠いでしょう。前述の分科会でマーシャルの女性が「自分たちが生きているうちに実現しなくても、最後には正義がとりもどされることを確信して―――」と言われたのですが、その言葉を今心にかみしめています。


ピースボート主催の分科会(左から2番目が郭貴勲さん)