私はアメリカによるイラク攻撃が始まる前の昨年十二月の十七日から二六日まで「イラク市民訪問・調査団」に参加し、次のような目的で、イラクの首都バクダッドと南部のバスラを訪問しました。
【「開戦」前夜の街】 日本ではいつ攻撃が始まるかと興味本位で報道される中、イラク市民の恐怖心を思い、社会はさぞ混乱しているだろうと思って出発しました。けれども行ってみると、市民は淡々と日常生活を送り、街も平和で落ち着いた雰囲気であるのに驚きました。しかし質問してみるとアメリカの圧倒的な軍事力の前には逃げる所はないからだという重い返事が返ってきました。国民議会議員らは「国連査察団を受け入れるなど、戦争回避のためにできることは全てやった。あとは国際世論に頼るしかない」と言っていました。 どの街角にもフセイン大統領の肖像画や立像がありましたが、フセイン政権下で市民が怯えて暮らしているという印象は受けませんでした。ただ、私達が「日本政府の姿勢を批判しイラク攻撃に反対したい」と伝えると、「他国で、自国の悪口を言って、帰国後逮捕されないのか」という質問を受けました。湾岸戦争後、フセイン政権に反対した夫が秘密警察に追われ、消息不明になったという妻の話も聞きました。 賑わう市場を歩くと「あれはヤバニ(日本人)だ!」と言い合い、湾岸戦争前は建設事業などで日本人が沢山来ていたんだと、親日感情が豊かに伝わって来て、その気持ちを裏切ってはならないと思いました。 食料は月一回無料で小麦粉、米、砂糖、油、石鹸などの配給がありますが、肉や野菜などは買わなくてはなりません。公務員も教師も医師も正規の仕事だけでは食べていけないので様々なアルバイトをして生活を支えているそうです。 ある老医師は「イラクは疲弊しきっているのに、この上さらに攻撃するなんて恐ろしいことだ」と語りました。「戦争が終わってもし生きていたらまた会えるでしょう」というNGOの女性職員のあいさつには胸が詰まりました。 【小学校で】 訪問したほとんどの学校では窓ガラスも満足になく、電気も来ていない一〇度前後の寒い教室で、授業が行なわれていました。授業料は無料で、一人にノート一冊、鉛筆一本が支給され、教科書はお下がりで何人もが使います。お土産にサッカーボールとバレーボールを持って行ったのですが、もっと文房具を持って行けばよかったと思いました。 一昨年から男女別学になったそうです。 【アムリエ・シェルター】 イスラエルに原発を攻撃された経験から子ども達を放射能から守るために、十数か所にシェルターが建設されているそうです。 一九九一年二月米軍がこのうちのひとつ、アムリエ・シェルターに二発の爆弾を投下しました。地上一階、地下一階の建物に、当時、約千三百人が避難していたといわれますが(米軍発表の犠牲者数四二〇人)、一階はナパーム弾のような爆弾が炸裂し、五百度とも言われる熱風で人々が焼き殺され、二発めは地階の空調設備や貯水タンクを破壊した為、おびただしい量の熱湯が人の背よりも高く満ちたと言われます。現場はあまりの高温で数日間は近づけないほどだったそうです。その後シェルターに入った人は「壁に人間の目玉や髪の毛、皮膚が張りつき、骨が散乱していた」と証言しています。私達も壁に残る人々の影に強い衝撃を受けました。真っ黒に炭化した多くの遺体の写真に、言葉を失いました。 米軍はシェルターの地下に軍事施設があったと主張していますが、そのようには見えませんでした。十八歳以上の男子は家を守るために残り、シェルターに避難していた女性と子ども、老人が犠牲になったのでした。アメリカがピンポイント爆弾とよぶこうした爆弾は建物の外側を残して内部を破壊します。近代兵器は人の形を残さず、肉片となって飛び散るとも聞きます。 こうした兵器がいかに残酷な殺戮を行なっているか、その事実をもっと明らかにしていかなければならないと痛感しました。 【小児病棟で】
バクダッドとバスラにある五つの病院の小児科のガン・白血病棟を訪問しました。入院している子ども達はイラク全土から来ていて、白血病、水頭症、リンパ腺ガンで顔や首が大きく腫れ、目が膿みを持っていたり腹水が溜まる等あまりにも重い病状に「この子ども達は苦しむ為に生まれてきたのか」と絶句し、涙がこぼれました。腹水が溜まっている子どもは経済制裁で医薬品が入らないために麻酔もなしに注射器が直接腹部にさし込まれ、腹水を抜くことになります。 スライドでは声もにおいもありませんが、病室では泣き声があがり、触った手は驚くほど、熱かったりするのです。帽子やベールをかぶっている子どもは抗ガン剤で髪の毛が抜けて無いのです。病院を去ろうとすると「自分の子どもも見てくれ」と呼びとめる親がいます。子どもは生まれた時から一度も立つことができない、白血病だと言います。子どもの状況を少しでも良くしたいという思いで外国人に訴えてくるのでしょう。逆に「外国人の視察は多いけれど、何の足しにもならない」と、ため息をつく母親もいて、私たちの無力を痛感しました。 「白血病は万全の治療をすれば七割は助かるのに、薬が足りない為に九パーセントしか助からない。治療には五〜六種類の薬が必要だが、一〜二種類欠けると格段に効果が落ちてしまう」。そう語る医師達の多くがガンなのだと聞きました。 劣化ウラン弾が使われてから十二年が経ち、放射能障害が顕著になってきました。 普通、出産した母親は男女どちらかを聞きますが、今は障害の有無を聞くそうです。 病院訪問でポラロイドカメラで撮った写真は、長く生きられない子供の記念として大変喜ばれました。 これから現地を訪れる方にはポラロイドカメラを持っていかれることをお勧めします。 九二年から始まった経済制裁で、医薬品や医療器具が入らず、満足な治療ができない苦渋をどの医師も訴えていました。二〇〇一年国連の発表によると、経済制裁のために子どもたち約百五十万人が死亡し、うち六十二万人が五才以下の子どもたちだといいます。 バスラの子ども墓地も訪れました。あまりにも早い死を迎えた子ども達、名前もない墓標も含めて数え切れないお墓が並び、それが日ごとに増えていくのです。劣化ウラン弾による放射能汚染で未来を奪われた子ども達の世界を象徴しているような光景でした。 【放射能汚染地帯】 イラクとクエート国境の放射能汚染地帯にも行きました。「死のハイウェー」と呼ばれる道路には湾岸戦争時の戦車や軍用トラックの残骸が数多く放置されていました。 劣化ウラン弾が貫通した戦車の堅い装甲には直径四、五センチの穴があいており、放射線量計を当てると針が激しく振れバスラ市内の約百倍の数値のガンマ線が検出されました。車で少し行くと羊を飼っている遊牧民やトマトを栽培している農民に会いました。私達の放射能に備えた出で立ちを見て、ここはそんなに危険なのかと何度も尋ねてきました。九十四万発の劣化ウラン弾が使用され、湾岸地域にヒロシマ型の二、三万倍の放射能がバラまかれ、そのうち四,五割が不発弾として地中に埋もれているといわれます。貫通する時の摩擦熱で高温となり拡散した放射能は大気や地下水を汚染し、作物にも影響を及ぼしているでしょう。 劣化ウラン弾に使われているウラン238の半減期は四十五億年、つまり永遠です。 吹きすさぶ砂塵はイラク全土に放射能を広め、ひいてはイラク民族の存亡にも関わる影響を及ぼすと思います。私はこのたびの訪問で、広島、長崎に続きイラクに放射能兵器が使用されたと確信しました。戦争と放射能は弱い人々を直撃し続けています。 イラクの夏は50度を越えています。今回の米英のイラク攻撃で発電系統が破壊され、冷房のない病室で子どもたちが、苦しんでいます。米国の占領下で、劣化ウラン弾の証拠が消される可能性もあり、実証証拠をとって、国際機関がより正確な調査をするように訴える準備も進められています。 劣化ウラン弾が、湾岸戦争では約300〜800トン、今回はバグダッドも含めて約500〜2000トンが使用されたといわれています。今も、劣化ウラン弾が撃ち込まれ、放射能を出しつづけている戦車が市街に置き去りにされ、回りで子どもたちが遊んでいると聞きました。 (以上) 〔講演を聞いて〕 川端さんは室内の灯りを消し、「これがイラクに降り注いだ劣化ウラン弾の音です。一個が一千発として九十四万発の砲弾です。聞いて下さい」とおっしゃって、九四〇個の小豆を缶の中に落とされた。その何十秒間かは果てしなく長く感じられ「もうやめてください!」と叫びたくなるほどだった。 お話とスライド、十三分間のビデオと併せて、想像力と言うか、皮膚感覚に訴えるようなこの試みに、強い印象を受けた。 ビデオのなかの黒焦げの遺体の場面では「ヒロシマといっしょ・・・」というささやきが会場から聞こえた。 また「劣化」という呼称には疑問を覚えた。「品質が劣る」とか「弱くなった」とかいう響きのこの言葉は恐ろしい実態にそぐわず、少なからぬ誤解を与えていると思う。 これはまぎれもない放射能兵器なのに「人体への影響なし」とうそぶくアメリカ。 そしてここに自衛隊を送り込もうとしている日本。惨憺たる思いに捕らわれた報告だった。ビデオは日本YWCAにて千円で販売。 なお、講演に先立って88年結成以来の市民会議の歩みを振り返った。対象が「在韓」から「在外」へと広がる中、改めて今後の方向性を論議する必要性を確認した。 (文責・河井章子) |